勝手な女だった。
今でも変わりはしないだろう。
俺のことなんか、お構いなしに進んでいく。
そうしていつも歌を歌っていた。
邂逅(かいこう)の夕べもそんな調子だった。
小さなバーのステージに、ときどき見かける巷のミュージシャン。ずば抜けた才能。そんな口説き文句など聞き飽きた俺は、近頃別れたばかりの、女の恨みごとを思い出すでもなく、飲みながら仕事の憂さを晴らすでもなく、バーのカウンターに腰を下ろした。マスターからのうわさ話も聞き流した後だから、一人でグラスを傾けたのである。
「ジントニックなんてつまんない」
背の高い、生意気そうな顔が笑いながら、隣の席に座り込んできた。後から聞いたら、「ちょっと引かれたんで隣に座ってみただけ」なんて答えやがる。あいつはいつも勝手気ままに振る舞うのだった。
「ジントニックで悪かったな」
別に嫌な気分もしなかった。憎らしさなんて感情は、面長の鼻の高さと釣り合いの取れた、心まで探るような瞳に吸いこまれて、すっかり忘れてしまったからだ。髪が短いものだから、不意に川島芳子(かわしまよしこ)なんて名称を思い出した。男装の麗人。けれども果たしてこんな顔立ちだったろうか。
「ギムレットにでもすればよかったかな」
なんて答えると、彼女は振り向きもせず、
「まだ早すぎるわ」
といって席を立ってしまった。
わがままに育った猫のようだ。ステージから楽器伴奏が始まったので、そうか、あいつが巷のミュージシャンか。そう思いついた途端に、興が冷めたような味気なさだった。見てくれやら口調なんて、何の意味があるってんだ。結局は歌がすべてさ。期待もせずにグラスの氷を転がして、からからを拍手の代わりにもてあそんでみた。
客たちが拍手をしたから、小さなライブ会場みたいだ。地元ではそれなりに有名なんだろう。そんな話しなら、今までだって何十となく聞かされたことがある。そうして、報われた試しはない。もうよそうかとも思う。才能なんてそこらに転がっているくらいなら、誰だって原石を探しに向かうに決まっている。能力を拾い上げるシステムが完備していやがるから、掘り出し物に出くわす機会なんて、もう残されていやしないのだ。いや、それとも単に、魅力ある人間がこの国から枯渇しかかっているだけなのか……
けれどもあいつがマイクを握った。
イントロのカデンツが終始和音から伴奏へと移るとき、心のなかまでその歌声が響き渡った。俺の鼓動はまるで氷結したらしい。心臓を直に、なめらかな女の指先で触れられたような衝撃を覚えたからである。慌てて振り向いたステージには、彼女が立っていた。こっちを見詰めながら、瞳の輝きだけで「どうなのよ」と自信たっぷりに訴えてくる。俺は息を呑んだ。そうして瞼を閉ざすと、彼女の声ばかりがどこまでも染み渡ってくるのだった。
「あんたとわたし」
あんたが愛した 赤いくちびる
かまってくれない 胸のふくらみ
指先の触れ合う 仕草にしたって
今じゃまかせる 当てなどないし
ほら、カクテルグラスに
うっすらと口紅のあと
笑ったあんたの横顔さえ
今じゃこころに燻るわ
あんたが夢みた スケッチ帳の
デッサンみたいには 今もなれない
破いて投げた 喧嘩にしたって
ほんとはまんざら 嫌じゃなかった
でも、束縛されたら
堪えられない、子犬みたいで
つながれた幸せが恐くて
今はまた遠く逃げるわ
あんたが愛した わたしのこころ
手を伸ばしても つかみ取れない
嘘ばかり ついてごめんね
今でもまんざら 嫌いじゃないけど
なでしこみたいな甘ったれた
生き方なんかは性に合わない
あんたに体を預けたけどね
すべてを捧げたわけじゃないんだ
カクテルみたいな余韻を残した
さよならの響きはなんにしたって
あんたに心を預けたままに
もたれていたって、よかったのかな
それがあいつとの出会いだった。
歌が終わると、彼女は隣の席へ戻ってきた。どうだったなんて聞いてくるから、自分はただ、仕事の契約を締結した。その日から、彼女は自分の専属となって、ミュージシャンとしての活躍を始めたのである。小さな俺たちの音楽事務所で。
詳細。そんなことは、どうだっていい。
あいつのマネージメントは、全部自分が引き受けた。マネージャーなんて改めて雇わなかったから、つまりは俺がマネージャーで、あいつは歌い手だった。同時に俺は雇用側でもあって、零細な音楽事務所にありがちの、ざっくばらんな舵を切って、大海へ漕ぎ出したようなものだった。それに合わせて、しぼみかけた歌手を一人切った。傷みの代償も請求せずに立ち去る態度が、かえって俺をすまない気持ちにさせるのだった。
けれどもそのことをあいつに話しても、
「あんたは、馬鹿だ」
なんていって笑っていやがる。そうしていつも、
「小さい、小さい」
