遠耳の結婚式

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遠耳の結婚式

拝啓
 紫陽花の梅雨間の彩りも、初夏の日ざしを浴びて、色調を青空と競うような、そんな五月(さつき)晴れにお便りを差し上げます。そちら様もつつがなくお暮らしでしょうか。その日のどかと夕暮れを迎えることが、お互い有り難いほどの歳となりました。今日は弟の、娘の結婚式の様子をお伝えしようと思い立ち、久しく記さなかった手紙などを、一筆したためてみることに致したのであります。開き窓からの風を受けながら、午後の日だまりに記そうと思っております。しばらくお付き合いくだされば幸いです。



 近頃、すっかり耳が遠くなりました。お恥ずかしい限りでございます。老いゆく羞恥も手伝って、補聴器なしでおりますと、とんと人様の言葉が遠くなります。それでも澄ましております。いくつ歳月を重ねては、なお悟れぬことのみ多く、齢(よわい)ほどに成長いたらぬ我が身が、浅ましくてなりません。この間なども、つい若い気構えで、戸棚より重い荷物などを移しておりますと、後になってから腰の節々が軋むような痛みに苛(さいな)まれ、がっかりしたことがございました。

 けれども、わたくしのみでも無いようです。妻やら親戚やら、ご近所の面々やらを見渡してみましても、みな言葉つきばかりは、まだまだ若草の思いのうちに、日ごと日ごとに老いを迎えつつあるようです。万緑を迎えべき朝の瑞々しさに、ちょっとこころ踊らされて走り出したくなって、そのままの思いで鏡の前に立ちますと、枯れ野のごとき、己(おの)が姿にびっくりさせられる。そんな憐れを催すことも、恥ずかしながら時々あるのです。長きを歩んだ感謝の祈りよりも、巡る季節へのひたむきな憧憬が、未だ燻っているのは情けなく、かといって自分の心情ばかりは誤魔化しようもないので、ここで白状致しました。先日6月5日は我が弟の、娘の結婚式だったのであります。

 恵美ちゃんもそれなりの年齢になりました。私らの若い時分でしたら、むしろ晩婚の部類かと思われますが、あるいは今日では、それほど珍しい年齢ではないのかも知れません。私も近頃では、時事問題への関心も薄れました。政党やら首相くらいなら重々承知致しますが、失業率やら結婚の平均年齢などには、まるで関心も好奇心も持ち合わせておらず、何分、わたくしの娘もすでに嫁ぎ終え、三人の孫にも恵まれ、ですからその日も娘と彼女の夫と家族五人、私どもと一緒に、結婚式に出席たくらいですから、結婚への時事問題なども自ずと遠ざかり、まあ私の一生も、結構な生涯かとも思われるくらいです。

 話が移し気味で、ご迷惑をお掛けします。今さら変えようもございませんから、つれづれなるままに筆を走らせたく、その点ご容赦願います。本当に当日は不思議な天候でございました。何となくそわそわして、朝早くに目覚めますと、暗雲のかなたには稲妻の響きあり、石走(いわばしる)る渓流ほどの雨音が、爆竹のように思えるくらい、向かいの舗装道路をすら、河へと移し変える有様でしたから、よくこんな結婚式もあったものかと不安を感じておりますと、雨上がりの暗雲は早東方へと逃れ去り、昼間にはからりとした晴れ間が、まるで梅雨明けの初夏日和を満喫するような、そんな気候へと転じたのであります。

 その後も、強風が雲を運んでは、式のさなかには曇天を呼び戻し、また太陽が差し込めて、かと思えば、花嫁花婿の入場を済ませた窓向こうから、披露宴の庭先に、どしゃぶりのスコールが打ちつけては、また木漏れ日の穏やかを回帰させる。まことに大仰(おおぎょう)な一日となりまして、これは誠にデンと腰の据わったところのある、大胆不敵なる恵美ちゃんに相応しい天候だと、妻などは申しておりました。なにしろ恵美ちゃんは、精神薄弱の見え隠れする彼女の兄、といっては、これまた弟に失礼ではありますが、恵美ちゃんのお兄さんなどよりも、よほど外向的で快活に溢れ、自ら動き回ってあたりを憚らないといったところが、幼い頃より顕著でしたから、私なども、幼い頃、娘を連れて、弟宅へと遊びに行った頃の、恵美ちゃんの遊びっぷりなどを思い出して、妙に納得してしまった次第でありました。もちろん、ここだけの話であります。

