アルコール依存症かな

(朗読1)  (朗読2)  (朗読3) 

アルコール依存症かな

 アルコール依存症ではないけれど、
  今日こそよそうと思った夜更けなのに、
   だらしなく、焼酎を注いでしまうわたし。
  とくとくとく、そんな音が心地よくなって、
 慰められるみたいな、優しさに溢れてくるのはなぜ……

 誰も慰めてなんかくれないから、わたしはお酒に抱かれて、ほのかな夢なんかみるのです。今日はジンジャーエールなんかで割ってみます。カクテルみたいな甘みがあって、シャワシャワとして心地よい。疲れごころをなだめてくれる。ひとつぼっちの、わたしの味方かもしれない……

 からだはとても疲れているのに、頭がきんきんして、眠られないのです。今日の仕事のことが、だらしなく汚れた映像みたいに、何度も何度もフィードバックされて、ただただ利益とか数値計算ばかりで、人の価値を判断するような企業のありかたが、とても人の世とは思えない。それなのに、わたしはそこからどうしても抜け出せないでいるのです。もちろん、逃れようと試みたことはありました。けれども、二度三度失敗して、もうどこへ行っても、何も変わらないようなあきらめが、鳥かご全体を覆い尽くしている。そう思われてなりません。あるいは、国外へと逃れたら、思想の異なるような社会が、人らしく生きられるところが、わたしにも残されているのでしょうか。けれどもう、これから語学を学ぶなんて、そんな時間、どこにあるというのでしょう……

 こころが疲れてしまって、活力が湧いて来ないのです。毎日が手一杯の気配です。甘えだとか、口先のペテンだとか、ちょっとした本心を見つけると、たちまち追い詰める声ばかりが響いて来ます。これほどけなげに働いて、甘えだなんて言われたら、追い詰められてせめても逃れるために、飛び降りるくらいしか、道を無くしてしまうに違いありません。だけど、よくよく観察してみると、甘えだなんて叫んでいる人たちの、どれほどいい加減な精神で、毎日を怠惰に暮らしていることか。つまりは甘えきった人生を歩んでいる人たちばかり、人をおとしめる雄叫びを張り上げて、そうして口数まかせに虚栄心を満たしているらしいのです。

 わたしは驚きました。そんなペテン師を始めて見かけたのは、入社したての企業の、課長と呼ばれる中年男性でした。もう、懐かしいくらいのお話しです。わたしは二年目にして、ようやくその事に気がついて、こんな人物を平気で上司へと付ける企業というもののルーズさに、人でなしでも平気で階段を昇れるくらいな、だらしのない人事に、あっけにとられたような出来事も、思えば、その頃が初めてでした。

 企業とは、独立した存在ではありません。人間があって、人間同士の社会をより良くするために、副次的に生み出された、共同体へと服属すべきシステムの、一形態には違いありません。もしそれが、一人一人の善良性や、精神を置き去りにして突っ走るときには、社会的に上位であるはずのわたしたち一人一人が、改変するべき使命を持っているはずではないでしょうか。わたしはそんなことを、酔っぱらいの冗談みたいにして言ったことさえありました。思えばわたしも若かったのです。なにしろ、そんなことには興味も関心もなく、ただただ風変わりな発言をあざ笑うような同僚が、わたしを覆い尽くしているだなんて、まるで気づきもしなかったものですから……

 彼らは、彼女らは、それで幸せらしいのでした。影で愚痴やら悪口を発散させながら、本気で何かを変える気力もなく、与えられた情報や、自分のやりもしないスポーツや、新しい娯楽や、端末のことばかりにのめり込んで、あるいは家族の出来事ばかり延々と主張しあって、そうして最後には、いつも笑いを求めてさ迷っている。仕事中に得られない情緒を、はけ口みたいにして、交互に満たし合っている。仕事の欲求不満を、強刺激でもって満たそうと躍起になっている。だからなおさら嘲笑的で、それでいて、互いの存在などこころから求め合わないような、まるで九官鳥が交互勝手に、自分のことばかりを語り合っている様子。穏やかな会話の品位というものがどこにも存在しないのです。

