カクテル

(朗読1) (朗読2) (朗読3)

朗読注意

・ピアノは練習なしの適当演奏ですので、へたれです。おまけに調律がくるってます。お許しあれ。

カクテル

「ト長調ほどノクターンをオシャレに、ちょっとセンチメンタルに彩る調性はないよ」

 ショパンのノクターンが流れてくるのに耳を傾けながら、年配の細作りの女性が、バーテンダーに話しかけていた。

 薄暗くした店作りにスポットライトを照らし合わせたカウンターは、けれども今日は数組のお客しかいないようであった。

「嬰ヘ長調はどうです」

マスターが尋ねるから、

「あれはリリシズムの勝利。初夏(はつなつ)の若草にかかる風の薫りみたいなもの。この子たちの未来には、ぴったりかも知れないけど」

 女性の隣には、幼い子供がふたり、カクテルに似せたジュースを玩(もてあそ)んでいる。

「おばあちゃん、リリシズムってなに」

 弟の方がおさない声を上げた。

ふたりとも小学生で、姉と弟だそうである。

祖母はわずかに振り向いて、

「わあいって沸き上がるような思いに身を任せること」

なんて、辞書とは違った説明を加えて、

「ほら、ちょうど、このグラスの向こうに未来を描くみたいなもの」

 ふたりの前には、弾けるために昇りゆくシャワシャワとした炭酸が、エメラルドブルーの海を漂っているような、不思議な細長いグラスがあって、姉と弟はそれを眺めているのだった。

 まあるい氷を幾つも浮かべて、

時々カラカラと音立てながら、

二人合わせのお揃いの色で並んでいる。

アルコールなんかは抜いてあるけど、

いつもより、シロップを含ませているけれど、

縁取りにレモンなんか挟み込んだその姿は、

向こうのオシャレなカップルが飲んでいる、

お酒そのものであるようにさえ、

姉には思えるのであった。

 姉は、ちょっと年上だから、

「いつかわたしもこんなところで、誰かとお酒が飲めるのかな」

なんてアルコールに酔ったこともないまま、心に浮かべて、炭酸のかなたへ未来を描いてみる。まるで立ちのぼるクラムボンの泡みたいに、それはかぷかぷほほ笑んでみせるのだった。

「不思議だねえ、何もない底から泡が出ているねえ」

 弟が驚いている。

 彼はコーラを飲むときでも、必ずその台詞をつぶやいてからでないと飲まない。たしかに不思議には違わないけれど、そろそろ飽きたっていい頃なのに……

 そう思いながら眺めていると、姉にもそれは、次々と生まれゆく、見極めのつかない、希望のようにすら思えてくるのだった。

 おばあちゃんにも、やっぱり、同じように見えるのかな。そんな感慨にとらわれて、思わず振り向いたら、おばあちゃんも横からそれを眺めている。

 バーテンダーがカウンター越しに指さした。

「これはね。飲み物と二酸化炭素を一緒にして、空気をぎゅうぎゅうに押し込むとね、二酸化炭素が行き場を失って、液体のなかに溶けてしまうんだ。だから、押さえている蓋を取って、注いで見せるとね、二酸化炭素がまた気体に戻って、泡となって出てくるんだよ。コーラを飲むときも、ぷしゅっと缶を開けるだろう。むりやり押さえつけてあるせいなんだよ」

 バーテンダーが丁寧に教えてくれた。祖母は隣でほほ笑んでいる。姉も始めて聞く話だったが、わざわざ、そんなことは口にしないのだった。

「へえ、そうなんだ、この泡は二酸化炭素っていうんだ」

「りょう君、ちゃんと分かったの?」

なんて姉さんぶっている。

「だけど、ねえ、二酸化炭素ってなんなのさ」

と聞いてくるから、ちょっと困ってしまった。

祖母がすぐに隣から、

「りょう君がはあって息を吐くでしょ。そうすると出てくるのが二酸化炭素」

なんて説明するので、それまで、意味もなく大気を吸ったり吐いたりしているのかと思っていた亮一は、ちょっとびっくりした。

「なんでさ。吸うときも、吐くときも、何も変わらないじゃない」

「それが、実は変わっているから不思議なんだね」

なんて、バーテンダーもからかって見せるので、りょう君は大いに驚きながら、しきりに息を吸ったり吐いたりして見せるのだった。

みんなおかしくなって笑い出した。



 マスターがカクテルシェイカーをカシャカシャする。

 おさない姉は、今度はそれに見とれている。

 銀色がくるくる回ってリズミカルな響きがする。

 そうして目の前の、エメラルドブルーの液体からは、やっぱり炭酸が溢れている。こんなきらきらとした、あわ粒の生まれる向こうに、見知らぬ未来が控えている。はじけるようなシャワシャワとした不思議が、弟を構ってやりながらも、ふっと、向こうで肩を寄せ合うカップルの方へ、引き寄せられるのはなぜだろう。