 私の弟なども、その日ばかりは、花嫁の父親の重役を、見事に、とまでは、私としても、ちょっと言い辛いところがありますが、懸命に演じ尽くしたことと思います。もう大夫前になりますが、娘の結婚式の際の、自分の様子なども思い返され、しばし懐かしい感慨を共としつつ、ただ控えから見守っておりました。思えばわたくしも、必ずしも立派な父親として、そつなく振る舞えた訳ではございませんでした。残念ながら出席しておりませんが、私にはもう一人、弟がおります。私どもは三人兄弟であります。この三人兄弟、公衆の面前での振る舞いはと申しますと、切ないくらいに共通の手抜かりがございます。あるいはあなた様も、ご存じの特徴かとも思いますが、まあ、その点ばかりは、誠によく似た兄弟でありまして、当日も親族紹介の折など、我が弟は、私どもの紹介のところで、些細なる不始末を軽やかにかわしきれず、ついには自らを失笑してしまい、それがもとで、すこぶるしどろもどろの応対をお見せして、相手方にはどう思われたことか。せっかく手の平に書き付けたアンチョコもなんのその、朗らかな失態を演じきってしまったのであります。

 私もこの年齢になりますと、露見された当人らしい姿というものが、返って、悪い印象などを与えないことは知っておりますから、別段気にも止めませんでした。現に向こう側家族の表情は、咎めるべき顔など一つとしてなく、それどころか、ほほ笑んでおられるようなご様子。花婿の家族もまた、わたくしどものごとき、穏やかな人々であることが知らしめられ、かえって有り難い気分にさせられたくらいでありました。あちらの家族には、お父さまの姿はお見えにならず、そこにはまた、いろいろな事情もあるのでしょうが、後からうちの妻なども、

「いいのよ。今はそんなのよくあることなのですから」

など、実に気楽なものでありまして、わたくしどもの幼い頃の、変に道徳やら面子(めんつ)をばかり気に咎め、ギクシャクしていた閉鎖的な精神よりも、本当に人と人とが思いやりを通じて、わだかまりなく付き合っていける、よき時代が到来したことと、感慨を深めるくらいでありました。本当に、あの頃の道徳というものは、ちっとも偉いところがなく、ただただ島国根性丸出しの、どこまでも内に籠もるような矮小のものでありまして、私たち三兄弟も、こんな社会はよくないと、子供時代には冗談を言い合ったことすらあったものでした。ですからもし、そのような悪習から逃れようと願うあまり、ひたむきに走りすぎた列車が行き過ぎて、現状、本当の人々の繋がりというものが希薄になっているとしたら、それは哀しいことと存じます。

 結婚式とは申しましても、うちの孫どもは、まさに遊びたい盛りでありますから、走り回りたくってうずうず、余計なところへ立ち入りたがったりして、おじいちゃんとしても、少々気に病むところもありました。されど娘とて年齢ですし、夫も冗談を好むたちとしては、しっかりした性格ですから、驚くほど孫どもは静かに控えておりました。それにしても、少しお恥ずかしいことを白状致しますが、わたくしは今でも、孫などにおじいちゃんと呼ばれるのは、ちょっと違和感を覚えるくらい、まだ若い頃の心持ちを、胸の奥底に宿しているのであります。はい。なかなか、年相応の分別やら諦めの境涯は、悟りきれないものでございます。



 式場は新しい造りでありました。

 入口の噴水などは、軽やかな背筋を伸ばして、石造りの柱ごとにすっくと伸び上がり、それを両脇にして、正面から建物へと人々を導くような造りでありました。もっとも私どもは横の駐車場から入りましたから、要するに大部分の人々にとっては、そこは歩くべき正門の飾り付けでは無いようであります。

