平安時代、治承寿永の乱

[Topへ]

打倒平清盛へ

 1177年、鹿ケ谷事件(ししがだにじけん)が起きた。平家打倒の貴族達が密会を開いたという報告が入ったのである。

 動きを察知した平家は、たちまち院近臣を含む関係者を処断した。うしろには法皇の顔もちらついていたが、これにはさすがに手は下さなかった。1179年になると、清盛の娘、さらに長男の重盛(しげもり)までも病気で亡くなり、おまけに後白河法皇が重盛の知行国を清盛に相談もなく召し上げてしまった。福原に居た平清盛「脳天大爆発」……だかどうだか、軍を率いてすぐさま上洛し、39名もの後白河法皇派の貴族を職から解き、別の公家にすり替えたのである。これを治承三年(じしょうさんねん)の政変という。

 これによって後白河法皇は鳥羽殿に幽閉状態となり、院政は完全停止された。満足したか清盛は、重盛亡き後に一門を率いる平宗盛(たいらのむねもり)(1147-1185)(清盛の三男)に後を任せ、福原に帰っていった。1180年には高倉天皇に譲位を迫り、平清盛は自分の娘徳子(とくこ)と高倉天皇の息子を天皇として即位させた。安徳天皇(あんとくてんのう)(1178-在位1180-1185)である。名目は高倉上皇の院政だが、皆さん誰が本当の政界のトップかは重々承知と言ったところで、平家の政権は回復されたかに思われたのだが、しかしそんなに旨くはいかなかった。



 1180年、後白河法皇の皇子の一人である以仁王(もちひとおう)が、あまりの平家の独断ぶりに反旗を翻すと、これに呼応した老齢の源頼政(みなもとのよりまさ)(1104-1180)が、どこかの大河ドラマみたいに「最後にもう一花咲かせましょうか」と言ったかどうだか知らないが、平家に対して挙兵したのである。彼は従三位(じゅさんい)の位を持っていたことから源三位頼政(げんざんみよりまさ)と言われることがある。

 彼は平治の乱で平家に味方し、平清盛の下で重要な役職を担当していたが、歌人としても「源三位頼政集」を残すほど優れていた。「平家物語」では源頼政の息子源仲綱(なかつな)が所有する「木の下(このした)」という名馬を、平宗盛が奪って、それに「仲綱」という名称を与えて、侮辱したために挙兵に到ったとあるが、今日の週刊誌のごとくゴシップめいた話しではある。しかし折り悪く準備が整う前に発覚し、彼らは宇治平等院での戦に敗れ、源三位は自害、以仁王も落ち延びきれずに殺されてしまった。彼の無念は1990年に発見された小惑星に「以仁王」の名を与えることによって、ようやく収まったという。(……勝手にしてくれ)

 しかし以仁王が書いた「平家打倒すべし」という令旨(りょうじ)は、源行家(みなもとのゆきいえ)(源義朝の父である源為義の子)が各地に伝えたため、各地で平家打倒の狼煙が上がり、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)として拡大していった。さらに都周辺の寺院勢力も反平家の気運を高め、これに対して平清盛は一族もろとも天皇貴族を引き連れて、無理矢理に福原に遷都させることにしたのである。都が大混乱に陥ったことは、想像に難(かた)くない。

運命の?1180年

 1180年は多忙な年だった。挙兵に破れた以仁王の令旨は、各地へ届けられ、打倒平家政権への挙兵の狼煙が上がったからである。鎌倉流罪の源頼朝(みなもとのよりとも)(1147-1199)は、源義朝(よしとも)の三男であり、幼年の名称は、まるでゲームみたような名前だが、ずばり「鬼武者」であった。彼は保元の乱(1156年)に勝利した義朝の子として、少年時から官職を歴任するほどだったが、1159年の平治の乱で父親が敗死すると、頼朝も捕らえられ、処刑されべきところを許されて伊豆に流されたのである。

 伊豆では桓武平氏の流れを引く北条時政(ほうじょうときまさ)(1138-1215)が頼朝の監視役を務めていたはずだが、この時政、実の子への監視は不十分だったものか、娘である北条政子(ほうじょうまさこ)(1157-1225)と頼朝が恋仲に落ち、逸話によると、驚いた時政が別の男に嫁がせようとするのを、家を飛び出して頼朝のもとに走り去ってしまったという。それはどうだか知らないが、ともかくも結婚が認められ、頼朝に娘まで生まれたところに、以仁王の令旨が届けられたのである。続いて以仁王の挙兵失敗の知らせが来る。

