信号標

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信号標

とことわの願いあまた
星降る夜に消えませり
銀河の虹さえ架け橋の
薄れて汽車は過ぎてゆく

だから愛のかたち崩れて
熟しすぎた願いの幾重(いくえ)にも
いつしか憎しみの炎にさえ包まれて
油のごとき結末を迎えたとしても
それはしかたのないことです

もし僕を嫌いになっても
嫌いになったからって
僕のこの心の奥にかかげた
君への思いの結晶だけは
どうか何者も汚さずにいて
離れたあなたさえもそっと
手を合わせて忘れた頃には
祈ってくれたらいいのだけれど

そはあまたの論考(ろんこう)のなかにあって
唯一のすがたして真理となしうるほどの
大切な星のひとかけらみたいに
僕には思われるものですから

例えば君が夢を見たとき
僕はこんなに黒い髪を弄んで
そっと撫でてみたりもする
洗ってあげたらシャンプーの
香りもさらさら音をたて
君の寝息をつつむだろう

ああ遠くで列車の音がするねえ
なんだか淋しそうに響いて来るねえ
もう誰も乗っていないくらいの
走る夜汽車はどこまで行くだろう
それを訊ねてみるでもなくて
僕は夜風に祈ってみようか

懈怠(けだい)のうちを幾とせの
されども甘き日々の暮らしに
寄り添うようにほほえみ尽くし
君と二人で歩いてゆきたい
そんな願いもあるのです

でもごめんなさい
僕には隠しきれない
真っ黒の珠(たま)が胸にひとつ
黒蝶貝(こくちょうがい)に膨らまされた
逃れぬ宿業(しゅくごう)みたいになって
ぽっかり浮かんでいるのです

それがもはや両手で抱えきれぬほど
巨大な黒い珠となって黒い光りで
こころを日食みたいに遮っているのを
あなたははたして知っているでしょうか

つかみ取れないくらい冷たくて
鍾乳石のしたたるしずくの
長年黒く結晶化したこの珠が
もし近くにいるあなたをいつか
悲しませるのだとしたら
やがて柔らかな肌を通して
この固まりがあなたの胸に
ついにはこだまするのだとしたら
僕はどうしたらよいだろう

いいや、僕は信じてはいない
心の感染など信じてはいないです
そして世を生き過ごしてずいぶん
人の営みのすべというもの
今ではすっかり見晴らしの
高台から眺めるみたいな気配ですから
僕は心の感染などは
まるで信じてはいないのです

シンパシーとか
もつれた糸だとか
シンクロがどうとか
位相がどうしたとか

それが何だというのでしょう
ただあなたはいつしかこんな私の
思い定まらぬ躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)に
ついには侮蔑の心を持って離れゆく
そんな時が来るのだと思うのです

ですからそっとあなたのおでこに
すやすや眠ったままの瞳の上に
やさしく口づけを交わすのです

ねえ、僕がもし僕でなかったら
きっとどんなに懸命になって
あなたの愛を繋ぎ止めようとして
あなたを幸せに繋ぎ止めようとして
懸命に命を燃焼させたことでしょう

こんな言葉はあまりに安っぽく
陳腐でありまた恥ずかしくて
お聞かせしたとて大笑い
落語家も座布団から転げ落ちて
こりゃかなわねえと退散するくらいの
お目出度い言葉にも思えるのだけれども……

もし僕を嫌いになっても
嫌いになったからって
僕のこの心の奥にかかげた
君への思いの結晶だけは
どうか何者も汚さずにいて
離れたあなたさえもそっと
手を合わせて忘れた頃には
祈ってくれたらいいのだけれど

ああまた列車が走ってゆくねえ
なんだかみなだが煙って見えるねえ
もうみんな夢にたわむれるくらいの
夜更けに列車は何を運んでゆくだろう
僕は夜風に祈っていようか

とことわの願いあまた
星降る夜に消えませり
銀河の虹さえ架け橋の
薄れて汽車は過ぎてゆく
信号標は哀しからずや

2009/7/15

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