 あるいは、そんな居酒屋の光景に、誰ひとり気つかずに、あるいはそんなカラオケ屋のひとり歌いに、誰ひとり気づかずに、幸せそうに毎日を過ごしているのはなぜでしょう。そうして、上司がひとこと利潤とささやけば、何の抵抗もなく、利潤とオウムを返し、上司が前年比と言いさえすれば、何の予見もお構いなしに、百パーセント達成と答え返すような有様です。

 かといって上司が悪であり、私たちが虐げられている風でもないのです。いわば企業というものは誰の手からも中立のところにあって、上司もわたしたちも、ただそこからの命令さえ与えられたら、安っぽい評価主義に配下をリストラすることだって、穴だらけのプランに邁進することだって、まるでもう、尊厳やらプライドなど微塵(みじん)もなく、自分の意見は愚痴用に取っておいて、従うべきと考えているような有様なのです。それでいて、その命令さえも、王やら独裁者から出される訳でもなくって、きわめて明確な指針の定まらない、ある種の集合体が、右往左往しながら生み出したような、ルーズなものらしいのでした。

 でも、わたしには会社のことや、組織のことはよく分かりません。ただただ、すべてが歪んで見えるのです。わたしが歪んでいるのでしょうか。わたしひとりが、この国でただひとり歪みきっていて、それで普通のものが、曲がって見えるのでしょうか。もしそうだとしたら、どこかへ連行して下さったらいいと思います。施設でもなんでも、わたしを護送して、ここから逃れさせて下さったらいいと思います。どんなに眠ろうとしても、頭のなかに淀んだ影ばかりが、悪霊みたいに湧いてきて、言葉の羅列がデジタルの数列みたいに、単純な数値で、延々と続くような苦しみで、わたしはまたがばっと布団をはね除けて、こうしてキッチンでお酒なんかあさっている。もういい年をして、ひとりぼっちの夜更けは怖いのです。わたしはアルコールだけを友として、淋しさのうちに老いぼれていくのでしょうか。

 無縁死。

  そんな嫌な言葉が浮かんできて、

 わたしは慌てて頭を振りました。

「何でもない、何でもない」

なんてひとりで誤魔化しながら、グラスと一緒にベットルームへよろよろ戻って、けれども音楽を流しても、近頃はちっとも、アーティストの声が耳に届いてこないのです。シャワシャワと炭酸の響きはしています。そうして、ただ、それだけのことなのです。割物のジンジャーエールの甘みが、ほろ苦くも思えてきて、なんだか泣きたいくらいに飲みほすグラスから、炭酸は慰めみたいにして、優しく立ちのぼっては、どこかへ消え去ってしまう。わたしは追い掛けるみたいにして、またキッチンから次のお酒を仕入れて来なければなりません。



 わたしは一人っ子でした。父さん母さんは、まだ元気です。わたしは大切に育てられたのだろうか。分からない。子供の頃から、三人で食事をすることは稀でした。食事の時間に、会話をすることも稀でした。たまたま親が座っていても、彼らはなんだか、テレビにばかり夢中になって、おとなしく口をもぐもぐさせているわたしが、それを嫌がっていることにさえ、気づかないのでした。わたしの幼少の思い出は、そんな侘びしい蜃気楼に包まれているのです。思い返せばいつもひとりきり。食卓の風景は、わたしだけがテーブルをじっと見詰めていて、他の誰かがいたって、彼らは映像のなかへもぐり込んでいるばかりでした。それでいて箸だけが動いている。ときどきへらへら笑ったりして、映像と勝手に対話をしている。悲しい悲しい光景です。まるでプラスチックの営みです。これは人間の社会なのだろうか。ずいぶん悩んだこともありました。そんなことを友人に打ち明けて、考えすぎだと笑われて、慌てて誤魔化したことさえありました。

