ロミオとジュリエット、場面ごとの解説

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第1幕

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「冒頭ナレーション」
・ロレンス神父が自ら作った禁断の薬を川に投げ入れ、これからヴェローナを離れるという、時間上一番最後に来る部分を冒頭に置くのは、まあ使い古された遣り方だ。
・冒頭ナレーションにロミオとジュリエットの出会いの情景を託すことによって、シェイクスピアの他の女性に恋したロミオが若者の愛を象徴してあっさりジュリエットに鞍替えするという方針から、ダンテとベアトリーチェ的(これは一方的な思いこみの例だが)な宿命の出会いが悲劇に至るという方針に変更。シェイクスピアの戯曲は、実際の恋愛事件の断片を切り取ったようなリアルな設定であり、ロミオは他の女性に恋焦がれているが、立った一目見ただけでジュリエットに心を奪われてしまう。軽薄性はロレンス神父が「若者は目で恋をしている」と言うように若さを強調させ、2人が振り返る間もなく結末に突き進むための正統性を与えてもいる。つまり若者の恋が情熱と思いこみで突き進むことを、つまり今後の事件の発展から結末の心理的補強になっているのだが、同時におそらく本当の恋など知らなかったロミオが初めての恋愛に身を投じるための期待を、ロザラインへの恋が内包してもいる。つまり「ウェストサイドストーリー」で何かを期待する歌の部分は、原作品であるシェイクスピアの戯曲にも込められていて、「ウェストサイド」の場合ではあの場面が中学生の作文でも間違いないくらいに「まだ見ぬ恋への期待」であるのに比べ、必然的出会いなどではない現実の恋愛の開始を表現することにより、おとぎ話的ではない現実的ストーリーに聴衆を引き込み、また若者の強調を行ない、同時に恋の期待の意味も内包され、様々な解釈が可能であり柔軟であることが、作品の質を非常に高めている。これは一例で、そのような多意性を数多く内包していることが、彼の作品を比類無いものに高めているのかも知れない。劇の時間経過を眺めてみても、2人の恋の物語としては舞踏会で開始するために一層スパンが短くなる一方、ロミオの恋に焦がれる状態は第1幕から行なわれているというバランス感覚は称賛に値する。にもかかわらず私はロマンっ子なので宿命の出会いが悲劇に至る方針を採用した。あまりにも感覚的で移り気なものが当然とされる世の中では、逆に必然を求める精神的欲求は高まるものです。

「オープニングの音楽」
・序曲は、作者の頭の中では完全にベルリオーズの「ロミオとジュリエット」の始まり部分になっている。

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「脇役達」
・グレゴリーとサムソンが全体で重要な役割を担う一方、アブラハムは開始限りの忘れられキャラクターになっている。これは作者がバルサザーは喋らないのにずっといるキャラ、アブラハムは消え去るキャラと設定したためで、うっかり忘れられたためではない。本来役者でない人物に冗談でやらせるなんてことがあっても面白いかも知れない。

「灰色の細胞」
・「灰色の細胞」は、アガサクリスティーが生み出した名探偵ポアロの言葉から来ているようだ。細胞の中でも灰色のものという意味で脳細胞の灰白質を指すので、日本語吹き替えでポワロが言う「灰色の脳細胞」はちょっとニュアンスに変化があるそうである。

「ティボルトのキャラクター」
・ここだけの話、ティボルトのキャラクターは私の中で自作ゲームにおけるポリュグノートスのキャラクターとこっそりリンクしている。

「騒動の場面について」
・シェイクスピアの原作が大公の前にわざわざ市民を登場させているのは、両家の立場を強調して聴衆にすっかり分からせるために見事な一手と言える。百の言葉よりも、現実を一瞬でも見せた方が深く印象に刻まれる。市民が加わることにより乱闘が都市を巻き込んだものであること、つまり中世都市の自警に対する侵害であり、単なる2組の争いとは意味あいが違うことが分かる。これは大公の登場によりさらに、複雑化が行なわれ、都市を自警する市民達、おそらく都市最大規模の商業活動によって都市経済を支える2家の争い、その都市を治めるものの都市内の事に関しては思いのままに振るえないであろう大公という当時の社会が、一瞬垣間見えるような気さえしてくる。また騒動が拡大していく順次導入の効果が極まったところに大公が登場するという効果と、途切れずモンタギュー家の3人がその場に残ってうわさ話の中から、ロミオを登場させる見事さ。

