奈良時代5、遣唐使から恵美押勝の乱

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遣唐使再び(752-754年)

 この大仏開眼を、吉備真備は見ることが出来なかったようだ。3月中に孝謙天皇から節刀(せっとう・全権委任の刀)を渡された遣唐使節は、4月の出航のために難波に向かったとされるからである。もちろん752年、「おなごに(0752)分かるか、この遣唐使」と叫んで、出発したに決まっている。(……決まってません!)

 この時の遣唐大使は、藤原房前(ふじわらのふささき)の息子、藤原清河(ふじわらのきよかわ)であった。副使は大伴古麻呂(おおとものこまろ)、後に追任を受けたのが吉備真備。大伴古麻呂とは、733年の遣唐使の留学生仲間だった。また藤原仲麻呂の息子である藤原刷雄(ふじわらのよしお)などが、留学生として乗り込んだ。長安に到着すると、やはり733年組みの阿倍仲麻呂が、唐で官僚として働いている。吉備真備、阿倍仲麻呂、大伴古麻呂が、732年の同窓会を兼ねて飲み会でも開いたかどうだか、歴史には記されていない。

 753年、「祝福するなら金をくれ」でお馴染みの七五三の年である。(全然意味が分からん。)とにかく753年、いよいよ玄宗皇帝の前に列席となったとき、一悶着(ひともんちゃく)起こったらしい。大伴古麻呂が新羅使節より席次が低いのに大層ぶち切れなさって、まさか乱闘騒ぎになりゃしないが、とうとう席順を入れ替えさせたというのである。続日本紀(しょくにほんぎ)に載っている話だが、この時期新羅と日本との関係はしっくりいっていない。大仏開眼の前にも、新羅使が様々な贈り物と共に来日して、開眼供養を祝おうとしたのに、その使節を開眼が終わるまで大宰府に留めてしまったのである。一説では、新羅王ではなく皇子が来たのが気に入らなかったとされる。さらにこの席次争いもあり、同年753年に日本から派遣された遣新羅使節は、新羅王に会見することが許されなかった。日本では新羅討伐の気運が高まり、759年には計画案まで出されたが、ついに実行には至らなかった。どうも日本は、相手が新羅となると、自分の方が上でないと気が済まないらしい。玄宗皇帝はまたあの二国かと、呆れて眺めていたかも知れない。

 さて、733年と今回の遣唐使は何かと関連が見られるが、実はまだある。733年に唐に渡った者の中に、栄叡(ようえい・えいえい)と普照(ふしょう)という僧があった。彼らは、戒律(かいりつ)を日本に伝えるために、戒律を授けること(受戒という)の出来る僧を探していたのである。仏教では僧尼になるために、戒律厳守の宣誓が必要で、10人以上の受戒僧尼の前で、己に誓う(戒)、互いに誓い合う(律)、などの儀式が必要だったからである。日本の仏教界は戒律の整備が急務だったのだ。ついでに加えれば、律宗(りっしゅう)はこの戒律を研究・実践する宗派である。そこで高名な律宗・天台宗の僧、鑑真(がんじん)(688-763)を尋ねたのである。
鑑真は弟子達に尋ねる、
「誰か日本に渡る人は居ませんか」
と聞けば、そんな野蛮なところに行けるものか、
取って食われたらどうする、
とは弟子達も言わなかったかも知れないが、
はなはだ首を横に振って拒否するので、
「それでは、ワシが出かけようか」
と先生自ら日本に渡ることになったのであった。

 こうして743年から繰り返すこと5回、ことごとく渡来に失敗し、5回目の時には案内人の栄叡が亡くなり、鑑真自身は視力をほとんど失ってしまったのである。ただし、さも遣唐使の恐ろしさを強調するために、6度目にして成功と叫ばれるが、災害での失敗は2回、そのうち船が完全な遭難に到ったのは5回目だけである。鑑真が高名なために、唐から出航させたくない人が沢山居て、何度も留められたのが主因(しゅいん)であった。まるで遭難に継ぐ遭難を思い起こさせるような著述方法では、ほとんど歴史捏造と変わらない。

 しかし6回目も危なかった。玄宗皇帝が鑑真の日本行きを認めず、遣唐大使の藤原清河が、大使の船に鑑真を乗せることを拒んだからである。その代わりではないが、藤原清河の船には阿倍仲麻呂が乗っていた。「日本に帰りたい」と、留める玄宗皇帝にいとまを貰って、懐かしの祖国に向かうつもりである。久しぶりの大和(やまと)が目に浮かぶ。歴史はまるでドラマのように進行していた。大伴古麻呂が、独断で密かに鑑真を副使の船に乗せてしまったのである。恐らく鑑真と共に普照も乗っているはずだ。また伝記的な「大和上伝」を記す弟子の思託も一緒だったに違いない。

