ケサランパサラン

(朗読) 

ケサランパサラン

 しゅんとして悲しみの舞い散るみたいな、さくらの花びらは淋しいものです。

「若葉、若葉、さくらの若葉もわたしです」

 あたまが若葉色に染まったわたしは、怠惰(たいだ)のこころでさまよい歩く。ひとりぼっちは、はかないくらいの塾帰り……

「どうしました」

不意に背中がつぶやいた。びっくり。

「いいえ、あまりさくらの若葉だものだから」

あわてんぼうして振り向くと、

「それは、葉桜というのですよ」

と言ったのは、ああ、駄目だ駄目だ。わたしの捜し物とは全然違う。

「そうですか、ありがとうございます」

それはただの、中年のサラリーマンでした。のん子がっかり。

 わたしが、ぼうっと見上げていたものだから、春がすみの憂うつにでも囚われているのかと、心配してくれたに違いない。

 そうじゃないんだ。

わたしは元気よく、

散歩をしているだけなんだ。

こうしててくてく歩きゆく。

靴音がてくてく鳴り渡る。

それから立ち止まって、

ちょっと葉桜を、激写してみる。

「はい、ぱしゃり」

さっきの中年が見えなくなったので、声に出したりして。

 ちょっと愉快が帰ってきた。残りの半日、頑張りましょう。さっそく添付ファイル。

「送信、送信」

 ああ、怠惰なわたし。ひとりぼっちの、今日は日曜日。



 うちの鍵をカチャリと回しても、お帰りの声はしてこない。

 日曜なのに、働いている。そんな母さんはえらいと思うけど、つまらないほど不満足。一人で見る、テレビなんかはつまらない。それに、何だかだらしない。

 誰それが好きなんて、お笑いのことばかり、由希子なんかは、はしゃいで回るけど、わたしはちょっともの憂い。良いところが、どこにもないのだ。アメリカの不思議動物の、バラエティードラマの方が、ずっと面白い。節度をわきまえている。動物なのに、まだしも品位がこもっている。

「それじゃあ、こっちへ、もってこさせろぉ」

 この間の、台詞の面影をつぶやいてみた。もちろん、日本語の声優さん。もう、いい年齢。けれども、なんだかふさわしい声。

「もってこさせろぉ」

とも一度いったら、噴き出した。いけない、いけない、早く手を洗おう。



 戻ってくると、返信メールに首ったけ。いつしかブルーが光っている。

 とはいえ、彼氏のメールじゃない。わたしは切ないひとりぼっちの女。これは由希子の返信。

激写シリーズ、家のカボチャ、どっかん。

画面を占領ちゅう。。。



そんなの、写さないでと思う。

わたしの、歳時の心得が、すっかり台なし。

   カボチャにはにゃんこの爪も夢のあと

なんて、父さんの真似をして、俳句を詠んでみる。

ぜんぜん、駄目な女学生。まるで、天然記念物?

まあいいか。そう思って、由希子に俳句を返信。



 沈んでしまうわ。沈んでしまう。沈んでしまえよどこまでも。そんなこころをぷかぷかと、持ち上げたいよなそよ風の、ケサランパサランよどこいった。

 学校で、何だか流行っているのは、「ケセラセラ」じゃなくってケサランパサラン。君恵が、ふわふわ飛んでいるのを見かけたときに、今の彼氏と出会ったなんて、のろけまくるので、大はしゃぎ。だらしないくらいの、ショートストーリー。わたしも、ケサランと出会ってみたくなる。

 なんでも、まわたのように、白くって、軽やかで、リズミカルで、それでいてティル・オイレンシュピーゲルみたい。ちょっとだけ、リヒャルト・シュトラウスの気配がする。けれども、のだめの物まねだけは、いまだ物にならないのが残念。ちょっとまた練習してみよう。

「むきゅー」って、変な叫びをしても、

しんみりとした家が吸収しちゃう。

 ……幸せが、ものたりなくて、本当を求めている。イミテーションでない真実。それはいったいなんだろう。こころのなかが、自分でもよく分からない。ああ、はやく母さんでも帰って来てくれないかなあ。べつに父さんはどうでもいいけど……うん、どうでもいい。だって、話し相手にだってならないし、どうせまたテレビを眺めながら、

「疲れた疲れた」

ってごろ寝する一方だし。

 本当に、万一、母さんにもしものことでもあって、二人で暮らさなくっちゃならなくなったら、父さん、わたしの肩にのし掛かってくるに決まっているのだ。だから、どっちか選ぶなら、断然母さん。無意識に、フィーリングが一致する。父さんだって、嫌いじゃないけれど、近頃たいしていけてない。株価暴落中。それは、わたしの年のせいかな……なんて、ちょっと思ってみる。



