ホテルのキーをくるっと捻ると、カチャッと響くのが心地よい。
そうして私は、鞄を投げだした。上着が暑苦しいので、これもベットに投げだして、商談の経過レポートをまとめるために、ノートブックにスイッチを入れる。それから、てきぱき打ち込んだ。
なんだか喉が渇いてくる。ビールが飲みたい。しかし夕食まで時間があるから我慢した。まだほんの十七時である。ホテルに着くのが早すぎたのだ。
コンシューマーのリサーチは、どこのフォルダだったろうか。すぐに迷子になってしまう。
実社会でゴミ箱じみた生活をしている人が、パソコンの中だけは整理整頓、なんて話をよく耳にするが、自分の場合は、どうも、反対らしい……いや、反対とも言えないか。スーツの上着はベットに投げ出してあるし、鞄も放り出したままだった。つまりは、どっちもどっちだ。
そんなことを、煩いながらも辿り着いた。
ほら、ちゃんとあるじゃないか。それほど、ひどい有様でもない。けれども「コンシューマ」くらいにしておけばよいものを、慌てて打ったらしく「今週ま」なんてファイル名になっている。皆目意味が分からない。こんな具合だから、会議のためには専用フォルダを作っておく。提案に支障があっては大変だ。
空調が涼しくてまことに結構。
夏だから、窓の外は、西日にぎらぎらしている。
ビルの合間の斜陽が壁に反射して、眩しいオレンジ色とたわむれている。下界の喧噪はまったく聞こえない。何しろ、階が高すぎである。
自分はいい気になって、用紙からデータを移し替えると、それをファイリングケースに仕舞い込んだ。せっかく取り出したパソコンだから、ついでにリバーシを二三回。自分はパソコンにすら勝てないくらいの、際どいゲーム感覚を持っている。たまに勝つくらいだから、かえって嬉しいのかも知れないが、負けてもちっとも苦にならないのであった。競争意欲の欠落。サラリーマンとしては失格なのかもしれない。
ああ、また負けた。また負けた。
そう思って、有料冷蔵庫を開けたら、やっぱりビールが気になってくる。いや、駄目だ。晩餐にアルコールを楽しむんだから、ここは我慢の一手だ。自分は大いなる勇気を持って、近くのコーヒーに手を伸ばした。指先がちょっと震えている。まさか、アルコールの、禁断症状か……いや、これはきっと、キーボードを打ちまくった後遺症に違いないのだ。
窓際に寄ると、向かいのビルから人影がした。もちろんはっきりは見えない。男か女かも分からないくらいである。遥か遠くで、首都高速が走っている。斜めから眺めながら、ぼんやりと缶コーヒーを飲みほした。ああ、やっぱりビールが欲しい。
けれども缶を持って振り向いたとき、
自分の動きは、その場に硬直した。
ぎょっとしたのである。
だって、そんなのあり得ない……心臓が止まってしまうほどの衝撃で、私はひとつの方向を凝視していた。ベットの中から、腕が一本飛び出していたからである。
それは、真っ白い女の腕だった。柔らかそうな指を持っている。そうして、まるでおいでおいでをするみたいに、手の平を下にたらして、こくこくと手首を動かしているのであった。
心拍数が高まって、瞳孔が開いたまんまだった。
落ち着け。落ち着くんだ。しっかりしろ。
必死になって言い聞かせる。自分はサラリーマンだから。そう簡単には非科学的なことは信じない。幽霊なんて、信じてたまるものか。そんな想いを勇気ひとつに、いきなりつかつかと歩み寄って、こけおどしの腕を握って引っぱってやったのである。
一瞬、ぐいっと引っぱり返されるような恐怖がした。
けれども、平気だった。
腕はするりと、毛布から抜け出したのであった。
そうして、やはり、ただの腕に過ぎなかったのだ。チェッ、馬鹿にしていやがる。付け根にあるスイッチを切ったら、腕は動くのを停止した。こんなものを入れておくなんて、いったい誰の悪戯だろう。簡単に細胞養殖が出来るから、血液循環の小型ポンプを取り付けた、生身の腕やら脚が、近頃市場に出まわっている。もちろん賛否両論だ。アメリカでは、半分の州がこれを禁止しているが、我が国では平気で販売されている。いったい、保守的なんだか、進歩主義的なんだか、自分でもさっぱり分からないくらいである。
きっと単純者が多いから、腕だけなら人でなしとでも思っているのだろう。
あるいは、もっと短絡的に。面白ければ結構なのかもしれない。
