平安時代、武士の発展と受領

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東北と武士の発展

平忠常(たいらのただつね)の乱

 承平・天慶の乱では源経基(つねもと)が活躍したが、彼は清和天皇の孫であった。これをもって清和源氏(せいわげんじ)が開始する。(と後に考えられた。)その子である源満仲(みなもとのみつなか)(920年代?-997)は、969年の安和(あんな)の変で手柄を立て、正五位下を賜った。多くの国を受領として治め、鎮守府将軍として蝦夷との最前線も任された彼は、やがてその中の摂津国(せっつのくに)に土着。多田盆地(ただぼんち)を開拓し強固な武士団を組織し、そのため多田満仲(ただのみつなか、ただのまんじゅう)と呼ばれることもある。

夏目漱石の「坊っちゃん」の中で主人公が
「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(まんじゅう)の後裔(こうえい)だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。」

という台詞がある。イナゴとの壮絶なバトルに打ちのめされた坊っちゃん先生が、深夜の学校で生徒たちの悪戯に悔しがるときの言葉である。それはこの多田満仲のことを指しているわけだ。

 このようにして摂津や河内などに勢力を持っていた源氏が、特に名声を高めたのは、11世紀の3つの乱によってであるとされ、それによって東国への足がかりを掴んだとされる。それを見ていくことにしよう。

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
   (または長元の乱)

1028年。正月の最中に藤原道長が亡くなり、藤原頼通が関白になったこの年。房総三カ国(上総国、下総国、安房国)を支配下に治め、平将門亡き後、関東方面に大きな勢力を築いていた平忠常(たいらのただつね)(975-1031)が反乱を起こした。これは彼自身が税を納めずそのために受領と対立したか、あるいは受領が税を過酷に取り立てたのが原因か不明であるが、ついに国府(国衙)を襲い安房守(あわのかみ)平惟忠(たいらのこれただ)を焼き殺してしまったのである。さっそく朝廷から追捕の宣旨(せんじ)が出された。まず平直方(たいらのなおかた)(源頼義の舅であり始めて鎌倉に居を構えた男)が討伐に向かうが旨くいかず、以後3年にわたって鎮圧出来なかった。

 そこで甲斐守であった源頼信(みなもとのよりのぶ)(968-1048)に白羽の矢があたり、追討使として出兵。すでに廃墟のごとく荒廃していたためか、1031年に平忠常は彼にあっけなく降伏し、京都に護送中に病死した。これは、平忠常が源頼信とある種の主従関係にあったための降伏で、あるいは病死ではなく自害かも知れないとか、そのあたりは不明である。

 源頼信は恩賞として美濃守(みののかみ)に任ぜられ、また先の平直方の娘を嫁に貰い、これによって源頼義(みなもとのよりよし)が生まれることになり、さらに鎌倉の地を継承することにもなったのである。また平直方の子孫は、後に鎌倉の将軍を支える執権である北条氏の家柄ともなった。(これはあくまで北条氏の言い分であるが。)

東北は魅力の土地

 当時東北は豊かな土地だった。金や馬が大量に取れるだけでなく、北海道方面のアイヌとの交易を通じて、熊やアザラシの毛皮も手にはいる。タカや鷲の羽根も手にはいる。昆布はまことに旨か味を出す。この裕福を目指して、さらに都では高位に付けない者達が活躍の場を求めて、多くの人が都から東北を目ざした。貿易商人達も例外ではない。

 都人と現地人とのトラブルや、帰順者と反抗者の争い、もっと単純な領土の奪い合いなどで、この時期には数多くの争いがあったことが分かっている。桓武天皇の蝦夷討伐の中止により、征夷(せいい)は縮小したが、その軋轢と矛盾が無くなることはなかった。もちろん鉄や都の品々が流入するなど、その関係は単純な支配・被支配の関係ではない。

 蝦夷の反乱も繰り返された。特に大きなものは878年に起きた元慶の乱(がんぎょうのらん)と呼ばれるものだ。出羽国(でわのくに)秋田城下で反乱が勃発して、鎮守府将軍である小野春風が活躍した話は、前に少し出した。この時も、蝦夷内に反乱軍と政府軍に付くものとがあり、話しは単純な征服・被征服ではすまないのである。そしてこの後しばらくの間、東北における状況を示す資料がほとんど無くなってしまう一時期を迎えることになる。

