ぬいぐるみ

(朗読1)  (朗読2) 

ぬいぐるみ

 痛いよう。痛いよう。

  みじめだよう。みじめだよう。

 また、ぎゅっと抱きしめる。

もうよれよれの、犬のかたちしたぬいぐるみが、自分のぬくもりを跳ね返すとき、わたしは、だらしなく泣いているのだった。

 わたしたち、せっかく言葉覚えて、いろいろなことを、面と向かって話せるようになったのに、こんな詰まらない、味気ない社会を、自分たちで作ってしまったのはなぜだろう……



 ぎゅうぎゅうの列車。往復の二時間。わずかな休憩時間だけ、人に戻されて、ひたすら作業に従事するような毎日。それが充実だなんて、わたしは信じない。利潤を追求するための、わたしたちは生け贄なんだ。利潤のおこぼれを、強制労働者のそれと、そんなに違いもなく、自分ではやり甲斐だなんてはしゃいでいる、仕事の犬のいやらしさ。

 あれが、本当に人の姿なのでしょうか。

  彼らは、立派な、男子の誉れなのでしょうか。

 もっと、新鮮で瑞々しいような、活力に満ちた社会があって、大人になることは、もっといろいろな発見があって、男女の営みには、作りものでない、ひとりひとりの物語があって、懸命に楽しいものだって思っていた。高校生のわたし、あの頃の、悟れない屈託のなさが懐かしい。

 作りもの、嘘っぱちのドラマが肥大して、本当のわたしたちの生活よりもずっとずっと肥大して、わたしたちいつの間にか、与えられたものを眺め暮らすことだけが、与えられたものに埋没することだけが、真実のように思い込まされているのではないかしら。本当の葬儀でなんか、こころから泣かない癖して、葬儀ドラマなんかにハンカチを押さえているなんて。

 それでカタルシス?

  そんなのは、大きな過ちなのに……

 そうして、ひとりひとりの、実生活は、どんどんどんどん乏しくなって、品格さえもどしどし押し流されてしまい、なんだか、ただ笑いをむさぼってさえいれば、日常会話は事足りるような有様なのです。



 またぎゅっと抱きしめる。

  何も答えない、犬のぬいぐるみ。

   わたしのたった一人のクロキチ。

  それがこのぬいぐるみの名前。

 昔の彼氏の形見の品なんだけど、

わたしはもう、そいつのことは思い出さないんだ。

 でも、あんまり、ぎゅうぎゅうするものだから、

  かたちがすっかりだらしなく潰されてしまった。

   ちょっとごめんなさい。

  泣きたいのを堪えているのです。

 可愛そうな生け贄。

わたしの悲しみの分だけ、

 ぬいぐるみは押しつぶされていくのでしょう。



 こころを落ち着けたら、会社の同僚の姿が浮かんできた。想い浮かべたくないのに、勝手にぷかぷか浮かんできた。みんなびっくりするくらい、真面目の視野が狭いのだ。職場に奉仕してさえいれば、もうその人は真面目なんだ。十分なんだ。立派なんだ。たいしたもんだ。そんな有様。でも、そんなのは、きっと間違っている。幼い頃から養成された、嘘んこの真面目さではないかしら……

 適当に仕事をしろって意味じゃない。そんな意味じゃ全然ないのだけれど……自分の立脚地を、もっと高い空の上から、たとえば大鳥の心持ちに眺めるくらいの、ちょっとした思想のゆとりが、たましいの飛翔が、自己の客体化が、所属するもの以前に存在しなかったら、そうしてそこから眺めたときの、こう生きるのだ、これは間違っている、せめてそのくらいのポリシーが存在しなかったら、わたしたち、ただの囚われの動物と一緒なのではないだろうか。

