奈良時代4、東大寺の大仏建立

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行幸(みゆき)か逃避か遷都か複都か

 はたして広嗣の上奏文に言うところの天災頻発によるものだろうか。それともまさに広嗣反乱に危機感を募らせたためだろうか。聖武天皇は平城京を離れ伊勢に行幸(ぎょうこう・みゆき・天皇が外出なさること)なされてしまった。そして740年末、宮を恭仁宮(くにきょう)(京都府山城郡加茂町)に正式に移すことを詔(みことのり)し、その地に留まったのである。以後、最終的に平城京に戻るまで、「さ迷えるお宮時代」を迎えることになった。(これは完全に都を移す遷都(せんと)ではなく、本拠地を平城京に保ったまま、一時的に宮を移し替えたにすぎないので、遷都と無闇に使うものではないという説もある。)

 あるいは平城京を離れること、仏教の力にすがり国家安泰を計ることが一つに結びついていたのかも知れない。聖武天皇は、仏に祈ればあら不思議、仏が四天王を使わして、国家を安泰に導いてくれるという鎮護国家思想に基づいて、741年(天平13年)、恭仁宮から

「国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」

を発したからである。国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を設け、それぞれ如来像を安置し、僧または尼僧を配備するというもので、以後各地で整備が続けられることとなった。

[ワンポイント脱線]
・釈迦(しゃか・サンスクリット語シャーキャ)は、仏教開祖の名称だが、本名ではなく、「釈迦牟尼」(しゃかむに)つまり「釈迦族の聖者」という尊称。よく聞かれる如来(にょらい)とは、「如去如来(にょきょにょらい)」つまり「真如(不変に真理のあるところ)へ去り、真如より来る」の省略とされ、釈迦を表す言葉として使用される。さらに信仰対象である仏様の尊称としても使用される。ウィキペディアより引用すると、「日本では釈迦如来、密教の最高仏大日如来、西方極楽浄土に住む阿弥陀如来、東方浄瑠璃浄土に住む薬師如来の四如来が、最も尊崇されてきた。」とある。

 閑話休題いたそう。国分寺は正式名称を金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といい、経典は紫の地に金色の字で書かれた金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を納め、僧20人を置くこととする。国分尼寺は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を納め、尼僧10人を置くこととする。というのが詔の詳細であるが、後に整備が進むと、東大寺が全国の国分寺を束ねる総本山とされた。一方、全国の国分尼寺の総本山となったのは法華寺(ほっけじ)である。ここは藤原不比等邸を相続した光明皇后の宮だったところに寺を築いたものだ。

 この光明皇后(701-760)は仏教を篤(あつ)く信奉し、国分寺建立の詔や、東大寺大仏は、もともと彼女が夫を動かしたとも言い伝えられる。さらに法華寺や新薬師寺の創設にも直接関与しているし、悲田院(ひでんいん)を723年に置いたという記録が残されている。この悲田院とは、貧民や孤児を救済するための仏教施設であり、伝説上は聖徳太子が隋に倣って始めたとされているが、記録に残されているのはこの723年の記録からである。またやはり聖徳太子が薬草を作らせ民の救済にあてたと言われている施薬院(せやくいん)も、730年に光明皇后が設立しているくらいだ。聖武天皇の仏教政策の影には、彼女の存在が大きく関わっているに違いない。

盧舎那仏への長い道のり

 742年に入ると、大きく距離を隔てた信楽宮(紫香楽宮・しがらきのみや)(滋賀県甲賀市)の建造を開始した。翌年743年、信楽宮にとびっきりの盧舎那仏(るしゃなぶつ・大仏の正式名称)を建立し、鎮護国家の要(かなめ)としようと考え、
「大仏造立(ぞうりゅう)の詔」
を宣言。この地に大仏寺と京を築き、貴族を呼び寄せ都となすプランが現実味を帯び、一方で恭仁宮の造営は中止されることになった。

 この盧舎那仏なお年頃である743年には、歴史上重要な法案、
「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」
も出されている。723年に出された三世一身法(さんぜいっしんのほう)では、新田開墾効果が十二分には得られなかったらしい。もはや墾田(新開拓の耕地)を開拓した者には、三代ではない、永年の保有を認めるというものだ。ただし、身分に応じて永年相続可能な耕地面積が定められている。(→覚え書き。公地公民、当時の土地使用の実情、などをリサーチする必要がある。)いずれこの法によって、特に中央貴族や大寺院による墾田開発が促進され、新しい租税を確保するのにも一定の効果があったようだ。この墾田開発と経営のためには「荘・荘所」という管理施設が設けられたので、その墾田地域が「荘田・荘園(しょうえん)」と呼ばれるようになっていった。特に畿内では、有力寺院や貴族が中心になって、開墾保有していた墾田地を譲渡や寄進によって大きな荘園にまとめる流れが起こった。地方では新たに開墾を行う荘園形成が盛んだったが、全体としてこの時期の荘園は畿内を中心に盛んに行われたのである。このような荘園のことを初期荘園(しょきしょうえん)、あるいは墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)などと呼ぶこともある。