 その間に、特に9世紀後半から集落の増加が見られるのだが、915年大事件が、いや大災害が襲ってきた。過去2000年以内の日本最大の火山とされる、十和田火山の噴火である。もとより十和田湖も繰り返される火山により生まれた湖であるが、この噴火によって、東北一帯は生活圏にも大ダメージを受けたと考えられ、火山灰で土地を棄てざるをえない集落も生まれ、農作物がまるで育たない地域も出来るなど、大規模な災害となった。現在の秋田県北秋田市にある胡桃館遺跡(くるみだていせき)などは、火山灰の混じった土石流でスッポリ覆われてしまったために、今日に当時の建築物を残してくれたほどである。これに限らず東北地方での自然災害は尽きなかったが、朝廷もこれに対して例えば税を免除するなど、各種の手を打って対応しているのも見逃せない。

 またその頃の集落として、防御性集落(守りを固めた集落)の遺跡が沢山見つかっているのであるが、これは戦乱と関わっていると考えられ、資料の抜け落ちた大規模な戦争があった可能性もある。そして次の資料は、「前九年の役」として登場することになる。

東北方面の復習

 当時の東北地方はおおよそに道奥(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた地域に、7世紀後半、太平洋側に陸奥(むつ)国が設けられた。一方で日本海側には、8世紀初めに国と定められた出羽(でわ)国が広がっていた。(領域は時代によって変化する。)

 朝廷に服属した蝦夷たちは俘囚(ふしゅう)と呼ばれたが、その一部は全国各地に生活費を支給されながら強制移住させられ、彼らの狩猟的武装的生活が利用され、武士などにも影響を与えた。一方で、その地に留まった俘囚たちは、律令体制の租税は免除され、服従と特産物を納めれば良いとされた。これによって時代が下ると、半ば朝廷の承認を受けつつ当地を自立的に治めるという、東北型の地方豪族を生みだすことになった。こうして再び資料の登場する頃に、自ら俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏らが登場してくることになる。つまり彼らの立場は、朝廷に帰属したその地の俘囚のトップであった。

前九年の役(1051-62)

 かつて対蝦夷戦争で蝦夷軍の拠点として重要な位置を占め、逆に占領後は朝廷の蝦夷政策の重要な拠点となった場所に、陸奥国中部の奥六郡(おくろくぐん)(岩手県平泉の北方に広がる地域。北上川と衣川の分かれ行く先へと広がる。)と呼ばれる地域があった。この地にやがて、安倍氏(あべし)の名前が登場してくる。そのルーツは資料不足で不明瞭だが、都人(貴族や官人)が東北に土着したものである可能性があるようだ。おそらく中央からこの地の支配を認められた地方豪族として、この時期精力を拡大していた一族だと考えられる。

 1050年に、藤原登任(ふじわらのなりとう)という藤原南家の子孫である人物が、陸奥守(むつのかみ)として赴任(ふにん)した。その後、奥六郡に勢力を誇る安倍頼良(あべのよりよし)(?-1057)が税を納めぬため、合戦となったとされている。

 もちろんこれは、公的権力を持つ側の言い分としての、戦の正当化の常套手段であり、実際はどちらが悪であるか、決めかねるような事情があったものかもしれないが、それは不明である。鬼切部(おにきりべ)(宮城県鳴子町)で戦いが行われ、「鬼切部の戦い」という格好いい名称(?)で呼ばれるが、国司軍(つまり藤原登任側)が敗北する不始末となった。これが1051年より開始する「前九年の役(1051-62)」の開始となったのである。



[脱線コラム]
 「役、乱、変」は、絶対的な決まりではないが、「変」は政権内部のクーデターや争いなどを表すのに使われ、「乱」は一定の兵力集団が反乱を起こす場合、また相争う場合に使用される。それに対して、「役」は異国、異民族などに対して命名される傾向があり、帰属蝦夷の起こした反乱に「役」が使用されるのは、中央がこの反乱をどのように捕らえていたかを表しているとされる。



[閑話休題]
 朝廷は源頼義(みなもとのよりよし)(988-1075)を陸奥守として出兵させることにした。この頼義は、まえに、源頼信が平忠常に闘わずして勝利を収めた時に共に従い、婚姻関係から鎌倉の地を貰い受けていた人物である。しかしこの時は安陪氏との戦にはならなかった。天皇から恩赦が発せられ、阿部頼良も許されたからである。赴任した源頼義に対して帰順した阿部氏は、
「あなた様と同じ名前ではもったいないから」
と言って、自分の名称を安倍頼時(よりとき)に変え、しばらくは平和の一時を迎えるに到ったのである。1053年、頼義はさらに鎮守府将軍に任ぜられた。