 姉はまだ小学生だから、そんな気持ちが自分でもよく分からない。

 友だちと、男子の話はするくらいの年齢だったけれど、みんなに合わせて面白がっているくらいのもので、弟と遊んでいるときの方が、よっぽど楽しくて仕方ない。それなのに今夜は、カクテルの向こう側に、不思議な気分が控えているような気がして、おさない姉は、じっとエメラルドブルーを覗き込んでみるのだった。

「カクテルのかなたに浮かぶ、まだ見ぬあなたよ」

 おばあちゃんと呼ばれるには、ちょっとオシャレすぎる祖母は、何度も外国へ旅行して、英語すらこなせるほどの国際派だった。ホテルのこんなカクテルバーに、孫を引き連れて飲みに来ているのが、すでにそこいらの年配者とは違っている。

 その彼女が、そんな言葉を口ずさむので、今度は姉が質問するのだった。

「ねえ、それってなんのお話」

「お話じゃないよ。これはフランスのシャンソン」

「シャンソン?」

「そう、流行っているお歌のことよ」

なんて話していると、マスターがフランス語で、そのフレーズを歌って聴かせてくれた。かすかに響くノクターンが掻き消されて、舌の丸まったような甘ったるい調子で囁くから、子供たちの顔は好奇心でぱっと明らんだ。

 もっとも、ほんのワンフレーズである。

 二人とも、すごいすごいと拍手をしたので、つられてまわりの客たちも拍手をし始めた。子供が紛れ込んでいるせいで、バーの雰囲気が、いつもと違っている。けれどもそれを嫌がる客なんて、今日は一人もいない様子だった。

 向こうのカップルも、ちょっとこっちを見てほほ笑んでいる。

 ふと目があったとき、カウンターの折れ曲がった向こうに座っている女性の、幸福そうな表情が、姉にはなんだか、心に染みるように思えるのだった。

「ねえ、まだ見ぬあなたって誰だろうねえ」

とまた弟が茶化しにかかる。

もっとも本人は大まじめである。祖母は、

「それはね、大人になってからのヒミツだよ」

なんて笑っていた。

 そうして、自分のカクテルへ唇をつけるのだった。

 彼女は、もういい年なのに、仕草に女らしさが息づいている。逆三角形のグラスには、まるでルージュの口紅を、あくどくないくらいに宥めすかしたような液体が、彼女の指先に合わせるみたいに、くるくると揺られながら、赤らんだ姿で踊っているのだった。

 バーテンダーは、まるで外国の年配の女性みたいだと思って、ちょっと感心して見とれてしまった。老いてなお美しきものは幸いなれ。きっと、いい人生を歩んできたに違いない。そう思っていると、向こうの方から、

「マスター」と声がする。

彼は呼ばれるままに、向こうのカップルの応対をし始めるのだった。



「ちょっとマスター、どう思う」

 注文を頼まれてから、メジャーカップを取り出していると、髪をアッシュブラウンに染めた、大学生だか新入社員くらいの女性が、声を荒立たせもせず、軽やかな愚痴を始めたようだ。フローラル系の香水の香りがちょっと漂ってくる。眉の作り方が不思議なくらいうまいので、ちょっと感心してしまった。

 何でも、社会人になってから、隣に控える彼氏の付き合いが、大いに悪くなった。仕事とわたしとどっちが大切なのと、ちょっと拗ねているところらしい。

「だって、まだ入社したばっかりだぜ。しかたないじゃんか」

 体のホッソリした、けれども長年運動部に所属したような、肌黒の男が言い訳をしている。彼は髪を染めていない。あるいは社会人になったので、黒髪に戻しているのかもしれなかった。

「だって、ライトったら、もう」

なんていきなり言い出すから、バーテンダーには全然意味が分からない。キョトンとしているので、男の方が、

「ほら、マスターが困っているだろう」

と笑い出すと、

「あのね、ライトがさあ、ライトって、この男のことなんだけど」

なんてちょっと酔いが回っているものだから、甘ったれた声で説明するのだった。

 聞いているうちに、その男の名前は照樹(てるき)というのだが、もっとオシャレな名前がいいとだだを捏ねて、女の方が勝手にライトと呼んでいるらしい。

「あの有名な夜神月(やがみらいと)からとったのよ」

なんて喜んでいるが、なにが有名なんだか、本当にオシャレなんだか、さっぱり分からなかった。てっきり、舞台照明を意味するライムライトから取られたものとばかり思ってしまったマスターは、四十路(よそじ)を迎えた静かな男である。

