・晩春も進みゴールデンウィークも近づく頃には深まる春の奥に初夏の息吹ばかりは見はらせり。「春更く(はるふく)」「春闌(はるたけなわ)」「春闌く(はるたく)」「春深む(はるふかむ)」など。
春深し
黙して語らぬ
渋茶かな
パレットの
春を更(ふか)みの
色選び
春深し
いよよ伸びゆく
草葉かな
春深し
いよよ背伸びの
草葉かな
さかづきを
春たけなわの
縁(えにし)かな
深々と
春の去りゆく
気配かな
波音を
春たけなわの
貝の耳
深き春
ひとりぼっちの
地蔵かな
犬追いの
子らの元気や
春深し
あなたのみ
煩(わずら)い満ちては
春深し
[前田普羅(まえだふら)]
春更けて
諸鳥啼くや
雲の上
[岩井英雅(いわいえいが)]
滝もまた
春たけなわの
大しぶき
・「惜春(せきしゅん)」とも言う。春を惜しむこと。
惜しまれて
去りゆく春も
富良野かな
春に手を
かざして惜しむ
窓辺かな
惜春は
鼈甲細工の
干支守り
チャルメラの
春の惜しみも
甲高さ
花は去り
緑をばかりに
春惜しむ
・夕暮れまたは春の終わりを表現する言葉。曖昧模糊(あいまいもこ)と両方を併せ持つことも多いとか。「春暮(しゅんぼ)」という表現もある。
曖昧を
模糊と雲去る
春の暮
虫けらの
瞳のかなたや
春の暮
・「かなたの雲や」とかの方がいいか?
青々と
川べり染めるや
春の暮
春も暮れ
湯浴みの石鹸
降ろすかな
待つ影の
春暮ばかりが
軒明かり
日ざしで暖められたところから発する大気温度と周辺大気温度の混じり合うような揺らめき。春の季語となっているが、夏の季語で全然構わないと思う。
陽炎の
手を振り消える
分かれ道
陽炎の
かなたに響く
クラクション
陽炎の
生まれ故郷や
宮古島
糸遊(いとゆう)を
ゆら揺れ灯台の
白さかな
つくば道
陽焔(ようえん)なれども
小一時間
線路錆びて
なお野馬(かげろう)を
残しけり
[芭蕉]
かげろふの
我(わが)肩に立(たつ)
かみこかな
[夏目漱石]
ちらちらと
陽炎立ちぬ
猫の塚
・正しくは、ちらちらの後ろは長いくの字の繰り返し記号。
[飯田蛇笏]
行くほどに
かげろふ深き
山路かな
・マメ科に属するつる性の落葉樹。特に一般的な野田藤(のだふじ)を指す場合も多いが、他にも山藤(やまふじ)などいろいろある。藤棚(ふじだな)を設けて花を観賞するのもまた一興。
・「藤の花(ふじのはな)」「藤房(ふじふさ)」「藤見(ふじみ)」「白藤(しろふじ)」などなど。またウィキペディアより、
『異名に「さのかたのはな」、「むらさきぐさ」、「まつみぐさ」、「ふたきぐさ」、「まつなぐさ」などがある。』
だそうです。
靄籠(もやご)もり
藤棚ばかりの
色絵の具
肩掛けの
藤見の色を
三十路かな
牛島(うしじま)の
宵のお化けも
藤の宴(えん)
桜より
藤ふさわしき
余生かな
灯させず
月下に置かれし
藤の花
[芭蕉]
草臥(くたびれ)て
宿かる比(ころ)や
藤の花
[蕪村]
藤の花
雲の梯(かけはし)
かかるなり
[芝不器男(しばふきお)]
白藤や
揺りやみしかば
うすみどり
・俳句では古称の「かわず」が母音が「aau」で断然心地よい。げこげこ鳴くあ奴は、オタマジャクシの頃はえら呼吸で、蛙になると皮膚とわずかに肺で呼吸する両生類である。変温動物で、冬は冬眠する奴らが多いが、蛙と行っても種類は相当にある。古くは「河鹿(かじか)・カジカガエル」の秋の虫じみたうつくしい鳴き声が愛されたが、今日ではかえって水面さげこげこ騒ぐトノサマガエルなどが蛙の代表選手となったとか。河鹿が夏の季語など、ややこしい分類は黙殺するが吉。聞こえた時期があなたの季語でOK。
・「土蛙(つちがえる)」「蛙合戦(かわずがっせん)」「初蛙(はつかわず)」「蛙鳴く(かわずなく)」「昼蛙(ひるかわず)」「夕蛙(ゆうかわず)」「夜蛙(よかわず)」「遠蛙(とおかわず)」「殿様蛙(とのさまがえる)」「赤蛙(アカガエル)」などなど。
畦踏めば
蛙逃れや
水の音
・芭蕉の「古池や」のスケール感がこれほどまでに矮小化した駄作っぷりを楽しんで貰いたい?
