律令制の制定へ3、大宝律令

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大宝律令(たいほうりつりょう)

 律令とは刑罰を定めた律(りつ)と、行政法や民法にあたる令(りょう)からなる法典であり、直接的には681年に天武天皇が詔(みことのり)した律令制定の命令に端を発している。これに基づいてまず689年、大きく唐の律令制に学んだ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が出されたが、さらに完備された法令を模索すべく、その後も律令編纂作業が続き、持統太上天皇の元で、藤原鎌足の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)、さらに天武天皇の息子であった忍壁皇子(おさかべのみこ)(?-705)らが中心になって、すでに653年に遣唐使として中国で学んだ事のある学者、粟田真人(あわたのまひと)(?-719)、下野国の河内郡(かわちぐん)を治める地方豪族であった下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)(?-710)らの協力によって、ついに701年、大宝律令が完成したのである。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の701年3月21日の記事には、

対馬の島から金をたてまつる。
  よって元号を建てて大宝元年(たいほうがんねん)となす。

と記されている。
 これによって、この年まず正式に元号が定められ、少し遅れて秋頃に大宝律令が完成。これは文武天皇によって翌年全国に頒布され、これに基づく律令政治が開始された。

 しかし律令の制定は、実際はこれでお仕舞いではなく、まず粟田真人が天皇より直々に刀を授かり、702年、ふたたび遣唐使として大陸に渡り、律令の制定の報告と、白村江の戦い(663年)以来の唐との関係の改善に努めた。とはいえ、この時期の中国は、女帝である武則天(ぶそくてん)[則天武后(そくてんぶこう)]が、高宋(こうそう)の亡くなったあと王朝を乗っ取り、周(しゅう)(690-705)[武周]という王朝を打ち立てていたが、真人らは女帝との謁見を許され、この時の知識を元に、さらなる律令の改定に努めることになった。

 それによって、718年[年については諸説あり]、藤原不比等らが中心となって養老律令(ようろうりつりょう)が作成され、これは不比等の死により中断があったのもの、最終的に757年から施行されることになった。一応これが律令の完成と見ても良いかも知れないが、この律令は本質的には大宝律令を元にしていると考えられ、(ただし異説もある、)原文は無いものの、今日ある程度復元可能なのはこの養老律令の方で、大宝律令に至っては、養老律令などから推し量ることすら出来なくなってしまっている。国家の大事である資料すら、これほどまでに損なわれているのであれば、当時の文芸の作品などは、どれほど損なわれたのか分からない。歴史の彼方へと消されてしまった。

  ちょっと脱線した。
 こうして定められた法に基づく律令体制だが、平安時代に入ると次第に形骸化を初め、実際には200年ぐらいで意味をなさなくなったようだ。しかし、廃止されたわけでもなく、名目上は1885年の内閣制度開始まで残されているから驚きである。

毎度お馴染みの年号案記
 「名を一新(701)にして大宝律令」

 また、七世紀後半には使用の証拠も残されているが、正式名称としての「日本国」の使用も、この大宝律令の年と捉えておいて、私たちは構わないかと思われる。702年の遣唐使では、いきなり「倭国」ではなく、「日本国の使者っす」と言って、武則天が首をひねったかもしれないくらいのものである。

行政と官僚

 完成した律令制をざっと見てみよう。概要で見た通り、実際は「大宝律令」の内容ではなく、「養老律令」に即した内容になっている。

中央行政機関

まず中央には
祭祀を担当する神祇官(しんぎかん)
一般政務を担当する太政官(だいじょうかん)を置く。

[太政官組織]

 さて、かつての大夫(まえつきみ)制を踏まえているのだろうか、国政運営は太政官のトップである
太政大臣(常設しなくてもよい)
左大臣
右大臣
大納言(だいなごん)までの、
公卿(くぎょう)
と呼ばれる人達によって合議制で行われた。彼らはみな太政官の中に含まれる。この合議に基づいて最終的に天皇が裁可(さいか)するというものだった。この合議には、後に中納言(ちゅうなごん)、参議(さんぎ)の役職が令外官(りょうげのかん)として加えられ合議に参加すべしとされた。