「犬の都」
・犬の都は消そうとも思ったが、安い冗談ではあるが第1幕の愉快の精神に一役買っているので、大公の不可思議な冗談として残しておいた。「大公ギャク」として配下の兵達が後でこっそりからかっているかも知れない。一節によると飼い主に撲たれたことのない犬とはヴェローナ市民達のことで、飼い主こそが大公であり、それを殴ったキャピュレット、すなわち「反抗する者」という意味が内包されているとも言われる。

「スズカケの森」
・スズカケの森。「すずかけ」といえばプラタナス。これはスズカケノキ科スズカケノキ属の植物の総称。原文は「シカモア」でスズカケノキ科に属する樹木だそうだ。物語ではむしろスズカケの森はどこかのすずかけの森ではなく、特定の場所と化しているようである。はたしてイタリアのすずかけの森でウサギがよく跳ねるのかどうかはわたしは知らない。

「誰と指すと」
・「誰と指すと、その人の名誉に関係するから言えないよ。」「また判然として証拠の無いことだから、言うとこっちの落ち度になるだって。冗談はやめてくれよ。」という台詞は、夏目漱石の「坊ちゃん」に見られる台詞で戯れているらしい。

・私馬鹿よね→変更する予定。

「料理屋」
・「淀見軒」、「花しん亭」はそれぞれ夏目漱石の「三四郎」と「坊ちゃん」に出てくる。「ハイカラ亭」はハイカラ野郎の赤シャツと掛け合わされているのかもしれない。この作者はよほど夏目漱石が好きなのだろうか。

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「灰色の細胞」
・パリスの性格には冗談で冒頭を書き始めた時のマルヴォーリオの己惚れがそのままスパイスとして効いているらしい。

「傭兵隊長」
・ローマ帝国崩壊後の荒涼を乗り切ったイタリアは、1000年頃から地中海貿易による商業活動により都市ごとに独立した都市国家を形成し、互いに勢力を競い合いつつ盛衰を繰り返していた。またイタリアは教皇対皇帝の闘争の舞台として非常に長い間、各都市を巻き込んで争乱を繰り返していたので、このことが戦争の需要を高めていた。戦争には多くの傭兵が使用されたので、コンドッティエーレという傭兵(または傭兵隊長)の活躍する土壌を生み出した。

「熊虐め」
・当時イギリスで流行っていた見せ物で、熊を鎖で繋ぎ繋いで猟犬と闘わせたり、ライオンを放ったりしていじめ抜いて、それを皆で楽しむというもので、1835年に禁止されるまで続いた。他にも牛虐めなどいろんな虐めがあったらしい。暴力と流血、死を娯楽化したい欲求は人間の本性なのだろうか。

「ヴェローナの盲導犬です。」
・ここでキャピュレットは結局自らを犬に例えている。私は犬を撲つ者ではなく、わたくしもあなた様の犬でございますという無意識的な意思表示なのだろうか。犬は第3幕冒頭で忠犬よろしくと使用され決闘に至るが、果して一番最後の最後のヒーローとヒロインはもはや「居ぬ」が暗示されているのであろうか・・・・いや、これは考えすぎであろう。

「もうすぐ14歳」
・当時の貴族における法律上の結婚年齢は男性14歳、女性12歳だった。

「名門」
・名門という言葉なら由緒ある家系なのだから貴族だろうと思われるが、ここではカンパニーとして長らく君臨してきた名門企業のような意味あいで使用されているのだろう。

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「アーサー・ブルック先生」
・1869年にブルックボンド紅茶を「同一品質、同一価格」と打ち出した茶葉ブレンドの革新者とはもちろん別人。ロミオとジュリエットの元になった物語は16世紀前半イタリアで形成され、フランス翻訳本を経由してイギリスで英語本となった。1562年のアーサー・ブルック「ロミウスとジュリエットの悲しい物語」は長編詩の形を取り、ウィリアム・ペインターが1567年に書いた「ロミオとジュリエッタ」は散文によっていたが、シェイクスピアはアーサー・ブルックの長編詩を翻案して戯曲を作成したとされている。