「それで、最近は残業ばっかり」

なんて、彼氏のほっぺを突っついてみる。

「でも、今日は誘ってくれたんじゃないの」

 マスターが優しい声で宥めると、急にぱっとはしゃいで見せるのだった。

「そうなの。だけど、やっぱりわたしが誘い出したようなものなの」

「そんなこと無いだろ。予約だって俺がしたんだ」

ライトのちょっと怒ったような声に驚いて、慌てて、

「怒らないでってばあ。せっかく久しぶりなんだから」

なんて甘えるので、マスターは出来上がった、ミロワールージュというオリジナルカクテルを、彼女の前へと差し出すのだった。

 それは血のようには毒々しくない、軽やかな透明度を保った朱染めを、そのまま心にまで染み渡らせた、冬夕焼じみたカクテルだったけれども、向こうで年配の女性が、子供をあやしながら飲んでいるのと同じカクテルだとは、彼女は気づかなかった。

「お前、あんまり飲み過ぎるなよな」

「大丈夫。酔っぱらって寝ちゃったりなんかしないから」

なんて言って、また指先でライトの肩のあたりを突いている。これを飲んだら、部屋に戻りましょうよ。そんな仕草のようにも思われたので、マスターはごちそうさまな気分になって、取り出したボトルを片づけているのだった。



 一息入れて、テーブル席を見渡したとき、待っていたらしい家族連れが、向こうからそっと手を挙げた。気楽なオシャレと戯れるようなホテルのバーだから、家族連れだってよく見かける。

 あるいは父親が昔、バーへ通い慣れた名残で、連れてきただけかも知れない。

 ちょっとアルバイトを休ませてあるから、マスターがひとりで応対しているのだった。もっとも客が少ないから、回らないこともない。特にシーズンオフの平日だから、宿泊客すら少ない今日この頃であった。

 四人連れの家族は、両親と中高生くらいの子供たちが、左右に分かれて座っている。窓際には、若い娘と母親が向かい合わせに腰を下ろした。子供の組み合わせが男ひとり女ひとりだから、マスターは一瞬、先ほどの子供たちを思い出して、思わずカウンター席を振り向いたくらいである。あの二人は相変わらず楽しそうに、カクテルを眺めているようだ。

 テーブルへ近づくと、

「姉きはまた窓ばっか眺めて」

なんて、中学生くらいのスポーツ刈りがつぶやくので、それで姉弟(してい)だと気がついた。

 姉の方は、おそらく高校生くらいだろう。

 自分で選んだカクテル風のジュースは、まだ半分以上残されている。それはやはりあのミロワールージュの、酒だけ抜いたノンアルコールだった。今日は、女性がみんなこればかり注文するのは、ちょっとした因縁でもあるのだろうか……

「いいじゃない、別に」

 弟の台詞を聞き流した姉が、窓を覗きながらに答えている。

 やがてショパンのノクターンが不意に、

誰でも知っているあの有名な変ホ長調へと移り変わった。

「あら、この曲、前の発表会で弾いた曲じゃない」

なんて母親が語りかけると、

「うん。でもつっかえちゃった」

なんて娘が答えたら、父親が、子供を持つ親の説教くささで、

「つっかえたっていいんだ。そうやって、人前で演奏することが大切だ」

なんて言いだした。手の平に転がすようなグラスは、このバーの名物にもなっている芋焼酎ベースの独特のものだ。もちろん炭酸じゃない。かわりに氷が入っている。

 母親は、アルコールは飲めないのだろう、軽やかなオレンジジュースで済ませている。

 かえって、ノンアルコールのカクテルを楽しんでいるのは、子供たちの方であった。

その母親が、

「すいません」

といって、メニューを指し示す先には、

ホテルのオリジナルを流用した、

高級そうなケーキが並べられている。

「これを三つ貰えないでしょうか」

「かしこまりました。三つで」

と念のために尋ねると、こくりと頷いた。

 大方、父親はケーキを食べないのだろう。それとも、弟かな。

姉らしき人は、相変わらず窓辺から下界を見下ろしている。

 彼女の服装は、近頃のファッションセンスに合わせたオシャレなものである。もちろん、高いものは身に付けていない。昨今の経済情勢に合わせるみたいに、大学生の小遣いすら減少しているくらいである。煌びやかなオシャレの影に忍び寄る、経済情勢の悪化が、やがては子供たちを二分化させるのではないかなんて、マスターは、中年サラリーマンの相手をさせられたことを思い出した。