 太政官の仕組みは、これら公卿の下に、宮中業務担当の少納言(しょうなごん)、さらに八省を半分ずつ管轄する左弁官(さべんかん)と右弁官(うべんかん)が置かれる。

[八省(はっしょう)]

太政官の下には八省(はっしょう)を置く。

すなわち左弁官(さべんかん)の担当する
中務省(なかつかさしょう)・・・詔書の作成など
式部省(しきぶしょう)・・・文官人事など
治部省(じぶしょう)・・・仏事・外交など
民部省(みんぶしょう)・・・民政・徴税など

右弁官(うべんかん)が担当する
大蔵省(おおくらしょう)・・・財政・貨幣など
刑部省(ぎょうぶしょう)・・・裁判・刑罰など
宮内省(くないしょう)・・・宮中業務
兵部省(ひょうぶしょう)・・・郡司、武官人事など
である。

 八省の下にはそれぞれ職・寮・司といった下級官庁が置かれる。例えば音楽を司るの雅楽寮(ががくりょう)は治部省の下に所属すると云った具合だ。

[監査・警察組織]

 これとは別に行政の監査や取り締まりを行う弾正台(だんじょうだい)が独立して置かれたが、これには掴まえる権利も裁判権もなく十二分には機能しなかった。さらに五衛府(ごえふ)という中央軍事組織を置き、これは後に左右近衛府(このえふ)・左右衛門府(えもんふ)・左右兵衛府(ひょうえふ)の六衛府制として定着した。

[二官八省一台五衛府]

 ここまでの中央官制をx二官八省一台五衛府と総称する。

[特別の官庁]

 京には左・右京職(きょうしき)を、外交の重要地点摂津には摂津職(せっつしき)を、外交と国防の要である筑紫には大宰府(だざいふ)を置いた。大宰府は律令制制定前には全国の要地に置かれていたが、それらは廃止され、これ以後太宰府と言えば、筑紫のものだけを指すようになった。太宰府は畿内の都の弟分かと思われるほど高い文化水準が保たれ、碁盤の目の都市設計と都に継ぐ立派な建築で飾られ、後に「遠の朝廷(とほのみかど)」と歌われた。そうはいっても、901年に大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷された菅原道真(すがわらのみちざね)ががっかりして2年後亡くなってしまうぐらい、真の都は畿内にあることもまた事実ではある。

[ワンポイント(左右)]
・左大臣、右大臣などとある場合、日本では左の方が上になる。古事記にも男神のイザナキが柱を左から、女神のイザナミが右から巡り会う逸話や、アマテラスオホミカミ(天照大御神)が左目から誕生する逸話など、古来から左を尊ぶ伝統があったらしい。ただし中国では逆に、右を尊び、左を格下と見なすので、左遷(させん)という言葉は、中国経由で「地位の格下げ」として使用される。しかし、左遷の語源は、地位の上下ではなく、咸陽に真っ先に入った劉邦にその領土を与えたくなかった項羽が、地図上咸陽より左の地(つまり西)を劉邦に与えたことに由来するともされている。関係ないが「左右」は漢語から来ているので、日本で左を重んじて生まれた言葉というわけではない。また日本の場合は、恐らく中国からの影響のためか、右を上位と見なす事柄もある。

行政

 書類には元号、定められた形式、印鑑が必要となった。それぞれの官庁には
長官(かみ・業務の総括)
次官(すけ・長官の補佐)
判官(じょう・業務を行う)
主典(さかん・記述的な仕事をする)

四等官(しとうかん)という役職が置かれていた。(社長→部長みたいな関係。)名称は必ずしもこのままではなく、省庁ごとに記述の漢字が異なる場合や独自の呼び名がある場合があった。この四等官の名称は、五衛府での四等官名称が明治維新後の軍隊階級名称に「佐」「尉」が転用されるなど息が長い。四等官の下には平社員の代わりに下級官人がひしめいていた。

[四等官]

 これはどの官庁にも置かれ、太政官(だいじょうかん)もやはり四等官に分かれていたのである。太政官の場合、長官は太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣となり、次官は大納言、中納言、参議。判官には少納言、左右の大弁官、中弁官、小弁官が、というように分類がされていた。