 1056年、頼義の任期が切れる頃に事件が起こった。阿久利川事件(あくとかわじけん、あくりかわじけん)である。何でも源頼義の部下が何ものかに襲撃されたのを、讒言(ざんげん)に基づき安倍頼時の子、安倍貞任(あべのさだとう)(1019?-1062)の咎としたのである。戦の気運がにわかに高まった。安倍頼時は奥六群の南の入り口、衣川に軍を敷くと、ついに頼義と交戦状態に入ったのである。しかし一説では、頼義が任期の完了を避け、重任(ちょうにん)すなわち任期延長を目論んだために仕組んだ事件ではないかともされ、これをもって「悪徳川事件」と揶揄する人もいる。(……それは君だけだろう。)

 この時すでに、阿部頼時の娘を妻に迎えていた源頼義の武将の一人、藤原経清(ふじわらのつねきよ)。彼は平将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫とも考えられているのだが、頼義が身内の粛正を行ったのに恐怖を覚えたためか、妻の血族である阿部側に寝返り、戦争はこう着状態となった。

 これに対して源頼義は、津軽の俘囚を味方に付けようと画策する。阿部頼時は蝦夷たちの説得に出向くが、なんともはや、途中の伏兵にあって殺されてしまったのである。にやりと笑ったかどうだか、源頼義は黄海柵(きのみのさく)に攻め込んだ。しかし安倍貞任(あべのさだとう)が反撃を加え、逆に源頼義は我が子源義家(よしいえ)と共に七騎あまりで落ち延びる有様となった。これを「黄海の戦い」という。

 1062年春、苦戦を強いられた源頼義は、中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚、地方豪族の清原氏の族長である、清原光頼(きよはらのみつより)に参戦を依頼した。これを聞き入れた光頼は、弟である武則(たけのり)を総大将とし、大軍を派遣した。清原氏は次々に安倍貞任軍を破り、安陪氏の本拠地である厨川柵(くりやがわのさく)も陥落。しかし捕らえられた安陪貞任は、間もなく亡くなってしまったので、憤懣やるかたない源頼義は、裏切り者の藤原経清に対しては、錆びた刀でのんびり首を鋸引きにして、「ぐへへへ」といたぶり殺して、うっぷんを晴らしたという。彼に限らず当時の武士は一般に残忍である。(もっとも「ぐへへへ」なんて言葉は資料には残されていないが)

 清原武則はこの戦功により、朝廷から従五位下を賜り、鎮守府将軍に任ぜられ、さらに「東北で最も美味しいところ」のひとつ奥六郡を与えられ、つまり清原氏が奥羽の覇者となった。

 源頼義も伊与守(いよのかみ)に任ぜられる。彼の息子の源義家(みなもとのよしいえ)は、後に八幡太郎と呼ばれ、源氏にとって伝説のヒーローともなる男だが、やはり戦功により出羽守(でわのかみ)となっている。さらに、藤原経清の妻であった安倍頼時の娘「有加一乃末陪(あるかいちのまえ・ゆかいちのまえ?)」は、鋸引きで夫を殺された挙げ句に、清原武則(たけのり)の子、武貞(たけさだ)の妻に迎えられてしまい、藤原経清の遺児共々、清原氏に引き取られた。しかしこのことが、後の後三年の役の伏線となる。なぜならその遺児こそが、後の藤原清衡(ふじわらのきよひら)であり、奥州藤原氏の祖であるからであるが、それは次に見ることにしよう。

後三年の役(ごさんねんのえき)[1083-87]

 藤原経清(ふじわらのつねきよ)の首鋸残殺(くびのこざんさつ)事件は、諸君の記憶に残っていることと思うが、奥州藤原氏は彼の血筋である。彼と安倍頼時(よりとき)の娘「有加一乃末陪(あるかいちのまえ・ゆかいちのまえ?)」が産んだ子、藤原清衡(きよひら)こそ奥州藤原氏を開始する人物だからである。順を追って話そう。

 その安倍頼時の娘が初め藤原経清(ふじわらのつねきよ)との間に生んだ子供である藤原清衡(ふじわらのきよひら)、その後に清原武貞との間に生んだ子供である清原家衡(きよはらのいえひら)がいた。新しい夫の清原武貞は、父である清原武則の後を継ぎ出羽を治めたが、すでに別の妻との間に長男の清原真衡(きよはらのさねひら)を儲けていたので、武貞がなくなると、この真衡が清原組長となった。しかし、清原武貞の三人の息子は、それぞれ父と母の一致する兄弟はいないのである。すでにこれだけでも兄弟争いの予感が漂う。

