啓蟄(けいちつ)(ロング)

(朗読なし)

啓蟄(けいちつ)(ロング)

 空はこんなに深くて静かなのに、眺める啓司(けいじ)は追い込まれるのを感じた。風の音が、確かに自分をあざ笑っている。早すぎる春の気配を闇に帰そうとする西空に、鉄塔の赤いシグナルが瞬いている。彼はそれを、燃え尽きた血潮だと錯覚した。夢はもう、終わったのだと思う。つまらない人生だった。楽しいことなんて何もなかった。生まれてさえ来なければ、静かな分子の深層のまどろみの中、組み立て工場の製品化されないで、分離されたまま漂っていられたなら、幸せだの不幸だの、そんな情感など知る由もなかったのに。哀しみなんて言葉を、覚えなくても済んだはずなのに。

 靴音近くをつむじ風が抜けていく。

その冷たい自由が羨ましい。

 啓司は、穢された心が、濾過(ろか)し得ないことを知っていた。社会へ対する憎しみが、青年の頃のすがすがしい屈託のなさを打ち砕いて、どんなに修繕を重ねても、塞ぎきれないことを知っていた。

「こころの中が真っ黒だ」

啓司は呟いた。

 けれども彼には、慰めてくれる知人など、もはやどこにもいなかった。長い歳月が、理解し合える人間など、この世に存在しない事を教えてくれた。いや、あるいは母国語が異なっていたら、学生の頃、英語を習得していたら、国を逃れて、まるで異なる理想郷……そこまで夢見ないにしても……少しはマシな社会が、開けていたような気もする。今はすべてが虚しい。懸命な期待や努力が、諦めへと移り変わった時、更けゆく宵をさ迷う寂寞に、彼は取り込まれたらしかった。

 満員列車がカンカンと、車道を押しとどめながらに過ぎる頃、工場街を逃れた証明みたいに、ビル街が両脇から迫ってくる。すぐ先のステーションは、くすんだ外装をまばゆい照明に誤魔化しながら、人々を吸いこんでいくように思われた。四方から現れるサラリーマンに挟まれて、啓司もその中へと消されゆく。携帯をかざすと音がして、改札口をすり抜ければ、流れ作業をした階段へと運ばれていくのだった。

 プラットホームのひしめきは、鶏小屋の密集か。

 ただ鶏と違って、「コッコ」と鳴かないから、むっつりとして騒がしい。総体に疲れ切っている。それでいて落ち着かない。理性が後退したいらだちと倦怠が、充満する檻の中にいるようだ。それで罵り合うものもなく、狂化して路線へ落ちる者もなく、毎日を平然と乗り切っていけるのは不思議だ。いくら人間が従順だからって、これほど詰め込まれて平気なのは、自他に差分のない規格品の証明ではないか。啓司は恐ろしくなってきた。

 平和なメロディーを共として、危機感のないアナウンスが響いてくる。右手に持った鞄が重い。仕事の資料なんか持ち帰らなければよかった。自分の憐れな忠犬ぶりを、尻尾の振りざまを見せられたようで、何だかやりきれない。ほどなく列車は止まる。ドアが開く。押し出された人だかりと入れ替わったとき、啓司もまた列車の人となった。

 契約の誕生より早く、存在すべき人間の自立的価値。

 そんなものは、言語動物である我々には、定義しきれないのかもしれない。だが例えば家庭は企業ではないはずだ。数家族が寄り添うくらいの役割分担にしたって、その小社会を、直ちに大社会の規格に捉える必要はない。そして、人間の根源価値は、大社会ではなく小社会のなかにこそ、まずは存在すべきではないのか。そこまで、引き戻して考えた場合、今の我々の生活は、真に正しい精神を保っているのだろうか。それとも、知らずのうちに魂を食い殺されて、充填されたプログラム、人の形をした既製回路、それな同一基板に代えられてしまったのではないか。だからこそ、これほど密集しても、輪を乱すこともなく、秩序を乱すこともなく、平然と仕事を続けられるのではないか。満員列車に毎日揉まれていると、不気味な不安が高まってくる。魂を喪失するような不安が。田舎へでも引っ越せたなら、これほど切迫した危機感も、遠ざかって人間性を、回復することが出来るだろうか……

 列車が駅に到着する。

 商品の入れ替えみたいな乗り降りが完了するまで、目の前のサラリーマンの携帯が、視線から離されたまま文字を連ねていた。メールの最中らしい。啓司は扉の封鎖を待っている。ドア付近では自(おの)ずから悟りきって、プラットホームへ下り立って、最後から乗り直す人影もある。それが礼節やマナーではなく、プログラムされた装置のように、啓司には思われた。契約的な規律がこの都市を支配している。それに合わせて、自分は魂を無くしかけている。しかし順応すべき人々が、怯える自分よりまっとうであるとは思えない。もし広範の信任を得た思想が常に正統であるなら、人類は有史以来の経歴をこれほどまでに、戦争に費やしたりはしなかったろう。それゆえ少数派の意見は常に社会にとって必要であり、多数派の意思のみを是(ぜ)とするような社会は、常に単一的無思想の危険にさらされる……そんな下らないことを考えながら、彼は吊革にぶら下がっているのだった。