 二人は、わたしを黙殺していた。そんなつもりは、きっとまるでないのです。ただ父さんも母さんも、それぞれ両親から、娯楽漬けの、本気で会話を交わすこともなく、何かを与えて置きさえすれば、子供は子供で幸せである、だからあえて干渉もしなければ、ちょっとした注意を与えて軌道修正を試みるくらいの、そんな飼育を受けてきて、だから畑の野菜を育てるくらいの感情でもって、無頓着にわたしを愛していただけだと思うのです。わたしはこんなですから、それが辛くって、自分が愛されない人間だと、長いこと悩んで、くるしい青春時代をさえ過ごしました。そうしてそれを今でも引きずっている。あるいはそうかもしれません。だとしても、もう、学生時代のはかない面影には過ぎないのですけれども……

 そしてどこの家庭も、みんなそんなもので、いや、今はもはや、それどころでなく、人が目の前にあっても、お構いなしに自分の領域へともぐり込むような、境界線もなくなった快楽動物になりはてた、不可解な学生も沢山いて、相互に端末の向こう側と遣り取りしているような光景さえ、日常茶飯事のたそがれ時。あるいはそうではないでしょうか。

 すでにあの頃から、わたしの周囲にはこころ豊かな社会はどこにもなくなって、殺風景な、まるで符号みたいな人々が、広がりゆくように思われるばかりでした。それでもわたしは、学校から放逐(ほうちく)されるのは恐ろしくって、社会から乖離(かいり)するのは恐ろしくって、必死になってみんなに合わせているうちに……いつの間にか、自分がなにのなにやらさっぱり分からなくなってしまいました。

 あるいは、わたしはあの学生の頃、こころがパリンと割れてしまって、今もって修復がつかないでいるのでしょうか。あるいはそうかもしれません。だけど思うのです。たとえばわたしの想いをありったけ打ち明けて、臨床心理だか精神科だか、あるいは心療内科だか知りませんが、誰か脳天気なお医者さまが病のレッテルをでも貼って、いわゆる彼ら彼女らに適応させるためのお薬などを、提供するとします。けれどもわたしがもし、わたしの個性的な感受性から、ある意思に基づいて社会から乖離して、それが原因で疎外感を味わい、悲しい状態へ置かれ、結果としてこころが弱っているにしたって、だからといってそれは本当に病気なのでしょうか。もし仮にわたしひとりが神様の思し召しに対しては正しくて、みんなが間違っているようなことがあったとしたら、大切なのはわたしを矯正することではなくって、わたしを病と見なすほどに追い込んでいる原因をこそ、修正すべきかもしれないではないでしょうか。あるいはまた、絶望に置かれた人間は、絶望に置かれたその瞬間には、絶望を負うべき宿命にあって、それを薬で取り除くことが、その人の人生のために、本当に大切なことなのでしょうか。本来は自分で切り抜けるべきこころの営みを、すべて病気の分類にして、お薬で誤魔化してしまったら、人は人生の峠の山道を、朽ち木を乗り越え右往左往する過程からもたらされるはずの、成長と生真面目さを失って、ますます娯楽と快楽をのみ探求しつつ、いつまでも幼い味覚から卒業できないファーストフードみたいに、あるいは一生を符号みたいに、ゲームの登場人物なみの感性でうろうろするばかりの、それでいて企業からはいいように労働力を酷使されるだけの、何か、人の形をした、人でなしになってしまうのではないでしょうか……ああ、わたしは何を考えているのでしょう。自分でも、まるで分からない。

 おかしい。こんな憤慨なんて。
  思わず、噴き出してしまいました。
   こんなに、お酒に依存していて、それは自分の意思で、
  選び取っているから、まだしも結構だなんて、
 わたしは、本気で信じているのかしら?
  情けないくらいの、不始末だ……