 1083年のある時、組長の清原真衡のもとに、叔父でもある清原氏古参の吉彦秀武(きみこのひでたけ)が、お祝いを持ってはせ参じた。真衡の養子である成衡の婚礼祝いである。ところが清原真衡は囲碁に夢中になりすぎて、これを無視するかたちとなった。(とある資料には記されている)

 吉彦秀武はかねてよりの不満もあったのだろうか、たいそうぶち切れなさって、砂金をそこら中にぶちまけなさって、怒り狂って帰ってしまったのである。もちろん真衡も逆ぎれなさって、彼を追討する兵を出した。こうして後三年の役が勃発したのである。

 吉彦秀武が行動に出た。清原真衡と不仲であった、別の兄弟、清原清衡と清原家衡を共に誘い、真衡を襲撃したのである。しかし成功せず、追い返される形となった。その間に八幡太郎(はちまんたろう)でお馴染みの、源義家(みなもとのよしいえ)が陸奥守として就任。彼を迎え入れた清原真衡が、吉彦秀武に対して軍を進める途中、なんと当人の清原真衡があえなく急死してしまう。落語の落ちにもなりゃしない。それで兄弟の清原清衡と清原家衡が、さっそく真衡の館を討ちに出かけたら、新しく赴任した源義家が登場して、二人とも彼に降伏するという流れになった。

 源義家は「この桜吹雪が見ねえか」とはまさか言わないが、その後の采配をふるい、奥六郡を三郡ずつに二人の兄弟に分け与えた。ところがこの分割が不満だというので、こんどは二人の間に戦争が勃発。家衡は兵を挙げると、清衡の妻子一族をことごとく殺戮してしまう。

 しかし清衡本人はからくも逃れ、源義家の協力を得て反撃を開始。家衡はしかしこの源義家軍をも撃退する。さらに家衡のもとに、武貞の弟である清原武衡が加勢し、難攻不落の金沢柵へ移った。どうも八幡太郎の名が廃るような戦である。攻防が長期化するにおよんで、吉彦秀武が「へっへへ、義家の旦那」とは言わないだろうが、(日本史記録上初の)兵糧攻めを提案し、これが採用された。最終的に家衡&武衡軍は破れ、二人共に死を迎えることとなったのである。

 勝利した二人の内、源義家は、これが政府の許諾のない私戦にすぎないとされ、陸奥守は解任されるし、恩賞は無いし、戦費の支払いもない切ない勝ち戦となった。(しかし東北・関東への名声は轟いたのだろう。)

 一方の清原清衡(きよひら)は、当初の清原氏の領土をそっくり譲り受け、しかも己の権力を大いに強化することに成功。彼は自分の本当の父親、首のこぎりの藤原経清の姓を名乗り、藤原清衡(ふじわらのきよひら)(1056-1128)となる。これをもって清原氏にかわって、三代続く奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が登場することになった。彼によって館は平泉(ひらいずみ)に移されたのである。

当時の戦闘について

 まず両陣に分かれて、チョウという戦争を行う手続き書を提出。その後、我が身の正当と、相手の邪道を激しく糾弾する言葉による戦いが行われ、その後で弓矢を打つ矢合わせ、さらにすれ違い様に射掛ける馳せ弓など、弓の戦いが行われる。その後白兵戦に到るが、剣で斬り合うと云うより、兜の上を叩き脳しんとうを起こさせたり、馬の腹を蹴り、また絡めて引っかけ落として、地面に引きずり下ろし、互いに組み合って隙間から小刀で喉を掻き切ったりするのだそうだ。戦争が終わり生還できれば、論功行賞(ろんこうこうしょう)という手柄に応じた褒美を貰う楽しみが待っている。

 武士はもともと気品無き乱暴さが激しく認められる。例えば後三年の役では、家衡方の千任(ちとう)が源義家に対して、やぐらの上から、
「お前の父である源頼義は前の戦いで、我が清原に援軍を頼んだのではなかったか。家来になると約束まで差し出したお前が、恩を忘れるその大逆、必ず天が報いよう」
と叫んでしまったところ、後に生け捕りにされて、舌を抜かれて、その上、死んだ主君の生首のすぐ上につるし上げられて、千任がちょっとでも気を許すと、主君の首を踏んでしまうような処罰を与えているのである。これを見ながら「ぐははは。不忠、不忠」と叫んで隣りで酒でも食らったかどうだか知らないが、けっしてご一緒に生活したいような人間でないことだけは確かである。