 だが、若いうちだったら、安物をまとったって、素肌が誤魔化してくれるからいいのだ。その高校生は、髪の毛をボーイッシュに短くして、しきりにネオンの様子を面白がっているらしかった。

 ちょうどテーブル席の、アコースティックなキャンドルグラスの向こうが、広いガラス窓になっている。キャンドルのゆらめきと呼応して、彩りを暖色ベースに競い合うような都会ネオンやら、残業をものともしないビルの照明が、どぎつく主張し合うこともなく、ほんわかとして懐かしい気分さえ見せるのは、今が春霞のシーズンであるからだろうか。それとも、ああして雲の少ない夜空から、満月へと近づきつつある、月光が照らしているせいだろうか。

 彼女には、それが未来を描くような、おとぎ話めいた優しさでもって、語りかけるようにさえ思えるのだった。赤いカクテルグラスにちょっと唇をつけてみると、甘酸っぱいような大人の味が、明日(あす)を夢見る喜びとなって、乙女心にこだまする。



 ほどなくして、マスターがケーキを持っていくと、四人はいつしか会話を再開していた。彼の見るところ、家族連れというものは、沈黙の時間にも慣れきっているから、会話の盛りと沈滞とを、気兼ねや気まずさもなく、極めて自然に交替させるものである。あの若いカップルみたいに、頑張らなくても結構なのが気楽さをあおっている。もっともあのカップルの年齢は、気取ることを楽しんでいる時期だから、あれでふさわしいのだ。

 マスターはそんなことを考えながら、会話の邪魔にならないように、そっとケーキを並べてみた。やはり父親は食べないらしい。

「それで、希望の大学は決まったのか」

なんて、ケーキを向こう側へまわしながら、娘に話しかけている。

「まだ。なんだか、世のなか広すぎて、困っちゃうよ」

なんて答えをするので、弟が笑い出した。

「なんだよ、それ」

「恭一は黙ってて。どうせ視野が狭いから、野球ばっかりしてんでしょ」

なんて、弟をやり込めにかかるので、

「はいはい」

と野球一途は、ケーキをスプーンですくって見せるのだった。

「世の中が広いったって、人の心には限りがある。お前の遣りたいことが、定まっていれば、選択肢はぐっと近づいてくるんじゃないか」

「まだ何の目標もないんでしょう」

なんて、両親が交互にいじめるので、

「しょうがないじゃない。今どき、恭一みたいに、野球一途に生きている方がおかしいのよ。こんなに、情報の溢れた世の中なんだから」

と社会派ぶってみせる。

また弟が生け贄にされてしまった。

でも彼女は内心では、

「世の中より心のなかの方が、もっと広いんだ」

なんてつぶやいてみるのだった……



 マスターはそんな会話を聞きながら、やっぱり、

さっきの子供たちの姿が重なってくるのでおかしかった。

 もっともケーキを置いたから、立ち聞きしている訳にもいかないので、隣のテーブルを手直ししたりしながら、思わずちょっと、そこに留まっていたのである。もちろん、盗み聞きの悪癖があるという訳ではない。しかし、元来がバーテンダーというものは、下らない市井の人々の会話を、意味もなく楽しみたがるものである。ようするに、人好きなのであった。

「ほら見てよ。街のネオンが灯し合うはざまにも、いろいろな未来が光り輝いている。だけど、こんなに無数に光っていたら、どこへ向かっていいか分からなくなっちゃうじゃない」

 姉が急に、どこかの年頃小説から引っぱってきたような台詞を述べたものだから、弟が噴き出して、

「似合わねえ」

とひやかした。

「うるさい」

と突っ込んでみたが、両親からも笑われてしまったようだ。

 テーブルを拭いていたマスターも、ちょっと笑いそうになった。

 けれども向こうから、さっきのカップルが、

「会計お願い」

なんて歩いてくるので、

「お待ちください」

といって、慌てて伝票を取りにカウンターへと戻ったのである。



 やがて、睦まじいカップルが家族の横をすり抜けるとき、姉の瞳には、男の腕を抱きしめながらに傾いている、幸せそうな女の姿が映った。あんなに気兼ねなくオシャレが出来るのが羨ましい。ふと目が合ったと思ったら、

「あ、ミロワールージュ」

アッシュブラウンの長めの髪を揺らしながら、彼女はつぶやくのだった。それは、姉の飲みかけのグラスの、半分残されたカクテルに向かって投げかけられたようにも、あるいは握りしめた男の腕に向かって投げかけられたようにも思われた。