「ある時、鶏(にわとり)と飼い犬が話しをしました」

 不思議な情景が胸に閃いた。

 取り留めもない妄想が、揺られまぶたの列車の子守歌となって、疲れ切った神経を雨だれみたいに宥めるとき、彼は思考とも夢とも定かではない、奇妙なイメージを心に満たしたのである。



 ある時、鶏(にわとり)と飼い犬が話しをしました。

「俺たちは似たもの同士だ。人に飼われて、餌を貰って、そうして自由を奪われていやがる」

「君はそこから出たいの」

飼い犬が、飼育小屋の鶏に尋ねます。

「出たいに決まってるじゃねえか。柵が壊れたら、外へ逃げ出してみせるんだ」

「外へ出て、生きていけるの」

「当たり前だ。俺はいつだって憧れてるんだ。奴隷みたいに、ぎゅうぎゅう詰めにされて、毎日卵を産まされるなんて割に合わねえ」

「だって、ぎゅうぎゅう詰めって、君たちみんな、毎日々々井戸端会議で、大はしゃぎしているだけじゃないの。与えられた卵作業だけ、していれば餌を与えて貰えるからってさあ。僕なんかよりよっぽど、ぐうたらに眠り呆けているじゃない」

「なんだと。俺たちに自由意思はないとでも言う気か」

「うん。はっきり言わせてもらえば、繋がれているのは事実だとしても、繋がれていない環境じゃ、生きていけないんじゃないのかなあ。インコと一緒でさあ」

「うるせえ。そんなこと言ったら、お前だって一緒じゃねえか」

「そんな口調はよそうよ。僕はね、もともと野良だったんだ。街へ出ても、餌を見つけられるし、危険を察知すれば逃げ延びる自信だってある。いざとなったら噛みついてやるしね。この鎖はね、だから隷属の鎖じゃない。ただ僕が僕の意思で、ここの主人に仕えようと決めたから、進んで契約を結んだだけのことさ」

「嘘を抜かすな。奴隷は奴隷だ。何も変わらねえ」

「だって、君たち。もし柵が破れたら逃げ出すだろう」

「あたり前じゃねえか」

「でもさあ。逃げ出して生きていかれると思うの」

「俺たちに生存本能が、無くなっているとでも言いやがるのか」

「うん、言っちゃ悪いけど、そう思う」

「てめえ。黙って聞いていれば。つけあがりやがって」

「まあ。落ち着いて話しを聞きなよ。だいたい君は、生まれたときからそこにいるんだろう。どうやって自由社会で生きていかれるのさ。自然に置かれた状態で。だいたい、君、空を飛べるの」

「そりゃあ。お前、いくらだって……これから、そうさ、外を出てから、どうにかしてやるのさ」

「それは無理だよ。子供のうちの慣習は、絶対的に一生を規定してしまうんだ。人だって動物だって一緒さ。だから未成年のうちこそ、一生分の命をそのものらしく生き抜くために、餌やらおしゃべりやら娯楽一辺倒に溺れさせないで、つまりべらべら鳴き声ばかり空元気で、いつも誰かと横並びにくっついていないと落ち着かないくせに、実際の行動は卵を産むくらいしか出来ないような、ちっぽけな規格品にならないために、あらゆる皮膚感覚と肉体の記憶を懸命に知性と結びつけて、幼い頃の僕みたいに、例えゴミ箱をあさってでも、人間の子供を手なずけてでも、実際に行動して生きてみなかったら、もう大人になってからでは、規格品にしたがった生き方しか出来なくなってしまうんだよ」

「つまり、俺がここを出ても、今さら生きられねえとでも言うつもりか」

 怒り出すかと思われた鶏は、急に消沈してしまったようでした。

 威勢はいいのですが、実際は四六時中檻の中にいて、犬と体を付き合わせたことすらない臆病者ですから、偽物の口調にはすぎないのです。つまりはほんの小者であり、そのうえ図星のところを指摘されたものですから、どう答えていいか、分からなくなってしまったのでした。

「だからさ、半分は仕事をこなしてこき使われているんだけれども、一方では圧倒的に社会に守られているんだよね。そうして、そこを離れては、詰め込まれた檻の中で卵を産むという環境以外では、君たちはもう、何ものとしても行動できなくなっているのさ。それでいて、外を羨ましがっている。何か、違っていると思うけどなあ。あるいは君たちは、羨ましがっているものを手に入れる気なんか毛頭なくって、ただそのことについて、べらべらしゃべりたいだけなのかもしれないね。だからいざ柵が壊れたときには、やっぱり躊躇して、小屋の中に留まっているんじゃないかなあ」