[ワンポイントジョス缶]

 やあ、久しぶりに登場のワンポイントジョスカンだよ。今日は743年、大仏造立の詔と、墾田永年私財法をまとめて覚えるのさ。
「天下の不穏はもう無しさ(743)、大仏造立の詔。
土地の返却もう無しさ(743)、墾田永年私財法。」

長いけど、語呂が良いから、ぜひ覚えて使って欲しいな。これらの事業の貢献を認められてか、この年、橘諸兄は従一位左大臣にまで上り詰めたんだ。彼の勢力を物語る人事だね。それじゃ、また。

 翌年744年には、京を難波宮(大阪市)に移すことにした。これはあるいは信楽宮に移るまでの処置だったのだろうか。難波宮は孝徳天皇(596-654)が亡くなって以来、都ではなくなっていたが、京を持ったもう一つの都として聖武天皇が726年から再整備を始めていた。いわば平城京と難波京の複都体制を整えている最中だったのである。難波の港は大宰府と並ぶ国際的な港であり、難波宮のある摂津国(せっつのくに)には国府ではなく、摂津職(せっつしき)という役職が置かれるくらい重要な場所だった。港には大宰府と同様、外国人を迎え入れる鴻臚館(こうろかん)が設けられていたのである。

 しかし不幸が起こった。難波宮に移動中、皇太子として17歳になっていた安積親王(あさかしんのう)が、脚気(かっけ)にかかって亡くなってしまったのである。天皇になる可能性も十分あり、反藤原派を糾合できる立場にあった安積親王を、藤原武智麻呂(むちまろ)の息子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(706-764)が暗殺したという説もあるが、定かではない。

 大いに悲しんだであろう聖武天皇は、もっぱら信楽宮に滞在しつつ、やがて信楽宮を甲賀宮に改めると、745年、ここを新都とする考えを示したのである。ところがこれはうまくはいかなかった。同意を得られなかったか、災害に見舞われたのが原因か、その745年のうちに、聖武天皇は平城京に帰ることになったからである。これによって、「さ迷えるお宮時代」は終焉を迎えたのであるが、甲賀寺に納める予定だった盧舎那仏の建立は、東大寺の大仏プランへと改められることになった。信楽宮は破棄されたが、難波京の方は、後に長岡京遷都が行われるまで、副都として機能し続けることになったのである。

孝謙天皇の即位

 先に出た藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后との繋がりも強く、急速に勢力を拡大してきた。やがて橘諸兄の対抗勢力となったためだろうか、745年、僧界のトップの地位(僧正)にあった橘諸兄派の玄昉は筑紫観世音寺別当(寺務を行う役職)に左遷されて、翌年亡くなってしまったのである。そしてこの745年、行基(ぎょうき・ぎょうぎ)(668-749)という僧が、僧正の上の階位である大僧正の位を授かっている。政治権力交替の嵐が、またしても始まったのだ。

 749年、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位。天皇を退くと共に、太上天皇(たいじょうてんのう、だじょうてんのう)として後見に付いた。阿倍内親王は孝謙天皇(こうけんてんのう)(在位749-758)として即位。彼女こそ、「生涯独身女帝」として(・・・怒られるでしかし)、後に称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位し直す「重祚(ちょうそ)女帝」として知られる天皇である。また彼女の後、女性の天皇は、江戸時代の明正天皇(めいしょうてんのう)まで長らく途絶えることとなった。今日女性天皇の記事が新聞に書かれることもあるが、何時の日か女性の天皇が復活した時こそ、地に落ちた大和魂が復興をとげるとも言われている。(言われてません!)

 これによって藤原仲麻呂の発言権が増すと、橘諸兄派の吉備真備までも、750年に筑前守(ちくぜんのかみ)、ついで肥前守(ひぜんのかみ)に左遷されてしまう。しかし彼の才能は買われていた。真備は翌年751年に遣唐副使に任命され、752年に唐に渡ることになったのである。その間、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は順調に出世を続け、政界は相変わらず橘諸兄と、藤原仲麻呂が拮抗していた。そんな752年、いよいよあの巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ)が完成し、開眼(かいげん)が行われることとなったのである。

東大寺盧舎那仏開眼供養の巻

 大仏は世界一の巨大金銅仏を築き国家鎮護の要とする計画であった。まず木材で輪郭を形成した後、粘土で原型を作る。さらに外に一回り大きな粘土枠を設けて、外側と内側の粘土枠の隙間に銅を流し込んでいくのだが、大仏鋳造のための銅は、山口県秋吉台近くにある長登(ながのぼり)銅山などから運搬されたことが分かっている。しかし完成したブロンズ像はさらに塗金(ときん)する行程が残されている。その金が日本で採掘されないため、不足していたのだが、749年、陸奥の国司、百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)が、陸奥で発見された金を都にもたらしたのである。彼は百済王を先祖に持つ渡来系の家柄で、半島の技術で金を鋳造したと考えられる。この金を大仏に塗りつけるのだが、まさか油絵の具じゃあるまいし、そう簡単にはいかない。水銀と金を混合させて鍍金をする際に、多くの人が水銀中毒にやられたようである。この鍍金(ときん)が終わった時、今日からは想像しにくい煌びやかな大仏誕生することとなった。そして大仏殿が完成する前に開眼式が行われた。日本書紀の伝えるところの、仏教伝来200周年を記念したものである。