 扉より、平屋横長造りの式場へと入りますと、すぐ右手には案内カウンターがございましたし、目の前には若い女性の方が控えておりました。家内が応対して、左側へと足を運ぶと、もう挙式のための受付の机がございました。もちろん私どもは、家族対面のための早入りですから、空の机を素通りして、従業員に従い任せに、ようやく弟夫婦の控え室へと通されたのであります。さっそく気さくな挨拶を交わしますと、そこには弟夫婦の長男、すなわち恵美ちゃんのお兄さんも一緒に控えておりました。久しく見るその顔は、相変わらずの童顔で、しかも真っ白でありまして、私の孫の一人などは、こっそり『もやしの兄』というあだ名を付けたくらいでありますが、これが言い得て妙、風前にひょろひょろたる日陰植物の危うさで、彼はカメラなどをもてあそんでいるのでした。どうやらカメラ役というものに回されたようであります。

 随分、記述が間延び致しました。いつもの悪い癖です。あまりくどくどお書きいたしますまい。改めて、受付で芳名帳に記入を済ませました。娘夫婦がようやく到着しました。孫たちが元気に挨拶をしました。それから、ほどなくして、家族対面が行われました。その時、弟が小さなしくじりをしました。これは前に話した通りです。そして待合のガラス扉が開かれると、向こう側の白い壁伝いにある、小さなスライド式のドアが開かれて、式場中央にそそり立つ、教会へと繋がっているという仕組みでした。

 案内されるままに進みますと、まずは教会へと到る、入口の幅広い階段の横並びで、記念撮影という段取りです。私の場合、妻との婚礼はもちろん和式でしたから、教会の式場などを見ていると、娘の結婚式同様、時代の移り変わりというもの、西洋化というものについて、あれこれと考えることもございます。けれども、なにも反発をするでもなく、ただただ仕来りの変遷について、若い人たちの言葉を借りるならば、ある種の、センチメンタルな面持ちでもって、あれこれと眺めているうちに、写真家はパチパチとフラッシュを焚きますし、不思議なぬいぐるみの熊さんだかなんだかは、カメラのところに掛けられておりますし、ほどなく記念撮影は終演を迎えたのであります。

 最後の撮影の時に、花嫁の兄、つまりは例の『もやしの兄』が、なにやらピースか何かを、ちょっとしたいたずら心でやって、写真家の人に、枯れ草じみた冷笑を浴びつつ、

「おやめくださいませんか」

と注意されておりました。わたくしはちょっと不思議に思いました。写真は五枚も撮ったのでありますし、そのうちの、一枚くらい、少しくらい風変わりの写真を残して、選択の自由を与えたいという、恐らくは、悪意のない彼の所作に対して、せめて、その写真を黙って撮ったあとに、

「それでは、通常のタイプの写真をもう一度撮りたいと思いますので」

といって、彼らの誰をも傷つけず、不快感も与えず、なにしろ、わたくしどもはよく知りませんが、今日の写真というものは、フィルムやら現像の多額の出費のある時代のものでは、まるでないといいますし、またそうであったとしても、まさか幕末の写真ほどの貴重さでもありません。そのくらいの、人らしいサービス精神が、どうしてこのカメラマンには、まるでないのであろうか。わたくしは、まさか弟の長男の贔屓などではございませんが、彼のある種の小さな愛情に対して、わずかくらいユニークな写真の選択を、最後に一つくらい残してみようとした愛情に対して、このカメラマンに、それを屈辱しないまでも、無視するだけの資格があるのやら、ないのやら、あるいはそれが本当に、式場に相応しいマナーなのやら、いや、それ以前に、人として相応しいマナーなのやら、ただの人でなしに過ぎないのやら、まるで分からない気分を抱いたことだけは、ここに正直に記しておこうと思うのであります。少なくとも、そんな写真もいいですねくらいの許容を見せないで、何しろこれはお葬式ではないのですし、何がプロのカメラマンかと、自意識過剰でサービスの本質をすら悟らぬ彼のプロ根性とやらを、疑うくらいの思いを抱いたことは、ここに記しておこうと思うのであります。近頃の一流ぶった人々のあいだには、本質的に大切なものが抜け落ちている。そう思わされることが、今までにもしばしばあったものですから。

 申し訳ございません。下らない愚痴を長々と述べ立てました。年配者のクセには違いません。どうか気になさらないでください。式典は、やはり昨今のスタイルですから、教会におけるウェディングドレスでございました。その姿を見ていると、なるほど、和装より引かれるものがあるのも、致し方ないほどの美しさには思えます。