「だって、お前だって……」

「僕は時々、鎖だって外して貰える。だから、その気になれば、走って逃げることだって出来るんだ。もし主人が気に入らなければ、本気で差し違える気があるならば、その後の処刑は免れないにしても、首に全力で噛みついて、殺すことだって出来るかもしれない。それでいて、首輪を苦にもせず、彼に従っているのは、それが僕の選択した自由意思であるがゆえにであって、隷属とはまるきり別のものだ。よく、忠犬だなんて、馬鹿にする奴がいるけれど、あれは違っている。僕らの忠義は真に自発的なものだ。自発的というのは、つまり、労力に見あう対価や、賃金や、安定や、餌を求めて忠義を示しているんじゃないってことさ。あのだらしのない人間どもの、職場でみせる忠義とはまるで違っている。だから奴らが、『忠犬みたいに職場に隷属して』なんて言うのは本当に腹が立つ。忠犬は職場になんか決して隷属しない。職場は仕事をして対価を得るための施設だからね。それは愛情を注ぐ生身の相手とは、区別されべき存在だからね。それを、企業に隷属して規格化された部品になっているにも関わらず、会社のために自発的に行動してなんてほざくような誤認症と一緒にされるのは、我慢がならないのさ。

 だからね、たとえ僕が君の立場で、餌を得るために、卵を産み続けたからといって、いざというときに身を挺して職場に奉仕したりなんかしないよ。だって、子供に育てられない卵を産み落とすなんて行為に、精神を注ぐべき価値がある訳ないじゃない。誰かのための親切じゃなくって、利潤を生み出すことが最終目的の行為に、忠節を尽くす価値なんかあるわけないじゃない。僕はそんな真似は決してしない。けれども自由意思に基づく、あるお気に入りの誰かのためになら、それが組織でなく、人と人の、あるいは犬と犬の、あるいは人と犬の、一対一の関係から成り立つような、愛情の関係で結ばれているのならば、僕はどんな忠義だってまっとうしてみせる。自分の意思として献身を貫いてみせる。だから僕ら犬というものは、人間よりも、君たち鶏よりも、そうして奉仕の気持ちを持たない猫なんかよりも、よっぽど自由の精神を、孤高の旗印を、胸に秘めているものなんだ。だいたい君たちは、いろいろ言っているみたいだけれど、一体に、待遇の改善を求めて、全員一丸となってストライキをでも敢行することすら出来ないじゃないか。ただ酒を飲んでは愚痴って、でも本当はその小屋の中が、安楽で、安楽でたまらなくって、そこから逃げ出すなんて、思いもよらないんじゃないのかなあ」

 鶏は、もう答えませんでした。そうして、夜になるまで、自分はこの小屋から、本当に逃れるだけの勇気は、持ち合わせていないのかしら。こっそり涙を流しながら、仲間たちのおしゃべりにはもう加わらず、一羽でもの思いに耽っているのでした。



 がくんと首を折って驚くと、

啓司は満員列車に揺られていた。

鶏の寂寞が押しよせてくる。それにしても……

 こんな奇妙な童話を夢想するなんて、よほど鶏へのシンパシーが募っているに違いない。ぎゅうぎゅうの吊革は横一列に空きがない。そうして、みんな俯(うつむ)いている。つり下げ広告なんて見る者もいない。ただ遠くの学生だけが元気である。化粧の崩れかけたOLが侘びしそうに首を折る。ここにいる誰もが鶏のような生活を送っているとして、いや、それが仮に半数だとして、自由の旗を掲げて逃亡を決意して、駆け出せるだけのバイタリティーを持った奴が、何人くらいいるだろう。そうして、自由意思を信任する者が少ないほどに、なおさら小屋を逃れる孤独者は、支援もなくて滅びゆく一方なのではないか……

 啓司には不意に、暖を取る護送列車のハウス栽培で、レールに従うことのみを、規格に従うことのみを讃える、この国の教育システムが、おぞましいほどに動物的な装置のように思われて、なんだかぞっとなった。あの頃の自分のように、今でも学生たちは飼育の果てに、与えられた娯楽をベースに仕込まれただけの自我をより所に、チープなエゴを発散させて、鶏小屋の生活を謳歌しているのだろうか。無駄な知識ばかりを、ノイローゼになるほど詰め込まれながら、それでいて真実を悟らずに、動物的なおしゃべりを繰り広げながら……

 下りるべきステーションは、もう迫っていた。

 人々の背中を見送ってから逃れ出た啓司は、空のベンチに腰掛けて、しばらくはうごめく人波を見送っていた。列車は消え失せる。遅れて改札を抜けたのは、鶏の密集から離れたかったからに違いない。おそらくは明日またここへ通う……そんな毎日の生活が、恐ろしい儀式のように思われてくる。

 歩道へ逃れると、駅近くだけは繁盛していた。

書籍と喫茶店を過ごすと、眩しい看板の下で、

ビラ配りのアルバイトが、

「いらっしゃいませ」なんて呼び込みをやっている。

 活気付けのために、変なジェスチャーを交えて、盛んにビラを配って、注目を浴びつつ手渡している。恐らく、この学生の行為は、この瞬間においては、自分のような鶏小屋の流れ作業ではないのだろう。自立的な愉快が籠もっている。こいつはきっと、まだ犬の自尊心を信じているに違いない。だが……

