平安時代、院政への流れと荘園公領制

[Topへ]

院政への流れ

 道長健在の間は、父君に頭の上がらなかった藤原頼道(よりみち)(992-1074)だが、その間にも一度関白を務め、1021年から左大臣に転じて道長をボスとする藤原組の政治の重要な一翼を担っていた。

 その間、道長の長女である藤原彰子(あきこ・しょうし)と一条天皇の息子である敦良親王(あつよししんのう)(後の後朱雀天皇)、その血縁に追い打ちをかけるべく、道長は六女の藤原嬉子(ふじわらのきし・よしこ)を入内させたのである。この策略は成功し、娘は後の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)を誕生させることとなった。

 しかし、
「慰霊にな(1027)った藤原道長」
でお馴染みの(???)道長が1027年に亡くなると、政権中枢をにぎる道長の息子達の外戚を獲得するための争いが始まったのである。同時に道長の息子達はみな長命を全うすることになるため、藤原組の安定した政治運営が続くことにもなった。

 そのころ地方では、もっと大きな争いも起きていた。1028年には、関東で平忠常の乱(長元の乱)が勃発し、源頼信(みなもとのよりのぶ)(968-1048)に降伏するまでに、房総三カ国は大いに荒廃したからである。1036年には後一条天皇が崩御、道長が娘を嫁がせておいた後朱雀天皇(1009-在位1036-1045)が即位すると、頼道の政権は一層安定した。後朱雀天皇の母も道長の娘だったからである。

 道長の長男として、今や藤原組のナンバー1となった藤原頼道であったが、彼は適齢の娘に恵まれなかった。そこで養女を迎え入れ藤原げん[女+原]子[げんし/もとこ]を後朱雀天皇のもとに入内(じゅだい)させた。前に道長の娘の入内のことは話したが、しかし彼女は皇太子を生んですでに亡くなっていたのである。頼道も自分の娘の子を皇太子にして、外戚関係を持ちたいと願っていたのだが、残念ながら「げんし」はついに息子を生むことはなく、娘二人を産んで若くして「原子崩壊」……ではなく、亡くなってしまうことになる。



 1045年、後朱雀天皇は頼道より先に亡くなってしまったので、例の道長の娘の子であった、後冷泉天皇(1025-在位45-68)が即位した。頼道は今度は養女ではなく、適齢に達した自分の長女である藤原寛子(かんし/ ひろこ)(1036-1127)を嫁がせた。しかし後々にいたるまで、彼女もまた皇太子を生み育てることがかなわなかったのである。このような外戚関係の不成立のシーズンが、道長の息子達の娘たちと天皇の間にも重なって、やがて院政を生みだしていくこととなった。

 1051年には東北に前九年の役が勃発。しかし頼道の権力は揺るがず、末法が始まるとされた翌年1052年、父、道長の別荘「宇治殿」を寺として改めた。続けて鳳凰堂を建立させ、現在に残る宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)が誕生することとなったのである。

 しかし彼の栄華は危ういものだった。道長と違って次世代の不安を抱え込んだままであったからだ。67年には関白を辞し、これを弟の藤原教通(のりみち)に譲り、ご隠居様となった。しかし1068年に後冷泉天皇が崩御すると、藤原組と直接の血縁でない後三条天皇(ごさんじょう)(1034-在位68-73)が即位したのである。なんと天皇は171年ぶりに藤原氏の勢力から逃れたのだそうだ。

後三条天皇から白河天皇へ

 後三条天皇は、皇権の回復のため学者であり歌人でもある大江匡房(おおえのまさふさ)や、源師房(みなもとのもろふさ)などを登用し、政治を行った。

 まず律令制の公地公民による班田収授法を蔑ろにし、領土の私有化により藤原氏などの勢力基盤にもなっている荘園を改めるために、1069年、延久(えんきゅう)の荘園整理令を出す。この命令は以前から天皇が変わるたびに出されてはいたが、ここでは中央に記録荘園券契所(けんけいしょ)を設け、1045以後の荘園と設立時の手続きに不備があるものを認めないことにしたのである。