官僚教育

 式部省(しきぶしょう)の下に置かれた大学寮(だいがくりょう)の設置により、官僚候補生である学生に教育や試験などが行われ、博士(はかせ)という学問を究めた者によって授業が行われた。これは我が国初の公的教育機関であり、もっぱら貴族のための教育施設だったが、官人の子も八位以上なら入学を許され、試験次第で官位が授けられた。成績優秀の者は学校に残り博士を目指すことも出来た。

 卒業し役人となる場合、成績や出身身分などに応じて位階(いかい)を受け、それに相当する官職に任命される。位階とは要するに天皇をトップにして連なる身分階級のことで、それに基づいて官職が定められる。これを官位相当(かんいそうとう)の制という。しかし一方で勤務によってより上位の位階を授かると、それに応じた職務上の昇進が可能となる。つまり職務の上昇と共に身分階級が上昇するのである。しかしこれには位階が5位以上の貴族は、初めから一定の位階を授かることが約束されているという、すこぶる美味しい、蔭位(おんい)の制というシステムが付随していたので、結局高位の階層の者達が上位を占めることが出来た。

[科目]

 当初の科目は、明経道(中国は春秋戦国時代の孔子に始まる儒教の教え)、算道(算数)があり、副教科として中国語の発音を教える音道、書き方を覚える書道があった。算道も明経道も経典が中国だったので、その必修たること現在の英語以上だった。この4科に加えて、後に紀伝道(中国史など)や明法道(法律)が加わることになる。非常に面白いことだが、明治維新の後に西洋文化吸収が急務だった日本では英語がエリート教育に不可欠のものとされ、大学生は外国人教授の英語での講義を聴き取ることが要求されている。

 同時に式部省の下にはその他にも、各種養成機関として典薬寮(治療、薬学、マッサージなど)、陰陽寮(陰陽道による呪術、天文による占術、暦の作成など)、雅楽寮などがあり教育と人材育成を行うことになった。

[地方]

 また地方にも教育機関として国学(こくがく)が設置されたが、教育者の人材確保に困難が伴う場合が多々見られたらしい。

位階

 役職は位階によって定められた。位とは、もともと席次の高さ(座居)を表すところから来ている。よって、その所属社会における己の身分の順位を表している。(RPGではモンスターの位階などと使われることがある・・・ってなんの説明だ。)これには、
[1]天皇血族である皇族に関わる階級
[2]それ以外の者に関わる階級
がある。

[1]の場合

 天皇の息子で「親王である」と宣下された者、すなわち親王の順位を定める品階(ほんかい)がある。皇位継承権を持つ者の位階と言える。一品(いっぽん)から四品(しほん)まで4段階あり、それ以下は無品親王(むほんしんのう)となる。女なら内親王と呼ばれるが、品階は無い。

 もう一つ、親王宣下を受けていない息子や血族関係にある皇族男子は、正一位から従五位下まで14階に分けて、それ以下は無位となる。つまり次に記すところの従五位下までと同様である。

[2]の場合

 位階は30階に分けられている。貴族も含めて皇族以外の全ての位階はこちらに含まれる。順序は、まず基本ラインとして一位、二位、三位から八位まで設けて、その下に初位(初段みたいな発想だ)を設ける。

 そしてこれをそれぞれ正(しょう)・従(じゅ)に分ける。さらに4位以下をそれぞれ上・下に分ける。すると30になる。何故四位以下から記述に変化が生じるかというと、実は三位までは「公卿(くぎょう)」、あるいは「上達部(かんだちめ)」と呼ばれる上級貴族に分類されるからである。太政官のところで見たように、官位相当(かんいそうとう)の制によって公卿が太政官上層部の役職に就くわけだ。

 さらに五位以上(つまり従五位下まで)は貴族(きぞく)に分類される。公卿でない一般貴族は「通貴(つうき)」なんて呼ばれたりする。また職務上は「上級役人」に分類される。六位以下は貴族とは呼ばれず、職務上は「下級役人」に分類される。つまり下のようになる。

[公卿]

正一位・従一位・正二位・従二位・正三位・従三位

[一般貴族]

正四位上・正四位下・従四位上・従四位下・正五位上・正五位下・従五位上・従五位下

[貴族以下]

