平安時代、宋と対外交易、歳事と信仰など

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外交の概観

 中華思想の冊封体制に組み込まれなかったこと、朝鮮の後ろにあり、中国から見て侵略進出の対象でなかった孤島であることが幸いして、日本では小中華思想が芽生えてしまった。思想の中心は、いわば中国は見ないことにして、日本を中心として、周囲の蛮国をあまねく照らす帝にあらせられる、というものだ。したがって、朝鮮半島の新羅や高句麗などには、平気で貢ぎ物を要求するような高飛車外交にも繋がったが、結果新羅との関係を大幅に悪化させたのは、前に眺めた通りである。

 にも関わらず、新羅の商人は日本と交易を持ったし、渤海との関係を通じて、日本には半島、さらには中国の唐物(からもの)が輸入されていた。もちろん唐との私的な交易も広く行われ、唐の不安定化と必要性が薄れたこともあり、894年、遣唐使は廃止されるに至ったのである。その後ほどなくして、907年に唐は滅亡し、五代十国(ごだいじっこく)の時代を超えて、960年に宋(そう)が成立する。

 この時期、大陸は揺れていた。926年には渤海が滅亡し、遊牧民族の契丹(きったん)がその地を治め、後に遼(りょう)と称するようになったし、朝鮮半島での内乱の後、936年に半島は高麗(こうらい)によって統一されることになった。

 このような激動の動きに対して、朝廷は、大陸から来る交易商人は認めるが、日本からの私的な渡航を禁じ、外国からの流民も食料を持たせて送り返すという政策を取るようになっていった。とはいえ、実際は日本商人の大陸へ向かう魂を、完全に押さえつけることなど出来なかったに違いない。

唐から宋へ

 9世紀半ば頃、各地で反乱が相次ぎ、874年、
「話し(874)も出来ぬ唐を滅ぼせ」
とはまさか言わないが、後に黄巣の乱(こうそうのらん)と呼ばれる乱が勃発。黄巣は人の名前である。中国全体の唐の統治は事実上解体し、彼の軍はついに長安を陥落させ、国を斉(せい)とする。しかし、ごろつき集団の政治がまとまらずに自滅。部下のひとりが寝返って唐に付くと、朱全忠(しゅぜんちゅう)(852-912)の名称をいだき、もはや多くの勢力のひとつに過ぎなくなった唐のもとで働いたが、やがて907年、唐最後の皇帝から禅譲(ぜんじょう)されて帝位をいただき、後梁(こうりょう)を開いた。これをもって唐は滅亡する。

 しかし、後梁もまた華北の一勢力に過ぎず、これより後、この華北勢力が五代名称を変える間に、他の地域に十の国が攻防した一時代を迎えることになる。これを五代十国時代(ごだいじっこくじだい)(907-960)という。



 再度の統一は、名君との誉れ高き趙匡胤(ちょうきょういん)(927-976)が、華北勢力の五代の最後を飾る後周の皇帝から禅譲され、国号を宋(そう)とした時に行われた。ただし後に金に首都の開封を奪われ、南下して南宋(なんそう)となるために、区別して北宋(ほくそう)と呼ばれる。

 趙匡胤は軍人ではあったが、武官の上に文官を置く文治主義を敷き、北宋政治を離陸させた。文化的に大きく栄え、後に「水滸伝」の舞台となる宋の社会が登場するのである。

宋の時代

 さて、宋が成立し安定すると、日本の朝廷も宋との交易を盛んに行うようになっていく。外交関係は持たず、こちらから商人が大陸に渡ることも禁止されたが、宋の商人は日本へ訪れて貿易を行い、後には平家政権が宋との貿易に生き甲斐を見いだすほど、日本に置いても重要な意味を持ったのが、宋との貿易関係であった。

 唐はなくなっても、宋の商品は相変わらず唐物(からもの)と呼ばれ続けた。唐物はステータスシンボルでもあったから、貴族達にとって絶対の必需品であった。このような品物を買い取って、砂金や米や硫黄などを支払ったと考えられている。

 この頃、交易の中心地である博多は、大陸人達の住む居住地が一区画現れるほどであった。一方もともと外交の中心であった鴻臚館(こうろかん)は11世紀にはいると、その役割を終え、私的商人の逞しい交易に道を譲ることになったのである。このような経済を通じての活発な交流が、後に元(げん)をして日本に攻め込もうとさせる、要因でもあったのである。