 花嫁の入場に際して、私の弟が、娘である恵美ちゃんを引き連れて扉が開いたとき、私はなぜだか、自分の娘の結婚式を思い出して、二倍の思いで感無量に眺めておりました。それだけでなく、私の娘が幼い頃に、弟の邸宅へと遊びに出かけるたびに、私の娘と、入場を果たしつつある花嫁と、それから例のもやしの兄などが、一緒に遊んでいたことも思い出され、また、あの頃の弟の姿を浮かべますと、あんなに老け込んだ老人の、頼りなさげに歩く姿とはとてもそぐわず、それがわたし自身の容姿や、耳の悲しみと重なり合って、なんだか分かりません、苦しいくらいの心的高揚を見せてしまったのは、あるいは、この教会を彩るために配置された、小さな聖歌隊のせいなのでしょうか。アメイジング・グレイス。それは悔悛(かいしゅん)しきれぬ悔やみの果てに垣間見た、神の姿を讃えた賛美歌。過去のいかなることがあろうとも、未来を祝福するための、喜びの祈りではなかったろうか。思えばそんな知識を私に植え付けたのは、あの弟には違いなかったのです。わたくしは思わず、ちょっと妻の手を握りしめていたようです。もっともその時は、気づきませんでした。後になって、そんなからかいを受けるたびに、ああ、そういうこともあったかも知れない。けれども、あの瞬間を思い返してみると、それが必然的行為であったようにさえ、今でも自分には思われるくらいであります。

 花嫁は、花婿に手渡されます。花嫁の兄が、悪徳カメラマンの餌食にされたあの兄が、懲りもせずにビデオカメラを回しています。これは彼の父親の、つまりは私の弟の差し金には違いありません。弟は昔から、カメラマン役を買って出ることの多い男でした。このような現場状況を記録に留め置くことが、いつの日かきっと回想の楽しみとなって、その場の大きな喜びとはまた違った、ほのかな永続的歓喜を呼び起こすという信念を、いえ、そこまで理屈で責めますとちょっと大げさですが、なんと申しましょうか、現代的機材による情緒的還元とでも申しましょうか、例えその機材は、その場では多少のひんしゅくを与えるとしても、かえって過ぎ去りし時を隔てては、喜びはひんしゅくの比ではないというポリシーを、我ら三兄弟の中では、もっとも体得した弟でありました。いえ、率直に申しますと、単なる機械好きということにもなります。ですから彼は、それを息子に伝授させようとして、カメラなどを持たせているに違いありません。なぜなら、その息子というのが、変に小市民的良識を発揮して、我が弟のようには、式場を土足で踏み荒らすほど縦横無尽には、なかなか振る舞えない、気の弱い男だからでありまして、それこそまさに『もやしの兄』相応のところなのですが、我が弟には、そこが煮え切らなくってもどかしい所でもあるらしく、式が済んだ後、私どもが式場を逃れる際にも、

「すぐに走って、出て行く人たちを写してこい」

などと、あれこれ影で指図を出していたのであります。そのような父に対して、息子があのような小さな、おとなしい人物に育ってしまったのは、ちょっと残念な結末ではありますが、まあ、もやしのように真っ白で、人の良さそうな息子ではありますから、何も常識を踏み越えて見せろなどと、不当の要求も出来ますまい。私としましては、弟の息子には、私が弟を羨(うらや)んだことのあるもの、ある種の常識を弁えない自由人の飛翔、かの夏目漱石の言葉を借りれば、高等遊民的な素質をこそ、わずかばかりは受け継いで貰いたかったような気が致します。それは、長男である私には、やはりどうしても突き崩せない壁のようなものでありましたから……もちろん、自分の息子ではございませんから、私としては遠くから、にこにこ笑っているより他にございません。そうして、彼の息子はもう成長が望めないくらい、いい大人になってしまいました。

 恐らく次は、彼が結婚式を迎えるのでしょうか。

 あるいは、出席をすることの叶わなかった、もう一人の弟の娘と息子、やはり二人とも、現在独身でありますが、そちらが先に結婚を果たすのでしょうか。なるべく私が、外出を苦にしない年齢でいられるうちに、大きなイベントは済ませていただきたいと思います。今回の式場でさえ、わたしはちょっと辛いくらいです。耳は随分遠くなりましたし、話す必要性も薄いものですから、それほど苦にはならないものの、雑音ばかりがキンキンとなるようで落ち着きません。それに若者じみた披露宴でしたから、そわそわとして落ち着きません。料理なども、フランス式とか申しまして、妻などは「美味しい、美味しい」と楽しんでおりましたが、新しいものへの対応は、常に女性の方が勝るようであります。私は未だに、このような料理のどこが美味しいものやら、本心を申せばまるで分からない、ただただ、ナイフとフォークでは、いただき辛いという一心ばかりです。