正六位上・正六位下・従六位上・従六位下・正七位上・正七位下・従七位上・従七位下・正八位上・正八位下・従八位上・従八位下・大初位上・大初位下・少初位上・少初位下

 冠位12階が開始されたころには、豪族たちが牛耳る政治や原始的な官僚制度の中に、当人の実力による位が導入された。そして今回、もともとの有力者達を中心にして官僚制度が整備された後にも、血の制度は色濃く残された。官位相当の制によって官僚の職務は、今説明した位階に基づいて与えられたのだが、位階が5位以上の貴族は、蔭位(おんい)の制というシステムによって、大学に入学しなくても一定の位階を自動的に貰うことが出来たので、常に上級官人を占めることが出来たのである。律令国家の実際の支配階級は彼らであり、大きな特権を持ち続けたのである。

司法

 罪に対する刑罰として五刑(ごけい)があった。

笞(ち)・・・木の棒で臀、背を打つ。10-50回まで5段階。
杖(じょう)・・・上と棒の太さが異なる。回数が60回から100回まで5段階。
徒(ず)・・・懲役[1年、1年半、2年、2年半、3年]
流(る)・・・流刑。近流(こんる)(越前・安芸など)、中流(ちゅうる)(信濃・伊予など)、遠流(おんる)(伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐など)
死(し)・・・絞(こう・絞首刑)と斬(ざん・斬首刑)。斬の方が重い。

 中でも最も重い八虐(はちぎゃく)を冒したものは、極刑に処され貴族でも免罪は許されない。

謀反(ぼうへん・天皇殺害か未遂)
謀大逆(ぼうたいぎゃく・皇室物破壊など)
謀叛(むへん・反乱や亡命)
悪逆(あくぎゃく・親や血族殺人)
不道(ふどう・大量殺人、呪い)
大不敬(だいふけい・神社への不敬行為)
不孝(ふこう・親や血族への殺人以外)
不義(ふぎ・目上の者への殺人など)

令外官(りょうげのかん)

 律令に規定はない追加的、臨時的な役職を唐にならって令外官(りょうげのかん)と呼んだ。これは705年の中納言(ちゅうなごん)や、719年に設置された地方行政監察のための按察使(あぜち)などが初期の例にあたり、731年には中納言に継ぐ公卿として、参議(さんぎ)も令外官として設けられた。特に後の桓武天皇以降積極的に整備が進むことになる。

人民の身分

良民(りょうみん)

1.官人(かんじん)

・政権に仕えるすべての官吏(かんり)

2.公民(こうみん)

・一般農民(口分田を分け与えられるべき人々)とされるが、これは土地を与えて農業を旨とする政権の政策によるもので、実際は漁業や山村で狩りなどをする人々や、商業活動を行う人々すべてが、公民とされて農民的カテゴリーに分類されていたようだ。したがってこの時期の人民の姿を、単純に水田稲作に従事する農民社会と捕らえることは出来ない。

3.品部(しなべ・ともべ)

・下にまとめて記す

4.雑戸(ざっこ)

・品部のうち、武器製作・皮革加工・牧畜などを行なう者達が後に区分けされたものを指す。

・[3]の品部と共に渡来人を多数含む各種職能集団は、その有用性ゆえに政権に束縛される半自由民であった。半自由民と聞いて公民より劣った存在として、当時の社会で認知されていたと考えるのは軽率である。調・庸の代わりにそれぞれの職業的生産物を納めることとされた。

賤民(せんみん)

・5つの不自由民(賤民)をまとめて五色の賤(ごしきのせん)と呼んだ。

1.官戸(かんこ)

・犯罪などの罰として奴隷となったもの。公奴婢と共に官田の耕作などを行ったが、公奴婢よりは位が上だった。売買対象にはならない。

2.公奴婢(くぬひ・官奴婢)

・奴婢(ぬひ)とは奴(男奴隷)、婢(女奴隷)の意味。奴婢は売買譲渡が可能。独立した生計は立てられず、例えば家族があれば、家族全員が働かされる奴婢であった。

3.家人(けにん)

