二十四節気 (にじゅうしせっき)の成立

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二十四節気(にじゅうしせっき)の成立

 紀元前千年頃にはすでに冬至(とうじ)と夏至(げし)の存在が知られ、冬至を起点としつつ月の満ち欠けに基づく太陰太陽暦が開始していたらしい。それはどういうものか。

 まず約三〇日で新月から満月を経て新月へと帰る月の運行に合わせて、新月の日が「月立ち(つきたち)」となる。この日を「朔(さく)」と記すが、この漢字だけでも「ついたち」と読むことが出来るのはそのためである。

 もっとも今日では、新月は月と太陽の黄道上の経線(黄経)が一致する(すなわち月の見えなくなる)時を差すものだが、昔は消えた月が初めて見えたものを新月と呼んだようであるから、歳時記的には「二日月」ごろを眺めて「新月」と歌っても構わないような気もする。

 その後、満月の頃が月半ばに訪れて、また新月へ帰ったところで翌月となる訳だが、これを12ヶ月繰り返して一年を迎えた場合、354日くらいであって、365日にたいして約11日短くなってしまう。

 しかし、新月が月の始まりであるから、この時点では日にちを調整するわけにはいかない。つまり11日待ってから、翌月を迎えようと思っても、月の満ち欠けが待ってはくれないというわけだ。しかたがないから、ずれたまま、355日目は、翌年の1月を迎えることになる。

 仮に初年の正月(新月の朔日)が西暦に合わせて1月1日に始まっていたとしたら、翌年の正月は12月の後半に、さらに翌年には12月の前半に正月がやってきてしまうことになる。

 しかし、3年間頑張ると、おおよそ一月分のずれになるので、3年目のいずれかに閏月(うるうづき)をもうひと月加えると、完全ではないが、冬至から夏至へといたり季節を周期する「太陽暦」と軸を合わせることが出来るというわけだ。

 つまり3年目にもうひと月加えて、再び上の例だと1月1日付近の新月を正月と定義するのだが、このもうひと月のことを「閏月(うるうづき)」といい、閏月のある年のことを「閏年(うるうどし)」と呼ぶ。

 今日呼ばれるところの「閏年」は、実際は365.2424日かけて再び春分を迎えるという、太陽年・回帰年が、4年ごとに約一日のずれを生じてしまうのを、2月に「閏日(うるうび)」すなわち2月29日を設けて修正することなので、注意が必要である。(いや、そんな注意は必要ないか?)

 一方、天文学において、太陽が天球上の同じ恒星間の位置に戻ってくるまでの一周期を「恒星年(こうせいねん)」といって、約365.2564日になっている。太陽年とずれているのは、地球の「歳差運動(さいさうんどう)」(軸がずれて弧を描きながらコマがぐるぐる回るような運動)によるものだ。おまけに地球が太陽の周りを回る速度は、地球の軌道が楕円軌道のために変化するし、地軸の傾きが作用して、均時差(きんじさ)が生じるために、南中時間すら、日によって異なるといったありさまである。

 こうして、小学生の頃に学んだ、単純明快な公式は、すべてがでたらめだったと嘆く頃を迎えるのは、科学者の試練のあるいは第一歩なのかもしれないが……

 とにかく、この「太陰太陽暦」に基づいて、古代中国では、まずは冬至に新年がおかれたらしいが、三ヶ月ごとに季節を「春夏秋冬」と呼ぶようにもなっていったらしい。(らしいばっかりで、愛おしくって、ごめんね?)

 さて、二十四節気は、春秋戦国時代頃に成立したとされている。まずは古代天文学でもっとも容易に把握されたであろう、
    冬至・夏至を二至
    春分・秋分を二分
と呼び、合わせて「二至二分(にしにぶん)と言い、
 これをもって、暦の柱とする。

 実際は、戦国時代の群雄割拠の中で、年始をどこに置くかといういくつかの考えが生まれ、そのうち「夏正(かせい)」(夏王朝が使用したと考えられたもの)が優勢になったが、これは冬至を含む月の途中が十一月となって、翌年が十二月となり、正月を呼び込むようになった。これによって、春夏秋冬と二十四節気が結びつきを深め、上の二至二分の名称を生み出し、また二至二分のそれぞれの中間点である重要な区切りを、

冬至と春分の中間点が、立春(りっしゅん)
春分と夏至の中間が、立夏(りっか)
夏至と秋分の中間が、立秋(りっしゅう)
秋分と冬至の中間が、立冬(りっとう)

という名称で呼ばれるようになったとされる。
 この四つを「四立(よんりつ)」といい、二至二分四立を柱として、やがて、中気(ちゅうき)と節気(せっき)を交互に繰り返しながら、一年を二十四分割する、「二十四節気(にじゅうしせっき)」の名称が完成したのは、戦国時代(前403-前221)頃であり、前漢の『淮南子』の中にはすべての名称を見いだすことが出来るそうだ。

2015/11/13

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