 失礼致しました。ちょっと、先走り過ぎたようであります。教会での式典は、神父さんに則って行われるのが習わしです。ところどころに賛美歌の斉唱などを挟みますので、渡されたパンフレットを見開きに口パクをするのが、はるか昔の学生時代を思い出しまして、ちょっとした愉快を感じました。あちら方、花婿家族にも、わたくしどもと同じくらいの伯父やら伯母の姿があって、ちょうど同じ並びに歌っているのが、なにやら感慨深いもののように思われます。あちら方には、我々の知らない、まるで別の人生があって、その終焉間近に際して、始めてこうして、お互いに、束の間に交差するという一生が、偶発的なサイコロの所作よりも、何だか宿命じみたドラマのように感じられるのは、あるいは私も歳を取りすぎたせいでございましょうか。

 挙式はコンパクトなもので、何しろこの軽快こそが、和式よりも洋式を好まさせる遠因ではないかと、疑るくらいの段取りでございます。新郎新婦が教会を後にして、それから私どもが背後より出口に向かいますと、先に申しました通り、我が弟に指示を下された『もやしの息子』が、こちら側を向いてビデオを回しておりました。わたくしの孫の、真ん中の男の子が、

「あれは、もやしの兄っていうんだぜ」

と囁いたのは、実はここでございます。私は人様にあだ名など付けないようにと注意すべきところ、あまりにも言い得て妙、まさにもやしのような青ざめた表情が、温野菜のなれの果てみたいな、甘ったれの印象に溢れておりますので、私としてもその日ばかりは、新婦の恵美ちゃんやら、背の高い新郎などと対比して、彼を人一倍だらしのないもののように、一瞬思ってしまったことを、ここに謝罪しなければなりません。

 階段のくだり口は開けていて、ちょうど記念撮影をした外側に、人々の集いスペースが用意されておりまして、皆は一面に屯(たむろ)して、まずはブーケ投げの儀式が始まります。晩婚化の時代ですから、まだ婚礼を果たしていない友人も多いのでしょう。前方に群がって、大変賑やかな様子。私どもは後ろから、それを見守っておりました。孫娘が、ちょっと行きたそうな顔をしておりました。それから一人一人に手渡されて、風船が飛ばされました。また孫たちが手放したがりませんので、諭すのに一苦労であります。それからは、個人による新郎新婦の記念撮影が行われました。カメラやら携帯やらでパシャパシャ賑やかが花開きました。私どもには、あまりにも騒がしいものですから、妻と後ろに控えておりましたが、娘などは、孫たちが悪戯しないよう統制するのに、なかなかの一苦労でありました。

 花嫁の絵美ちゃんは、それは誠に美しく、私は娘の結婚式にも、当日になるとまるで別人のような、着飾ったお人形さんの印象を、コスメチックルネサンスの錬金術とやらに見せつけられて、拍手喝采を送ったくらいのものですが、本当にまるで、本人の表情に重ね塗りされた、精巧な塗り絵か、ロウ細工のような印象には驚かされるばかりです。

「おじいちゃん。疲れたよ」

末の孫が、さすがに飽きてきたのでしょうか、だだを捏ねそうになるのを宥めながら、

「これから、美味しいものが食べられるんだよ」

なんて、好奇心を煽りつつ、次の会場へと引き連れてまいります。すぐ近くですから、わたくしどもにも何の苦労もございません。ほとんど隣にある、披露宴の大ホールへと、皆は案内されてゆくのでした。それにしても、向かう途中で、孫の真ん中の男の子が、