この時代の気候、災害

 おおよそ9世紀から11世紀までは、比較的温暖な時期が続き、「平安海進(へいあんかいしん)」と呼ばれる海岸線の内陸への進出が見られた。農業にプラスに作用する点もあったが、一方で旱魃(かんばつ)やら台風やらの災害に悩まされもした。

 これに対して朝廷は、仏教の特に密教、神祇(じんぎ)、陰陽道を駆使して祈祷を行ったりした。877年には、旱魃の責任を取って?、藤原基経(ふじわらのもとつね)が摂政を辞任するなど、政権の責任問題に発展することもあったのである。

 疫病も不定期に都を駆け巡り、また地方で流行して、人々を苦しめた。737年の天然痘では藤原四兄弟が亡くなったし、994年の麻疹(はしか)の流行では、藤原道長の兄たちが亡くなって、道長出世のきっかけをつくってもいる。

 貴族も庶民も、地位に関係なく襲いかかるという疫病に対しては、呪術的な対処にすがりついた。貴族らは寺社への奉幣(ほうべい・貢ぎ物を納める)や写経や読経(どきょう)や、災害を払うための仁王会(にんのうえ)などをおこなう。都の民も、御霊会(ごりょうえ)であるところの祭りを積極的に行い、早くから民衆的な祭りとして盛大になった祇園祭なども、疫病祓いの御霊会の一つであった。浄土信仰が急激に広まった背景には、このような安寧を願う強い心が人々にあったのである。

京の祭、地方の祭

 すでに奈良時代から賀茂祭(かものまつり)[今日、葵祭(あおいまつり)として知られる]がおこなわれ、平安時代初期には国家的祭りとして定められ、天皇の名代(奉幣使・ほうべいし)が幣帛(へいはく)[幣物(へいもつ)、神に奉献する貢ぎ物]を奉納するようになった。11世紀には都大路の祭列を貴族どもが見物する桟敷が設けられ、宮廷祭祀の中心となっていった。

 宮廷の祭事としては、他にも旧暦6月と12月の晦日(最後の日)に行われる大祓(おおはらえ)など様々なものがあった。この大祓は、701年の大宝律令ですでに宮廷の年中行事となっており、すべてのものの穢れを祓い清める行事であった。夏のものを夏越の祓(なごしのはらえ)、年末のものを年越の祓(としこしのはらえ)といい、今日でも夏の茅の輪(ちのわ)くぐりの行事で有名である。

 一方、御霊信仰の定着は、何も桓武天皇を筆頭とする宮廷貴族だけではなかった。御霊信仰とは、疫病にまつわる神やら、異国の神やら、無念の死を迎えたものたちの霊が、災害や祟りや疫病となって、生ける人々に降り注ぐのを避けるため、これに祈りを捧げてなだめようという信仰である。

 疫病などを引き起こすとされた疫神(えきじん)をなだめる御霊会、そのための祭りが盛んに行われ出したのである。

 この時期、北野神社、今宮神社、稲荷神社(京の伏見稲荷大社)、祇園神社(京の八坂神社)などで、疫病の流行る夏から秋頃にかけて、京の民衆を中心とする祭りが盛んに開かれていた。八坂神社の場所では以前より御霊会が開かれていたが、祇園神社として祇園御霊会を正式に開始するのは、974年からということになっているようである。

 祇園御霊会では天神などを祀(まつ)っているが、これは疫病をもたらすと考えられた天竺の神、牛頭天王(ごずてんのう)のことである。しかも何時からだか不明だが、日本の疫病と関わりのある神、かのスサノヲの神と神仏習合して、同一視して信仰するようになっていく。(明治の神仏分離令で、無理矢理この習合は引き離され、祇園神社も、八坂神社に改名されてしまった。ヘンリー8世の修道院破壊も顔負けの処置である?)



 もちろん祭りは都だけではない。地方でも農業歳時に会わせて開催されまくりだったことは言うまでもない。村落などでも、小さな寺院(と呼べるほど立派なものでないことも多いが)が中心となって、祭事が行われたりもしている。また、農事に関連して、作物に害をなす虫を封じ込めるための儀式の意味を持つ、「虫送り(むしおくり)」の行事も、初夏を中心に行われたりしている。