 いくら、自立の犬といっても、

所詮は同じではないのか。

 長年鎖に繋がれたなら、次第に精神が変化して、鎖と餌のもたらす生活のありがたみにはよだれを流し、最後には自我をさえ放棄してしまうのではないか。つまりはそれこそが、あがきの瀬戸際に溺れかけた、今の自分の苦しみなのかも知れない……

 ビラ配りの奥では、階段が降りながら右に折れ曲がっていて、和風の居酒屋が扉を開いている。酒樽にパンフレットが載って、メニューが立て掛けてあった。ビラを持っていけば、駆けつけ一杯が無料なのか、半額なのか、それともお通し代がただなのか、そのへんは分からない。

 啓司は無論留まらなかった。

歩調を変えずにやり過ごす。

 一匹の猫が首を鳴らしながら、寒そうな路地裏へと消え去った。己(おの)がマイペースを突き進む、気ままな猫の散歩道。一方では、ポリシーを重視する自由意思の忠犬。それぞれの居場所。それぞれの仲間たち。本当は、そんな居場所を確保することこそが、生涯唯一の試練であり、また喜びでもあるのだろうか。自分はその試練を回避したばかりに、社会に封じ込められたのだろうか。職場での殺伐した毎日を思い描いたとき、眩しい都会の夜に代わって、陰鬱(いんうつ)が胸に覆い被さってきた。悪魔どもが闇を奪われた恨みとすればまだしも言い訳が立つが、この陰鬱は人の世が生み出した、人工の産物に他ならない。そんな取り留めもない感慨を抱きつつ、彼は歩調を早めるのだった。



 彼は大学での学究を続けていた。

 だが積極的に乏しいから、大学との関わりは損なわれてしまった。一人で正社員でない職を探しながら、十年以上探求を模索し続けていたのである。

 だからその方面での知識は、マンネリ盛りの大学教授どもを、はるかに凌いでいた。彼自身にもその自覚があった。ただ公表すべき学会も、レポートを受けべき施設も見当たらなかった。三十を過ぎてから、ネットへの紹介を企てたことがある。もちろん誰からも相手にされなかった。彼は、学究の相互振興にこそ相応しいネットの仕組みが、市井の井戸端会議の仮想空間となって、それに合わせて、有識者などは、かえってネットから遠のいていることを悟らざる得なかった。あるいは英語で論文でも書けたなら、違った結果になったかもしれない……学生の頃の不徳要領(ふとくようりょう)の授業内容が、なおさら彼を英語嫌いに仕立ててしまっていた。ようするにかの授業は、話すことの喜びからもっとも乖離(かいり)した解説を、生徒たちに強制するに過ぎなかったからである。

 けれども、その学問探求のために生まれたような出版社がひとつあった。

 彼は意を決して、まとまった原稿を送ってみたことがある。

 返事はあっけなかった。内容には言及せず、ただ名刺に記すべき権威がないために、認められないという趣旨だった。その企業の創業目的は、出版物によって利益を生みなすことにはなく、学問の真実を守るべき意義から生み出されたはずなのに、今だにそのことを企業ポリシーに掲げているはずなのに、その実、単なる利潤企業へと陥って、旧態依然たる思想に満ちた学者どもから、売れそうな原稿を買いあさるばかりだったのである。

 ちいちいぱっぱ社会。

 さっき夢に見た犬が、あざ笑ったような気がする。

 だが彼は、今さら英語を身に付けて、島国根性を捨て去るゆとりを持たなかった。いや、ゆとりではなく、それは気力なのかも知れない……彼は万能に秀でた人、ウォモ・ウニヴェルサーレではなかった。むしろ大和的な職人芸の、一芸を突き詰めるタイプの人間だった。人並みくらいの売り込み能力はあっても、才能をひけらかしつつ強引に周囲に認めさせるような、逞しい商才など持ち合わせていなかったのである。善良なる能力の付加価値を、あらゆる場面においてたやすく登用すべきシステムの、確立に乏しいような国家においては、有用な人物はどしどし流民となってしまうに違いない。一の能力よりも二の能力を、一の善意よりも二の善意を、高く評価すべき社会でなければ、健全な階層社会は成り立たない。立ち回りがすべての、塔のてっぺんに詐欺師が巣くうような、狐狸(こり)の大国になってしまう。それでいて構成要員をすべて、同一階層に収めべき社会は、有史以来、あるいは有史以前を考慮に入れても、いかなる主義においても存在しきれなかった。それを目ざした時、社会は大きく後退せられ、息苦しくって右往左往する善意の人々は、死ぬか、国を捨てるか、いずれかに収斂されるに違いない……あるいはあの犬ならば、そんなことを言うだろうか。



 今の職場は彼のスキルとは関わりなかった。

 正社員ではなかったが、彼は真面目に働いた。

 三十を過ぎてから、正社員になれる機会があったが断った。頑固者の彼は、どうしても探求を邁進するだけの時間が、金銭や安定よりも得難いもののように思われてならなかったからである。けれども、歳月は人の魂を蝕んでいくものらしい。