「ねえ、さっき、黒いマントがいたんだよ」

なんて私の裾を引っぱるのですが、何のことやら、子供の申すことは皆目見当もつきません。

「黒いマントがどうしたんだい」

「前にねえ、向こうにいたんだ」

「もう、帰っちゃったんじゃないかなあ」

と答えておくと、

「やっぱり、僕に恐れを抱いたんだ」

なんていって、空中にパンチを放ったりしているのでした。

「すごいじゃないか」

なんてご機嫌を取っておきましたが、本当にこのくらいの子供というものは、屈託がなくて愉快でございます。私は時々、これほど小さかった頃のことを思い出して、束の間、その追憶に埋没してしまうことが、今でも懲りずにあるくらいです。それを、悪いこととは思いません。成長しきれない惰弱の精神とは思いません。まるで、近くの田んぼに八十八夜を待って鳴きしきるような、かわずどもの大合唱、懲りもせず、年ごとに繰り返されるみたいに、そのような回想は、恐らくはわたくしが棺桶に、菊を一杯に投げ込まれるまでは、途切れることなく続くのではないでしょうか。



 披露宴は、私や妻などには、少々垢抜けの気配です。薄暗い、洋風の丸テーブルごとに、それぞれ五六人くらいずつ、招待された皆様を着座させるのはいいとしても、その上、落ち着いておられないような、数多くの演出やら、祝辞やらで、のどかな心持ちで、結婚を祝福することも叶わず、また食事を楽しむでもなく、慌ただしさのうちに、二時間半あまりを過ごしてしまいました。もっとも、妻などは随分楽しんでいた様子ですから、これは私限りの愚痴には違いありません。くれぐれも、皆様にはご内密にお願い致します。

 新郎と新婦とは、同じ職場で見初(みそ)めたそうでございます。建築のコーディネーターだか、新築の請負だか、それともリフォームだか、シロアリの駆除だか、細かいところはまるで存じません。『ほやらら工房』などと、覚えにくい名称の会社だったように思われます。はじめのうち、そこの重役の方がご挨拶をなさったので、始めて悟りました。それから同僚の采配により乾杯の号令が図られたとき、煌めくばかりのシャンパングラスに掲げられた炭酸のシャワーが、弾けたように一斉に沸き立ちました。ええ、わたくしにしては、精一杯ハイカラな記述を奮発致しました。少し若返りすぎて、恥ずかしいくらいのものであります。

 それから、料理が運ばれました。何しろ、洋式ですから、ナイフとフォークを、並べられた通りに使用するのは、すこぶる難儀であります。お箸が欲しくてたまりません。こんなナイフやらフォークよりも、お箸の方がはるかに格式こそ高いように思われます。我々日本人は、ナイフやらフォークを使いこなすのではなく、西洋料理にも、お箸でいただくマナーをこそ、模索すべきではないでしょうか。そうして、指先の器用などを武器として、西洋人の子供たちにもこれを倣わさせ、ナイフ、フォークの伝統を、廃れさせてこそ本当の、文明の輸出国になれるのではないか、そんなことをも、考えてしまうくらいの使い勝手の悪さであります。それでいて、実はちゃんと、お箸もテーブルには用意されていたのでありますが、どうしても、私には使うことが出来ませんでした。私は見栄っ張りであります。どうも耳のことやら、お箸のことやら、己の煩悩は古びもせずに、歳と共に成長を重ねるばかりで、まったくお見苦しい限りでございます。

「次の祝電を読ませていただきます」

 みな食事に熱中しておりましたが、不意にもう一人の弟の名称が聞こえたので、わたくしどもは耳を澄ませました。もっとも、私の耳には悟れませんでしたが、妻が注意を与えたものですから、それと理解した次第。直前に弔事(ちょうじ)があったため出席を見合わせた、弟の家族一同からの祝電です。

「お慶びの、目覚めの朝の、あなた、どうぞ末永く」

なんだかよく聞こえません。なにやら、美文でもって、つつがなく乗り切った様子でありました。同じテーブルにいるはずの新婦の父親は、もちろん弟のことでございますが、彼の妻共々、あるいは新郎の母君共々、あちらこちらのテーブルに出向いては、お酌をしては頭を下げ、お酌をしては挨拶を交わし、愛想を致しておる次第。本当にわたくしどもの、娘の挙式を思い出して、つい妻に話しかけようとしましたが、けれどもこのがやがやした中で、耳が悪いものでございますから、聞こえなければ会話も成り立たず、これは帰宅後の楽しみということにして、黙ってナイフとフォークを動かしておりました。