 となりの弟はまるで気づかなかった。

 父親もまるで気づかなかった。

 ただ、母親だけが、ちょっと羨ましそうに眺める娘の瞳を、その輝きをはっきりと認めたのであった。あら、と思い当たったその瞬間に、けれどもカップルはもう、向こう側へと歩み去っていたのである。母親は、なぜだか不意に、娘の飲んでいるカクテルの味が気になりだした。

「ちょっと味見ね」

といって、すっとテーブル越しに腕を伸ばすと、そのカクテルを口つけてみる。

「ああ、ひどい」

と姉が嘆いて、それっきり、カップルと家族連れの関係は途絶えてしまう。

 母親は、果たしてその味に何を感じたのだろう。

「あら、けっこう美味しいじゃない」

といって返すから、姉は、

「ミロワールージュ」

とつぶやいて、不思議そうにグラスを眺めているのだった。この姉はさっき、

「ノンアルコでこれ出来ますか」

なんて指さして、アルコールのないミロワールージュを注文したものである。ノンアルコなんて略し方は、聞き慣れないので、向こうでレジを打つマスターも、ちょっと新鮮に感じたくらいだった。

 そんな姉が、何かを思いだしたように後ろを振り向くと、

例のカップルは、会計を済ませて、

「ありがとうございました」

なんて言われながら、バーを後にしたところだった。



 マスターが戻ろうとするとき、例の家族連れの姉は、またガラス窓を覗いていた。会話は、弟の野球の話に移っているようだ。

 ようやくカウンターへ戻って、カップルの残り物を片づけていると、ミロワールージュの空になった縁取りに、赤い口紅が残されていた。女の口紅は、もっとも落ちにくい汚れのひとつである。

 何とはなしに手に取ると、カウンターの向こうから、

「ねえ、ちょっと冒険に出かけてきてもいい?」

という小さい弟の声が聞こえた。今まで年齢に似合わないくらい静かにしていたが、とうとう我慢できなくなったに違いない。小さい姉の方も、

「あたしが一緒だから、心配ないよ」

なんて懇願するので、

「働いている人のところへ、入っちゃ駄目だよ」

と念を押してから解放してやった。

 わあいとうれしくなって二人は、家族連れの横を走り抜けていく。姉弟同士の瞳が触れ合ったかどうだか、マスターには分からない。

今夜のカウンター席は、とうとう、

祖母ひとりになってしまったようだ。



「子供は落ち着きがないから大変ですね」

 ちょっと暇つぶしに話しかけてみると、まだ初老と呼ぶにはふさわしくない彼女は、年配者らしからぬシックな服装で、さり気ない銀の指輪をはめたまま、

「孫がふたりもいるから、この年になっても飽きなくて」

なんて答えを返してくるのだった。

 ショパンのノクターンは、いつの間にか、

変ニ長調へと変わっている。

「また聞こえるあの気配

いつもわたしの道にあって

共鳴する弦の響きみたいに

わたしをおかしくさせてしまう」

なんて彼女がつぶやいた。もしかしたら、シャンソンを歌って欲しいのかも知れないと思ったが、

「残念、その歌は、覚えてませんよ」

と答えるしかなかった。

「あらそう。有名な歌なのに。残念」

 それがちっとも残念そうに聞こえてこない。

かといってほほ笑むでもなくて、

棚のボトルを眺めているばかりなので、

「抱かれなくなった頃の女の魅力」

 マスターはそんな、どこかの哲学者のチープな格言を思い出していた。

 この国でオシャレな年配者を見つけるのは難しいから、何となく心安らぐ気分である。向こうの方では、浮遊する人工クラゲのオブジェが、青白い電光のなかに漂っているのが、ひと気の少ないカウンターを慰めてくれるようにも思われるのだった。