・貴族・豪族などの私有だが、売買対象にはならず。戸を構え、仕えるのは本人のみ。良民の1/3の口分田を与えられ、副業も許される。

4.私奴婢(しぬひ)

・貴族・豪族などの奴婢。財産として売買譲渡可能な完全奴隷状態であった。独立した生計は立てられず、例えば家族があれば、家族全員が働かされる奴婢なのさ。

5.陵戸(りょうこ)

・養老律令で加えられた陵戸(りょうこ)は、墓守(はかもり)を行う集団であり、唐の制度を真似て、聖なる者の奴隷というような意味で賤民に分類されたらしい。したがって、分類は賤民で婚姻の制限があったが、むしろそこいらの良民より、かえって特権的立場にあったと考えられる。

    [身分制度の崩壊](この部分はウィキペディアからの抜粋です)
 朝廷が班田制と戸籍制度を基礎にした人民の人別支配を放棄し、名田経営を請け負う田堵負名を通じた間接支配への移行により律令制が解体していく過程で、この身分制も次第に有名無実化した。良賤間の通婚も次第に黙認されるようになり、中には賤民と結婚して租税を免れようとする者も現れた。789年には良賤間の通婚でできた子は良民とされる事になり、907年には奴婢制度が廃止された。(これには、9世紀末の寛平年間に既に廃止されていたとする見解も存在する)

年齢ごとの分類

[男性]

緑児(りょくじ)・・・誕生-3歳
小子(しょうし)・・・4-16歳
少丁(しょうてい・大宝による)
/中男(ちゅうなん・養老による)・・・17-20歳
正丁(せいてい・・・21-60歳
老丁(ろうてい)・・・61-65歳
耆老(きろう)・・・66歳以上
《次丁(じてい)》・・・残疾(ざんしつ)(正丁の障害者)と老丁(ろうてい)(61歳以上の男性)を合わせた名称

[女性]

緑女(りょくじょ)・・・誕生-3歳
小女(しょうじょ)・・・4-16歳
少女(しょうじょ)/次女(じじょ)・・・17-20歳
正女(せいじょ)/丁女(ていじょ)・・・21-60歳
老女(ろうじょ)・・・61-65歳
耆女(きじょ)・・・66歳以上

戸籍と班田収授法

 土地の支配と人民支配を政府の直接下に置く公地公民(こうちこうみん)に則って、戸籍(こせき)班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が行われた。(ただし公地公民とは建前で、実際どの程度徹底できたのか疑問視されがちな今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。)

 まず全国民の戸籍への登録によって、人民を把握。これは6年ごとに調査を行う。また毎年1回、計帳(けいちょう)を作って税徴収の基礎台帳とした。人民は奴隷を含む大家族を一戸(郷戸)として、これを50あわせたものが里(り)である。(五十戸一里制。)

 一戸あたり20~30人ぐらいだろうか。この制度で一里に含まれる各戸を、改めて郷戸(ごうこ)と呼ぶ。ここには奴婢(ぬひ)以外にも「没落した良民(寄口・きこう)」なども含まれた。これら全ての者に、良民か賤民か、男か女かなどの区別により、奴隷も含めて既墾地(きこんち)が口分田(くぶんでん)として配られ、これは戸主(こしゅ)を代表として与えられる。口分田は6年ごとに更新される戸籍によって新しく配られ、また死んだら返される。これを班田収授法という。

口分田(くぶんでん)

 6歳以上の良民男子に2段(たん)(約23アール)、女性は2/3、家人と私奴婢は良民男女それぞれの1/3を与える。政権に所属する官戸・公奴婢といった賤民に関しては、良民男子と同等の2段を与える。耕作者はその代償として各種税を払う。口分田に対する直接的な税は1段あたり二束二把(にそくにわ)(大体収穫の3%ぐらい)の収穫物である。これが租(そ・収穫の3%)と呼ばれる税にあたる。この口分田によるシステムを全うするために、全国の田んぼが計画的に区画された。これを条里制(じょうりせい)という。

輸租田と不輸租田

 五位以上に与えられる位田(位に対する田)、地方郡司へ支給される職田(職に対する田)、功労者に与えられる功田(功労に対する田)は、輸租田(ゆそでん)と呼ばれる。すなわち特別賜った田んぼではあるが、祖は納めなければならない。