それにしても……
部屋の清掃員でも悪戯しなくっては、入りたての個室に、こんな置物がされるわけはない。まさか、うちの上司が暇を持てあまして、こんな悪戯はしないはずである。フロントへ連絡をして、注意してやる必要を感じた。
しかし、電話を握ったまま、躊躇する。別にいいではないか、腕の一本くらいという、訳の分からない感慨が湧き起こってくるので、連絡は中止した。
その代わり、またスイッチを入れてみる。
モードを自由にして、テレビの横に置いてみたら、上を向いた腕が、倒れない範囲で動き回っている。不気味なオブジェだが、女の手だから美しい。疲れているので、ぼんやり見とれてしまった。
これは、このまま置いておこう。
べつに、怒るほどのことでもない。
携帯につぶやきを入れていたら、さすがに薄暗くなってきた。カーテンを閉めて、それから一九時を過ごして、ようやくディナーを取りに行く。腕はもう動いていなかった。こいつは、エネルギーがすぐ切れるのが難点だ。それほど実用的なオブジェじゃない。最低でも一日一回は、カードリッジを交換しなければならないほどだった。簡単に言えば、手入れを怠ると、すぐに腐ってしまうのである。
腕を残して、エレベーターで最上階へ向かうと、ピアノ演奏がなされていた。
みんな静かに食事を楽しんでいる。自分もチケットを手渡した。見晴らしの良い、窓際の席である。都会の夜景がガラス越しに揺らめいている。商用ネオンがきらきらする。そうしてヘッドライトが、豆電球のように思われるくらい小さかった。
私はひとり客だが、ここを予約したのは商談相手の采配である。有名どころに勤めると、いろいろ嬉しい得点があるのは頼もしい。それを考えると、ちょっと意地悪なあの上司さえも、たいして苦にはならないのだった。
「赤のこれにしてください」
適当にワインを選んでから、ピアノ演奏に耳を傾けてみる。不思議な響きがする、聞いたこともない曲だった。もっとも自分は、クラシックもジャズも、数曲しか名前を告げられないくらい、幼稚な音楽趣味しか持ち合わせていないのであるが。
ワインとディナーを堪能して、レストランを逃れると、商談相手から連絡が入ってきた。待合のソファのあたりで、携帯を手に取ると、
「どうですか。楽しんで貰えていますか」
なんて声が聞こえてくる。
「もちろんです。ありがとうございます」
挨拶はいつも、殺風景の社交辞令。丁寧な愛想のなかに、こもるべき感情のひとつもない。もちろん不快感もないのだから、気にすることなんかないのである。
「明日の商談ですが」
「引き続き、継続ということでよろしいでしょうか」
「もちろんです。漸進的な状況で、この分ですと、明日のうちには」
なんて、交互に話しているが、まあどっちがどっちの会話でも、差し障る内容でもないだろう。
向こうには喫煙センターが、何の風物か残されている。
もう喫煙率は、数パーセントに落ちているから、かつての残骸のようなものである。とはいえ高級ホテルだから、ガラス張りに美しい照明で飾られている。中には誰もいない。静かなたたずまいで控えていた。
シンとしたこころを慰めるように、閉ざした携帯をポケットに仕舞い込む。食事も終わったことだし、もう一度パソコンを開いて、最後の一仕事をしなければならなかったからだ。ワインの後にビールを飲むのは、不埒ではあるけれど、自分はそんなことは気にしない。ビールを飲まないと酒を飲んだ気にならないのは、まさかシュメール人の血でも流れている訳でもあるまい……なんて馬鹿なことを考えながら、エレベータの到来を待っているのだった。
しかし、エレベーターが開いたら、
真っ白な腕が飛び出してきたので、
自分は思わずぎょっとなった。
さっきの腕が付けてきたのかと思ったからである。心臓を高鳴らせながら、ようやく二三歩後ずさりした。もちろん表情を崩すような失態は演じない。極めて無表情に、カップルらしい二人組を、レストランの方へと見送ったのであった。
……それにしても、危ないところだった。あやうく、叫び声を上げるところだった。やっぱり部屋で見た腕のインパクトは、心の深層に焼き付いているらしい。
やはり、あの腕はよくないな。
フロントに連絡をした方がいい。
自分はそう思って、部屋へと戻るのだった。
けれども鍵を開けたら、
あるべきところに、
腕は無くなっていた。
どうして?