 ここにいたって頼朝は挙兵した。挙兵するやいなや「石橋山(いしばしやま)の戦い」大庭景親(おおばかげちか)(?-1180)ら率いる平家方関東武士に無残の敗戦。平家方に付いていた梶原景時(かじわらかげとき)(1140-1200)の見逃しによって、なんとか逃れて鎌倉に入ると、しかし令旨の力もあって続々と東国の武士たちが集まってきた。



 その頃都では、平重盛の息子である平維盛(たいらのこれもり)(1158-1184)が、東国蜂起討伐の命を仰せ付かった。しかし一方で、甲斐国では甲斐源氏(清和源氏の流れの武田氏など)が挙兵し、信濃国では源義仲(みなもとのよしなか)(1154-1184)も兵を挙げるなど、各地で平家政権への反旗が翻る。東方へ進軍する平維盛だったが、その間に甲斐源氏の武田信義(たけだのぶよし)が源頼朝と合流し兵力を拡大(この時点では武田氏の方が中心だったという説もある)してしまった。この時、西国の大飢饉のせいもあって、平氏軍は頼朝軍との正面衝突前にすでに数においても、士気においても劣勢に立たされていたという。

 そんななかで、水鳥でお馴染みの?、「富士川(ふじがわ)の戦い」となったのである。つまり富士川を挟んで対峙していたら、水鳥が一斉に飛び立つ音をうっかり敵襲と勘違いして、維盛軍が慌てふためいて逃げ帰ってしまったという逸話である。真実は今となっては不明であるが、平維盛の軍が破れたことに違いはなかった。ついでに降伏した大庭景親も処刑されてしまった。

 これと前後して、頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)(1159-1189)が奥州から駆けつけているが、源義経はあまりにも物語の尾ひれがつきすぎて、歴史と伝説の境界線があやふやな人物だ。源義朝の愛妾であった常盤御前(ときわごぜん)の生んだ子供であり、幼年を牛若丸(うしわかまる)といい、父である源義朝の敗戦と死によって鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、平家から逃れるように奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)(1122-1187)もとに身を寄せていたのだが、頼朝挙兵を聞いてはせ参じた……とまあ、当時の軍記物語では、そういうことになっている。

 あやふやかつ周辺的な義経は放置して、ともかくも勝利した源頼朝は、そのまま京へは向かわず、関東平定のために鎌倉に戻ることとした。すぐさま軍事警察を統括する侍所(さむらいどころ)(さぶらいどころ)が設置されたが、この侍所とは、もともとはこの時期、京の親王家や摂関家の邸宅に設置された、貴人の傍に控え(さぶらい)、秘書役や警察役を担っていたものを、鎌倉御家人を統括する軍事警察機構として名称をいただいたものである。

 役職として侍所に選ばれた武士らは所司(しょし)と呼ばれ、侍所の最高位が別当(べっとう)と呼ばれるようになっていく。頼朝に協力した三浦一族の和田義盛(わだよしもり)(1147-1213)が初代別当に選ばれた。また、石橋山の戦いでは敵でありながら、落ち延びる頼朝を助けた梶原景時(かじわらのかげとき)(1140-1200)も所司(しょし)となっている。彼らは頼朝の有力な家臣であった。

 さて、最近では「1192(いい国)、造ろう鎌倉幕府」の年号は否定されつつあるが、組織的に幕府を開いていく意図を読み解いて、1180年こそ鎌倉幕府の成立であるとする説もある。さながら、「いい和を(1180)築こう鎌倉幕府」といった所か。



 さて、敗戦に激怒した清盛だったが、各地での挙兵と遷都への不満の高まりなどがあり、1180年の11月のうちに福原京から京へ都を戻すことになった。つまり遷都は大失敗に終わったわけである。おまけに年末には、反発する南都の仏寺に対して、五男の平重衡(たいらのしげひら)を総大将として兵を使わしたところ、東大寺・興福寺などを焼き討ち(南都焼討)して、東大寺の大仏までもを火にくべるという大変な騒乱となった。これによって奈良の主要部分がことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまったそうである。

 翌年1181年、高倉院と平清盛が相次いで亡くなると、人々は仏罰だ、仏罰だ、と噂し合った。平家の実権は平宗盛(たいらのむねもり)(1147-1185)に移ったが、宗盛は平家を纏めて率いるには能力が足らない人物として、いくつもの資料に書き残されている。これに前後して後白河法皇の院政が復活した。

治承寿永の乱

 1181年、清盛と高倉上皇が相次いで亡くなったが、仏罰は納まらなかった。源行家(みなもとのゆきいえ)(義朝の弟)らとの戦いには勝利を収めた平家だったが、4月に入ると、富士川ではイキな負けっぷりを披露した平維盛(たいらのこれもり)を総大将として、北陸で勢力を拡大しつつ反旗を翻す源義仲(みなもとのよしなか)(木曾義仲・きそのよしなか、とも)(1154-1184)の討伐に向かったのである。