「フランスには長く行っていたんですか」

と尋ねると、

「ちっとも」

 しばらく間を開けてから、

「それでも、ロンドン、パリ、香港、マカオ、ニューヨーク、いろいろな所を回ったよ。どれもこれも、数週間くらいかねえ。でも、ほんのお遊び」

「観光ですか」

「もうちょっと、真面目なつもり……だったけど、今にして思えば、観光みたいなものだったねえ」

「それでシャンソンの歌詞を」

「シャンソンは、死んだ旦那のお気に入り」

 なるほど。マスターは黙って頷いた。

あまりわざとらしい台詞は、こんなときには似合わない。

けたたましい、居酒屋の親父じゃないのだから。

「なんだか、いろいろ歩いたようにも思えるけれども……」

彼女の一人言みたいに後をつけた唇が、

ほんのり赤らむように思われた。

「それでいて、まるで……そこでいま仕事をしているあんたみたいにさ」

「ええ」

「こうしてバーのカウンターから、いろんなお客さんを眺め暮らすうちに、お婆さんになっちゃったような気もするよ」

 彼女が、思わず鞄に手を掛けたときの仕草を見て、マスターは彼女が、たばこを吸う癖があることを知った。見られたことに気づいたのだろう、

「たばこはもう止めたの。孫が出来てからはこれっぽちも吸わない。でも、時々懐かしい仕草が、飲んだりすると戻ってしまうの」



 けれども、マスターが何か答えようとする間に、

向こうからお客さんが入ってきた。

「いらっしゃい。テーブルの席でもどうぞ」

と尋ねると、

「うん。カウンターがいいかなあ」

なんて、女性の方がささやくのだった。

「じゃあ……ここいいかな、マスター」

 自分と同い年くらいだろうか、もう少し上だろうか、中年のカップルが、あの若いカップルの座っていた近くに、答える前に腰を下ろした。あの若者の動きと比べて、ちょっとどっこいしょが入っているのが、今日はたまらなく、チャーミングな滑稽に思われるくらいだったが、もちろんそんな事は顔に表すわけにはいかないから、

「いらっしゃいませ」

とあらためて挨拶をして澄まして控えているのだった。

「なんにしようか」

なんて小声で相談している姿は、それでも、束の間、子供っぽい表情のようにも思われる。恋人とはちょっと違う。長年の観察から、すぐに分かってしまうのだった。

「面倒くさいから、おまかせします」

 要領がいいんだか、こだわりがないんだか、

分からないような二人組である。

カクテルなんか、興味がないのかも知れない。

マスターは、

「かしこまりました」

といって、ミキシンググラスでステアしながら、

ふたりの会話を聞き流していた。



「今日は懐かしいことばっかり」

「みんな、更けちゃった」

「でも、変わってない」

「そうかな」

男の方が首を傾げるが、

「うん、変わってないよ。顔は老けたけど、

面影はそのままだし、話し方も一緒」

なんて、少し長めの髪をひと払いした。

「それって、成長してないってことじゃないのか」

「ううん、みんな一緒に成長して、

みんな一緒に更けゆく宵の頃……ってことじゃないのかな」

 女性の方は、近頃の厚化粧に身を委ねないで、目立たない工夫をわきまえている。ほほ笑むと寄るシワは仕方ないにしても、悪意のあるシワではなかった。

 歳を取るにしたがって、性格ばかりが顔にあらわれてしまう。

 そうして化粧で誤魔化そうと躍起になるほど、なぜだか、醜く落ちぶれていく。

 不思議なものだ。若いうちには、精神と美しさの不一致なんかいくらでも見いだせるのに、歳月というものは、それほど人の表情を、精神によって変化させてしまうものだろうか。

 その点、今日のお客さんは、ちょっと化粧のきつかったのは、若い花盛りのカップルくらいのもので、こんなにオシャレ上手な女性のつどう夜は、近頃めずらしいくらいに思われるのだった。

 もっともマスターも、ちょっと髪をダークブラウンに染めている。

 四十を過ぎてから、さすがにピアスは止めにした。別に改心したわけでもなんでもない。急に下らないおもちゃに見え出したのと、あまりにも若い奴らが付けすぎるんで、面白くなくなったのが原因である。そんなことを考えながら、ジンの瓶から流し込んでいるのだった。



「はい、おまちどおさま」

 リノリウム色した大理石みたいなカウンターに、男の前に差し出されたのは、暖色系のスポットライトを吸収して、ほんのり黄色に染まったカクテルに、青みがかった小さな実を落とし込んだものだ。

「マティーニです」

 とマスターが説明すると、

「この中に入っているのは何ですか」

と尋ねるから、オリーブだと答えておいた。

 さっき女性の方が、

「同窓会の続きだからね」

なんて、マスターには分からないことを囁いて、男の方から先にカクテルを出して欲しいと、ちょっと変わった注文を出したのである。それでマティーニなら、あるいは知っているかと思って出して見たのであるが、カクテルの名称なんかまるで知らないらしい。

 だが男は、高そうなスーツを着こなしている。表情から、それなりの地位を得た人であることが伝わってくる。もちろん、彼女のカクテルが来るのを待つつもりのようだ。すぐに、グラスに指を掛けたりはしないのだった。