それが彼女の口癖だった。別れ際の同情なんて嘘っぱちだ。相手への思いやりなんかじゃない。ただ自分の責任を転嫁(てんか)して、納得させるための手段だから、偽物の同情だ。そんな理屈らしかった。だからあいつは弱音なんか大嫌いだった。濁流に逆らってでも泳ぎ切るほどのバイタリティーで、死ぬまで前に進んでいくことだけが、彼女の生き方らしかった。そんなあいつに引かれるうちに、いつしか意気投合したみたいに、俺たちは仕事以外でも、付き合いを深めていったのである。
フィーリングが絡み合って、男女の仲になってからも、俺はあいつに振り回される一方だった。いつもなら自我が強くて、主張の激しい女なんか、言い負かしてやるような自分が、散々あいつに振り回されて、しかも嫌とも思わなかったのは何故だろう。やはり愛していたからだろうか。それともあいつの才能に打ちのめされて、自らを蔑(さげす)んだ結果だろうか。それはよく分からない。
けれどもあいつは、布団のなかでも、
「小さい、小さい」
なんてからかうことがあるのだった。
「馬鹿やろう」
黙っちゃおれないから、滅茶苦茶にしてやり返す。やり返すと、あいつも負けじと責めてくる。そんな瞬間が、たまらなく幸せに思われた。ようするに惚れていたのだ。
ある日、もつれたわむれた夜更けに、風の音が遠く響いていた。半開きのまなこで天井を眺めているうちに、不意にあいつが俺のことを尋ね出したのである。出会ってから半年あまり過ぎていたから、もう秋も半ばをまわっていた。
「めずらしいじゃねえか。俺のことを聞いてくるなんて」
「そうかな」
「そうさ」
「だって、ときどき挫折顔なんかしてるから」
「馬鹿やろ」
馬鹿やろとは言ったが、自分は夢のことや折れた枝の話しや、それでも諦めきれないうっぷんを、めずらしく素直に語ってやったのだった。
「わたしは分からないよ。才能に溢れてるし」
「お前はそれでいいんだよ」
「そうかな」
「そうさ」
「でもわたしも、自分の歌が、ある日突然、誰にも相手にされなくなるような気が、どこかですることがある」
めずらしい弱音を吐くんで、ちょっと瞳を覗き込んだ。
「なんでそんなこと思うんだ」
「だって、この国、信任するものが何もないんじゃない」
「なんだそれ」
興をそそられて聞いてみると、
「信念も意思も何にもない。ただ流行っている女のところばかり、群がる波乗り野郎みたい。夕べまで応援していても、明日には他人ごとみたいに素通りする。まるで人でなしの国になってるのに、誰も気づかないみたい。なんだか不気味……」
そんなことをこいつが言うとは思わなかったんで驚いた。こいつはきっと、動物みたいな本能で、回りの空気を把握しているだけに違いない。
「お前だって、信任するものなんてないんじゃねえのか」
試しに聞いてみたら、
「わたしはね、永遠の彼は歌だけなんだ。歌だけはいのちを奪われたって、信任し続けてみせる。だけど……」
「男は、そうじゃねえってわけか」
その時彼女は、ただ「うん」と頷いただけだった。それから、くだらないことなんかみんな忘れちゃえ。とかいって、またのし掛かってきた。猫には猫のポリシーがあって、それだけは譲れねえものだそうだ。ただ、それが人には向けられねえから、俺たちは信念を持たないものだって誤解しちまうものらしい。俺はそんなことを考えながら、しばらくは彼女と戯れて、それから果てて寝ちまった。
思えば、あの頃は幸せだった。
口は悪いが、あいつは優しかった。それは肌で直に伝わってくる優しさで、言葉の性格とは、まるで別のものだ。だけど、愛なんてそんなものじゃないかって、今でもときどき思い出す……
それからほどなくして、あいつは歌を完成させて持ってきた。初めて聞いた時、俺はベットの戯れを思い出した。事務所の安っぽいキーボードで弾き語りをしても、あいつのテンポはぶれなかった。ときどき変わった不協和音をぶつけてくるのが、驚くほど効果的だった。やがてイントロが終わって、あいつの声が響いてくる。いつもドキリとするような瞬間。まるで天使か悪魔の、呪術的な歌声に魅了されて、ふらふらと近寄って、魂ごと奪い取られるような錯覚。結局、この歌声がある限り、俺はこいつからは逃れられないんだ。
「あんたの道を支えたげる」
みんなあいつを悪くいう
駄目な奴だっていうけど
わたしだけは知っている
あんまり素直な愚かもの
言わせておいたらいいわ
わたしだけは味方だから
あんたが馬鹿を走っても
離れて逃げたりはしない
言わせておいたらいいわ
ぜんぶ信任してあげるわ
あんたの馬鹿よりもっと
愚かな一途でありたいの
みんなわたしを笑うけど
指さしながら過ぎるけど
初めて本当の生きかたを
あんたと一緒に送れたら
わたしはそれで十分だわ
あんたの道を支えたげる
道だけ支えてあげるから
そのかわりあんた、ねえ
私を愛してちょうだいね
私を愛してちょうだいね
歌はメディアに取り上げられ、彼女はすっかりメジャーになった。