 「愚管抄(ぐかんしょう)」には、頼通がこれを拒んだことが書いてあるが、実際は摂関家の荘園も対象にされたらしい。さらにやはり藤原氏の勢力元とも考えられる国司の重任、官位売買である成功(じょうごう)を禁止。ついでに1072年には、桝の基準を全国統一し度量衡統一を定めた。これは延久の宣旨桝(えんきゅうのせんじます)と呼ばれる。

 彼が長生きしたら歴史は変わっていたのだろうか。1072年に後三条天皇は譲位を行った。自分の息子を天皇に備えてしまって、系統を確立させてしまってから、院政の立場で政治をリードしようと考えたものと思われる。

 ところが後三条天皇は譲位の直後に亡くなってしまった。こうして白河天皇(しらかわてんのう)(1053-在位1073-1086から院政-1129)が登場することになる。彼は、藤原道長の息子の一人の養女藤原茂子(しげこ・もし)を母親に持つ天皇ではあったが、共にご老体だった藤原頼通が1074年に、翌年に藤原教通も亡くなると、道長の息子達はすべて亡くなったことになる。こうして藤原組の政治的権力は大きく後退することとなった。これによって白河天皇は、摂関家の勢力に気兼ねなく政治を行えるようになったのである。

院政の成立

 もともと亡き後三条天皇は、白河天皇の後の天皇を、自分の異母兄弟にするつもりだった。ところがさくっとお亡くなりになってしまったので、そこは人の情というもの、白河天皇は自分の息子をこそ皇太子に付け、おそらくそれを強引に認めさせんがため、わずか8歳だというのに、自分の弟が天皇に即位しないように、息子に譲位を宣言したのである。白河は上皇(太上天皇)となり、さらに出家して法皇となる。

 すこし前であったら、院は君臨すれども藤原氏の外戚が政権をリードする形になっただろう。ところが、「道長と恐るべき(長命の)息子達」もすでになく、外戚の力もなく、ここで院がいわば帝の後見として政治を執り行うという、院政(いんせい)が開始した。

 摂政関白の地位は次第に名誉職的に政治後退して行くことになるだろう。ここに堀河天皇(ほりかわてんのう)(1079-在位1086-1107)とそれを支える白河上皇の体制が誕生したのである。これを、
「堀河天皇、一応やろう(1086)と返事をす」
とは暗記しないから気をつけよう……って最近こればっかりだな。



   堀河天皇は自然政治から離れ、しかし管弦などの趣味人として活躍し始めたが、30歳を前にして亡くなってしまい、引き続き白河法皇のもとで、堀河天皇の息子である鳥羽天皇(とばてんのう)(1103-在位1107-1123-1156)が即位。またしても幼き帝の誕生に、おじいちゃんの勢力が活性化する体質は揺るぎなかった。(……どんな日本語だ)このようにして、足かけ44年もの白河法皇の院政が継続することとなった。(さらに天皇と上皇のある種の政治関係は、以後変遷あれどもおおよそ700年にわたって続くことになったのだとか。)

院政の政治体制

 院とはもともとは上皇の住まう場所を指していた。10世紀後半から内裏でしばしば火災が起こり、しかもそれをすぐに再建できずに、天皇が別邸や貴族の館に移って、「里内裏(さとだいり)」という代理の内裏で政務を行ったりしていたのである。それで白河天皇も六条院(ろくじょういん)という、内裏からは随分離れたところで政務を執り行っていたのであるが、彼は上皇となった後もここで政務を続け、ここが天皇の政治の場所と並ぶ、第二の(むしろこちらが第一の)政治中枢となっていった。これは多くの貴族どもが生活する京の東北部からは幾分距離を置いた場所であった。

 さらに彼は、鴨川(かもがわ)の東、白河の地にある法勝寺(ほっしょうじ)の造営に着手、1075年に建立を開始。1083年には高約80メートルもの巨大な八角九重塔が完成し、抜きんでた姿で都人を驚かせた。