 精神と肉体の衰えを、始めて感じたのは三十路半ばを回った頃だった。その時は、軽い予兆に過ぎなかったが、四十が近づくにつれて、急速に膨らんでくるのが分かった。

 それと同時に、何を続けても、認められようのない焦りが、人生の砂時計を減らすのと入れ違いに溢れてきた。彼は今までの生き方が、徒労の連なりのように思われ始めた。突き詰めた探求さえも、価値のないような虚しさに侵された。どんなに心を奮い立たせても、侘びしさを宥めてみても、いっそう絶望の底辺へ、螺旋階段を下るような錯覚に囚われたのである。

 恐らくは純粋に、

肉体の衰えと、知性の限界が悟られるシーズンには、それが侘びしさの連鎖反応を引き起こして、たちまち炎が枯葉を覆い尽くすみたいに、灰化の帰結を導いてしまうのかもしれない。もう五年を共にした鞄の傷を見ていると、自分を眺めるような虚しさが深まってくる。

 信号が点滅して、人だかりを押しとどめる。

ヘッドライトが滑り出すと、排気音がむっと寄せてくる。

 不意に夜風が払ったとき、肌寒の春のおぼろの、懐かしい田舎の気配が感じられて、思わずはっとなった。故郷の両親はどうしているだろう。二人とも家にいて、今は年金で暮らしている。困らない程度に自立しているが、無心を頼むほどの余力はない。いい年をしてそんな惨めな真似も出来ないから、思い切って今の仕事から、逃れることなど叶わないのだった。かといって、幾ばくかの預金をあてにして、先に辞めるのも憚られる。啓司はちょっと苦笑いした。ようするに自分が、レールを踏み外すことを恐れているために、毎日こんな事ばかり考えるのだ。

 立ち枯れのシーズンにおののくみたいに、職場を変えようとして、正社員の募集を探りながら、彼は面接を続けていた。学問どころではなく、自分の終末が気になり始めたのである。それにしても、自分の年齢と職歴が、これほどの足枷になるとは思わなかった。まだ二十年くらいなら、知性も肉体も壮年を維持出来るのに、向こうはそう判断しない。特に年齢のことはしばしば口に出された。基本給が年齢に応じて高くなるので、雇用を避けたいというのが本音のようだ。なまじ適正な人材を見抜けないものだから、手抜きを極めて年齢などで、割り切ってしまうような企業体質が、他の国にもあるだろうか。啓司には分からなかった。だが自分はもうこの国で、生きていくしかないのだ……

 それにしても、この息苦しさは人間社会のそれではない。信号と共に歩き出した啓司は、人をかき分けるように進んでいった。どしどし歩きながら、道を二三度折れ曲がると、ようやく駅前の盛りが遠のいて、ほっとするくらいの住宅地が控えている。

 外灯ばかりの列となる頃、行き交うヘッドライトはまばらになった。それでちょっと気分が軽くなって、靴音を高くするゆとりも生まれてくる。つまりは人が多すぎるから、人でなしの鶏小屋に陥ってしまうには違いないのだ。もし鶏小屋に十倍の広さがあったら、あの欲求不満の鶏だって、小屋を出ようとはしなくなるかもしれない……また馬鹿なことを考えて、項垂れている自分が滑稽だ。

 滑稽、滑稽、こけこっこう。

 なんて考えたら、急に噴き出した。

 啓司は思わず辺りを見渡してしまう。ちょっと恥ずかしい。悲惨の極致に冗談が生まれるのを訝しがって、もう一度「こけっこう」なんて反芻しながら歩いていくのだった。



 不意に眩しさが歩道まではみ出して、スーパーの照明が照らしてくる。

 彼はちょっと立ち止まった。まっすぐ帰れば、すぐにマンションである。ぼんやり眺めていると、ひな祭りも過ぎたばかりだから、店頭の関連商材が撤去されて、チラシの目玉が並べられている。明日の朝市のためのポップを、店員が静かに付け替えているようだ。

 どうしようかなと迷ったが、啓司は店頭へと折れ曲がった。仕事帰りのビールが冷蔵庫に入っていない。鞄が重いので、両手とも塞ぎたくはなかったが、酒がないとなると、物足りなさが募ってやりきれない。買わないで後悔するよりは……そう思って、入口へとすべり込んだ。

 買物カゴに商品を投ずると、投ずる分だけ重みが増してくる。万有引力の法則。疲れた彼は、意味不明なことを考えながら、夜市として通路に出された、投げ売りトマトを一袋、意を決して掴み取った。安いはいいが、はなはだ重い。代わりにビールはまとめ買いではなく、ロング缶を一本で我慢する。レジでは若いアルバイトの店員が、

「いらっしゃいませ」

なんて丁寧なお辞儀をするのを、無視してすっと通過すると、慣れないせいだろう、丁寧におつりを数える仕草がのろまである。ここは自動レジではないらしい。フレッシュな態度に接していると、ちょっとだけ心が宥められるような気がするのだった。