あいつの才能を求めて、巨大な空気が動き始めているように思われた。俺にはそれを止める力はない。最初から分かりきっていた。あいつは鳥の王者みたいなわがままで、かりそめに俺を信任しただけのこと。すぐにまた羽ばたいてしまう。そんな宿命を背負って生きていやがるんだ。だから、ひとりの男には我慢が出来なくって、ひとつのフィールドには収まりがつかなくって、死ぬまで人波をかき分けながら歩いてゆく、時の旅人みたいな女だから……
さらなる名声を求めて、運命が彼女を掬い上げたとき、社会にしがみついて生きるような俺たちの、義理やら人情といった誤魔化しが、たとえば男女の営みにしたって、まるで通用しないことは初めから分かりきっていた。
ほどなくして、あいつは俺の元から立ち去った。
ちょうど初めて出会ったあの日、カクテルバーに腰を下ろした女が、挨拶を終えてステージへと帰っていくような屈託のなさで、ばいばいと軽やかに手を振って、あいつはここから消え去った。また次のフィールドでは、新しい男が彼女を支え、束の間の奉仕に命を費やすのだろう。
俺は助手席の空になったハンドルを、虚しく切っては夜更けの高速を過ぎていく。遠く、ビル街の灯光(とうこう)がきらきらとして、不意に淋しさが襲ってくるようだ。まばゆい都会の営みは、どれほどの人間に支えられているのか、それを思うとやりきれない。そうしてあいつは消えちまった。もっとも、いつまでも一緒にいられたか。そう聞かれたら答えられない。初めから分かっていた。俺はしょせんありきたりの男に過ぎなくって、社会に飲まれて挫折して、日常から抜け出すことは叶わなかったのだ。
「小さい、小さい」
あいつの口癖が浮かんでくる。
確かに自分は小さかった。
粋がってみても始まらない。人には限界がある。
そんな思考的束縛がきっと、社会に埋没する俺の生涯を、はかなくも決定づけてしまうには違いない。それを踏み越えるだけの気力など、あるいは初めから持たなかったのだろうか。そうして俺の知らないすべてのものを、あいつは無頓着に、端っから持ち合わせているのだった……だが、結局それも、あいつの歌声の付随物には過ぎないのではないか。あいつの精神はすべてが、歌の副作用によって生み出された、はかない幻影のようにすら思えてくる。
やはり俺は、あいつが好きなのだろう。
こうしてハンドルを切りながらまた、
あいつのことばかり、考えていやがる。
けれども、もう、終わったことだ。
こうしてアクセルを踏んづけてさえいれば、
すべては過去へと流されていく。
夜のしじまに遠ざかるばかりだった。
淋しさを誤魔化すみたいにラジオのスイッチを入れると、不意にあいつの名前が紹介された。二人の過去は遠ざかっても、歌声だけは永遠に、俺を規定し続けるに違いない。その声を聞くだけで、俺はあいつをそばに感じるだろう。だってあいつの精神は彼女のものではなくって、ただその歌声のためにのみ、存在したようなものだから。
……俺も知らない最新の曲。
でも、俺にははっきりと分かる。
また新しい男を見つけたのだ。恐らくは仮の宿りをするための、彼女にとってはあまりにも小さすぎる、束の間の憩いの場所を。俺はあいつの歌を聴きながら、回想にハンドルを委ねるのだった。
「言葉なんて」
言葉なんて かたちなんて
なかったころの こころ委ねて
あんたが好き 離したくない
伝え切れないの もどかしさ
思想なんて 嘘っぱちじゃない
こんなに熱くて 押さえきれない
あんたが欲しい 抱いても抱かれても
離れたくない いまはもう
よそ見したら 許してあげない
冷たくされたら 復讐したくなる
もしあんたが 優しい瞳をして
覗き込んだら とろけてしまう
歌なんて いつわりの友
お酒なんて 宵の冗談
いのちなんて はだかのままで
確かめ合うしか ないって知ってる?
抱かれても 抱かれ足りない
また求めてる あんたの腕を
言葉ひとつも なかった頃の
肌で交わして 愛の仕草を
(おわり)
[2010/4/28詩のみ・5/29-30]
(原稿用紙換算19枚)
[ジントニック]
・ドライ・ジンとトニックウォーター(炭酸水+柑橘エキス+甘味)をステア(シェイクせず氷の入ったグラスでかき回す)して、ライムのスライスを入れたカクテル。日常使うようなグラスに入れられるロングドリンク。
[ギムレット]
・カクテルの名称。ジン1/2より多め、ライム果汁(+甘味)かライムジュース1/2より少なめで、シェイクして作られ、カクテルグラスに入れられるショートドリンク(短時間で飲まれるアルコール度数の高めのもの)。シェイクしないとジンライムというカクテルになるという。レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』に「ギムレットにはまだ早すぎる」という台詞がある。ホームズに劣るとも勝らない? 逆? ポアロよりも格好いい? 私立探偵のフィリップ・マーロウに対して投げかけられた言葉。
2010/05/30