遠きこころへ

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遠きこころへ

お久しぶりです
あなたと逢うのはわずか一年
なのにこんな遙かの銀河を隔てて
届くことなき祈りみたいにして
僕はかなたを眺めるばかりなのです

ほんに小さなせせらぎくらいの
カレンダーの日めくりにしたって
三百六十五回を秒針ひとつに数え連ねて
裂いは捨ててもたいした時間は
かかりもしないことでしょう

あなたの姿は変わるでもなく
わずかばかりの声も変わらず
なのにあれから太陽のまわりを
ぐるりとひと巡りするくらいの
惑星の営みも振り出しに戻るほどの
あるいは十二星座を流れゆくほどの
一年くらいが過ぎたというのです

けれども僕は鏡のまえに
眺める自分の姿もやはり
まるで一年隔てたむかしの
姿のまんまでたたずむばかり
なのにこころはまるで真っ黒で
あの頃よりももっと深くに
墨を湛えたような有様でして
誰すら人の住まないくらいの
諦めの境地に到るのです

自転車がまた軋みました
タイヤがすっかりぼろぼろなのです
それでもギイギイ響かせて
脳天気に走っていた自転車の
不整脈じみた音はいつから
外れ掛けたベルはいつから
消えかけのランプはいつから
ああ、僕にはわからないくらい
ルーズな時の流れでもって
これまで何とか走り切っていた
わずかばかりの距離だというのに
今朝また僕がまたがって見たところ
タイヤはまるでもう萎びたまんま
空気を入れてもすかすか響くばかり
無理に漕ぎ出すとその拍子に
ぽろりと部品が転がり落ちるのです
今こそ僕ははっきり悟る
爪も伸びなくなった僕ならば
こころも伸びなくなった僕ならば
今こそ僕はすべてを悟るのです
例えばほんのわずかの時間のなかで
僕はポンコツになっちまったのです

ねえ、あなたは元気でありますか
ご飯は美味しいのですか
今でも夜更けにこっそり泣くのですか
それはあなたの言葉のなかにあっても
僕には大切な台詞みたいに思われたものでした
あの頃は僕にもなにやらかやらの情熱くらい
危なっかしくて、でも辛うじて残されていて
それは人にとっては無くしてはならない
大切な支えであるからこそ誰しもきっと
頑な守り通されるべきガラス細工のようなもの
人に対する最後の希望のようなものであったのですが
あの頃は僕とてもそのガラス細工が見るも無惨に
パリンと音を立てて木っ端みじんに砕け散るなんて
まるで考えても見なかったのでした

幸せでしたらいいのです
僕はひとりの部屋の中で
背もたれくらいの伸びをする
それでいて花瓶の空っぽを
横に眺めてほほえむばかりです
おとといまでは安っぽい
造花の一輪もあったけど
茶色になって捨てたなら
空の花瓶は素っ気なく
棚にちょこんと乗るばかり
それ以外には何もないのです
それにしても、不思議ですね
僕はそういえばあなたの返事を
一息で記してほっと振り向いた時
棚には確かに一冊の小説が
置かれたままになっていたのですが
あの日に見つめた書籍はいずこへ
いずこへと消え去ってしまったのでしょうか

※  ※  ※
     ※  ※  ※
         ※  ※  ※

こんなお遊びは便利なものですね
酒のそそぎを密かに果たしては
戻り来るあいだには言葉の続きをさえ
まるで忘れちまっているのです
なるほど、一年たったなら僕はもはや
ルーズな繋がりのなかに記憶と戯れて
辛うじて僕だと信じているくらいの
まるで別物なのかもしれません
ですが、あなたへの思いだけはきっと
今でもときどき燻るようにぱっと赤くなり
やりきれなくてカーテンをそっと開けば
夜更けの灯火はぽつりぽつりと消え落ちてゆく
ああ、人々はなおさら明日の仕事のことやらを浮かべ
崩れるようにして眠りに就くのでしょうか

僕には分からないあなたへの思い
あの頃は悲鳴をあげるみたいに苦しくて
今では遠くて摘み取れないような花なのです
忘れないための儀式みたいにしては
僕はそっとあなたを歌うのですが
しょせんは流れゆくべきつかの間の煌めきの
燃え崩れる流星の最後の閃光みたいにして
僕にとってはもはや誰のこころも遠くなり
皆目見当も付かないありさまです
かといって、さみしさは募るばかりで
毎日は、こころ震えるばかりですから
わずかな歳月を思い浮かべる僕にとっては
あなたのこころをわずかに思うくらいが
何だか最後の人らしい営みにも思えてくるのです

それにしても忘却はあなたのほうが早くて
受話器を切ったそばからすでに離れてしまったのだし
僕にしたって姿をさえおぼろに消えゆくくらいの
セピア色した写真のかなたに思い出すくらいの
遠き遠き絵空事みたいな気もするのだし
僕らきっと、何かを得たと信じるたびごと
記憶の淵から次々にこぼれ落ちてゆくものがあり
それは、掴み取れずに網でもすくえずに
逃した金魚をばかりに眺めてため息ついて
また次の屋台に向かう情熱くらいのところで
辛うじて精一杯に生きているみたいです