 孫なども奮発したらしく、すっかりしおらしく佇(たたず)んでおります。やんちゃ者の真ん中の子がちょっと心配でしたが、さっき「黒いマントが」どうのこうのと言ったくらいで、静かに食事を楽しんでいる様子。彼に『もやし』の称号を与えられた弟の長男は、ビデオに掛かりっきりとなり、こちらには滅多に戻って参りません。せっかくの食事にもあまり手を付けないので、私の方がヤキモキするくらいでありました。

「食べなくていいのか」

なんて聞いてみますと、ようやくお酌から戻った弟は、自分は美味しそうにナイフとフォークで会食に与りながら、

「今日はうちがお迎えする側だから」

とか、

「それにあいつも、そろそろ仕組みを覚えなくてはならない」

などと、今どきの家族ですから、暢気そうに囁いておりました。わたくしの家(うち)もそうですが、とても私どもの幼い頃のように、子供のうちから立居振舞(たちいふるまい)を厳格に叩き込んだりは致しません。これはわたくしども、いわば団塊世代周辺一般に共通する責任であるようにも思われます。風俗やら風習やらを置き去りに、すべてを仕事に変換していった結果、代理として当座に与えられた娯楽などを消費することばかり、文化的活動と邁進してしまったなれの果てに、少しばかりひずんだ二十一世紀の日本社会が、横たわっているような気も、わずかくらいはするからです。なにしろ、弟の息子だっていい年齢ですし、今さら社会勉強でもないシーズンですが、現実問題として私たち社会においては、社会勉強の人生における時期というものが、大きくずれ込んでいるように思えます。けれども、もやしの息子は、懸命にビデオを回している様子です。人生の道のりも伸びましたから、まだまだ多くを学べる年齢ではありましょう。

 新郎新婦の付近では、沢山の仕事仲間や、友人たちが群がって、乾杯をしては離れてゆくことを繰り返し。わたくしどもの出る幕はありませんから、こうして遠くから眺めておりますと、式は滞りなく執り行われ、やがては新郎と新婦がそれぞれに、自分の母親に連れられて退場する。そんな演出が執り行われました。まだ披露宴の半ばであります。再入場までの食事を楽しんでおりますと、次第にホールが暗くなって参ります。おおよそ、若者らしい再登場の演出がなされることは目に見えているのです。司会のアナウンスが、

「それでは、お待たせ致しました」

などと告げる頃には、もう照明は落ちきって、まるでレーザー光線やら、壁面から噴き出す炎の柱やら、随分凝った演出がなされたものですから、賑やかな音楽には少々辟易したものの、やはりジェネレーションの異なる挙式だと感心して眺めておりました。挙式には、高齢のため、新婦の母方の両親などは、未だ健在ではありましたが、とうとう出席を見合わせることになったようでありますが、確かにこのような中にあっては、疲労困憊を極めたことと思われます。弟の申すとおり、自宅で仏間への祈りでも捧げている方が、彼らのためにも良かったことでありましょう。事実二人はそのようにしておられたよし、後になって風の便りに聞きました。時神の無情の秒針に誘われるように、私どもの両親も亡くなってから、どれほど歳月を過ごしたことか。生きているうちに、孫の結婚式を迎えるということが、日ごとに難しくなりつつあるような、晩婚化の時代ですから、お二人の喜びは、口には気軽な祝福と結びつかなくなっていたとはいえ、一入(ひとしお)のことではなかったかとお察し致します。

 新郎新婦の再登場に際して、ちょっとした事件が起こりました。それは何とも表現しがたい、わたくしどもの孫の、愉快なる失態のことなのですが、それにしても、当人としては大得意でありましたし、会場の皆様も喜んで下さって、拍手までして戴いたものですから、私も妻もこれを失態とは認めず、むしろ褒めてやることに決心しました。その事件については、新婦の兄が賢明に回したビデオカメラに、一部始終が収められている筈ですから、後ほどそちらの手元にも、愉快なる披露宴の実況として、編集されたディスクが届くことと思います。わたくしは確かに、そちらにお送りする旨を、弟から聞きましたもので。ここで詳細を記して、せっかくの愉快を、ネタばらししないように気をつけなければなりません。どうか、楽しみにお待ちください。我が孫ながら、あの子はきっと、大物になりますよ。そう思うのは、おじいちゃんの、しがないのろけでしょうか。