 たなびくままの自然体。

マスターはさっきの若いカップルが、

懸命に何かを演じようとしているような見栄を思い出して、

人の仕草をナチュラルに仕立てゆく期間と、

きらびやかな花の咲き誇るシーズンとの不一致に、

ちょっとした感慨を込めるくらいだった。

もちろんその間にもカクテルは完成され、

女性の前へと差し出される。

 やはり逆三角のカクテル・グラスに、ほととぎすのなみだ色に染まった、真っ赤な液体が差し出されたとき、彼女は思わずはっとなった。

「まるで口紅の色みたい」

つい、つぶやいてしまう。

若い日の情熱が、

溶かし込まれているような気がしてくるのだった。

「当店オリジナルの、ミロワールージュというカクテルです」

「ずいぶんはかない色だわ」

とささやく彼女に対して、マスターは何も答えなかった。

ただ心のなかでは、

「カクテルの色はあなたの心の色なのです」

と思っただけである。

向こうで同じアルコールを口にする年配の女性は、

果たしてどんなことを、このカクテルに感じているのだろう……



 ふたりは、ようやくグラスを打ちつけた。

「ねえ、覚えてる。あの頃、学校から帰る途中でさあ」

なんて同窓会の続きをしているように思われる。

 けれどもふたりには、一夜(ひとよ)のアバンチュール的な雰囲気は見られなかった。きっと気の合った友だちくらいのまま、ホテルには泊まらないで、宅(うち)へと帰っていくに違いない。

 そうして帰ったらもう、束の間の夢は弾けて消えて、それぞれの家庭の、味気ない日常へと解消されてしまうのだろう。それにしても、さっきの若いカップルは、今頃バスルームで体を洗いあっている頃だろうか……

……十年、二十年、三十年、本当に人生は、谷間の小さな村に鳴る鐘の、生まれた子供をさえいつか婚礼の祝福へと導いて、束の間の歳月のうちにわかれ歌の埋葬へと導く、そんなチャーチの響きみたいなものだ。彼はシャンソンの一節を思い出しながら、そんな感慨に耽っているのだった。



 アルバイトはまだ戻ってこない、ちょっと時計を眺めるときに、向こうの家族が立ちあがった。もう部屋へと戻るのだろう。

 レジへ向かおうとしたら、高校生の姉が立ち尽くしていた。カウンター席をぼんやり眺めている。いつか素敵な相手と、自分もこんなところへ訪れてみたい。そんな夢でも見ているのだろうか。

 ふと、その表情が、中年カップルの女性に似ているような気がしたとき、けれどもマスターは、もうレジで会計をこなしているのだった。四人家族は振り向くこともなく、エレベーターの方へと立ち去ってしまう。高校生の短い髪毛が、ふわりと消えたとき、彼女が何十年かしたら、あのカウンターの女性になって戻ってくるような、そんな錯覚に囚われた。



 テーブルを片づけていると、

ミロワールージュのグラスは空になっている。

もちろんケーキもすべてなくなっている。

そしてグラスには、口紅なんか付いていないのだった。

ガラス越しのネオンライトは、変わることなく煌めいている。

月が青々としてきれいだ。



 不意にまた、ショパンのノクターンがト短調へと移り変わる。

カウンターへ戻りかけたマスターの耳に、

「あ、この曲、むかし習ったことがある」

という中年女性の声が聞こえてきた。

「そういえば、ピアノ習っていたことがあるんだっけ」

「そうなの。あの先生、まだ元気してるかな」

なんて回想していたが、そのまま当時を思い出したらしく、

「あの頃は、庸一って呼び捨てにしてたっけ」

なんて語り始めた。

「そうだよ。それでいて、俺の方はちゃん付けさ」

「懐かしいねえ」

 ふたりは、あまり酒には手を付けていないようだ。

やっぱりこれから宅へと帰るのかも知れない。

とても一緒に泊まるようには思えないのだった。



 新しいオーダーもないので、棚のあたりを整理していると、カップルの声もどこかへ消えてしまう。人というものは効率的なものだから、ひとつのことに関心が高まると、取得しているはずの感覚情報が、勝手に取捨選択されてしまうのだった。

 そのくせ、職業柄というものは恐ろしいもので、誰かがオーダーを求めているような予感だけは、常に消え去ることがない。たとえ会話は消されても、自分を求めるような不自然な響きには、たちまち反応してしまう。