「景徳鎮の陶磁器」
・漢の時代にはすでに窯が設けられていたという景徳鎮は、中国ほぼ揚子江の中流の下流より(また分かりずらいことを)に近接する江西省にある。景徳年間(1004ー1007)に宮廷用陶磁器生産の役人が派遣され、世間に名を馳せ真宗皇帝によって昌南鎮という名称が景徳鎮とされる頃から、陶磁器の生産地として大いに隆盛を誇った。磁器がヨーロッパに持ち込まれ大流行するのは、17世紀の大航海時代であり、この景徳鎮の磁器を見て、これはどこのものさと問わば、「昌南さ」と答えれば、これが中国語発音でChangnanだったうえ、訛っていたせいかこれが「China」となって、やがて磁器が「China」と呼ばれているうちに、国家まで「China」と呼ばれるようになったとか。しかしキャピュレット家はいち早くカッフェなど飲んでいるぐらいだから、こっそり貿易商の力を生かして景徳鎮の磁器を保有していたのかも知れない。

「カフェ」
・カルディというエチオピアのヤギ使いの少年が、コーヒー豆を食べてヤギがトリップするのを発見して真似てしまったという伝説が残るコーヒー。実際には6-8世紀頃エチオピアからアラビアに広まり、イスラーム文化圏に浸透していったと考えられている。やがてオスマントルコが広域を支配すると、1453年に陥落させて後オスマン帝国の首都となったイスタンブールにまでコーヒーが流入し、トルコ語でカフヴェとよばれ17世紀初頭にはカフヴェハーネ(コーヒーハウス)が誕生したり、一方でヨーロッパにも16世紀後半から伝来を開始したと考えられている。17世紀末には各地で嗜好品としての地位を獲得し、バッハが「コーヒーカンタータ」を書くのもその大流行の余波を受けたものだ。キャピュレット家はなぜか早くからその存在を認知し我家の極秘の嗜好品としていたものと思われるが、現在は証拠が残されていない。一応今日ではカフェはイタリア語発音だが、当初どう発音されていたかは分からない。戯曲のように「カッフェ」などと発音されていたとはとても思えないのだが・・・。

「収穫祭の晩」
・原作ではLammas Eve(Lammas Day、ラマスデイの晩)となっているそうだ。Lammas Dyaはイギリスで8月1日に行なわれる新麦で作ったパンを捧げる収穫祭。したがってロミオとジュリエットは7月の物語になる。

「11年前の大地震」
・11年前の自然災害の時に乳離れという成長を遂げたジュリエットは、少女から大人の女性に変わる変貌を、一目惚れという人的災害によって成し遂げることになる。それどころか、本来時間を掛けるはずの初恋、結婚、初夜、離別、死と女の人生(ただしもちろん出産は抜け落ちているが)を僅か数日で駆け抜けることになるのだった。この点ロミオも同様なのだが、これに関してはシェイクスピアの視点は、乳母と母親のシーンによる11年前の大地震など、ジュリエットにこそ焦点を当てたものになっている。深読みすると、自然のもたらす災害では死ななかったものが、恋愛という災害によっては死に至るという対比が思い浮かび、11年前に亡くなったジュリエットと同じ年のスーザンと合わせて考えると、自然のもたらす死に至る災害と、恋愛の悲劇は同等の力を持つとも考えられる。

「パリス」
・パリスは父にとっても母にとっても、乳母にとっても、さらにヴェローナ中の乙女達にとってもすばらしい婚約者であることが強調され、もしジュリエットがロミオに出会いさえしなければ、絵に描いたように婚礼を済ませて、末永く幸せに暮らせたかも知れないのに、恋だけは理屈や周囲の思惑でどうすることも出来ないものらしい。もともとこの劇では誰々さえ何々しなければ事件にならなかったのにという設定が数多く登場し、ここではすぐ隣りに横たわる平和的解決されるパラレルワールドの存在が、2人の渡る危ない高架(こうか)を際だたせている。

「ジュリエットの独白」
・冒頭のナレーションに続いて、乱闘シーンの後にまずロミオ側の出会いのイメージが語られ、さらにここでジュリエット側の出会いのイメージが語られることによって、第2幕の再開が予備される。