 祭りの芸能は以前から様々なものがあったはずだが、この時期、例えば田植え祭事から産まれたとされる田楽(でんがく)や、傀儡師(くぐつし)といった芸能集団による傀儡(くぐつ)(人形劇のようなものか)が行われ、また、奈良時代に中国などから渡来した曲芸師達による散楽(さんがく)などが、桓武天皇の散楽戸は廃止によって、宮廷で中止された結果、その継承者が市井にあぶれだし、猿楽(さるがく)(散楽の訛ったもの)という新しい芸能が生まれ、盛んに行われ出した。これは特定の芸能というよりは、時に田楽や傀儡も内包するような広い言葉であり、曲芸や音楽、琵琶などさまざまなものが含まれていた。

 そして、このような芸能を売りとして各地を渡り歩く芸能集団が、目に付き出すのもこの頃からだ。このような芸を持って各種の活動を行う者たちのことを、芸能人(げいのうじん)という。これもまた広い言葉で、先の祭り芸能を行う者どもや、相撲人(すまいびと)、医師(くすし)、陰陽師(おんようじ)などから、遊女や巫女など、特別な職能集団をひとまとめにして括った言葉であった。そこには博打打ちの姿もみられる。すでに7世紀には「日本書紀」で禁止令が出されているのを見ることの出来る、「盤双六(ばんすごろく)」などで賭け事を行っていた。

 このような芸能人の予備軍的存在として、ごろつきとか不良どもの都会っ子バージョン(……なんだそりゃ)である京童(きょうわらわ)などが登場し、縄張りごとに争ったり、祭りの時に活躍したり、次第に庶民のエネルギーが高まってくる(少なくとも資料上そのように見える)のがこの時代であった。



 民衆の政治や社会に対する動揺が、新しい神を京に招き入れることもあった。945年の志多羅神(しだらじん)の上洛がそれである。

 いくつもの御輿(みこし)が京を目ざしているという。菅原道真を祭る御輿も九州から行列と芸能を伴いながら京を目ざしているという。

 志多羅とは手拍子のことだが、志多羅神とはいかなる神か。よく分からないのだが、民衆のうねりのようにして京入りを果たし、石清水八幡宮に祭られてしまうまで、京は大騒ぎとなった。

 このような民衆の行動は、一種の暴動やデモの代わりを務めていたのではないかとも想われる。また新たに外国からやってきた(名称がではあるが)スーパーヒーローならぬ、異国神たちや、新たに生まれた「若宮(わかみや)」「王子(おうじ)」と呼ばれる神々が、御霊会で祓うべき神として、わんさか登場し、ポケモンカードのごとく?、御霊カードとして?、流行したのもこの時代の特徴である。もともと様々なものに宿ると考えられた多神教の神が、都じみたる精神の元で次々に新たに具現化していったものとでも、言えるのだろうか?



 後に白河上皇(しらかわじょうこう)が祇園の祭りに朝廷として積極的に関わり出すと、祭りを通じて庶民文化と宮廷文化の接触も見られるようになったのだろうか、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)今様(いまよう)という当世風の歌にえらく惚れ込んで、自らマイクを握りしめて、歌いまくり状態に落ち入った挙げ句、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という歌詞のアンソロジー集を残した。

 これらの歌は、けっして純粋な民衆の歌ではなかったけれども、多分に民衆的な要素を持っていたし、民衆にも宮中にも広く歌い広める芸能人の存在を通して、幅広く流行したと考えられる。その歌い手の中には、巫女や遊女の存在があった。男の芸能人同様、彼女たちは、広く各地を渡り歩き、文化配信の役割も(結果として)担っていたことになる。

穢れ(けがれ)

 御霊の盛んになる9世紀頃、「穢れ」の概念も定着した。穢れを取り除くまでは仕事に出てはいけない、人に接すれば相手にも穢れが移るなど、本気で信じられていたのである。家に穢れの立て札を立て、面会を断ったり、よろしくない方角に出向くのを避けるために、別の人の家に泊めて貰ったり(方違え・かたたがえ)、自らの行為がもとで吉凶が変わってしまうような感覚は、この頃から(あるいはもっと前から)日本人の心に生まれたものである。これはすべてに魂の宿るような宗教心と関連しているのかもしれない。

 この穢れの意識の高まりが、死体処理や都市の汚物処理などを、検非違使(けびいし)などの行う仕事から、11世紀以降、「非人(ひにん)」と呼ばれる賤民集団に行わせるように変えていくのも、この時代の特徴である。また、国内は天皇の下にある清らかな世界、国外は穢れた世界という意識(王土王民思想)も生まれ、日本を神国と考える風潮も表れ始めた。

2010/4/18

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