 先に負けた源行家も、義仲の元に身を寄せているという。大軍を引き連れて初戦は勝利した。しかし、義仲の見事な夜襲によって「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」で大敗して、逃げ場を失って峠から沢山の兵が転げ落ちたという。さらに逃げるところを追いつかれて、篠原の戦いでは一方的にぼこぼこにされて、平維盛はようやく京都に逃げ帰った。

 ズタボロになって帰ってきた京の都は、常日頃の都ではなかった。実は前年に引き続く大飢饉によって、西国の農民は饑餓逃亡し、都に物資の届かないほどの状態に陥っていたからである。西日本を中心に起こったこの飢饉は「養和の大飢饉(ようわのだいききん)」と呼ばれている。

 鴨長明(かものちょうめい)(1155-1216)「方丈記(ほうじょうき)」は、和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で書かれた随筆として有名であるが、この中にも大飢饉の有様が詳細に記されている。これをわたしが心持ちを汲み取って(……またそれか)参考までに一部書き記せば、

「弱り切った者たちの歩いているかと思えばすでに路傍に臥し、土塀のふちや道ばたに飢え死ぬる者たちの数はあまた。埋葬もなし得ぬまま、異臭は大気に満ち、腐敗の進む有様は、人のみるべきものにあらず。まして、鴨の河原の捨てられし遺体のほどは、馬車の通れる隙間もなし。」

といった有様であった。平家は京から落ちる決意をし、夏には六波羅などの屋敷を焼き払って、安徳天皇と三種の神器を持ち出して、西に向かって都落ちした。もちろん後白河法皇も連れ去るつもりだったのだが、すたこら上手の法皇は、比叡山に匿(かくま)われて難を逃れたのである。

 さっそく勢いに乗った木曾義仲軍が京に入る。後白河法皇は平家追討の命を授けたが、もちろん半ば義仲に命じられて出したものである。ところが軍の駐屯する京は食糧不足に陥っていた。義仲の兵の間で略奪が横行し、義仲はこれを統制することが出来なかったという。また安徳天皇のに代わる天皇を、正規の天皇として即位させようとするとき、露骨に朝廷に介入してその心証を悪くした。

 険悪なムードを悟ったか、慌てて平家追討の軍を出発させた義仲だったが、平家と一進一退の攻防を続けている間に、後白河法皇は鎌倉の頼朝に接近してしまう。さらに「水島の戦い」は平家が優位に展開し、慌てて京に戻る義仲だったが、鎌倉からの兵が迫っているという。

 後白河法皇は総体優位の判断の下に、武力によって義仲に対抗するに到ったが、結果「法住寺殿襲撃」によって敗退し、法王は幽閉され、義仲は自らの手で政権を組織した。法住寺殿(ほうじゅうじどの)とは、後白河法皇が自らの院政を敷くために建造したものだったが、この時焼失してしまったのである。この地には、後に後白河法皇の御陵を守るための法住寺(ほうじゅうじ)が建立され、現在では天台宗の寺として残されている。

 ちょっと脱線した。義仲の前には、頼朝に派遣され進軍する源範頼(みなもとのよりとも)、源義経(みなもとのよしつね)(共に頼朝の異母弟)らの軍が迫まっていた。義仲は自らに征東大将軍(または征夷大将軍)の位を与えさせ、官軍の体裁を整えたが、1184年初めの「宇治川の戦い」で敗れ、「粟津(あわづ)の戦い」にも敗れ、顔に矢を射られて壮絶な最期を遂げたのである。最後の奮戦まで付き従った武将、今井兼平(いまいかねひら)の自殺と共に、この木曾殿最後の場面は、「平家物語」の読みどころの一つとなっているらしい。



 一方、「水島の戦い」に勝利した平家は、一時放棄していた福原(清盛が遷都を試みたあの福原)まで兵を戻し、京の奪還を目ざしていた。しかし三種の神器やら安徳天皇まで抱え込んだ軍隊が、はたして合戦に際して機敏に行動し得るのかどうか、それはわたしのあずかり知らぬ所である。その平家が今、京を立った義経、範頼らの率いる頼朝軍と決戦の時を迎えた。

 まず寿永3年/治承8年2月7日(新暦1184年3月20日)の「一ノ谷(いちのたに)の戦い」である。今日の神戸市にあたる海岸沿いの平家の布陣を、源義経が鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる崖を騎馬で下るという無茶な戦術で奇襲を行い、見事勝利を収めたという話である。はたして実際はどうだったものか知らないが、とにかく頼朝軍が勝利した。もっとも、この勝利は後白河法皇が平家に対して、和平のための武装解除を命じておきながら、源氏にこれを攻めさせたのが勝利の原因であるという話もある。