 またピロロピロパレの携帯が鳴りひびく。

 淋しさのがれる、憐れみの端末。

 これを奪われたら、わたしはアヘンを奪われたコクトーみたいに、たちまち、ろれつが回らなくなってしまうのだ。なんて、文学の授業で教わったことを、そのまま思い浮かべてみる。

 それにしても、山口先生の授業。教科書の順番を踏襲してばかり。

 内容も、わたしはちゃんと、知っている。アンチョコみたいな、先生用の指導ブックをもとに、授業だって組み立てている。だから、ちっとも面白くない。おとといだって、

「羅生門の昼と夜との狭間には、善と悪との分岐点が」

まるで棒読み。せめて自分の意見として、語ることすら出来なくなっちゃったらしい。酸化したカフェの虚しさが、ファーストフードにこだまする。もっともわたしは、その授業は午後の睡眠って決めているのだ……たしか、わたしの知性を総動員してみるところ、それは午睡(ごすい)って呼ばれるレムスイミン。

 むかし父さんが、

   疲れきて娘投げだす午睡かな

なんていって、ごろごろ横になりながら、幼いわたしの遊びを断ったのを、今でもちゃんと覚えている。そうして恨んでいる。やっぱり減点だ。娘を投げだすなんて、まるでいけてない。



 なんだっけ?

 たしか携帯だった気がする……

 なんだか、しょっちゅう、前後関係が途絶えてしまう気分。

母さんの血筋なのだから、これは誇らしく思ってもいい?

けれども、ちょっとだけ、恥ずかしい。

 時々、

「ほら、また前の話からはばたいて」なんてからかわれる。

まるで、わたし自身が、けさらんぱさらん。

あるいは、そうかもしれない。

だけど、わたしだって見てみたい。

そうしてまだ知らない、たいせつな人と、

ひそかにどこかで会ってみたい。

そんな贅沢。

 いけない、また拍子がずれちゃった。

 たしか、けさらん、じゃなくって、携帯だったはず。「パカッと開けば、ぴろろろろん」なんて心に思ったら、おかしくなって噴き出しながら、ようやく画面を覗き込んだ。

   おやじのん子め

とだけ書いてある。やっぱり不評。

けれども、七文字だと気がつくと、つい、また、

   何を待つおやじのん子も春の夢

なんて馬鹿なことを浮かべてしまう。

 やっぱりおかしい。

 ちょっと病んでいる?

 父さんが、一時期、俳句を教え込もうとした後遺症から、まだ立ち直れていない。父さん、減点ばっかり。たまには、いいところ見せろ……けれどもわたしの、まだ見ぬ誰か。それは父さんよりも、断然格好いいはずなんだ。



 なんの庭鳥だろう。ひと鳴きがてらに逃げてった。

 ぱっと見あげると、ようやく西日もうつむきかげん。そうしてわたしは、母さんを待っているはずなのに、父さんのことばかり、考えているような気がして、不意に頬を赤らめた。だらしない。しっかりしろ。あんな寝そべり男。おやじのん子なんて、呼ばれちゃうのも、もとはといえば、みんなあいつのせいじゃないか。



 ああ、お腹すいた。なんか、おやつ。

 女の一生は、おやつと、おしゃべりと、おとこと、お化粧と、なんて歴史の先生がいって、それ以来、クラスのわたしたちから、目のかたきにされている。わたしたち、あるいは核心を突かれた時には、お化けみたいな憎悪に身を委ねてしまうのかも知れない。それにしたって、ずぼらな発言だ。あれって、セクハラの一種じゃないのかなあ。

 そう思いながらに、棚をあさるわたくし。

 ああ、はらへるはらへる。



「チヨツコレイト」

と手に取ると、甘みごころが沸き上がる。パサランの君恵にいわせると、恋の甘さもチョコレートには叶わないらしい。甘さの定義がまるでごちゃまぜ。

「恋は味覚じゃないかもよ」

 思わず、一人で、変な歌を口ずさんじゃった。これって、なんの歌? 全然、自分でも思い出せない。どこかで、聞いた気がするなあ。



 考えながらも、チョコレートの紙包みを解いている。

 無意識の、意識。これって、もしかして、哲学の領域。

 ああ、それなら、ソクラテスの尻尾。アルキビアデスの憂うつかもしれない。わたしは、プラトンの説明だけは、お気に入りで、ちょっと聞き耳立てている。弁明のソクラテスは断然格好いい。そうして、教室の男子には、ぜったい真似出来ない。みんな、あんなところに立たされたら、とたんに御免なさいをしてしまうに決まっている。けれども、それじゃあ、駄目なんだ。それは私たちだけに許される行為なんだ。近頃の男子は、まるでなっていない。

 辛うじて、サッカー部のキャプテンだけは、

「ごめんなさい」

だけは、言わないような気もする。そう思うと、とたんに優れものに思えてくる。ああ、駄目駄目。だって、あんな丸顔じゃ、とてもじゃないけど、横に並んでも不満足。父さんだってがっかりするに決まっている。やっぱり、却下。