初孫の
初の言葉や
初蛙
冷や汗も
夢であったか
蛙鳴く
昼蛙
居眠り腹(ばら)の
二三段
汽車も今
無人の駅や
遠蛙
千年の
いにしえにしても
蛙かな
ずしどんと
蛙おどかす
ガキ大将
積まれてた
古び土管の
雨蛙(あまがえる)
[芭蕉]
古池や
蛙飛こむ
水のおと
・かつて藤原為家が、「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」と歌ってしまったので、生まれた春の季語とされる。川向こうの田んぼの夕暮れに何かと思ったら、皆さん、聞いて下さい、何と亀さん、鳴いていらっしゃる!といったニュアンスだと、ぜんぜん台無しになってしまうとは言え、意味はそんなところであります。亀は声帯が無いので鳴けませんが、空気を吐き出すときの共鳴みたいな、不思議な音は吐き出すらしく、それを聞いたともされますが、かえって、何の音かと思ったら、鳴かぬものが鎮座していらしったよ、という感慨を歌ったとも考えられます。はい。
亀鳴くを
ロックンロールの
ドラムかな
桃源の
秘境泉や
亀の声
留守番を
嫌がり泣くな
亀の歌
亀もなお
地蔵も鳴きます
里の春
売られゆく
己(おの)がこころを
亀は鳴く
・決して縄文人に対する「弥生人」ではない。旧暦弥生(三月)が尽きる日、つまり最後の日を指し、つまりは春の終わりをも表現する言葉である。だいたいゴールデンウィークあたりに重なってくる。他にもっと率直な「三月尽(さんがつじん)」「四月尽(しがつじん)」などもある。
発動の
出店の数や
弥生尽
喜びと
淋しさ混ぜては
弥生尽
弥生尽
アイネクライネの
二楽章
四月尽
遠足日和や
朝花火
四月尽
学園祭には
昼花火
・こっちの方がましか?
雲垂(くもだ)れも
三月尽くして
霽れ間かな
[几董(きとう)]
怠りし
返事かく日や
弥生尽
・「八十八夜の別れ霜」みたいな、季節外れの最後の霜が作物をいたぶることがある。「晩霜(ばんそう)」「終霜(しゅうそう)」「名残の霜」「忘れ霜(わすれじも)「霜の別れ」「霜の果(はて)」など。
袖なしの
出くわす明日(あした)を
忘れ霜
晩霜や
若葉のかげの
犬骸
殻籠(からご)もる
名残の霜か
かたつむり
終霜の
かじかむ路線や
始発駅
霜の果
老骨消えて
子猫かな
[石橋秀野(いしばしひでの)]
別霜
夜干(よぼし)のものゝ
濃紫(こむらさき)
・もともとは種籾(たねもみ)を密集させて撒いて苗を作り、それを改めて間隔を開けて田植えし直していたので、その苗を作るときの田んぼを苗代と呼んだ。今日ではもっぱら田植機にセッティングするための育苗箱(いくびょうばこ)で育てる場所を苗代と呼ぶ。
・苗代田(なわしろた)、苗田(なえだ)、短冊苗代(たんざくなわしろ)、苗代粥(なわしろがゆ)、苗代水(なわしろみず)、苗代時(なわしろどき)、など。
苗代田
雉子(きぎし)逃げゆく
昼の鐘
老いたれば
なに想うなく
苗田かな
苗代に
二匹跳ね飛ぶ
蛙かな
[長谷川素逝(はせがわそせい)]
苗代の
月夜ははんの
木にけむる
・「春の暮」と同じ。春の夕暮れと晩春を共に指したり曖昧を楽しむ。「暮春(ぼしゅん)」「末の春(すえのはる)」など。
ミサ室の
暮春が頃の
祈りかな
彩りを
若葉埋(うづ)めや
末の春
暮の春
明かりの窓と