 あの人たちと話していると、近頃ますます、そんな思いばかりがぼわっと沸き起こってしまい、そうするともう、どうしてこんな社会のなかに、自分が産み落とされてしまったのかって、そんな悲しみばかりが一面に降り積もってしまい、そうなるともう駄目、まわりのすべてが恐ろしく、ただただ愛想を振りまいて、仕事に疲れ、休憩にも疲れ、それでもひとりぽつねんと疎外されるのは恐ろしくって、ああ、わたしにしたって、ほとほと手の施しようのない、動物の末路ででもあるのでしょうか。だから、どんなに嫌でも、集団から離れていることが、どうしても出来ないのでしょうか。悲しいことかと思います。でも、ひとりぼっちは恐ろしい。それはどうしても堪えられない……

 今日だって同僚のなんたらさんが、影で上司のことを悪口しては、みんなで大はしゃぎする姿を、咎めるでもなく、もちろん同意して嘲笑を極めたりはしないけど、半ば共犯者みたいに、休み時間を潰していたことが、今ごろになって、わたしの情けなさとなって、なおさら、ひとりきりの夜更けを眠れなくするのです。悪口が快楽になっているような、そんな社会は、それは動物園の猿山ではないでしょうか。醜いことと思います。そうしてその醜さは、ちょっとチャンネルを捻っただけで、ちょっとレストランで耳を澄ませただけで、到るところから、がやがやがやがや響いてくるのです。国民みんなに教育を施すということは、そういうお山の下等性を脱却して、ほんの少しだけ、ひたむきに、生真面目に生きられるようにすることなのに、道徳的な社会を築くことなのに、わたしはひとりで、思い詰めたりしている有様です。



 お薬が欲しいと思います。

  心の軽くなるお薬が欲しいと思います。

 躁とか鬱とか人はしばしば口にするけど、

こんな不気味な社会だから、普通の人が、おかしくなってしまうのではないでしょうか。そんな仮説は、どうして成り立たないのでしょうか。たとえば聞かされていなかったなんて、言い逃れをしたって、あの頃のドイツ人は、確かに総体としてユダヤ人を迫害していたのではなかったでしょうか。あの頃の日本人は、究極的には自発的な意思を持って、天皇を崇め奉っていたのではなかったでしょうか。そうならないための種はきっと、当時の社会にだって小さくうずくまって、けれどもちゃんと存在していたに違いありません。わたしはどうしてもそう思われてならないのです。

 総体は、病に冒されることはないのでしょうか。なぜ少数のものばかりが、病んでいることにされなければならないのでしょうか。わたしには分からない。でもわたしは思うのです。病んでいるのはわたしじゃないんだ。本当の生きる意味を放棄した、家族と会ってすらすぐにテレビジョンのスイッチを捻って眺め暮らすような、目の前に相手がいても、平気で端末をいじくっているような、それでいて、職場に奉仕することにかけては、社会のありきたりの営みを蹂躙してまでも、家族や地域における文化や伝統をないがしろにして、本当の人らしい活動を放棄してまでも、懸命に尻尾を振り尽くすみたいな、その代わりにもっとも安易にこころ逃れられる、娯楽やら端末にのめり込んで、最後には実生活での感動物語を、ありったけいつわりの物語に置き換えているみたいな、不気味な社会のあり方こそが病んでいるには違いないのだ……



「都内にはこれほどの密集が互いの生活圏を押し潰しあっている。だから人は符号へと置き換えられる。それはなにも、今に始まったことではないのだよ」

 それが正しいか、間違っているかなんて、そんなことは、どうでもいいのです。そのくらいの違ったことをでも、言いながらほほ笑んでくれるくらいの人が、いつでも近くにあったなら、わたしも少しは安心して生きていかれるのでしょうか。むかし付き合っては別れていった、男の姿なんかを浮かべても、まるで生き生きした姿に思えない。レディメイドの彼氏に思われてなりません。

 わたしは悪い女なのだろうか。彼らをかつては本気で愛していたのだろうか。それとも、あの時でさえも、軽蔑がてらに、わたしは淋しさを誤魔化していただけなのだろうか。分からない……