 サッカー台で商品を袋詰めしていると、パート・アルバイトの募集が、九百円からになっている。啓司の時給よりはずっと低いが、同じ時給制である。同じ非正規である。いっそ気分転換に、安い時給のスーパーにでも、働いてみようかなんて、自虐的な気分も湧いてくるのだった。正社員の面接はもう十社ほど落ちている。この歳にして大した数ではない。そんな気休めをしたって、やはりへこたれる。職場に内緒にしているのも落ち着かない。前の上司が移動してしまったから、社員登用も閉ざされたようなものだった。今の上司は、なるたけ安価な労働力を確保しようとする、ちんけな男には違いなかったからである。

 「やれやれ」と思いながら、逃れる町並みは暗かった。

店の眩しさを浴びたせいで、なおさら暗陰(あんいん)が募るのだろう。

 ヘッドライトは忙しないが、駅前でないから通りは少ない。両手を塞がれたままで、残り十分ほどの道のりを、トマトを購入した後悔がてらに帰ろうか。また奇妙な感慨に耽りながら、啓司は空元気に町を闊歩してみるのだった。

 彼には職場が苦痛だった。

 思えば、学生の頃は、学校が苦痛だった。

 大学でさえも、学びの園とは思えなかった。

 だから懸命に自分を封印して、他人の話し方を、どうにか真似て生きてきた。十代の頃から、仲間がどうしてこんな下らないことばかり、均質的に話しているのかまるで理解できなかった。ただ教育のあり方が、自発的な、ものを考える人間を作るのでは無くって、意思を持たない規格品に情報を詰め込んだパッケージを、大量生産していることまでは考えた。ちょうどあの「犬と鶏」の話しみたいに、あの頃、鶏小屋の自分は、ひとりでよく煩悶したものだった。

 それにしても、あの頃と今とでは、教育システムにも違いがあるだろうか。啓司には分からない。彼は、十年、二十年、大切な自分の心を仕舞い込んで、表層的な会話に逃れつつも、いつの日かきっと、理想世界に辿り着いて、思う存分自説を述べられるような錯覚も、子供の頃から抱いてきた。そんな行為が認められる社会がどこかにあると夢見てきた。それも近頃ようやく破綻をきたし、破綻してみたら朽ちゆく自分の末路ばかりが、虚しく残されていたのである。

やりきれないような重みが、近頃、両肩にのし掛かっている。

レディメイド社会。潰されゆく自分……

 偽りの会話は、近頃ますます苦痛になって、啓司を押しつぶそうとした。彼は職場では、仕事の話ししかしなくなった。つまらないと思われても結構だった。その時だけは、まだしも目的をもった会話を繋ぐことが出来たからである。

 ここ五年くらいで、まだしも連絡を取り合っていた知人も、ぐんぐん疎遠になってしまった。ひとりひとりと連絡を途絶え、連絡を途絶えするうちに、ついには誰ひとり、彼と繋がるべきものは居なくなった。残るは家族くらいのものである。もちろん学生時代の感情的な疎遠関係とはまるで違う。働き盛りの交互の年齢が、壮年の下り坂の精神を、全力で職場へと保つうちに、旧来の付き合いさえもこなせなくなって、やがては煙たがるほどに、あくせくが心を侵してしまう。そんな年代特有の、ある種の精神状態に、集団感染しているようなものである。

 恐らくは鶏小屋の住人にとって、

それは不自然には思えなかったのだろう。

卵を産まなければ、餌が貰えないのだし、遠い鶏と伝心などしなくても、近隣の鶏同士だって、同質的なおしゃべりは果たせるのだから。つまりは特定の親友など持たなくても、鶏に差し支えはないのだし、おしゃべりの質が、特定の者同士を結びつける必要を持たないくらいに、統一的傾向を強めるのであった。

 もしそうでなければ、彼らは疎遠にならないために、

人としての関係を食いつぶすような環境を回避するために、

反旗を掲げて立ちあがり、虐げられた現状を打破しようとするに違いない。つまり彼らは誰もが皆、そのくらいの意思を持たないくらいに、蟻のようにせこせこ働いているには違いないのだ。しかもそれを、正統な人間の行為だと錯覚している。人でなしになることを、大人になることだと誤認している。これでは鶏よりもなおいっそう、アイデンティティーに乏しいのではないか。それとも、蟻には蟻の喜びがあって、それをキリギリスの立場から、罵るほうが間違っているのだろうか。だけど人間には、蟻の流れ作業ではなく、キリギリスの歌心が、絶対に必要なはずだ。もしそれを無くしてしまったら、継承されべき文化や伝統も、すべてが形骸化を見せはじめ、極めて表層的な、陳腐な文化の隆盛に貶められるのではないか。蟻の懸命さは冬を忍ぶものだったとして、歌を絶やさないキリギリスが凍えるものだとして、本当に蟻だけの社会は美徳なのだろうか。蟻が多少なりともキリギリスの存在価値に気づいて、余力を持って支えてやるような社会でなければ、ただの経済一辺倒の社会に陥ってしまうのではないだろうか。商人の大国。それはきっと、おぞましい国家には違いないのだ……