ひとりでに這っていったような恐ろしさで、しばらくは部屋中を探し回っていた。けれどもどこにもない。フロントに連絡をしたって報われない。自分は夢でも見たのだろうか。無いものを説明したって、
「お客様、お医者様でもお呼び致しましょうか」
なんて言われるに決まっているのだ。それにしても信じられない。
だって、無くなるはずはないんだ。それに、
あれは、絶対に夢なんかじゃなかった。握ったときの、
生暖かい感触さえも、こんなにはっきり残っているのに……
いったい、どこへ消えたのだ?
あの腕は。
「腕がない、腕がない」
なんて口に出しながら、恐ろしさを誤魔化そうとしていた。
どうしても、錯覚だったはずがないのである。
自分は頭を振った。
考えないようにしよう。夢でも見たのかも知れない。パソコンを開き直して、慌てるみたいにビールを取り出して、飲みながらに仕事を片づけていると、ようやく心が落ち着いてきた。
「そんなに大したことじゃあないんだ」
そう決めつけにして、翌日の商談用フォルダを手直ししてから、またリバーシを二回ほどやったら、今度は二度とも勝つことが出来た。めずらしい。ほら見ろ、けっして悪い日じゃない。商談だって好印象だった。するとあの腕だって、幸福の予兆かもしれないではないか。
シャワーを浴びるときは、けれども恐ろしかった。
鏡を覗いた裸の首に、死んだ女の腕が、血みどろにまとわりついて、ぎゅうぎゅう絞めようとしてる。そんな錯覚に囚われたり、あるいは、シャワーが突然、血を噴き出すという、ホラー映画のワンシーンを思い出して、働き盛りのサラリーマンにはあり得ない情けなさで、恐る恐るシャワーを浴びているのだった。だからカラスの行水みたいに、すぐに逃れ出てきてしまった。
「いやあ、恐ろしいこと」
なんて一人で呟きながら、体を拭いてパジャマに着替えると、しだいに勇気が回復してくる。なんとも裸になると、原始的な恐怖に襲われるのは、人間の本質であるには違いない。
だいたい、怪談なんて作り話に怯えるのがどうかしている。あの腕はまぼろしだったんだ。そう思いながらも、自分は、今日に限って照明を消さないで、ベットに横になった。やっぱり恐かったのである。枕もとのラジオまで、つい流しっぱなしにしておいた。
朝から白熱した議論続きだったので、
しだいに、しだいに、まぶたが重くなってくる。
ああ、視野が閉ざされていく……なんて思ったときには、
自分はもう、眠りに落ちていた。
ほっぺたに不思議な感覚がした。
寝ぼけながら、探りを入れたら、
いきなりぐにゃりとした感触を掴んでしまって、ぎょっとして瞳を開いた。寝ぼけていた頭が、凝固剤で固められた覚醒みたいに、瞳孔を開ききって、金縛りのように睨んだままになった。
そこには、自分の頬に触れながら、あの腕が横たわっていたのである。
体が動かない。
白い指が、頬のあたりを撫で回している。
それは、淋しいような、ひとりぼっちではいられないような、女の仕草のようにも思われた。そうして、自分の唇を、人差し指で玩んでいる。その指には、銀色の指輪さえ、いつしかはめ込まれているのだった。
自分はなんとかして、逃れようともがくのだけれども、まるで命令が神経に伝わっていかない。大声で叫ぼうとしても、どうしても声が出せなかった。視線さえも、そこから移せないのである。そのうち腕は、緩やかに首もとへ下がり始めた。