 逃れた平家は四国の屋島(やしま)に布陣した。頼朝軍は兄弟分かれて進軍し、範頼軍は九州を目ざすも目的を果たせぬまま膠着。鎌倉の頼朝は義経に命を下し、平家の陣を敷く屋島攻略が定められた。義経は嵐の中を少数で海を渡り、四国は讃岐に軍を進めると、ついに屋島の対岸に布陣する。そして、干潮時に騎馬で海を渡ることが可能であることを知って、こんどは海越えの奇襲によって、屋島を攻略したということになっている。1185年3月22日の「屋島の戦い」である。しかし、実際はどうであったものか……なんか行かざる所を騎馬で駆け抜けるというパターンが一ノ谷と一緒ではある。また「平家物語」の名場面として知られる、那須与一が扇を射貫いたエピソードはこの戦のものである。

 屋島攻略により、範頼軍も九州の平家勢を攻めることが出来た。逃れるべき後背を絶たれた平家軍は彦島に孤立、最後の壇ノ浦の決戦へといたる。これは元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に開かれた。

 瀬戸内海の渡航権が、実質鎌倉勢力に渡ったこともあり、熊野水軍(くまのすいぐん)・河野水軍(こうのすいぐん)などが頼朝軍の味方に付いた。そして始め優勢だった平家の攻勢を押し返し、見事勝利を収めたのである。敗れた平家の皆さんは次々と入水(じゅすい)。三種の神器を道連れにして無理心中?したのである。

 三種の神器のうち内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は運良く見つけ出され、しかし宝剣(天叢雲剣)は帰らぬ身となったという話だ。安徳天皇も入水させられて、亡くなってしまった。しかし総大将の平宗盛は苦しくなって浮かび上がって、息子と一緒にそのへんをぷかぷか漂っているところを、いさぎ悪く取り押さえられたという。二人は後に鎌倉に護送され、ふたたび京に送られる途中で斬首されることになる。平家物語では頼朝の好敵手として名高い平教経(たいらののりつね)もこの戦で亡くなった。こうして政権としては崩壊していた平家清盛一族は、最後には滅亡してしまった。この一連の戦を、年号から「治承寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)」と呼ぶ。1180年の頼朝の挙兵から、壇ノ浦までである。

その後

 壇ノ浦の後、元々朝廷より勝手に官位を得るなどで頼朝の不況を買っていた義経だったが、鎌倉を中心に政治の新体制を模索する頼朝にとって、おそらく法皇と朝廷に与(くみ)しかねない義経の存在は危険極まりないものだったこともあり、兄弟の間の亀裂が決定的になった。

 平家の総大将、「死にきれずに、ぷかぷか浮かんでしまった男」こと平宗盛を鎌倉に護送する途中、義経は鎌倉入りを禁じられたうえ、平宗盛らの自害に立ち会った後、京に戻ると、頼朝から与えられていた所領を没収されてしまったのである。

 さらに、都の源行家の謀反の噂もあり、梶原景時が京に送られた。ここで義経は、頼朝より出された源行家討伐の命令を病気を理由に引き延ばし、そのために謀反気ありとの判断を下され、頼朝に暗殺されそうになり、源行家と共についに鎌倉と訣別する決意を致したが、頼朝優位と決まった政局においては、もはや兵は集まらず、西国に移って兵力を整えようと京を逃れ出た。しかし、旅立つやいなや、暴風雨で手元の兵力すら四散する有様。頼朝の張り巡らせた追ってに右往左往しながら、逃れ逃れに逃れを重ね、若き日の自分を住まわせてくれた奥州の、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとへと向かったとされている。

 これは東北の独立勢力を手中に収めるべき頼朝にとってはかえって好都合だったのかも知れない。1187年、奥州の大人物こと藤原秀衡が亡くなると、頼朝の強圧に堪えきれなくなったか、鎌倉からの圧力に押された後継者の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が、自らの兵を義経討伐に差し向け、義経はすこぶる討伐されてしまったのである。(へんな日本語使うな。)

 歴史の範疇ではないが、知られた弁慶の仁王立ちのシーンも挟みたくなるくらいだ。もちろん弁慶のエピソードはほとんどが物語の範疇で、歴史の範疇ではない。実際としては、義経討伐など効果も無く、源頼朝は東北に兵を繰り出し、藤原氏を滅亡に追いやってしまった。1189年のことである。

2010/07/20

[上層へ] [Topへ]