 もう一人の副使である吉備真備は、第三船に乗り込んだ。やがて船は大陸を離れる。そしてお約束、嵐に巻き込まれた。大使の乗った第一船(大使船)はあえなく漂流してしまった。藤原清河と阿倍仲麻呂は、今日のベトナムの方に流され、唐に戻り生涯を大陸で過ごすことになるのである。一方、第二船、第三船は屋久島にたどり着いた。そしてついに鑑真は、平城京入りを果たすのである。

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱

 754年、鑑真は孝謙天皇から戒律と、授戒のための場所(戒壇・かいだん)の整備を一任され、東大寺に戒壇を設置。4月にはさっそく400人の僧尼に戒律を授けて見せた。僧尼だけではない、聖武太上天皇・光明皇后・孝謙天皇らも授戒しているのだが、以後日本仏教界における戒律の整備に尽力することになる。また一緒に渡ってきた弟子の如宝(にょほう)なども東大寺で授戒を受けることとなった。また彼は、唐招提寺(とうしょうだいじ)を開き、興福寺(こうふくじ)にも貧民救済施設である悲田院(ひでんいん)を設置するなど、精力的な活動を行った。763年の死を悼んで掘られた彫像(ちょうぞう)(日本最初の肖像彫刻)は、今日でも唐招提寺(とうしょうだいじ)に安置されている。もちろん国宝である、そう、国宝なのである。(・・・。)

 一方視点を変えて、吉備真備が朝廷に戻ってみると、政界のリーダーは橘諸兄から藤原仲麻呂に移行しつつあった。仲麻呂は光明皇后と孝謙天皇から厚遇されていたからである。吉備真備は、大宰府での次官に当たる少弐(しょうに)となり、都を離れることになった。真備を遠ざけるための仲麻呂の策略だったのかも知れない。だが、中央の勢力争いから離れることが出来たのは幸いであった。756年には橘諸兄は政権引退に追い込まれ、同じ年に共に歩んできた聖武太上天皇が崩御された。757年の始め、気力がつきたか後を追うように橘諸兄も亡くなってしまったのである。

 この直後、聖武太上天皇が定めた皇太子が廃止させられ、仲麻呂と家系譜が近い大炊王(おおいおう)が立太子(りったいし)された。大炊王は同じ館に住んでいるくらい仲麻呂に近い人物である。諸兄の息子であった橘奈良麻呂らが、仲麻呂排除のために動き出す。しかし仲麻呂の方が上手だった。一味は天皇廃位を狙った反乱分子として捕らえられ、多くの者が拷問によって殺されたのである。もちろん橘奈良麻呂も死んでしまった。この事件を橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)というが、吉備真備らと一緒に帰国したあの大伴古麻呂も、拷問され殺されてしまったのである。他にも天武天皇の孫である塩焼王(しおやきのおおきみ)も加わっていたが、彼は死なずにすんだ。だから真備が都に残っていたら、彼も巻き込まれていたかもしれなかったのだ。大宰府に居たおかげで彼には出世が待っていた。

 翌年758年、唐では長安を奪い取る安禄山の乱(安史の乱)が勃発する。玄宗皇帝は逃れながら楊貴妃を殺すはめに落ち入った。この事件は、日本に臨戦態勢を取らせることとなり、大宰府の吉備真備にも勅令が発せられる。新羅との関係も険悪で、仲麻呂は新羅遠征を考えるほどだった。このような重大局面にあって、759年になると、真備は大宰大弐(上の次官・長官は「帥」)に任命されることになったのである。

 一方都では仲麻呂が完全に政権を握った。758年になると、孝謙天皇は大炊王に譲位をし、仲麻呂派の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)(733-在位758-764-765)が誕生した。天武天皇の孫にあたる人物である。

 これによって仲麻呂は、経済的特権や、私出挙(しすいこ)を行う権利など、破格の待遇を得て、さらに恵美押勝(えみのおしかつ)という名称まで頂戴したのである。彼はすでに757年に、かつて藤原不比等の死によって中断されていた律令をもとに養老律令(大宝律令と類似性が強い)を施行させていた。といっても完成させて施行させたのではない。すでに改訂されたはずの部分がそのまま記載されたりと、現状との矛盾が是正されていないような部分も、そのままで施行されているのである。当時の律令は実施されていない部分もあり、慣習が優先されていたらしい部分もあり、特に奈良時代の間は律令規定と異なる罰則がしばしば行われるなど、絶対的に法に従うという意味での法律ではなかったのである。その建前的な側面から、実質有効性を失っても継続され、形式上だけは明治維新まで存続しているのだ。

 他にも、官僚名称を漢風に改めるなど唐風化政策をすすめる恵美押勝だったが、その絶頂は760年、皇族以外で初の太政大臣(だいじょうだいじん)となった時かもしれない。この時は唐風の名称で太師(たいし)と呼ばれている。しかし同年、光明皇太后が亡くなってしまった。重要な後ろ盾の一つを失った恵美押勝は、これ以後滅亡への坂を転がり始めることになる。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱

 翌年761年。平城宮改築のため、近江(おうみ)の保良宮(はらのみや)に移っていた時のことである。孝謙太上天皇が病に伏せっていると、道鏡(弓削道鏡・ゆげのどうきょう)(700-772)という僧が介護にあたり、健康が回復に向かうという出来事があった。これだけで終われば、取るに足らないしょうもなエピソードだったのだが、そうはならなかった。以来孝謙太上天皇は道鏡を重用(ちょうよう)し始め、これを諫(いさ)めた淳仁天皇との関係が悪化したからである。淳仁天皇の後ろには反道鏡の藤原仲麻呂が控えていたから、当然仲麻呂と太上天皇との間にもすきま風が吹きだした。孝謙太上天皇はこの諫(いさ)めに対し、762年、出家して尼となり(道鏡とは男女関係は無いという意味か?)、
「天皇は小事を行い、大事と賞罰は私が行うのよ!」
と宣言し、淳仁天皇から政治権力を奪い取ってしまったのである。恵美押勝こと藤原仲麻呂の勢力も大きく後退し、不穏な空気の中で、運命の764年が明けることとなった。

 この764年、大宰府の吉備真備が都に帰ってきた。遠の都から帰ってきた。造東大寺長官に任命されたからである。かつて彼が持ち帰った精度の高い暦法である大衍暦(たいえんれき・だいえんれき)も、この年に運用を開始している。70歳とはいえ、反仲麻呂派を呼び戻すことに、あるいは何らかの意味が込められていたのだろうか。

 危機感を強め、起死回生を計る仲麻呂は勝負に出た。兵を挙げての反乱を実行に移そうとしたのである。周到にことを進めたが、残念ながら密告に合い、仲麻呂は平城京を脱出。自己勢力の拠り所である近江に向かった。朝廷から吉備真備にお呼びが掛かる。孝謙太上天皇は真備を従三位に叙すと、仲麻呂討伐を命じたのである。対して仲麻呂は淳仁天皇を連れ出すことにも失敗し、歴史の皮肉か、かつて自分を陥れるクーデターを画策した人物、塩焼王(しおやきのおおきみ)を帝として擁立。束の間ではあるが二人の天皇が並び立つこととなった。(やはり二帝が並び立った唐の安史の乱は、前年643年に完全終結を向かえている。)

 しかしこのクーデターはあえなく終結した。恵美押勝はいくさに破れ、塩焼王もろともに殺されてしまったからである。この事件を、藤原仲麻呂の乱、あるいは恵美押勝の乱と呼ぶ。仲麻呂の一族は処断され、淳仁天皇は廃位の後、淡路に流罪となった。ただし遣唐使に派遣されたことのある藤原刷雄(ゆきお)は、流罪で許され、後に許されて役職に付き、桓武天皇の元では陰陽頭などになっている。

 クーデターの後、孝謙太上天皇が再度天皇となり(重祚)、称徳天皇(しょうとくてんのう)(764-770)として即位した。天皇は皇太子を置かないことを宣言し、政治のすべてを執り行う。その政治を支えるべく、道鏡が政権のトップに君臨した。

道鏡(どうきょう)の隆盛

 彼は765年には、僧でありながら、右大臣左大臣の上に君臨するというあの、太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されたのである。仲麻呂の地位を引き継いだ形にもなる。こうして道鏡は世俗官位の最高位に上り詰めた。気をよくした道鏡は同年、墾田私有の禁止を発令し、墾田永年私財法にストップを掛ける。大貴族や大寺院の墾田私有に歯止めをかける狙いがあったと思われる。そして翌766年、称徳天皇は道鏡に仏法界の王という意味の「法王(ほうおう)」(出家した太上天皇を指す法皇とは別)という僧職を与え、彼は仏教界でも最高位に上り詰めた。

 このような者が政界トップに居ることは、仏教政策を推進させる結果となった。例えば、奈良の西大寺(さいだいじ)は称徳天皇の詔(みことのり)によって、765年に造営が開始されている。その名称はもちろん、東大寺に対しての西大寺である。新構想によって大伽藍を配備し、称徳天皇が造らせた金銅の四天王像が安置されていたが、今日では四天王像の足下の邪鬼だけが、当時の姿を残している。この寺はもちろん南都七大寺の一つに数えられる。

 また称徳天皇は、恵美押勝の乱の平定と犠牲者の弔いを兼ねて、百万塔を造らせた。これは木製の小さな三重塔の中心に、陀羅尼(だらに)(無念無想に到るための呪文的経文)を入れたものを、なんと百万塔造って、奈良の十大寺に十万ずつ奉納したのである。
[大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・
興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・崇福寺]
この陀羅尼は凸版で印刷され、現状世界最古の印刷物とされている。

2008/03/07

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