 752年(天平勝宝4年)5月30日、東大寺盧舎那仏像の開眼式(かいげんしき)が行われた。僧の手によって抜け殻に仏の魂が込められる儀式である。この開眼供養(くよう)には僧だけで1万人が参加したとされ、名簿も残されているので、出鱈目の数字ではないそうだ。開眼供養の導師は菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ、704-760)であり、彼は736年に渡来したインドの僧である。もちろん僧以外の人数も壮大だ。お偉方も、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇はもちろんのこと、大仏推進の立役者である橘諸兄を筆頭に、文武百官、多くの貴族達が参加した。そこには寺務を行う別当の役を任ぜられた華厳宗(けごんしゅう)の良弁(ろうべん)(689-774)の姿もあった。今日、東大寺の創立者(開山・かいさん)とされる人物である。ただし今日では華厳宗となっているが、奈良時代は「六宗兼学の寺」として、東大寺は宗派を超越した寺院だった。(というより、宗派が完全な分裂はしていなかった。)良弁は聖武天皇から敬愛されて、この役職を得ることが出来たのだが、東大寺創設に重要な役割を果たしたもう一人の僧、行基(ぎょうき・ぎょうぎ)(668-749)はすでに天に召され、開眼に臨席することは叶わなかった。

[ワンポイントジョス缶]

 何だって、大仏開眼供養の年号も覚えたいだって。ご要望があるんじゃあ仕方がないね。
「おなごに(0752年)分かるか、東大寺の大仏開眼」
あくまでも年号暗記のためだから、女性の皆さんもお皿を投げてはいけないよ。じゃあ、また。

 行基について、すこし振り返ってみよう。彼は741年、聖武天皇の抜擢によって東大寺建設の勧進(かんじん)、すなわち資金集めを任された人物で、その功績は大きいものだった。功績が認められて、玄昉が左遷された745年、日本最初の大僧正(だいそうじょう)の位を得ている。僧階の中で最高の僧正、その僧正の最高位といった意味である。玄昉の勢力を削ぐための策略もあったのかも知れないが、業績が無ければなし得ない出世である。政権に密着した高僧だったのかと思えば、そうではない。むしろ、律令制の定めた僧尼令に違反した咎で、717年からしばらく布教禁止を宣言された人物なのである。(活動を止めた形跡は無さそうだが。)当時、僧制度を無視して民衆に働きかける僧を私度僧(しどそう)と呼んだ。行基は私度僧として仲間を集め、集団で民衆救済のために治水や、貧民施設やら、潅漑やらを精力的に行っていたのである。今日でも伝説を加えて、行基が造ったとされる寺や、港、温泉などが各地に残されている。現在の神戸港のルーツとされる大輪田泊(おおわだのとまり)も、彼に始まると考えられているくらいだ。

 そんな民衆に歓迎されている人物を登用したのは、政略的な人事だったのだろうか、彼が勧進を行った結果、造営費用がまかなわれ、大仏はついに開眼を向かえ、菩提僊那(ぼだいせんな)の持つ筆で、目玉を入れて貰うに到った。しかし大仏さんが見渡しても、地上には行基の姿はなかったのである。その代わり開眼の法会(ほうえ)には多くの芸能が催されていた。今日でもその時使用された芸能のための装束や、楽器などが正倉院に残されているが、演奏された音楽も、朝鮮半島や中国(唐)はもちろん、インドや東南アジアの音楽まで幅広い。あるいは大仏さん、数々の芸能を眺めていたのかも知れない。

 脱線すると、正倉院には「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ)が聖武天皇の持ち物として保存されている。西アジア系の四絃琵琶に対して、この現存する唯一の五絃の琵琶は、正倉院の宝物としても代表選手であるが、あるいはこの開眼供養でも使用されたのかも知れない。

 その後758年には大仏殿も完成し、さらに年月をかけて伽藍配置が整備されていった。完成された伽藍は東西に100mもの高さの七重塔を配備し、大仏殿も今日よりずっと巨大なものだったから、高層建築のない当時には、どれほど際だっていたか知れない。

 

 そんな東大寺、1181年の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討によって、大仏殿と周辺伽藍建築郡が焼かれ、1567年には三好・松永の戦いによってまたもや消失。大仏修理と大仏殿再建(三度目)は江戸時代に入ってからのことであった。むしろ太平洋戦争を逃れたことが奇跡かもしれないが、今日では日々観光客に囲まれたまま黙然としている。あるいは七重塔の再建を待って、立ち上がるつもりかしらん。(・・・。)

2008/02/27

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