 ここは各宗派の僧が集う、宗派を越えた「国王の氏寺」となった。国王とは白河法皇のことに他ならない。彼はさらにあわせて六つの「勝」の字の付く寺を周囲に建立、あわせて「六勝寺(りくしょうじ)」と呼ばれることとなった。(多くは今日残されていないが。)つまり彼は仏教界においても自分がトップであることを、あまねく世間に知らしめたのである。こうして白河の地には、寺を中心とした市街地が栄え、いわゆる白河文化圏が誕生した。そのため彼は、白河法皇と死後呼ばれたのである。

 法皇は離宮も整備した。洛南の鳥羽(とば)にも鳥羽殿(とばどの)が整備され、寺院が整備され、離宮都市が生まれていった。このような大内裏を離れた院政の中心地には、しだいに政治を行うために院庁(いんちょう)が置かれ、働く職員は院司(いんし)と呼ばれ、院に仕える者達は院近臣(いんのきんしん)と呼ばれるようになっていく。そして政治中心、文化中心が幾つものサークルを描く時、例えば後の平家の文化的中心地として栄えた六波羅(ろくはら)などと合わせて、律令時代からの古代都市を脱却した、あるいは脱線した、中世的な京都の町が誕生してくるのである。

 さて、院政の伝統が生まれたばかりに、鳥羽上皇(とばじょうこう)(院政1086-1129)、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)(院政1158-92)、まで約100年間に渡り院政の時代が続くことになった。また後の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)がこれを倣って院政を行い、鎌倉時代に承久の乱(1221)を起こし、切ない涙の島流しとなったことはよく知られている。このような院政の由来は平安時代に強化された親権と家長意識による、つまり摂関政治と類似の思想が根本にあるようだが、これによって上皇は治天の君(ちてんのきみ)として最高権力者の座に就くことになったのである。

 受領(ずりょう)などの有力層もまた、天皇にではなく、上皇の院に対して直接仕え、院を本家として荘園を安堵して貰おうとするという流れが生まれた。

 こちらが最高権力者だから当然かも知れないが、院は寄進された荘園を経済基盤として、一層の発展をとげるのである。また、位階制度はすでに錆び付き、貴族・上流官人まで125人ぐらいはともかくとして、600人ほど居た中級官人[正六位(しょうろくい)から少初位下(しょうそいのげ]、約6000人ほどの無位の下級官人たちは給与すら支給されないため、貴族個人や上皇に雇われるという状況が生まれていた。そんななかで富と権力を握る上皇に従うことは、出世の一大事にもなったものだから、優れた人材が院に集まるということにもなった。やがて院を中心として成立した公私入り乱れた院勢力の人員を、院近臣(いんのきんしん)などと呼ぶようになっていく。

 そして位階相当などは有名無実化していたものの、勢力拡大を目ざす有力者にとっては破格のレッテルとなる位(くらい)は、ほしがる者が非常に多かったために、朝廷はこれを売り払って、官職売買による財源確保さえ行われるようになっていた。これを成功(じょうごう)という。このように政権の経済基盤は、律令制の開始頃とは随分大きく様変わりしていったのである。

荘園公領制

 12世紀前半、農業技術の改新と農地開発が急ピッチで進み、ため池や用水路などの整備も行われ、かつて水田でなかった場所が次々に開拓されると、開発を指導した在地領主などは、その水田地域と税収と己の立場を安堵するため、これを荘園として受領などに差し出した。これによって一定の税を納める代わりに、その荘園の経営が任されるわけだ。これを寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)という。

 新田、これは本来は国司が支配して公領となるべきものだが、受領たちは自らの地位を安堵するために、これを寺や有力貴族、さらに上皇に個人的に寄進して、一定の税を払う代わりに、その地の支配権を握った。

 これによってバラバラで小さな荘園が、村を幾つも含む広域の荘園を産みだしていく。以後、鎌倉時代から南北朝時代にいたるまで、荘園と公領という2本立ての土地制度が並び継続していくことになる。鎌倉時代に入って、おおよそ荘園6割、公領4割ぐらいだそうだ。

荘園の具体的な例

  例えば今日和歌山県にあたる、
「紀伊国カセ田庄絵図(かせだのしょうえず)」
を眺めていると、所々に領土を区切った黒丸がある。いくつかの村をすっぽりと荘園に収めたこの絵図は、境界線争いを収めるべく領土を定めたのだろうか。