 それにしても、大分疲れました。すぐ目の前で太鼓の実演なども行われたのですが、これは恵美ちゃんの、一時期活躍していた和太鼓の団体の、祝演といったところ、大変すばらしい演奏だったのですが、わたしにはどうも遠くに響き渡るような、水底(みなそこ)の軍楽隊のれ、それでいて、回りばかりはキンキンと騒がしく、その日一日、テーブルでの会話すら、まるでままなりませんでした。取り繕ってほほ笑んでいるのが、ちょっと辛いくらいの披露宴でありました。

 先ほど申しました通り、私たち三兄弟の子供には、まだ三人もの未婚の男女が控えております。そのうち一人は、ビデオを回していた、いわばもやしの兄、うちの孫がそう呼ぶ人物でありますが、彼こそ未婚組の中では、もっとも年齢が高い人物でもあります……失礼、「人物」を二度繰り返しました。どうも、歳を取ると、くどくどしくしゃべる傾向は、私なども、昔は軽蔑がてらに笑っておりましたが、どうしても自然と湧いてくるような不始末で、誠に残念なことと思います。侘びしいことであります。妻と共に、はるか昔に若返って、もう一度、結婚式などをしてみたいような気持ちも、ちょっぴり沸き起こったような次第で、その際は、妻にもウェディングドレスを着せてやりたい、はい、そのような夢見心地の少年みたいな願望は、いい年をして、また恥ずかしいことと存じます。

 とんだ脱線を致しました。

 ともかくも、わたしがまだ自由に外出が叶ううちに、すべての婚礼が執り行われたならば、当座の行事は後は、順番を待つばかりの、静かなる弔事のみとなりまして、わたくしも妻もこころ穏やかに、残りの人生を歩んでゆけるのですが……恵美ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんも健在でありながら、先ほど述べた通り、体力的な問題と、ある種の厭世気分に打ち勝てず、とうとう出席は叶いませんでした。私もいつかはそうなることと思います。はやく婚礼を迎えて欲しいと思います。しかしこればかりは、まだまだ、人の世の出会いと別れ、婚礼の宴の順序浮動の様は、天与のサイコロにすら占いきれないことと申します。三人とも片づくまでは、まだまだ、紆余曲折があるには違いございません。

 今はただ恵美ちゃんの、祝福を致すことに致しましょう。花婿さんは背の高い、立派な人物であります。きっと幸せになれることと思います。式場に到着してから四時間あまりで、血の繋がらない他人どうしが結ばれるということは、よくよく考えれば不思議なことであります。いいえ、披露宴を除けば、一時間にも満たない儀式の間に、他人同士が妻と夫という、つがいの鳥のように歩みを始めるこの瞬間は、社会の風習、仕来りのなかでも、もっとも奇妙な儀式の一つであるように思われてなりません。そうしてその奇妙は、弔事のもたらす不条理の悲しみと対比されべき、喜ばしい範疇にあるように思えるのです。もちろんこの範疇には、出産という、もう一つの神妙な瞬間が含まれること、くどくどお知らせすることもございません。

 そのような喜ばしい体験を共に迎えた二人に幸いあれ。そうして、さらなる喜びをこそ迎えんことを。わたしは柄にもなく、あの神父さんのように、そっと、心のうちで祈っておりました。



 長々の落書き、大変失礼致しました。庭先の紫陽花も、今日はのどかに風に揺られております。大分日ざしが傾きました。雲ひとつない、不思議なくらいの晴天です。明日また、梅雨前線が列島を横断するそうですから、青々とした紫陽花の色も、あるいは今日を限りに衣を脱ぎ変えることかとも思われます。紫陽花は別名を七変化と申す通り、すぐに染め色を変える花ですから。

幾とせの妻もとなりや七変化

 稚拙の句ですが、結びの挨拶に代えさせていただこうと思います。死ぬまでに一冊づつ句集を作ってみたい。そんな二人の冗談を、まだ覚えておられますでしょうか。天候もまた七変化の時節ですから、健康にだけはお気を付けください。再会の時を楽しみにしております。新しい句が出来ましたら、どうかお便りを下さいますよう。些細な喜びとして、心待ちにしております。それではお元気で、失礼します。

                    敬具

                    (おわり)

作成

[2010/6/26-7/5]
(原稿用紙換算37枚)

2010/07/5

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