 一方大納言以上の太政官の官人に支給される職田(職に対する田なので、つまり上の郡司の場合とは職が異なるので税に対する判断が異なる)、天皇の食事のための稲を担う官田、神社・寺に与えられる神田・寺田は祖を納めなくて善いとされ、不輸租田(ふゆそでん)と呼ばれた。口分田を配った後に残った田は、乗田または公田と呼ばれ、国司が人民に貸し与え、収穫の1/5を徴収した。

条里制(じょうりせい)について

・1町(=60歩)(約109m)を一辺とする正方形を坪(つぼ)と呼ぶ。これは今日の一坪、つまり一辺が6尺(1間・いっけん)(約1.8182m)の正方形とは大きさが異なる。

・この坪を細かく10分割して、分割された最小単位を1段(たん)(約11.7アール)とする。

・逆に一坪を縦と横に6×6並べて、36個の坪がまとまると、「里(り)」と呼ばれる。

・里の中の坪は6×6の升目によって、それぞれ番号を付けられ管理される。

・こうして里の中の坪が升目のように並ぶ時、その升目の横の配列を一条、二条、三条と順に呼んでいき、縦の配列を一里、二里、三里と順に呼んでいく。

・所がどすこい、条里制の使用は律令の開始ではなく、8世紀半ばに増大する既墾地管理に対処するために初めて登場したらしく、条里制とほざいて、さも制度化されていたように律令制に当てはめて呼んではならないから、条里プランと呼ぶべきなのだと、ウィキペディアには記されている。なんだか狐に摘まれたようで、脳内がプラーンとしてきたので、この話はいったん打ちきりとしよう。

税と労役

 税は、
租(そ・収穫の3%)
調(ちょう・成人男性が治める特産物)
庸(よう・都での労役に見合う品物) などがあり、他に労役として雑徭(ぞうよう)があった。

・収穫後に国司や郡司の倉に納められ、地方行政の税源となる。またここから稲の貸し出し(公出挙・くすいこ)も行われた。

・原則的には都に上っての労役だったが、それに見合う代物を治めることとなり、調とともに都に治められ、中央行政の税源となった。

雑徭

・年間60日国司の元へ出かけて無償奉仕するもので、様々な事業を行うために重要な労働力を担っていた。

 以上の租税負担のほか、民には兵役の義務も負っていた。律令制における軍事制度の基本は軍団制だった。成年男性の中から徴兵され、3~4郡ごとに置かれた軍団に兵士として配属された。軍団で訓練を受けた兵士は、中央たる畿内へ配転されて衛士として1年間、王城周辺の警備に当たった。また、関東の兵士は、北九州に防人として3年間も配属され、沿岸防備などに従事した。

 これ以外にも、1里につき何人を都へ上らせて仕事に従事させろとか、正丁(21-60歳男子)の3,4人につき一人は兵役(へいえき)に出せなどいろいろな制度があった。この兵役は各地の軍団(ぐんだん)に配属されるか、あるいは1年間中央宮廷の警備をさせられた。特に東国の農民達は、北九州まで出向いて大陸に対する防御を担う兵役、すなわち防人(さきもり)にかりだされた。防人は3年間も勤め大体3000人ぐらいがこれにあてられたが、畿内までの費用は自己負担だった。(そこで集められて瀬戸内海を船で渡ったそうだ。)

 他にも税に準じるものがあった。公出挙(くすいこ)である。恐らく律令制成立以前から行われていた慣習を制度化したものらしいが、栽培の開始時に農民に稲を貸し与え、収穫時に利息を加えて取り立てるものだ。その利息は借りた稲の50%(後に30%)を最大とするもので、この時期の収穫が撒いた種の量の何倍になるのか知らないので何とも言えないが、悪徳な利息とは思われないようだ。この公出挙は手っ取り早く徴収がかなうために、次第に国府や郡家などが地方財源を確保するため、ほとんど税金と同等にしてしまったらしい。(あるいは、そうではなくて、むしろ当時の意識ではこれこそが本来の税という捕らわれ方だったのかもしれない。)政府の公的な貸し付け以外は、私出挙(しすいこ)と呼ばれたが、こちらの利息は100%を最大としていた。

