飛鳥時代その3、蘇我馬子の時代後半

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皇紀

 一説では聖徳太子の時代に、天皇紀元(正しくはまだ大王紀元か?)が考え出されたとされている。この頃伝えられた中国の思想に讖緯説(しんいせつ)というものがある。自然世界と人間世界には密接な相互関係があり、これを紐解くことによって将来を予測しようという、漢時代以降に起こった神秘思想である。代表的なものに、60年に一度まわってくる辛酉(しんゆう・かのととり)(干支の58番目)の年には革命が起こり政権交代があるという辛酉革命。またその3年後に巡り来る干支の一番目、甲子(かっし・きのえね)の年には天意が革(あらた)まり、天命が下されるという革令(かくれい)の年が訪れる甲子革令などがある。このうち辛酉(しんゆう)革命説などを元に、伝説の初代天皇である神武天皇の即位年が定められた可能性があるのである。これを簡単に説明しよう。

[1]
 中国には10を順序付ける十干(じっかん)というものがある。
「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・
己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)」
をもって「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10」とするのである。

[2]
 もう一つ十二支(じゅうにし)というものがある。
「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
を持って12を表すのである。
訓読みだと
「ね・うし・とら・う・たつ・み・
うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」だが、
音読みだと
「し・ちゅう・いん・ぼう・しん・し・
ご・び・しん・ゆう・じゅつ・がい」となる。

[1]+[2]
 10ずつの十干を繰り返しながら、十干の下に十二支を順番に「甲子・乙丑・丙寅・・・」と続けていくと、10と12が交わる61番目で再び「甲子」が登場し、すなわち60を周期とするサイクルが誕生する。これを干支(えと、かんし)という。この60を年数に当てはめ、60年を一つのサイクル(一運)としてこれを一元とする。(還暦もこの考えによって生まれたものである。)この一元をサイクルとして60年ごとに国家体制に変化が生じると考えられ、また「辛酉」の年は革命が起きる年と考えられたのである。これを辛酉(しんゆう)革命説という。さらに一元が21回(ジョスカンの没年も1521年ではないか!!!・・・・・・すみません、また発作が。)繰り返されると、一蔀(いちほう)と呼ばれ大革命が起きると考えられた。
 これに基づいて、西暦だと601年にあたる辛酉の年を推古朝の大改革の年と考え、さかのぼって21元前(つまり1260年前)の紀元前660年に神武天皇が即位したと定めたという。

閑話休題

 後の聖徳太子が中心になって行ったのか、蘇我馬子が中心だったのか、推古天皇が女帝ながらに統率を見せたのかは分からない。しかし蘇我馬子が最も脇役だとは考えにくい人物ではある。彼らによって、政治のための宮の建設や、官位12階、憲法17条といった大陸を倣った制度改革が、次々に行われていった。外交としては、600年に新羅に派兵したものの、602年、603年の遠征は計画に終わり、その後、厩戸皇子生存中は計画も行われなかったという。これは厩戸皇子の御仏のような心から出た政策ではなく、恐らくは、594年に隋から冊封(さくほう)を受け配下の礼を取った新羅に対して、隋の強大さを知った倭国が直接対決を恐れ、派兵を行わなかったのだろうと考えられている。

 国内の大事としては、620年に国史の編纂が開始された。6世紀にあった「帝記(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」を元にして「国記」、「天皇記」などが、馬子と厩戸の指導によって作られていったと考えられている。残念ながらこれらは大化の改新の時に蘇我氏邸と共に灰になってしまった。そんな厩戸も622年に亡くなり、蘇我馬子も626年に亡くなり、620年代は一つの区切りの時代となった。

桃原(ももはら)の墓

 蘇我馬子の墓は、有名な飛鳥の明日香村にある石舞台古墳ではないかとされている。これは江戸時代以降、盛られた土が無くなって石室が露出した後期古墳時代の古墳であり、7世紀前半のものだ。元々は上円下方古墳だったと考えられ、日本最大級の横穴式古墳として、今日では石室に無頓着に立ち入ることが出来る。もちろん何も安置されてはいない。おそらくここが蘇我馬子が桃原(ももはら)に造らせた墓だと考えられているが、隣接する島庄(しまのしょう)遺跡からも、馬子の住んだ島の宮ではないかとされる遺跡が見つかっている。

日本書紀には蘇我馬子について、
「飛鳥河のほとりに家を置き、
庭には小さな池を置き、
池には小さな島を置く。
ゆえに時の人、嶋の大臣という。」
という記述が残されている。

厩戸と推古天皇の死

 馬子が亡くなった2年後、628年4月に日食があったことが日本書紀に記されている。これは我が国最古の日食の記録とされているが、その少し後に推古天皇が亡くなった。はたして日食が凶事の前触れだったのだろうか。さて大君の墓も、この時期はまだ古墳が頑張っている。例えば植山(うえやま)古墳という方墳には、石室が2つ存在していて、およそ6世紀末と7世紀初めの石室だろうと考えられている。河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)も同じような方墳で、2つの石室を持ち、現在はこちらが推古天皇陵となっている。しかしもしかしたら、植山の方が推古天皇の墓かもしれない。そこで先に入れられたもう一つの石室は推古天皇の子供で、物部と蘇我の戦いの頃に歴史から消えた武田皇子あたりかとも考えられている。

 一方厩戸皇子の墓は、叡福寺北古墳とされているが、幾分信憑性に乏しいようだ。この一時代を築いた3人の足跡を辿ることを目的にして、ぶらりと旅行に出かけてみるのも面白いかもしれない。

2007/09/16掲載

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