奈良時代7、天平文化

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天平文化(てんぴょうぶんか)

 聖武天皇時代の元号から取られ、「天平文化」と呼ばれる奈良時代の文化は、律令制の整備による中央集権を象徴する都、平城京を中心として起こった。天皇を中心とする上層貴族達は大きな富を元に、遣唐使などを通して得られた唐の文化を意識した、華やかな貴族文化を登場させたのである。それは大仏開眼に象徴されるような、または正倉院宝物に象徴されるような、はるかペルシアまで通じる、国際色豊かな文化でもあった。聖武天皇、光明皇后、道鏡など、仏教により国家を治めようとする政策が取られ、寺院建築、仏教芸術が大きく花開くことになった。一方文芸においては、漢文の消化が進み初めての漢詩集が編纂され、また反対に我が国の歌である万葉集が作られるなど、今日まで残される初めての文芸が誕生することとなった。

仏教

 奈良時代には、特定の宗派と特定の寺院との結びつきは弱く、後世のように「何々派の何とか寺」(一寺一宗)とはみなされていなかった。宗派は教義の学問的な解釈や方法の違いといったもので、学僧は一つの宗派のみを信奉した(一人専宗)わけでもなかった。律令国家の下の僧界という枠組みが強力だったためでもあるだろう。後に国家統制の枠組みが緩むと、小国分立割拠するが如く、完全に自己と他派を分離した宗派が誕生することになる。

 南都六宗(なんとろくしゅう)というのは後年に生まれた言葉であるが、次の時代に平安京(北都)で隆盛を誇る天台宗、真言宗に対して、

①奈良時代以前に伝えられた三論(さんろん)・
成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)
②奈良時代に入って、
736年に審祥(しんしょう)が伝えた華厳(けごん)、
753年に鑑真が戒律を授け始めて整いだした律(りつ)
のことを指す。

 彼らは僧尼令(そうにりょう)によって官僚と同じように組織化され、僧の官職である僧綱(そうごう)も整えられた。これは上から僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・律師(りっし)とされ、治部省(じぶしょう)に所属する玄蕃寮(げんばりょう)の監督下にあった。そんな細かいことは覚えてもしょうがないが、ようするに、世俗官僚同様に国家に組み込まれていることが重要なのだ。

 一方で、653年の遣唐使で大陸に渡り、玄奘(げんじょう)(602-664)の元で研鑽(けんさん)を積んだとされる道昭(どうしょう)は、記録に残る初めての火葬で埋葬された人物であるがそれだけではない。彼は、律令国家の官僚的僧の活動だけでなく、各地で民衆のために橋や井戸の土木事業を指揮するなど、仏教の精神を持って人民の中に働きかけようとしたことでも知られているのだ。彼の弟子とも考えられている行基(ぎょうき)(668-749)に到っては、寺院外での活動が高じて、僧尼令(そうにれい)に違反する者として、名指しで布教活動の禁止がなされるほどだった。なぜなら彼は律令国家と寺院のもたらす僧秩序から離れた存在、民衆の中に活動する私度僧(しどそう)集団を束ねて潅漑事業などを行っていたので、反体制的な人物とされたからである。彼らは官僚的僧として歴史に名を残すが、この時代すでに数多くの私度僧たちが、都や地方の集落などに生活し、地方の寺院などで活動を行う者達もあり、民衆にも仏教の広まりが開始していたのである。

 こうした活動は、民衆宗教としての仏教活動の源泉と言えるかもしれない。一方で、光明皇后が設けた施薬院(せやくいん)・非田院(ひでんいん)といった福祉医療、孤児救済など目指した施設は、国家的仏教による民衆救済と言えるだろうか。

 さて、奈良時代には鎮護国家(ちんごこっか)思想に基づいて多くの寺院が政権の主導により建造された。特に重要な国家的寺院(官寺・かんじ)は、
①藤原京から平城京に移築された、
薬師寺・大安寺・元興寺(がんごうじ)・法興寺(ほうこうじ)があり
②平城京に移った後に建造された、
興福寺・東大寺・西大寺が上げられる
③これに都から離れた法隆寺を加えて、
後に南都七大寺(なんとしちだいじ)と呼ぶようになった。

 また聖武天皇により出された詔により、国ごとに建造された国分寺・国分尼寺は、国家仏教を全国に浸透させると共に、都の最新建築や仏教美術を、周囲に広める役割も担っていた。