 まったくどうかしている。

 妄想にしたって、壮大に過ぎる。

 彼は苦笑しながら、小学校の横をすり抜けた。真っ暗なグランドに、人影は見えない。それでも、朝が来れば、駆け回る子供の姿は、昔と変わらないようにも思えるのだが……まったく近頃の自分はどうかしている。探求すべき事柄などすべて忘れ去って、ただ社会の憤慨をばかり繰り返すのは何故だろう。そう思いながら、また考えてしまう。

 今日も職場では、いらいらの連続だった。

名目主義の矛盾が、いたるところに蔓延してる。

 彼の職場では、正社員と非正規は別物である。朝礼も正社員には専用の別枠があって、非正規は有り難くも伝令を、各部署において後から拝聴いたすことになる。それでいながら、仕事の内容は何一つ変わらない。特に中高年の正社員には、ニュースを賑わうような、首切り労働者を批判する資格など持たないような、無能者ばかりが多く含まれるのだった。よくこれほど集められたものである。彼らは安住出来る領土で怠け癖を覚え、名目的な事柄を職務に差し替えて、驚くべき自由と怠惰とを、時に謳歌しているのだった。

 正社員を眺めると、二十代の新人だけがあくせく仕事をこなしている。若者の批判など、いじけた中年世代に、ほざく資格なんかあるのか、どうしても肯定しきれない。特に四十代、五十代は悲惨である。存在意義すら疑わしいのが大分いる。なんの生産性にすら寄与していない。無意味な中間管理職に留まって、的確な指示すら出さず、すべてを非正規や若手に押しつけている。会社への存在意義がまるでない中で、誰も読まない計画書を記したり、誰に伝達するでもない、手をうつでもない情報を、書き写したりして忙しがっている。純粋の歯車社会にしたって、こんな粗悪品じゃ、到底立ちゆかない。歯車社会を突き詰めるなら、ひとりひとりを最適な部品に選別して、部品の質に応じ、雇用形態を柔軟に、的確な賃金を支払うだけでも、つまり、表層的な合理主義を突き詰めるだけでも、どれほど効率がアップして、労働意欲を掻き立てるか分からないのに。

 職場を幾つも巡った啓司には、これが今の職場特有の雰囲気でないことを知っていた。仕事の内容いかんに関わらず、一度正社員として取り立てられれば、どれほど無能を極めても、解雇に足るべき失態でも冒さなければ、手厚い保護に守られる無能力社会。一方でそこに登用されないとなると、どれほど優秀でも、ほとんど横並びの時給に陥って、惨めな社会主義的生活を余儀なくされるような絶望社会。現に彼は今、半分程度しか作業をこなさない非正規の同僚を、毎日使いこなしているのだったが、その賃金は、驚くほど格差に乏しかった。つまりは相応に認められる代わりに、平等にこき使われる全体主義。それが鶏小屋に蔓延する、どす黒い空気の元凶にも思えてくるのだった。

 計画の実質的な采配を振るって、

無能な社員の世話まで行っている自分が、

近頃憐れでならなくなる。

 少し前までは、そんなことは考えなかった。

自分の目標は、別にあって、

職場は賃金を稼いでいるに過ぎないと、

割り切っていたからである。

 近頃、別のことを考える。

もっと、淋しい荒野のことを。

 自分は、どれほど突き詰めても、現在の我が国においては、学問的に認められることなど不可能である。あまりに名目的権威主義が幅を利かせている。真実ではなく、売名で評価が定まっている。学問の世界が、学問の内容で判断されなくなったらお仕舞いだ。彼が何かを発言しようと思っても、第一、入り口がどこにもない。英語を勉強して、外国に訴えてみたら、ネット社会だって、こんな井戸端会議のしゃべり場ではなくって、もっと健全に意義を果たしているのだろうか……彼はまた同じところを徘徊する。

 自分の学生の頃は、情報化社会なんて思いもよらなかった。英語なんか大嫌いで学業を怠けていた。あるいは今、学生であったら、違った考えも生まれただろうか……しかし彼は、今さらそれをマスターして、世界に向かって問いかけてみようなどとは、もう考えられなかった。圧倒的閉塞感のもたらす日々の生活が、大多数が信任するあたりきの社会状況が、彼の精神を蝕んでいた。もちろん信任べき大多数の精神も、蝕んでいたのには違いない。それでいて自分だけが異なる苦しみを受けるのは何故だろう。啓司には分からない。感受性の問題くらいでは、自己の正統を掲げきれないくらい、自分は追い詰められている気がする……

 犬に話しかけた口の悪い鶏、あれは自分ではないだろうか。

 それにしても疲れた。毎日頭をぐるぐる駆け巡る、絶望的な哀しみが、翌日の幸せを拒絶するような気配である。それでいて、近頃、頭の切れが悪くなってきている。それは間違いない。年齢のせいだろうか。空気が悪いせいだろうか。ただいらいらばかりが募って、何もかもが面倒で、訳もなくケリを付けたくなってくる。そのケリは、明確な方針へと帰結するようなケリではなくって、ただ現状を逃れたいがあまりに思い詰め、その実、行き場なんかどこにもない、絶望的なケリには違いなかった。この気持ちを知らないうちは、四方を壁で囲まれて、何をやっても跳ね返されるような虚しさを、それが永遠に続くような虚しさを知らないうちは、きっと何とでも言える。だが、このケリが、逃げ場を失ったとき、まっ黒に心を染め抜いたとき、往々にして我らを死に際へ導くことを、今の啓司ははっきりと悟ることが出来たのであった。