君は笑っているのか
ならば安心、僕もそっと笑いながら
そうだね、僕たちずいぶん馬鹿なのだから
融通の利かない道筋ばかりを
互いに無頓着に歩んでいたっけね

だけど君が笑っていて
そして僕のことなどもう何も知らず
僕の居ない君だけの野原には
僕の居ない分だけきれいな花が開ききって
ああ、僕はどれほどの花咲く仕草を妨げて
憎しみを投げかけるためにのみ世の中に
生まれ落ちたが定めなるかと
悲観しようと想ってみても
あんまり奇天烈な珍説じみていて
かえっておかしくて口もとゆるんで
ほほえみにひたっているのです

あなたは羽ばたいて
立派に生きるがよいのです
その姿をばかり
僕は眺めようと思うのです
毎日が秒針の過ぎゆくくらいの
些細なことで流れ去るならば
それは人としてはもはや終末の
末期症状かとも思えるばかりです
こんな悟りの極致の淋しさにしたって
愚かなる哲学者やら小説家どもの
がらくたみたいな累積に処されては
玩具として弄ばれるがせいぜいのところで
こんなものはまるきり論理でもなんでもなく
単なる惚けにすぎないといった有様なのです

僕には愛は分からない
それを打ち砕いたのは誰だろう
僕には夢も分からない
笑って叩きつぶしたのは誰だろう
せめて僕は自在にエゴと戯れながら
人を怖れていのちを惜しむばかりなのです

なれの果てだねなんて人は言います
いやいや、言いますだなんて
まるでこれはとんだ出鱈目だ
路傍の石を蹴ってみたからって
なれの果てだなんて呟こうものは
僕以外には誰も居ようはずもなく
けれども他の誰かにしたって
やはり石ころには違いないものだから
その無価値を舐めぬこそ我らであるべきところを
僕はどうしたものかぽつりとそれを悟って
生きることの意味をすっぽり落としたみたいで
人との付き合い方もぽつりと落としたみたいで
それでも堪えきれないこころは震えるばかりで
ぐちゃぐちゃに揺れ動いてたらわずか一年くらい
ぱっと過ぎ去ったみたいな心持ちもするのだし
僕は本当によろこびをすら恐れるくらいの
熟成に失敗したなれの果ての醜態を晒して
訳分からんものとしてぐじぐじとふくれている
それが今の僕では無いかしら……

歩っても寝転んでも
自由であるならどだい教育も
飼育の餌さえ要らないものを
言語の数ほど思想プロセスの
若干異なるくらいの夢でもって
誰もがだらだらいのちばかりを
消費するとは誰の言葉か
宇宙の定理に訊ねてみれば
それはいのちの錯誤さと
呟きながら笑ってた
それならいっそ無機質の
愛の悟りというものを
我は信じようともしたけれど
それは思索の極限さえも
辿り着けない静寂であって
僕はやっぱりこのいのち
鼓動を確かめてはなみだばかりを
ながすくらいが今でも関の山で
なぜなら、ここに、こんなにエゴがあって
幸せになりたいとそればかり
きっと今でも叫んでいるのに
僕はもはや一年前のこころには戻れない
あの頃のような走る気力のほんの一握りが
僕にはまるで残されていないのです

夕闇が一番星を浮かべても
部屋はもう暖房もいらず
かといって冷房も必要なく
話し声など聞こえて来ることもなく
ただ静けさばかりが降り募ります
一年前にもある日のここで
確かにあなたの言葉を聞いて
あるいは、膝を抱えて受話器を眺め
待ちわびたことすらあったのだけれど
かすかな思い出は夜空にばかりうつくしく
澄み渡るようにさえ思われる一方で
呪わたてみたいな自らの指の感触に
思わず戦慄するような夕べです

あるいは宗教かぶれの情熱か
こころとは美しい響きであるのに
僕らの実体というものは
僕らという肉体の奥底は
なんだかとっても穢れているみたいな
汚らしさばかりが潜んでいるようで
はたして今だ自分は少年の純真さのままなのか
それとも歪みきった老齢の醜さに朽ちるのか
それもまるで区別もつかないような有様で
歩みゆく一匹の犬は畢竟(ひっきょう)何ものなのか
それは永遠に分かりようがないのだけれども……

小さく響かせればラジオの向こうから
知りもしない歌詞がかつての僕みたいな
こころをパラフレーズして流れて来ます
そわそわしたあの頃を追い求めるうちに
本当のあなたの姿ばかりが遠ざかって
かすかな残照みたいになってしまう
それはそれでよいのだけれど……

好きという言葉の素朴な深みと
いのちの本源の豊かさを思えば
何も分からなくなる時の徒労みたいに
しどろもどろに我を忘れる一方の僕は
いつも不可解を漂っているのです

おやすみなさい、ねえあなた
安らかな、けれどもよい夢を
空さえもはや雲に遮られ
まるで分厚い蒲団みたいにして
早く寝るように諭しているのです
ですから、おやすみなさい
ねえ、あなたのこころだけが
僕にとっては本当の人のこころだったような
そんな気持ちも今はまたほんの少しばかり
何ものにも干渉されないくらいの静けさでもって
僕の純粋心理としてそっと浮かんでいるのです
こころのなかにそっと浮かんでいるのです

2009/08/21

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