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「キューピットの矢」
・アフロディーテー(ヴィーナス)の息子エロース(キューピット)は恋に落ちる矢と、相手を嫌う矢を操って神々でさえも恋愛に陥れる。ギリシア神話では、一説にはエロースは大地(ガイア)が誕生した時に一緒に出来たとも考えられている。愛が大地と共にあったという考え方はなかなか面白い。

「マブ女王(Queen Mab)」
・16、17世紀の詩人達に愛された夢を支配する精霊達の女王。

「川のイメージ」
・コーキュートスのところでついでに書いておくと、冒頭の橋の上、2人の出会い、ここでの流れる歓喜のイメージ、薬を川に流すなどのイメージ、パリスの配下が「涙の川も穏やかな海洋にそそぎ」などという台詞も川と関係している。ロミオとジュリエットにおける急激な時間軸を象徴しているのかも知れない。実際の水は薬を飲み干すシーンに登場し、後戻りの出来ないクライマックスへの扉を開く役割を果している。

「コーキュートスとカロンについて」
・ギリシア神話において冥界はゼウスの兄プルートーン、別名ハーデース(アイデース)が支配する地域で、ペルセポネーを妻として住まう館には猛犬ケルベロスが控え、その付近を5つの川が流れているとされている。名称は死に関連して生じる言語から来ているようで、ステュクス(憎悪)川、アケローン(嘆息)川、レーテー(忘却)川、ピュリプレゲトーン(燃える、つまり死者を焼く意味か)川、そしてコーキュートス(号泣)川がある。元来はステュクス川が最高権威だったのだが、時代が降ると死者が通らねばならない河の象徴はアケローン川に移り、この川の渡し守であるカロン(カローン)に1オボロス硬貨(1/6ドラクマ硬貨の価値を持つ)を渡して死者の国に向かうとされ、死者の埋葬の時には1オボロス硬貨を一緒に埋葬するのが通例だったという。ゲーム「Greece」でも冥界に降りた主人公達はちゃんと1オボロス払っていたはずだ。戯曲の方では、ロミオがカロンの横を流れてから、コーキュートスに流れ込むと言っているが、実際はコーキュートスはアケローンの支流とされるので、これはちょっと変だ。この当りからロミオが学業優良児童ではない事が、あるいは想像できるのかもしれない。あるいは2人の死んだ後に残るものは憎悪でもなく、嘆息でもなく、ただただ号泣あるのみ、というエンディングを象徴しているのだろうか。

「黄泉の国にも花咲かせましょう」
・これはまさか花咲かじじいの台詞「枯れ木に花を咲かせましょう」の影響じゃないかしら。実は当時のイタリアは日本昔話ブームが沸き起こり、彼らもそれを読んで成長したのである・・・って嘘を書くな。

第2幕

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「バルコニーのシーン」
・バルコニーの場面は、原作の台詞が程よく取り込まれているので、原作を読みながら「にやり」とする楽しみがある。

「ジュリエットが一人たたずむシーン」
・このシーンには2006年12月末から1月始めに掛けて初めて見た映画版「ロミオとジュリエット」(1968)のシーンの影響があるようだ。

「月の女神セレーネー」
・ギリシア神話においてゼウスとその兄弟達が神としての支配権を握る前には、ティーターン一族があまねく世界を治めていた。そのティーターン一族の一人ヒュペリオーン(高きを行く者の意)が、姉妹にあたるテイアーと結婚して誕生したのが、太陽神ヘーリオス、月の女神セレーネー、そして曙の女神エーオースである。後に太陽神がゼウスの息子であるアポローンに変わられ、その影響からか姉妹のアルテミスが月神と考えられるようになっていく。この戯曲ではもともとヘーリオスとエーオース、セレーネーの3人の名称が登場するようになっていたのだが、すでに紹介版でエーオースがただの暁の女神となって、完成版では脱落してしまった。台詞短縮作業の犠牲になってしまったのだが、今となっては折角だから元に戻そうかとも考える。

[2-4]