 街灯の下を潜ると、影法師が前に来る。

 二次元の住人がおどけた影絵みたいに、影法師は手足をばたつかせる。とても自分を反映したものとは思えない。靴音は自分ではなく、彼が高鳴らせているのではないだろうか。もし彼が自分と入れ替わってくれたなら、この閉塞感から抜け出せるだろうか……なんて考えているうちに、あまりの馬鹿らしさにまた苦笑した。

 近頃、人と話さない。

 人と話さなくなってから、いつわりの会話でさえも、まだしも心を支えていることに気がついた。自分は生涯、こうやって生きていくのだろうか。恋人もいない。そもそも、生まれてからこのかた、本質的に価値観の違った女性を見かけたことがない。まるでレディメイドのオンパレード。彼の苦手とするような、ある種の特徴を満たしている。到底堪えられそうにない。さみしい思いがないでもなかったが、今さらどうにもならないのだ……

 遠くで列車の音が響く。

 自分の終着駅もそろそろ見えたかと思う。

 近頃、精神が沈み込んでいる。思い詰めたせいで、悲しみの風船が肥大して、こころをすき間なく覆い尽くしている。いつか破裂するに違いない。今ではただ、それを待っているような気もする。生まれてこなければ良かった。そんなことばかり考える。眠っている時でさえ、閉塞感に追い立てられるような、おぞましい夢を見ることがある。こうして宵の街を歩いていながら、闇をさ迷うような錯覚が込み上げてくる。今は両手が重くて仕方ないんで、なおさらやりきれなさが募るのだろう。彼は慌てて頭を振った。マンションまで辿り着いたようだ。

 外鍵を開くとき、なぜだか分からない、

彼は不意に、あの鶏の末路を思い描いた。

 それは、あの犬の采配により、ある静かな満月の夜に、一羽分の逃げ道を確保して貰った鶏が、そこから抜け出そうか、そのまま留まっていようか、夜通し考えているという結末だった。そうしてそれより先、どうしても帰結は浮かんでこないのだった。



 彼は振り返った。

 駐車場の先には車道が連なっている。

 二車線の向こう側に煌々と、自動販売機の照明が輝いている。

もうすぐ寒さも和らいでくる、肌寒の三月初め。

空は雲が覆っていた。

 毎朝この道を通って、毎晩この道を帰ってくる。カレンダーに×印を並べたら、さぞかし空しいほどの歳月を、果てなく繰り返して、自分は一生を終えるのだろう。

 開いた入口を潜り抜けて、啓司は階段を踏みしめる。四階まで来て鍵を回すと、カチャリと虚しい響きがする。階が高いから、宅地の屋根は眼下に控えていた。扉を閉ざすときに眺めると、遠くの鉄塔にはまるで宵に見たような、赤いシグナルが瞬いているのだった。それが自分の鼓動の、怠惰に膨張した終末の姿を晒しているように思われたとき、彼は慌てて頭を振った。

 荷物のせいだ。

荷物が重いせいなんだ。

 だって、滅びるべき理由なんて無いのだ。どうして自分の精神は、これほどまでに追い詰められているのだろう。部屋に戻ってもそれを相談すべき相手はいない。喜びを共にすべき人間もいない。あるいは人はただ人と接してのみ、生存の意味を見出すべきものであって、己のためと信じているあらゆる事柄でさえ、四方を閉ざされた空間のなかでは、歳月を全うできないくらい、ただ情動を確かめ合うくらいの動物には過ぎなくって、自分はただそれを踏み外しているがために、毎日これほど苦しいだけなのだろうか。

 そうだとしても。

鶏小屋でその幸せが見つけ出せるのだろうか。

 自分は鶏を説得して回って、鶏小屋の改善のために行動したら、この閉塞感を逃れられるのだろうか。あるいは犬の導きのままに、大なる世界へと逃れて、本当の仲間を捜すだけのバイタリティーが、駆け出すだけの脚力が、自分には残されているだろうか。

 動かなければ生きていかれない。

そこには二つの路がある。

動くという行為と、

死ぬという行為の二つの路が。

 啓司は慌てて扉を閉ざした。赤いシグナルは剣呑だ。両手が塞がれているから、なおさら追い詰められるのだ。床に荷物を置いて、ともかくビールを飲もう。買ってきたビールを飲んだら、少しは気分も晴れるには違いない。生きるか死ぬか。それはもはや問題ではない。ただなるがままに、怠惰のうちに帰結するだけなんだ。ハムレットのようなバイタリティーは、今の自分には無いのだから……

だが、それでいいのだろうか……

彼は燻り続けるのだった。

(おわり)

作成

[2010/5/8-17]
(原稿用紙換算44枚)

2010/05/17

[上層へ] [Topへ]