ノクターン
すえの春
棹(さお)さす情や
号鈴(べる)の音
(草枕)
[一茶]
艸(くさ)の葉も
風癖(かざくせ)ついて
暮の春
[日野草城]
人妻と
なりて暮春の
襷(たすき)かな
[永田耕衣(ながたこうい)]
いづかたも
水行く途中
春の暮
・「夏隣(なつどなり)」ともいう。夏への期待やら思いが高まって、春のことなんか束の間忘れちまうくらいの心持ちである。
夏近し
灯(とも)し好(ごの)みや
虫の影
新聞を
めくる風あり
夏近し
蟻も這う
文字の間に間を
夏近し
旅先で
投げ込む葉書や
夏隣
精一杯
しぶく翡翠や
夏隣
[内藤鳴雪(ないとうめいせつ)]
夏近き
吊手拭の
そよぎかな
・「春夕(しゅんせき)」「春薄暮(はるはくぼ)」など。のほほんしている春の夕空などの特徴をため息一つと詠んでみたくもなるものです。はい。
春の夕(はるのゆう)
じゃがいも煮込む
鍋の音
ベランダに
春夕色した
君のシャツ
春薄暮
イチゴミルクの
あどけなさ
[蕪村]
蜀の火を
蜀にうつすや
春の夕
・なかなかにたいした句と思う。
・昨今特に身に浸みる言葉。「春の暑さ」「春の汗」なんてのも。
春暑し
水まく庭に
乾きかな
春暑し
茶飲み大工の
さぼり癖
前線の
去りゆく春を
暑さかな
・「春の日傘」「春のパラソル」など。紫外線の猛威は五月ともされるならば、四月にもなれば日傘も活躍しそうなところをもって、春日傘と呼ぶのである。「豚のバラ肉」を「豚バラ」と呼ぶようには「春パラ」とは略さないから試験の時は要注意である。
春柄の
くるりんパラソル
あなたかな
曇でも
めげずに春の
日傘かな
バス停を
くたびれ待つ手の
日傘かな
パラソルに
蝶を呼び込む
日ざしかな
・遠足は秋だ、とお怒りの方々もあろうが、季語では春だと言いはるのだから、しかたがない、あきらめて俳句のひとつでもこさえてみようかのう。
遠足の
駄菓子予算の
ちょろまかし
ぐっすりと
遠足終わりの
バスのなか
遠足の
旅立つバスを
チャイムかな
園児らは
隣の町も
旅路なり
[後藤比奈夫(ごとうひなお)]
遠足と
いふ一塊の
砂埃
・生糸(きいと)を得るために蚕(かいこ)を飼うことで、昔は一般の農家でもしばしば副業として行ってきた歴史がある。餌のための桑の葉を取る「桑摘(くわつみ)」なども季語だが、「養蚕(ようさん)」「蚕棚(こだな)」「飼屋(かいや)」「蚕の眠り(このねむり)」などいろいろとあるようだ。春に孵化したものが「春蚕(はるこ)」で他にも「夏蚕」「秋蚕」とあるそうです。桑の葉をちょくちょく変え、食われた葉の始末や糞の始末で、繭になるまで結構大変らしい。
・さらにリサーチ。家蚕(かさん)と呼ばれる蚕は、ある時昆虫としての誇りを捨てて?人間に飼い慣らされてしまった切ない昆虫である。自然界に放り出すと堪えきれずにばったりと倒れてしまうくらいに情けないが、過保護にして大切に育ててあげると調子に乗って繭(まゆ)を作ってくださる。蛹から羽化して蚕蛾(かいこが)になるための準備であり、繭は一本の糸から出来ている。羽化してしまうと自らの生糸を解かして出てくるので、そうなる前に「大切に育てたのは美味しいとこ取りするためだった」の人間的行為により茹でられて、蚕は死んでしまう。死んだ蚕はもっぱら餌などに再利用され、一方繭からは生糸(1個で1200〜1500mだそうだ)が取られ、やがて絹となるわけだ。産卵させるための蚕は蛾として出てくるのを待つ。こいつがまた、餌も食わない、羽根は退化して飛べない、という情けない生き物で、ただ産卵のためにのみ成虫の全生命を掛けて、その辺をちんたらと歩きまわっているようである。そんな家畜的大切さから、奴らは一頭二頭と数えられるのだそうだ。