 だから大抵は、知らない間にカウンターから人が消えているなんてことはあり得ないはずなんだが……



 マスターが何気なく振り向くと、

あの祖母の座っていた席に、

彼女はいなくなっているのであった。

かわりに例の姉と弟が、

ちょこんと座って、にこにこほほ笑んでいる。

ちょっと驚いて、マスターは棚から離れた。

「冒険は楽しかったの」

と尋ねてみると、弟の方がムキになって説明を始めだす。

「僕ね、滝の裏を見てきたんだ」

と言うから、姉が噴き出した。

「りょう君おかしいよ、それじゃあ分からないでしょ」

なんて諭しているが、恐らくは人工の滝の後ろにある、機械室でも覗いてみたんだろう。それから、

「おばあちゃんはどうしたの」

と聞いてみたら、ふたりとも首を横に振って、

「知らなあい」

なんてとぼけている。

 それに向こうの方では、例の中年のカップルが、まるでさっきの若いカップルみたいに、頬をもたれ掛かって甘え始めたので、マスターは、おや、おかしいな、それともあのふたりは、今晩泊まるつもりなのだろうか。今日はいつもみたいに、自分の感覚に切れが無いのかな、なんて心配し始めるのだった。



 マスターの目線を追って、

小さい姉もカップルの背中を眺めてみた。

 けれどもその光景は、さっきのように羨ましいものにはどうしても思われず、なんだか哀しみに包まれているように思えてならなかった。何だか嫌な気がする。あんな未来はつまらない。きっと今の方が、ずっと幸せなんだ……

 気がつけば、祖母のいたところには、空になったミロワールージュのカクテルグラスが、ぽつんと転がっている。小さい姉は、ふと指先に触れてみた。この赤いジュースみたいなやつ、わたしも飲んでみたかったんだけどなあ……



「ちょっと、こんなところにいたの」

「あっ、母さんだ」

 すらりとした女性が入ってくる方へ向かって、弟が、元気になって椅子から飛び降りた。

「駄目じゃない、勝手にこんなところへ」

「いいんだい。だって、おばあちゃんが」

 やっぱり、祖母の仕業だ。

こんなおませさんなところへ連れてきたりして。

母はちょっとだけ、情操教育を気にするのだった。

 現代社会は、娯楽を無秩序に与えてエゴ化した子供たちと、規律を重視して親権を強めた家庭とに、二極化しつつあるという。そのうち学校からしてが、二つの祖国のようになってしまうに違いない。そんなことを、酔っぱらいが二人して話していたことを、マスターはふっと思い出した。もしそうだとしたら、この国はいつか、二つの精神に分裂してしまうのだろうか……

「それで、おばあちゃんは」

 なんて、若いお母さんが尋ねるから、弟は、

「知らないや」

と食ってかかった。

その食ってかかり方が懸命なので、お母さんは根負けして笑い出してしまう。

マスターも思わず笑ってしまった。それから、

「ここで待つんだい」

と意地を張るから、マスターも相の手を出して、

「どうです、ちょっと休んでいかれては」

なんて席を勧めてみるのであった。



 若い母親の髪は短くて、何だか、あの四人家族の娘さんを思い起こさせるような気がした。やはり化粧はどぎつくない。それでいてこだわりが感じられる。すらりと背が高い。子供たちの隣に座る仕草を見ていると、バーに来慣れた女性としか思えなかった。

 よく考えれば、あの祖母の娘であるから、当然と言えば当然か……

「ちゃんと、おとなしくしてたの」

なんて、たわいもないことを、二人に向かって聞いているのだった。

 マスターは黙ったままで、

素早い手つきでバーセットを動かしている。

ほどなく、一つのカクテルを、

彼女の前に差し出すのだった。

「あら、これは」

「ミロワールージュ。当店のオリジナルです」

「でも、頼んでなんか」

「今日は、女性の方にはサービスすることになっているんです。もちろん無料で」

「あら、ちょうどいいときに来ちゃったかしら」

 彼女がほほ笑むと、少女みたいな幼さが帰ってきて、横に座っている姉の顔そっくりに、瞳が丸くなって見えるのだった。

やっぱり親子だな。そう言えば、あの祖母の表情にしても、

どことなく、似たところがあるのかもしれない……



 そんな事を考えていると、そのカクテルを眺めた小さい姉が、

「わたしも、それ飲みたいんだのに」

なんて変な表現で訴えてみせる。マスターは、

「これはね。大人になった女性だけが、飲めるものなんだよ。

だからもうちょっと、待っていたほうがいいね」

なんて教えてみるのだった。

 ショパンのノクターンが、あの叙情的な、嬰ヘ長調へと辿り着いたとき、マスターは、極めて短いバーのカウンターのひと時に、女の一生を垣間見たような気がして、慌てて頭を振った。あまりにもセンチメンタルが過ぎると思ったからである。

 向こうの方では、人工クラゲが、青白いライトに照らされながら、ノクターンの旋律に合わせて、ダンスでも踊っているように見える。そうして窓先の街あかりは、春の月光に照らされて、無限の静寂を揺らめいているのだった。

          (おわり)

作成

[2010/4/22-24]
(原稿用紙換算46枚)

2010/04/24

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