 他にも義倉(ぎそう)という凶作の時の備蓄として粟(あわ)を治めさせ、保管しておくものもあったが、これはむしろ保険制度の一種なのかも知れない。

地方と交通

 畿内(きない)と呼ばれる政権の中心となる地域を定め、全国を七道(しちどう)に分けた。

東海道
東山道(とうさんどう)
北陸道
山陰道
山陽道
南海道
西海道(さいかいどう)である。

畿内5国をこれにあわせて、五畿七道(ごきしちどう)などと呼ぶ。これはそれぞれの地域に整備された官道自体を指す場合もある。これらの地域に向かって、近畿から放射状に7つの高速道路が、無理して直線にこだわって、一定の幅を確保しながら地方に伸び、根幹的な交通路を担ったのである。あまり理屈を押し通したために、やがて無理が生じて、自然の利に適った道路に取って代わられたり、幅の広い道路が維持できなくなって廃れたりすることにもなった。

 ただし七道は行政上の区分ではない。行政上はさらに細かく分けられた50あまりの国に分けられていた。その国ごとに国司(こくし)を置き、国司は中央の貴族が派遣されるのが常だった。国の中央官庁として国府(こくふ)が置かれ、そのもとに長官である守(かみ)以下、介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)、さらに書記として史生(しせい)が置かれ、また守のもとに行動する軍隊が存在し、中央集権的統治のかなめを担った。

 栃木県栃木市には国府跡が残されているそうだが、復元図を見ると政庁だけ瓦葺きの立派な建物ではあるものの、ちょっと裕福な荘屋さまぐらいの様相である。周辺に藁葺きの施設が幾つか並ぶが、碁盤の目で整備された都の煌びやかさとはまったく異なる世界であった。

 一方で、その下の郡(ぐん)には郡司(ぐんじ)が置かれたが、そのトップは大領(だいりょう)という役職で、もともと在地を統治していた首長(しゅちょう)などが当てられ、終身の役職だった。つまり在地の統治は、在地のもとにゆだね、それを国府が掌握するというシステムである。

 郡では、郡家(ぐうけ)という施設が郡庁を担うが、瓦葺きはほとんど無く、主たる建物の近くに、多くの建築物が群集するのはおそらく倉庫であり、税(つまり稲など)をまとめたり飢饉に備えたのではないかとされている。これは今日の市町村と同じぐらいの密度で置かれたようだ。

 さらに群の下にあり、一定区域を治める里(り)には、里長(りちょう)が置かれたが、里は後に郷(ごう)と改された。

 個々の村々はすでに6世紀の終わりから7世紀初頭、以前の村が途絶えて、再編が行われた例を幾つも見ることが出来るそうで、その後7世紀中頃に評(こおり)という施設が整備され、これが郡となり、8世紀初めに国府が整備されていくという流れで、つまりは大宝律令が開始なのではなく、国家的再編が長らく続き、その集大成として大宝律令が出されているようだ。

 このうち国司は中央から派遣され6年、後に4年任期とされたが、それ以下は地方豪族のシステムを蹈襲して、彼らに地位を与えるものだったから、当然終身であり世襲された。それにも関わらず、中央の教育システムと官僚制度による中央集権化は地方豪族にも十分伝播し、この時期になると豪族達も律令制に則って行政を行っている。地方豪族の識字率も大分上がっているようだ。

 道路についてもすこし加えておこう。やがて官制道路には駅制(えきせい)が実施された。これによって素早い情報伝達が可能となり、駅路(えきろ)とも呼ばれた。すなわち30里(後の4里にあたる、約16km)ごとに駅(駅家・うまや)を、渡し場にも水駅を置き、旅行者が馬換えをしたり、休息を取ることが出来るようにしたのである。駅馬にストックされた馬は駅馬(えきば・はゆま)と呼ばれた。駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行して、施設の使用を可能とするものである。古代の交通システムには、他にも郡家(ぐうけ)にストックしてある馬を利用して、使節などの人物の移動を中心に行う伝馬制(でんませい)が別にあったと考えられている。

2007/12/17

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