古きもの
蚕棚も今は
埃かな
養蚕も
再開する気に
なれぬかな
あれほどの
桑のあさりや
蚕の眠り
[水原秋桜子]
高嶺星
蚕飼の村は
寝しづまり
・思わぬ春の霜で桑の葉や茶葉が冷害にあわないように、霜の予想と共に籾殻や木の葉などを燻(くす)べる防御策だそうだ。「くぐし」とも。今は電動のファンを回したりするとか。
今の世に
ボタン一つを
霜くすべ
寒さには
驚く犬も
霜くすべ
人声の
闇打つあたりを
くぐしかな
・栄螺(さざえ)をそのままの状態で火に掛けて焼いて、ちょっと醤油くらいのところでいただく料理。「栄螺の壺焼」略して「壷焼」、あるいは「焼栄螺(やきさざえ)」など。
こらずして
壺焼醤油(じょうゆ)の
味覚かな
壺焼きに
呑むべきものも
忘れけり
傾きを
慌て熱しや
焼栄螺
天(あま)つ人
くだり来たりし
焼栄螺
[石田波郷]
壺焼や
いの一番の
隅の客
・朝の起き損ねるで眠り過ごすような長閑さもまた春らしき。「春眠(しゅんみん)」より明るくなってから寝ている様子がいっそうクローズアップ。(当社比200%)
里帰り
すれば朝寝の
烏かな
日だまりの
猫も知らずに
朝寝かな
一限の
うつぶせ古文の
朝寝かな
朝寝にも
罪の意識を
昼時報
雨粒に
歌う唄なく
朝寝かな
[村越化石(むらこしかせき)]
よき旅を
したる思ひの
朝寝かな
・つまり「春の愁い」「春愁い(はるうれい)」のこと。秋の「秋思(しゅうし)」に対して、「春思(しゅんし)」ともいう。長閑さや生き物の活動にもときおり愁いの思いにおちいる時、人はそれをこのように表現するのである。もう少し悲観の方に走ると「春恨(しゅんこん)」「春かなし」などの言葉になる。
春愁を
癒やす薬は
あなたかな
窓ガラス
うちより閉ざすは
春愁い
春恨を
込めて絶句の
ピアノ曲
・それは滝廉太郎の「恨み」ではなかろうか。
切花を
かなしき春の
ほのめかし
[高岡智照尼(たかおかちしょうに)]
春憂ふ
ことなく生きて
ありがたし
・「壬生狂言(みぶきょうげん)」「壬生踊り(みぶおどり)」「壬生祭(みぶまつり)」など。京都の壬生寺において、四月二十一日から二十九日まで行われる大念仏会(だいねんぶつえ)。その間に狂言が行われ、「壬生狂言(みぶきょうげん)」などと呼ばれる。仮面を付けた無言劇で、他にも節分と十月にも行われている。
囃子にも
寡黙をつらぬく
壬生狂言
[桂信子]
怒るとき
片足上げる
壬生狂言
・風船には今日子供に愛される「ゴム風船」の他に忘れてならない「紙風船」もあるが、しばしばゴム風船にはヘリウムが込められて、空中をぷかぷか漂いながら、紐に結わえられて子らを喜ばせるものである。長閑なら春にしちまえってんで、春の季語だという。
風船の
爪立て猫を
破裂かな
孫よりも
ほほえむ祖母の
紙風船
指の紐
結わえて風船
ゆらゆらり
2009/08/18