 この荘園は初め崇徳上皇の荘園としてあり、これが国司の公領と代わり、さらに蓮華王院(三十三間堂)の荘園と代わり、1183年には後白河上皇から神護寺に与えられている。

 というように、荘園の持ち主は細かく変わる一方、働く村民達に関わりのあるのは、むしろ在地を治める者どもであり、それは荘園の持ち主の変化に関わらず、在地を支配していたといった様相である。

まとめ

 やがて天皇と摂関家が結びつき、一方では院とその近臣たちたが勢力を持ち。互いの対立が深まっていくが、このような本来は公的な財政制度を持ち中央集権であるべき政府が分裂し、しかも互いの荘園を財政の基盤とおくような社会が成立していく。

 また荘園を持って僧兵を雇い、勢力を拡大する寺院などに対して、朝廷は有力な対抗策を持たなかった。代わりに、これらに対抗するものとして、白河上皇は平氏などを北面の武士として雇い、院の武力の要としたが、あくまても院の武力であり、政権の武力であると直接的に言い得なかった。

 このようにして上皇や天皇、上級貴族、有力武士、寺院などが、それぞれの思惑によって結びつき、または対峙し、荘園経営を軸にして、それぞれが身内に給与を払い、私的に自立した組織を形成していくという流れが、中世へと続いていくのである。

 そしてこのような流れのなかで、中心的役割を果たした勢力を、権門(けんもん)などと呼ぶのである。一方では貴族どもによる政治、武士どもの武力、僧どもの宗教という、相互に依存することによって国家経営が成り立たつという側面を持ちながら、同時に権力分立の様相が濃くなる時、院政とは、分化する権力の拠り所を、一時上皇によって取りまとめようとしたものと、そのような見方も出来るようだ。

知行国(ちぎょうこく)について(おまけ)

 つまり白状するところ、まとれないので、
[下はウィキペディアの引用]
 平安時代中期の院宮分国制に発端する。院宮分国制とは、年限を限って、院宮家(上皇・女院・皇后・中宮・東宮など)に特定国の国守(または受領)を推薦する権利を与えるとともに、当該国から上進される官物を院宮家が収納するという制度である。院宮分国制は10世紀初頭から行われていた。院宮家は、自らの側近や血縁者を国守・受領に任命することが通例であった。

 11世紀から12世紀にかけて、院宮分国制が有力貴族の間にも拡がった。その政治権力を背景として、有力貴族らが縁者や係累を特定の国の受領に任命することが徐々に慣例化していき、現地へ赴任した受領の俸料・得分を自らの経済的収益としたのである。これが知行国制の始まりである。

 院宮分国制と知行国制とは元来、異なる制度である。院宮分国制は国家公認の制度であり、院宮分国からの上進官物は院宮家の収入とすることができた。それに対し、知行国制は国家として公認されたものでなかったため、知行国からの上進官物は国家へ納付しなければならず、知行国主が獲得しえたのは(本来、受領の収入となるべき)受領の俸料・得分のみであった。ゆえに、一つの国がある院宮家の分国であると同時に、ある貴族・寺社の知行国であるという状況も十分あり得たのであり、実際そうした事例もあったと考えられている。この場合、国の上進官物は院宮家に納入され、受領の俸料・得分は知行国主へ納入されることとなる。

 院宮分国と知行国は、ともに院政期(11世紀後葉以降)に急激に増加した。摂政・関白が同時に2 - 3か国を知行国とすることが珍しくなくなった。また当初、有力貴族層を中心としていた知行国制だったが、12世紀後半から寺社知行国や武家知行国が行われるようになった。平安末期の平氏政権期には、30数か国が平氏一門の知行国になったとされている。12世紀終わりに鎌倉幕府政権が樹立すると、関東の9か国が鎌倉殿の知行国 = 関東御分国となった。大仏殿再建を名目として東大寺造営料国となった周防国も、実質的には東大寺の知行国であり、大仏殿再建後も東大寺の知行下にあり続けた。このように知行国は増加の一途をたどり、1215年(建保3)には知行国が50か国にのぼったとする記録も残されている。

2010/4/20

[上層へ] [Topへ]