受領の時代

 さて、特に10世紀以後、地方支配のかなめとなったものに、受領(ずりょう)がある。もともとの意味は、今日使用される受領(じゅりょう)のように、特に国司などの交替の時に、官物(かんもつ)、管理責任を引き継ぐことを意味していたものが、実際に現地に赴く国司自身を指すようになったものである。つまり、後任の国司が、解由状(げゆじょう)という業務引継証明書を、前の国司に対して渡すところから、呼ばれた言葉だとされている。

 これに対して、地方へ出向くべき価値など見出さない上位貴族などが国司へ任命される場合、そのまま都に留まり、代理人としての目代(もくだい)を派遣することもままあり、このような場合は、受領を行わないので、受領とは呼ばれず、遙任(ようにん)というのであった。

 また通常は長官の守(かみ)が、国司となり、すなわち受領となったが、介(次官)がなる場合もあるので、絶対に守(かみ)であるとは言いきれない。

 さて、以前からの流れで、もともと郡司が地方支配のかなめにあって、郡司の長官や次官が地方豪族として君臨し、戸籍、班田などは彼らによりなされていたのが、律令制の活力のあった時代の様子であるが、以前からの豪族階級はすでに8世紀中頃から衰えはじめ、これにかわって、
「富豪之輩(ふごうのやから)」
などと記されたこともある新興勢力が増大し、また戸籍や班田も動揺をきたすこととなった。これは現実社会の営みが、進行するうちに実情と法律が乖離してしまったもので、安易に「律令制の衰退」なる言葉で表現してよいものか、ちょっと疑問もあるくらいである。

 そのような、実情に合わせる政策として、9世紀の中頃になると、四等官(しとうかん)それぞれに責任を持たせつつ、中央からの権威によって地方を治めさせるという、従来の国衙(こくが)経営に変わって、もっぱら長官(多くは守・かみ)に全責任を負わせ、代わりに多大な権限を委任するという、システムが構築されていった。そうしてやがては、そのようなシステムと組み合わされた、在任国司のことを、受領(ずりょう)と呼ぶようになっていったのである。

[888年の法令で、法律的に確立したようだ]
・受領任期は通常4年
・前任者の未納は追わなくてよい
・収税いたらずの租税未納などは受領が払え
・つまり国、機構に対してでなく、個人に租税義務を

 さらに10世紀に入ると、受領以外の国衙領に努める役人階級(元来はそれらを含めて国司であり、受領以外の階級を総まとめに任用国司・にんようこくし、と呼んだりする)は権限を縮小されたり、国政から排除されるようにすらなっていく。そうして任用国司階級であった、地方豪族も没落し、新興勢力である富豪之輩などがクローズアップされてくるのは、うえに記したとおりである。

 新興勢力のなかには、都で手を携えて、受領にしたがって国へ降り、弁済使(げんざいし)といった、受領の私的機関でありながら、政治実務に携わるような方法で、在地における勢力を持っていくものもあった。彼らのなかには、実務能力から、受領を渡り歩くようなものもあり、彼らをいわば郎党(ろうとう)として抱え込むことによって、受領の政治が行われていくことになったのである。

税について

 郡司の伝統的支配が衰えた後、租庸調は事実上破綻して、課税を人から土地へと移行させる政策が採られていった。これを負名体制(ふみょうたいせい)と呼んだりする。まずは国内の課税可能な田地を、検田(けんでん)して名田(みょうでん)となし、これを地域の有力農民を負名(ふみょう)として、これに請け負わせる制度である。

 この税のことを、所当官物(しょとうかんもつ)と呼び、内容は従来の租庸調や出挙利息などを兼ね揃えた税だと考えられる。おおよそ米を中心に品目を限定するが、人に対してでなく土地に対してかけるのがその特徴となる。

 これらの所当官物は、摂関時代には代表租税となり、任国から納所(なっしょ)へと送られる。中央の官庫(かんこ)への納入は、一年ごとなので年料(ねんりょう)などと呼ばれた。