いきなりちくりと来た。
爪でひっかくくらいのおぞましい力で、自分の首を片手のままに絞め付けてきたのである。
「ぎゃっ」
たしかに声が聞こえた気がした。
けれどもそれは実際には、音となって響かなかった。
ただ自分の叫び声が、恐ろしさのあまり頭のなかで、じかに鳴り響いただけだったのである。
息が出来ない。
苦しい。
とても女の力とは思えない。そして片手で絞めているような圧迫じゃない。呼吸が出来ないだけじゃなく、血液が頭に上らないんで、しだいに意識が朦朧としてくる。殺されると分かっているのに、まるで体に力が入らない。ちきしょう、もう、駄目だ……
ピピピとアラームが鳴り渡った。
自分は、目を覚ます。
気がついたら、翌朝になっていた。
もちろん腕なんかどこにもない。
自分はぞっとしない心持ちで、慌ててユニットバスの方へ駆け出した。こんな時、よく首筋に跡が真っ赤に残っていたなんて、ドラマでありがちだったから、そんな予感に囚われたのだった。
けれども、何ともない。
味気ないくらい、平生(へいぜい)の表情である。
けろりとしている。極めて元気そうである。
屈託なき、働き盛りのサラリーマン。
馬鹿馬鹿しい。金縛りの悪夢にうなされたのだ。
それにしても、夕べに触ったはずの腕、
あれはまぼろしだったとは思えないのだけれども……
自分はホテルを離れる前に、念のために腕について、
いや、腕について質問するのは、さすがに馬鹿げているから、
「むかしあの部屋で、事故かなんかなかったろうね」
と質問してみた。
「実は、女性の方が亡くなったことがございまして」
なんて言ってくるのではないかと期待したからだ。けれども受付の若い女性は、キョトンとした表情を見せるばかりだった。まるで取り付く島もない。自分はようやくあきらめると、フロントから逃れ出た。後ろから、
「またお越しくださいませ。お待ちしております」
と丁寧な挨拶がこだまする。自分は振り向かなかった。
街なかは朝の喧噪に包まれていた。
深緑など見られないが、わずかにすがすがしさが伝わってくる。それでいて、車道は排気に包まれている。人々が急ぎ足で通り過ぎる。情緒的な事柄は、大きく後退してしまう。自分も慌てて商談へと向かうのであった。
ところがである。商談を進めていくうちに、おかしな話になった。
ちょっと夢の話しをし出したら、相手も、夕べ、腕に絞め殺されそうになったと言うのである。そんなおかしな話しはあり得ないと、いぶかしがって、二人であれこれと話を進めるうちに、それが牽引となって、商談はパーフェクトに成立してしまった。つまりあの腕は、私たちの商談を繋ぐための、架け橋の役割を果たしてくれたのであった。
私たちは、別れ際に、いっけん恐ろしい話しではあるけれども、つまりは幸福を呼ぶ腕だったに違いないと、互いに結論づけた。そうしてこれからのパートナーとして、握手を交わしてから左右に別れたのである。
それはたしか、入社二年目の夏のことであった。
その商談の相手とは、今でも飲み仲間である。そうして「腕は見かけで判断してはならない」という訳の分からない冗談を、時々は口にしたりするのだった。
(おわり)
[2010/4/14]
(原稿用紙換算20枚)
2010/4/14