「ロミオの台詞」
・ロミオの台詞に1か所「ちゅらさん」の主人公えりぃの面影があるとの指摘がある。

「そんな神が居るものか」
・ギリシア神話などの登場人物を賛えるロミオやジュリエットなどに対して、ロレンス神父が「そんな神が居るものか」と叫んでしまう定型が何度も使用されるが、マンネリズムは心地よいというドリフのコント的意味あいがある。キリスト教よりもギリシア神話やアーサー王物語などにのめり込んでしまう市井の若者と、聖職者の関係を象徴しているのかも知れない。ロミオなどの若者にとってはキリスト教と言えども分かり易い愛の形、聖家族などや、十字架にかけられる悲劇のヒーローとしてのキリストこそ身近なもので、神父様の説教などは馬耳東風なのである。

「メフィストフェレス」
・元々はドイツ民間伝承の悪魔で、一説にはギリシア語で「光を愛さないもの」から来ているとも言われる。ゲーテが取り上げされに有名になったファウスト博士の物語に登場し、シェイクスピアにも名称の使用がある。

「聖家族」
・実際はヨセフは婚約者ではあったがマリアは精霊によって身ごもり神の子を生んだので、血の繋がった父親ではない。しかしヨセフは精霊の子であることを知りマリアと結婚したため、マリアとヨセフ、幼児のキリストの3人、またはさらに洗礼者ヨハネなどを加えた構図は、聖家族として非常に沢山の絵画素材を提供している。

「細工時計」
・「まるで周到に組み立てられた細工時計が、誰かの手に委ねられているようだ。」とあるが、結局第3幕で細工時計を打ち壊したのはロミオだったのか、それともロミオをあの状況に追いやった悪魔の仕業だったのか。第4幕で2人の恋人をすれ違わせたのはロレンスだったのか、悪魔の仕業だったのか、沢山の小さな歯車の咬み違いがエンディングの悲劇に繋がっていく。

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「曾ばあちゃん」
・中世ヨーロッパにおいて曾ばあちゃんは、今日よりずっと珍しかったのではないだろうか。それがどうしたと言われても困る。

「必殺技で相手を痙攣」
・マキューシオの口が悪いのは、私が悪いんじゃない、原作にしたがったまでだ。

「黄泉の国から帰ってきた」
・ここには「もののけ姫」を思い出すような台詞が混入しているという噂もある。

「当時の決闘について」
・未調査。ちょっと知りたい気もする。

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「丁半賭けて一世一代の大勝負の日よ。」
・裏か表かのギャンブル的発言や、分水嶺の頂のどちらに転ぶかなど、最後まで悲劇の確定が保留されているこの劇を暗示する言葉を捜してみるのも面白いかも知れない。

「3人で横滑り?」
・「あいつら土足で我が家を踏み台にしやがったんだ。3人で横滑りしながら女をあさりに来やがって。」という台詞には、ジェットストリームアタックの場面が織り込まれているのではないかとの指摘があるが、作者は泣きながら首を横に振っているようだ。ひょっとしたらティボルトは例のテレビアニメを見ていたのかも知れない?

[2-7]

「歌い仕る御姿」
・この由来は今日となっては資料が残されていない。

「中世の薬事情」
・未調査。中世の薬や麻薬について暇があったら見ても面白いかも。

「幸せになれない人に幸福感を与える薬」
・最終的に悲しい悲劇に終わるジュリエットが、幸福を夢見て飲む薬になってしまうのは、皮肉である。

第3幕

[3-1]

「ヘルメースの靴」
・アルゴス王アクリシオスは息子に殺されるとの神託を受け、娘ダナエーを青銅の城に封じ込めた。大神ゼウスは黄金の雨となってダナエーと交わった。アクリシオスは生まれた息子ペルセウスとダナエーを箱に入れ海に流したが、運良く拾われペルセウスは立派に成長した。やがてペルセウスはダナエーを我が物としたいその地の王により、ゴルゴーンの首を取って来るという無理難題を言いつけられる。この時ゼウスノ子供達である女神アテーナーと青年神ヘルメースが力を貸したのだが、ヘルメースは姿を隠せる「隠れ身の兜」と共に、空を自由に飛翔できる靴をペルセウスに貸し与えた。戯曲ではつまりロミオが地に足がついていないとからかっているわけだ。