「親愛なる、アテネ市民諸君」

なんて、ソクラテスの真似をしてみたら、やっぱり、おかしい。ちょっと右手を胸に当ててみる。

「わたしひとりの、ソクラテス」

馬鹿なことをつぶやいちゃった。



 わたしが、いつでもぼんやりとしていると思ったら大間違い。

 わたしはすでに、ウーロン茶をコップに注いで、チョコレートを持ったまま、ちゃんと居間に座っている。そろそろ皆さんの帰宅が近いから、これは、わたしだけの、最後の瞬間……

 テレビは、どうしようかなあ。と思って、やっぱり、つけちゃった。だらけきった毎日。甘いチョコレート。お口に溶けて、こころなごます。

 日曜日の夕方は、つまらない。チャンネルをかえると、ゴルフなんてやっている。父さんゴルフは見ないから、わたしもゴルフはみない。知らない間に、感化されている。駄目なわたし。

 まだ始まらないけど、座布団の奪い合いみたいな、笑点なんか見てしまうこともある。これも、あいつのせい。なんだか、俳句とか、笑点とか、堕天使みたいに落ちぶれちゃった悲しみが溢れてくる……あれ、このチャンネル、まきまきがでてる。

 わたしよりかわいらしい。

 ちょっとだけ憎らしい。

 キョトンとした瞳がかわいいけど、変なコメントをして突っ込まれている。あれは、地なのだろうか。それとも、まさか、演技?

「まきまき巻き毛のお姫様、ラーンスロットにあこがれて」

なんて、幼稚園のお遊戯歌を面影まかせに、うっかり口にしてしまったら、ピンポーンって、チャイムが響いてきた。

「誰か帰ってきた」

 わたしは、念のために鍵を閉ざしてしまったから、開けろというチャイムに違いない。これをするのは、母さんじゃなくって、父さんの仕業。しかたのないやつ。とんだあまちゃんだから、娘に鍵を開けさせたがるのだ。念のために穴から覗いてみる。やっぱり父さん。わざとゆっくり鍵を回してみる。だって財布の中に、ちゃんと入っているくせに。。。



「ちょっと、いいかげん、ひとりで開けてよねえ」

ちょっとだけ、ブーイング。

「ただいま」

というから、精一杯のほほ笑みで、

「お帰りなさい」

と答えておいた。

 すると、玄関の開いた向こう側の、夕暮れのオレンジを迎えた大気のなかに、ふわりと、白い影が浮かんだような気がして、わたしは思わずはっとなる。

「あれは」

というと、父さんが振り返ったときには、もうその影はどこかへ消えてしまった。

「ケサランパサラン?」

とひとりで、つぶやいてみる。

 父さんは、呆れかえったみたいにして、

「こら、しっかりしろ。大丈夫か」

とわたしの頭を平手で叩いて、奥へといってしまった。

なんだか、ちょっぴり、あたたかかった。

                (おわり)

作成

[2010/4/13]
(原稿用紙換算16枚)



ケサランパサランとは

・ケサランパサランは、ふわふわと漂う白い毛玉みたいなもので、生物とも、植物とも、妖怪とも知れず、江戸時代に流行って以来、なんども再ブームを巻き起こす、不思議な物体である。ケサランパサランとそっと呟きながら、桐箱の中におしろいと一緒に入れておけば、ケサランパサランを飼育することが出来るという噂もある。もちぬしに幸せを呼ぶとか、見ると幸せになれるとか言う伝説は、精霊や妖怪としてケサランパサランの本質を捉えたものだが、もちろん嘘か誠か誰も知らない。とにかくもケサラン、それ以上でもなくパサラン、それ以下でもない。植物の花の冠毛であるとも、動物の毛玉であるとも、ケサランパサランの真相の究明が進められるが、もっぱら幸せ運ぶおまじないとして、不思議な生き物とされることによって、現在もちまたの人々の心を捉えて離さない様子である。

ケサランパサラン?

2010/07/21
仕事へ向かう途中、タンポポの種が
まん丸のかたまりのまま、浮遊しているような
不思議な真っ白の、綿のかたまりを見過ごした

目の前に、犬の散歩をした、おじいさんがいて
犬の、綿毛かとも思ったが、もっと植物じみて
やっぱり、タンポポの、種子が、真っ白のボールとなって

ふわりと、舞い上がったように漂っていた
それは恐らく、どこかの、植物性のものなのだろうか
けれども、ケサラン、もしその言葉を想い浮かべたら

人のこころは、科学主義も、合理主義もなんのその
つい、ケサランパサランと、思いたくなる、そのくらい
一瞬のイメージは、デフォルメされて、こころに焼き付けられて

想い浮かべる度ごとに、かえって、魔法じみてくるのです
かえって、ケサランじみて、くるのです。かえって
パサランじみて、くるというものです

2010/4/13

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