 またクロキチをぎゅっと抱きしめると、

  ぬいぐるみだから、黙って潰されているのです。

 いつの間にか、自分のぬくもりが乗り移って、

悲しいくらいの、暖かみが伝わってきます。



 泣いてたまるか、そう思うのですが、こんな毎日が、それこそ過去から未来へと幾万光年も突き進んで、その果てに、わたしはもう、女とも呼べないような干からびた生き物、羞恥無くうわさ話を餌とする、しわくちゃの九官鳥みたいになっちゃって、そうして本当の愛すらも知らないで、愛のために生きる喜びも知らないで、ただ愛の物語を眺め暮らしては涙を流し、自分のたましいと関わらない娯楽に泥んこにされつくして、それが一生だなんて終わってしまうなんてたまりません。そんなドラマなんかではなく、実生活をこそ懸命に彩ることだけが、豊かな記憶には違いないのに、ほほ笑みの経験には違いないのに、そんな喜びはこころには残されることもなく、昨日今日明日、そんな言葉を毎日毎日呟きながら、数え切れない人混みのひと欠けらとして、わたしは石ころみたいに消えゆくばかりなのでしょうか。

 幼い頃、蟻の行列に、間違って足を踏み入れてしまい、あっと思って慌てて靴をどけたら、潰された蟻には興味も示さずに、たちまち蟻が行列を再開してゆくのです。なんだか、ぞっとするような光景。わたし達ひとりひとりも、そんな生物くらいに過ぎなくって、それぞれがとなりの蟻には関心も示さず端末を眺め暮らし、つぶやきあっているくらいの符号には過ぎなくって、わたし自身の思いなんて、砂粒の価値ほども存在しないのでしょうか。

 そんなのは……あんまりです。

  あの時、蟻を踏んづけたときの罪悪感。

 ごめんなさいって、せめてもの頭を下げてた子供じみた気持ち。そのくらいの善良性で見守ってくれる人が、どこかに欲しいと思う。そうでなければ、生きていることは、ただただ地獄ではないでしょうか。



 もしお酒で気持ち紛らわせられれば、

  まだしも誤魔化しが聞くのでしょうか。

   わたしはアルコールが飲めないのです。

  それでこうして、クロキチなんか抱きしめているのです。

 結局わたしの考えだけが、どうしてもおかしいのでしょうか。でもおかしいなんておかしい。だって、人の数だけ意見が食い違って、食い違うところに社会が生まれるのが正しいコロニーではないでしょうか。そこにおかしいなどあろうはずなく、すぐにおかしいとか正当によって、白黒付いてしまうような、圧倒的な同業者組合のコロニーのほうが、遥かにおかしいのではないでしょうか。

 わたしはもう、おかしくてもなんでもいいのです。こんな思いをみんなみんな受け止めて欲しいとまでは思いません。だけどもし、本気になって耳傾けて、その人なりの意見を返してくれるような人がいてくれたならば、わたしはただその人を信任して付いていく。ずっとずっと付いていく。今はただ悲しみばかり、そんな人の存在をそっと夢見ながら、ずるずる足を引きずって、乏しく生きているだけなのです。

 そんなに途方もない夢でしょうか。それともわたしが偏差値のどちらかに偏りすぎて、同類友を呼ぶことすら出来なくて、わたしはマージナルな辺境に過ぎなくって、崖っぷちに立たされているのでしょうか。わたしはそれほど、おかしなことを考えているのでしょうか。なんだか、もう分からない。シンとした部屋に、カーテン越しの夜の淋しさが、押しよせてくるのが辛いのです。



 とうとう誤魔化しが付かなくって、わたしはまた涙を流している。もっともっと若い頃には、こんな時はテレビに逃れたものだけれど、そうやって時間を潰すという行為が、すべての本当を奪い去っているような気がしてからは、味気なくって、メディアに身を委ねて逃れるようなことだけは、決して出来ないのでした。そうしてインターネットを開いたときの、ニワトリの、符号の会話みたいな乏しさ……あれはもう、社会でもなんでもない気がするのです……

