アルコール依存症患者の願い

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アルコール依存症患者の願い

お前だけは裏切って消えたりはしないから
僕は酒だけを友と慕(した)い真っ暗な砂浜を
鼻歌と一緒に千鳥足にもつれ歩こう
闇の烏も激しい波音も君の優しいほてりで
酔いどれに恐れを取り除いてくれるから
僕はお前にすべてまかせて無人の浜辺を歩こう
幸せのふりをしながら小道の断崖に尽きるまで
鼻歌を歌いながら千鳥足にもつれ歩こう
僕にもかつては人としての歓びがあった
豊かな家族と親しい友人と愛しい恋人があった
でも僕にとってはすべてが不可解だった
僕が本当の愛情についてもがき苦しむほど
彼らは僕を恐れて密かに退けようとした
精一杯の思いを込めて語るのをとどめようと
冗談で紛らわして僕の言葉を冷やかすみたいに
肩ですかして白痴みたいに笑っていた
やすい話しを喰らって笑い続けることだけが
彼らの生きる楽しみのようだった
僕は不快の渦の中でいつしか無口になった
砂を踏みつけながらずんずん遠くへ歩いた
その渦から逃れようとここまでやってきて
疲れ果ててぐっすり眠ってしまったのである
ふと目を覚ますと海が広がっていた
彼らとの距離は変わなかったけれども
不規則の潮が満ちてここは離れ小島
すべての人々は青い海原のはるか向こう
遠く対岸線をうごめいているのだった
僕は何日も何日もそれを眺めて暮らした
次第にその様子が悲しい走馬燈みたいに
取るに足らない動物絵巻のように思われる
そして自分もやはり無機質とも大差のない
下等な生き物の劣悪は不良品に過ぎないと
気が付いた時、僕は怖ろしくなったのだ
慌てて起きあがると対岸に向けて砂を蹴った
海に飛び込んで泳ぎ戻ろうとしたからである
人という生き物は同じ種族の中にあって
初めてアイデンティティを確認するぐらいの
この地球上に君臨する一介の動物に過ぎず
決して対岸より観察してはならないことに
気が付いた時、僕は怖ろしくなったのだ
潮の流れは激しいうねりとなって
僕は何度も海水を飲みこんだ
波をかぶり溺れそうになりながら
腕と足を振りもがくすべての力で
まるで死にものぐるいの蟻のように
どれだけ泳いだから分からない
でも海岸線はすこしも近付かなかった
ただ海鳥たちが長閑な鳴き声で
真っ青な空を優雅に飛び交っている
体を浮かせたまま海を覗き込めば
魚たちは長閑に餌を求めたり
輪を描いて泳ぎを楽しんでいるのだった
僕は不意に馬鹿馬鹿しくなる
もし岸に辿り着いたからといって
そこでどうすればよいのだろう
一度離れてしまった僕のこころは
永遠に人を動物として眺めながら
虚しく死を待つ以外に処方箋など
見つけ出せないのは明らかだった
僕は泳ぐのを止めて海に漂っていた
もう潮に呑まれて静かに消えるのだ
そう思うと疲れ果てた体もだるく
波をかぶり潮に流されるまま
僕は仰向けに空を仰いでいた
しかし、結局僕は助け出されたのだ
いや、僕が助けを求めてしがみついたのだ
僕は虚弱の精神の持ち主だったから
こんな自分ですら消えるのが怖ろしかった
神の憐れみとはこのようなものか
半分空になった酒樽がぽっかりと
僕の前に浮かび上がったのである
僕はその酒樽にしがみついて
海の中に浮かび上がりながら
息を切らせて樽の酒を飲みつくした
酒は僕に強がりの勇気を与えてくれた
泳ぎ戻る希望の力を与えてくれた
生き続ける活力を与えてくれた
僕は必死になって泳ぎ続けて
ついに離れ島に打ち寄せられたのである
友よだから僕はこれからずっと
この誰も近付かない無人島で
お前を毎日熟成させながら
お前と一緒に暮らそうと思うのだ
お前が僕の体を蝕んだからといって
それが今さら何の意味があるのだろう
時という相対的な流れのなかで
長く苦しい一生という時間は
短く楽しい瞬間に勝るものであろうか
僕はせめてお前と愉快に戯れながら
束の間の人生を千鳥足に歩んでいく
ああ酒よ、お前だけは寂しいこの心を
どうか裏切らないでささえて欲しい
もしお前に殺される日が来たとしても
僕はそれをよろこんで迎え入れよう
それだけが僕に残された
最後の望みなのだから
今日もようやく酔いが回り始めたようだ
そうして哀しみがぼやけていくのだ
ああ、今日も楽しかったなあ
お休み、僕のたった一人の友達よ
明日もきっと君と戯れよう
お休み、僕のたった一人の親友よ
僕の生涯もお前に会うことが出来て
まんざら不幸だけでもなかった
そんなことをつぶやきながらもう一杯
僕はうつわに酒を注いで一気に飲みほした
でも何故だろう、いつの間にか瞳からは
溢れ出した涙が止まらない
悲しいのではない
苦しいのではない
これは嬉しい涙なのだと
懸命にこころに言い聞かせながら
倒れるように枕をすり寄せる
今日も一日が暮れていくのだった

2008/07/25

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