 とくに仏教が国家の礎に組み込まれたこの時代、日本の神を祭る神社の中に寺院を建築する動きが増大する。鹿島神宮や伊勢神宮といった有名な神社も神宮寺(じんぐうじ)が建造され、また神社に奉られていた神が神託により「わしゃ神ではなく今日から仏になるんじゃ」とはまさか言わないが、仏道を願っているというお告げが相次いだ。このような仏と神の歩み寄りを神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想という。また、日本の山岳信仰と仏教や陰陽道などが結びついて生まれた修験道(しゅげんどう)もこの時代に生まれたと考えられている。僧の中に山林に向かい厳しい修行に命を投じる者が出てきたのである。その開祖は役小角(えんのおづの・えんのおづぬ)(伝承によれば634-706)、通称を役行者(えんのぎょうじゃ)。続日本紀によると699年に葛城山で呪術に長けた役君小角という者が、人心を惑わすと訴えられ伊豆に流されたと記されている。ところが1世紀以上を過ぎた「日本霊異記」(9世紀前半)の説話の中では、雲に乗ったり、鬼神を自在に操ったり、民衆の中で、彼のイメージが膨らんでしまった姿を見ることが出来る。やがて、彼は修験道の開祖であると賛えられるようにもなっていったのである。

歴史書と文芸

 唐の皇帝に倣った天皇制度、唐の都に学んだ都造り、唐の律令制を模倣した律令制度の制定、といった一連の唐風化政策は、当時世界最高レヴェルの歴史書国家であった唐に倣い、日本の歴史書を編纂するという作業を推し進めることとなった。これらの資料により、今日の日本史にとっても有り難い時代がようやく登場することとなった。
これによって
712年の「古事記」、
713年の「風土記(ふどき)」、
720年の「日本書紀」と、
歴史書・風土書の編纂が相次いだのである。

 この歴史書編纂事業はその後も継続され、政権による歴史書が平安時代半ばまでは編纂された。すなわち合わせて6つの漢文による正史が完成し、これを合わせて「六国史(りっこくし)」と呼ぶのである。

[六国史]
日本書紀(720年)
・・・神代から持統天皇まで(?~697年)
続日本紀(しょくにほんぎ)(797年)
・・・文武天皇から桓武天皇まで(697年-791年)
日本後紀(840年)
・・・桓武天皇から淳和天皇まで(792年-833年)
続日本後紀(869年)
・・・仁明天皇(833年-850年)
日本文徳天皇実録(879年)
・・・文徳天皇(850年-858年)
日本三代実録(901年)
・・・清和天皇から光孝天皇まで(858年-887年)

 751年には、我が国で最古の漢詩集である「懐風藻(かいふうそう)」がまとめられた。天智天皇の時代から完成前まで、64人の作者によるアンソロジーであり、漢文の消化が自ら芸術を生み出すにまで到達したことを証明している。この漢詩情熱も、律令制や歴史編纂事業と共に進行した、唐風政策の一環と見ることも可能だ。その漢詩は五言詩が多く、時にはぎこちないくらいに六朝文化(隋唐の前)や初唐の漢文の影響を被っている。天武天皇が亡くなった直後に謀反の罪で亡くなった大津皇子(おおつのみこ)が、臨終に望んで作ったとされる一首を上げておこう。

「金烏臨西舎(きんうせいしゃにてらい)
鼓声催短命(こせいたんめいをうながす)
泉路無賓主(せんろにひんしゅなし)
此夕離家向(このゆうべいえをさかりてむかう)」

勝手な意訳
「斜陽は西舎を照らし
鼓声は短き命を急き立てる
黄泉への道には客も主も居ない
この夕べ家を離れ向かう」

 さて、万葉集にも大津皇子の時世の歌と伝えられる歌が納められている。

「ももづたう 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ」

勝手な意訳
「ももづたう磐余(いわれ)の池よ
そこに鳴く鴨を今日を最後に眺めて
私は雲のかなたに去ってゆくのか」

 ここにある「ももづたう」は枕詞であるが、このような短歌や、五七調をしばらく繰り返して、最後に七句で終わる長歌(ちょうか)、さらに漢詩まで加え、日本の歌の集大成を計った「万葉集」は、759年に完成したとされている。特に最後に作られた部分は大友家持(おおとものやかもち)(718-785)の歌を多数含み、おそらく彼が最終的な編集にも関わっていたと考えられている。この詩集については、別の機会に詳細を記すこととしよう。

諸芸術

 平安時代の建築については、例の東大寺の正倉院宝庫が有名だが、東大寺、唐招提寺(とうしょうだいじ)、法隆寺などに当時の建築が部分的に残されている。

 この時期、金銅仏や木造仏に加えて、木を芯に粘土で固めた塑像(そぞう)、原型の上に麻布を漆で塗り固めて原型を抜き取る乾漆像(かんしつぞう)などが作られた。東大寺、新薬師寺、興福寺、などに有名な仏像が残されるが、唐招提寺の鑑真像が一番インパクトがあるかも知れない。

 天平文化の代表工芸は正倉院宝物として、今日まで伝えられている。この中には鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)の樹下美人図という、よく紹介される絵画も納められているが、他にも薬師寺の吉祥天(きっしょうてん)像といった絵画が有名だ。その他、細かいことは直に目で見なくては、文章で記しても大した意味はないかもしれない。

2008/03/13

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