「水面に好きな女の顔が浮かんでくる」
・夏目漱石の「我が輩は猫である」に寒月君が水面を見詰めていると、○○子さんの呼ぶ声が聞え、ついに3度目に「はーい」と返事をしたことが書いてる。そのあと欄干に立った彼は、「今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反(いったん)飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」ところが橋の方に飛び込んだのであるという。

「ダンテとベアトリーチェ」
・フィレンツェ生まれの詩人で後に「神曲」を記すダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、9歳の時うっかり同じ年齢のベアトリーチェ(ビーチェ)を見かけて心時めいてしまい、18歳の時にサントリニタ橋で再開して、一方的な大恋愛に落ちてしまった。後にベアトリーチェが余所に嫁いで24歳で亡くなると、狂瀾怒濤、わなわな震えながら彼女への詩をまとめて『新生』を書き上げ、彼女を永遠の女性として賛えることを誓ってしまったのである。非常に一方的な情熱であった。(ダンテの記すベアトリーチェは実在の人間ではないという説もあるが、市井の人々は「ぞっこんかれちまった」とか「ふられて寝込んだ」という話の方が好きなものである。)

「ペトラルカ」
・フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)。ラテン語文学の復興と抒情詩(カンツォニエーレ)で知られたイタリアの詩人であるペトラルカもまた、先輩のダンテのように運命の女性ラウラを賛えた詩を沢山残している。このラウラが実在の特定人物なのかどうかは不明だ。

「チューヤとかケンジ」
・中原中也(1907-1937、350以上の詩を残した)と、宮沢賢治(1896-1933)のことを指すのだろう。ここでは詩人達の名称が多用されているが、言うまでもなく果たし状における素っ頓狂な詩人振りを発揮したティボルトの登場に合わせて、作者が悪戯をしたもので、もともとはこの後のティボルトとマキューシオの遣り取りで、マキューシオがティボルトの果たし状をもう一度読み上げるようになっていた。黙読するなら紹介版の方がずっと面白いかもしれない。

「ベンヴォーリオとマキューシオの関係」
・第1幕と第2幕では、舞踏会などでのベンヴォーリオのルックスの優位が語られていたが、いざ付き合う女性となると、ベンヴォーリオは恋に悩み、マキューシオは3股で付き合っているようだ。

「肩書きだって人格の一部だ」
・このマキューシオの言葉はリア王を読み解く時のキーワードでもあった。

「まるで宮芝居の真似だな」
・この台詞もまた夏目漱石の「坊ちゃん」から取られたらしい。

「ベンヴォーリオ一人」
・最後のベンヴォーリオが嘆く場面で、キャピュレット、夫人などを走り入場させ、ティボルト、などと叫びながら泣かせる場面を入れることも可能である。奨励はしないが、かといって禁止もしない。

[3-2]

これはたぶん無理だす
・貿易と、両家の争いと、皇帝について。ヴェローナの実情など。(暇があったら。)

[3-3]

「後半部分に」
・シェークスピアのオリジナルを織り込んでありますが、やはり詩情が際だっています。

[3-4]

「ロミオの自害」
・ロミオの自害は黙読すると少々嘘くさいが、劇では効果的なので、残すことにした。

「モンタギューと夫人の登場」
・第1幕と第4幕をつなぐモンタギュー家の線をキャピュレットの後景ではあるが継続させるために、ここに登場させた。

「フィレンツェ」
・ロミオの行き先はマンチュアではなく少々往復時間が必要なフィレンツェに変更。ロミオがヴェローナ近郊から離れられないだけの開きが必要な上、ジュリエットが一人で突っ走れる距離では神父様のところに泣き寝入りするより、直接ロミオの元に走りかねないこともある。

[3-5]