 みんながみんなで何かに逃れちゃったら、逃れた世界が本当になってしまうのではないでしょうか。わたしたち、日常社会のなかで、それは仕事の刹那でさえも、喜怒哀楽の本当と向かい合って、生きていかなければならないはずなのに……

 笑いが大切だっていうのは、餌をむさぼるみたいに、笑いを食い散らかせって意味じゃないんだ。日常生活の中で、互いにほほ笑むくらいの愉快を見出すことが、きっと、人の営みにおける正統の笑いであって、そんな営みの中にこそ、冗談やらシャレが息づいているのであって、デフォルメされたお笑いなんかで愉快をむさぼることが、心ゆたかのはずがないではないか。

 わたしは、バラエティを見ていて、めまいを起こしたことがあるのです。本当にこんな不気味なものを、眺め暮らす人たちが、二十一世紀にもなって、この世のなかに存在するのでしょうか。だとしたら、彼らは本当に教育を受けた人間なのでしょうか。そんな人たちが、ひとりでもふたりでも増殖すればするだけ、社会は駄目になっていくばかりに思えます。穢れていく一方ではないでしょうか。



 毎日モルモットみたいに、規則正しく職場とマンションを往復していると、なおさら健全な、穏やかなものが見えなくなっていくのかもしれません。わたしにはもう、社会が自分の視覚範囲の情報から得られた以上のものには、どうしても把握しきれなくなっているようです。きっとそれ以外のものへは、わたしがここから懸命に逃れようとしなければ、辿り着けっこないに違いありません。でも、もう、こころがすっかり歪(ひず)んでしまって、そんな活力は、とても湧いてきそうにありません。何とか明日を迎えて、どうにかこうにか乗り切ることだけが、流れ作業的なわたしの人生の残骸の、最後の気力のような気がしてなりません。わたしはこのまま干からびて、ここでひとりで消えてゆくのでしょうか……



 恐らくは、末期症状かとも思います。

  毎日、毎日、苦しくって苦しくって、

 かといって、もうお父さんやらお母さんの、

優しさくらいじゃ、収まりが付かないくらい……



 わたしはすっかり、すさんだ女になってしまいました。ごめんね二人とも。せっかく頑張って育ててくれたのに、わたしったらこんなになっちゃった。そう思ったら不意に、前後不覚になって、ベットにうつ伏して、わたしはぐちゃぐちゃの雑巾みたいに泣いてしまいました。わんわん声を張り上げて、その分、クロキチがぎゅうぎゅうと押しつぶされてゆくのです。恐らくわたしのこころは、もう壊れているに違いありません。



 明日が何のために存在するのか、それがどうしても分かりません。こころが真っ暗になっちゃったら、助けてくれるはずの手の平さえも、わたしはきっと、払いのけて闇へと舞い戻るに違いありません。そのくらいもう、末期症状に陥っている気配です。



 安心して、誰かの腕に抱かれたい。

  クロキチをぎゅっと抱きしめるのではなく、

 わたしが、無条件にぎゅうぎゅう抱かれたい。



 そんな、最後に残された悲しい夢がひとつ、それでも諦めきれずに、夜更けのこころに燻っている。わたしの若くもない胸の奥底に、それでもまだ消されもせずに、そんな埋み火が最後の灯し灯して、小さな熱を保ちながら、今でも燻り続けているらしいのです。



 この火が、消えるまでは、

  まだわたしは、死んだりはしない。

 どんな地獄だって、明日の朝を待って、

こころどうにか誤魔化しながら、

 生き抜いて見せようと思うのです。

  符号みたいな世の中を、

   ずるずる足を引きずって、

    歩いて見せようと願うばかりです。

                (おわり)

作成

[2010/8/13-14]
(原稿用紙換算18枚)

2010/08/14

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