 ところが、租税の基本である米、また一部は絹などは、当時は現物貨幣としての役割を果たしていた。(ものの交換単位として、ある種のレートを持ち、かつすべての対価と成り得た。)受領は、この現物貨幣を倉庫から用い、政府から要請された様々なものを取りそろえたり、また納所(なっしょ)に納められた官物として、中央に治めたりしていたが、実際はかなりの財産が受領のもとに残ることになり、したがって受領は儲かる、富豪になるための手っ取り早い手段であったということになる。この事が、後に見るように、経営の行きすぎによって、百姓を圧迫するような受領像として、クローズアップされることにもなったのだが、もちろんすべての受領が、阿漕一辺倒に立ち回ったという訳ではない。

 ここにおいて、政府に正式な税を納めるのとは別に、官僚任命権に強い権力を持つ摂関家や公家などに対して、莫大な献上品を差し出したり、養成された各種造営費用を負担したりするようになっていった。特に勤務評定である受領功過定(ずりょうこうかさだめ)などは、一般の公家も参加するものであったことが、献上者の範囲を一般公家にまで広げたものと思われる。こうして、いわば正直者が馬鹿を見る、狡猾な行動力の試されるような制度が生まれたのであった。

 つまり、前回に見た、慶滋保胤(よししげのやすたね)「池亭記(ちていき)」(982年)に
「人の師にあたるような人は、公家や豊かなものを優先して、あるべき優先順位を蔑ろにするものですから、師など存在しないような有様であり、友人は勢いのあるもの、利益のあるものを優先し、こころを交わしあって人と交わろうとしないので、友などないようなものに思われるのです。」
とあるような、社会が到来したのである。それに絡んで、いくつかの実例から、受領の様子を眺めてみよう。

受領の実体

 尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげむび)」というのがある。百姓とあるのは、当時の特権階級でない普通の人々すべて、と云う意味であるから、農民階級とイコールで考えて貰っては困るのだが、とにかく、被支配者層から、三十一箇条にもおよぶ、尾張国受領の藤原元命(ふじわらのもとなが)に対する、彼や郎党どもの悪事の数々を連ねたもので、これがもとで、彼は受領を罷免になったというものである。(ただし、以後も役職に就いている)

 このような書状は、当時頻繁に出されていたとされるが、これを水戸黄門ドラマのように、読み解いてはならないことは間違いない。受領同士の追い落としや、対立関係、様々な陰謀の渦巻くなかで、その書状がどの程度実体を表しているかは、たやすく判明はしないからである。

 その意味では、次の例も、受領の実体を表したものとしては、気軽に引用できないものである。それは、「今昔物語」のなかの、藤原陳忠(ふじわらののぶただ)の物語である。彼が、神坂峠(みさかとうげ)を越えようとする時に、馬と一緒に谷底へ落ちてしまい、命が助かって籠を下ろしたら、陳忠ではなくヒラタケが上がってきた。おかしいなと思って、もう一度下ろしたら、ようやく本人が上がってきて、
「枝に助かったところにヒラタケが生えていたので取ってきた。受領は倒るる所に土を掴め言うではないか」
と言うので、あまりの強欲に呆れ果てたという話しである。

 ところが、物語というものは、悪事を取り上げ、しかもそれにデフォルメを加えて、面白くするのが、目的となるために、今日のメディア放映だけから政治家を判断するよりも、さらに独善的な間違いを起こすことにもなりかねないので、あまり参照以上に取り上げない方がいいくらいなのだが、まあここは大学でもなんでもない、素人の歴史のサイトであるから、よしとすることにしようか。

交易について

 地方から中央へは、税だけでなく、九州の受領などからは唐物(からもの)と呼ばれた大陸ものが、東北地方の経営のかなめである武官、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や秋田城介(あきたじょうのすけ) などによって毛皮や馬などが、摂関家などに献上され、都にもたらされた。東北では、北海道方面との貿易も盛んで、物品の流通は活発であった。

桓武平氏、清和源氏と受領について

 さて、受領となったものが任地国で在地領主的活動を始める現象は9世紀頃から起こり始めた。桓武平氏、清和源氏の一族もこのような在地化と関係して、勢力を拡大していったようだが、彼らは都でも地方でも活動を行い、その時点でどの程度地方に土着意識があったかは不明である。

 しかし、このような受領の活躍が、都と地方のネットワークの中心となり、地方の人々が受領の仲立ちで中央へ向かうような例もあらわれてくる。例えば、平将門も若い頃、藤原忠平の家人として仕えていたことは前に見たが、武士の支配階級の発祥が、皇族などに結びつけられるのは、彼らが中央から派遣され、在地で活躍する、という関係と、武士の誕生が絡み合っているからには違いない。ただし、詳細は、不明なので、ここでは誤魔化して先を急ぐことにしよう。

2010/4/18

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