「5人の子供達」
・ティボルトは実の息子に変更され、かつ5人の子供達が最終的に全員亡くなるというキャピュレット側の悲劇の増幅がなされている。これはキャピュレット側の喜劇性に反比例しているのだろう。しかしここに至っても、悲劇と隣り合わせにジュリエットがパリスと結ばれ、キャピュレットは貴族入りを果すという、コインの裏側が強調され、キャピュレット(とその夫人)は悲劇と喜劇を駆け巡る、若い2人とは異なる「ロミオとジュリエット」の裏街道を形成しているのかも知れない。この点モンタギュー側の2人は幾分サイドの位置に置かれ、歓びが悲しみに変化するだけである。ここでモンタギュー側も同様に細かく細工を施すと面白いと思ったら大間違いで、片側により単純な率直さがあるからこそもう一方が引き立つ場合もある。また単純なところはいっそう大胆に単純にすることが、一番演出したい場所を見事に浮かび上がらせるという絵画上の効果は、小説や台本でも使用されている効果だ。

「悲劇とか喜劇とか人はよく分類するが云々」
・これはロミオとジュリエットをよく象徴している言葉だ。

[3-6]

「パンドラの希望の箱」
・プロメーテウスにより火の使用すら獲得してしまった人間達に対して、ゼウスが世の中の悪しきものがぎっしり詰まった壺を土産にパンドーラをエピメーテウスに使わした。プロメーテウスの弟であるエピメーテウスは迂闊にもパンドーラを愛し、手元に置いたために、パンドーラはやがて禁断の壺を開け、世界に災いが降り注いだ。ただ一つだけ、希望だけが壺の中に残されたという。この壺は後に箱に変えられ、しばしば引用されている。

「ベルリオーズのマブ女王のスケルツォ」
《間奏曲風にベルリオーズのマブ女王のスケルツォが入ると効果的か。》この曲については後で楽曲解析のコンテンツにリンクを貼る予定。

第4幕

[4-1]

「パリスとジュリエットの掛け合い」
・原作自体が、パリスの線を継続させるために、登場させさらに2人の会話を織り込んでいる。継続性を強調するためにTokino工房版では舞踏会場でも2人の会話が設けられて、前半と後半におけるルーズなパラレル関係を形成する。ただし原作もキャピュレットがパリスを舞踏会に誘っていることから、会話がないだけで、舞台上ではジュリエットとダンスするシーンなどが演じられたのかもしれない。

「毒薬」
・毒薬は原作では飲み薬で、42時間の後(2日より6時間前になり、例えば深夜0時ちょうどに飲めば、目を覚ますのは翌々日の夕方6時。)

「運命の守護神ノルン(Norn)」
・北欧神話の運命の女神。通常3姉妹、ウルズ、ヴェルザンディ、スクルドを指すことが多い。世界樹ユグドラシルの根元にあるウルズの泉(ウルザルブルン)のほとりに住んでいるそう。

[4-3]

「毒薬2」
・劇場効果などより、私は飲み薬の瓶が転がっていて自然死と見られるなんてあり得ないというか所が気になって気になって我慢がならないこともあり、神父が眺めたり川に流したりするのにも、手にとって宝石のようにかざすのにも最適な、粒状の薬に代えた。

[4-4]

「楽師の音楽」
・楽師の歌は悲劇の結末を暗示しているが、キャピュレットが楽しくなって来るように、音楽自体は舞踏的で陽気な様相で作曲され、悲劇と喜劇の裏表の関係を表わしている。キャピュレットにもう少し知性があったら、何だ今の歌詞はと叱責したはずだが、残念ながらまるで気が付いていない様子だ。あるいはイタリアで上流階級の嗜みだったフランス語による歌だったのかとも考えられるが、楽師共の歌うものとしては無理があるかも知れない。しかし楽師がフランスやドイツからの来訪者で、自国の言語で歌ったものかも知れない。第1幕最終章のマブ女王の歌によって2人の出会いと恋の物語が始まるのとパラレル関係にあり、2人の別れと恋の物語が終わる部分を導いている。
・ここでの歌詞自体は、実際は黄金の時代から白銀の時代に至りと続くギリシア神話の世界を歌ったもので、ロミオとジュリエットのために特製された完全一致の世界観を持っているわけではないが、争いの果てのおぞましさの果てに許し合うことを臨む精神が、エンディングまでを先取りしているようだ。歌詞の発祥由来は原作の楽師達のショートコントの中にあった「銀(しろがね)の妙なる調べ」というキーワードにある。

[4-7]

「墓を蹂躙してやるからな」
・しかし実際にはキャピュレット家の墓に埋葬されるという悲しい皮肉が込められているのかもしれない。

2007/03/16

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