 ウーロン茶がまだ冷蔵庫に残っています。焼酎との比率は、一対二が最良です。ウーロンの芳ばしさが、甲類焼酎のほのかな甘みにおだてられ、そのまま飲むウーロン茶なんかよりも、断然おいしいくなるのです。わたしはなんだか、酒の味だけにうるさくなっていくようにも思えます。ちょっとおかしくって、ほほ笑んだ分だけ、元気が回復してくるような気分です。

 でも明日、起きることを考えると、急にうな垂れてしまいます。

  どこかへ逃れたい。遠く遠くへ逃れたい。

   知らない世界の生活を、喜びのまま始めてみたい。

  今のすべてを投げだして。

 今の怠惰を投げだして。

たとえそれが無理でも、せめて、今の労働から逃れたい。

 それなのにわたしには、精一杯働いた分だけのお金しかありませんでした。電卓を叩いてみても、通帳を眺めても、自由を買えるほどの貯蓄はありません。かといって、どこへ就職を変えたって、同質的な社会が広がっているばかりです。悲しく諦めを飲みほすみたいにして、酔いどれのグラスを握りしめ、わたしのベットルームへと舞い戻り、また音楽を流します。

 やっぱり、言葉ばかりが、頭を巡ってしまうのです。

  お気にの歌声はさっぱり、こころの底まで届かないのです。



 あるいはわたしたち、まるで見えない足枷を、それぞれにはめられて、初めから企業へ奉仕しつつ、企業の与える娯楽に邁進しつつ、企業より得た賃金を、企業へと還元するだけの喜びを、人生の喜びと誤認させられて、経済だけをぐるぐる回転させるように、幼少より飼育させられてきたのではないでしょうか。この国の義務教育というものは、実はただそのためにのみ存在し、学生はまるで快楽の春を謳歌しているような自我を発散させながら、その実、何かつまらない、人のかたちをしたブリキのおもちゃへと、トンカントンカン仕立てられてしまうのではないでしょうか。全員が一丸となって、子供もののヒーローやらなにやらを讃えるうちに、巨大なメディアに奉仕するこころばかりが、その実、形成されているのではないでしょうか。決して、情緒的に得るものなど、そこには存在しないというのに……

 だって、どんな道徳だって、稔りの情緒だって、結局は現実社会のゆたかさから還元されて、ひるがえって、その人の感性へと到りゆくものであり、その結果として、わたしたちは泣いたり笑ったりするものであり、だから感動すべく仕組まれた今日的な情緒物語の、策略に無頓着に泣かされているということが、決してこころゆたかを、形成するなんて言えないと思うのです。それでいて、それらの物語が面白く、感動的に仕組まれているのは、言うまでもなくって、だからこそ無頓着にどっぷりはまるということが、かえって悪いことだって、あるような気がするのですけれども……

 わたしは、また取り留めもなくさ迷っているようです。

  いつの間に、子供の話なんかに移り変わってしまったのでしょう。

   わたしにも、いつか、子供が出来るでしょうか。

  あるいはその子は、わたしと同じように、悲しみに、

 沈んだ子にはならないでしょうか。

  恐ろしい事と思います。



 わたしはたしか、職場のことを考えていたような気がします。かつては、わたしの企業でも、労働運動が盛んに行われたことがあったといいます。それどころでなく、社会全体が、労働運動の活力に満ちていたシーズンが、確かに存在していたといいます。それはいつのお話しでしょう。まるでおとぎ話の気分です。人々が手を取り合って、社会に働きかけるなんて、今ではもう、マージナルな現象にしか見られないくらい、わたしたちの社会は、ある種の無気力主義に満ちあふれているように思います。今はもう、誰もが、小さな反旗をすら掲げる能力を失ってしまい、実社会を改変すべきことのみが、人間社会の永続的な営みだったはずなのに、かえって、実社会へ働きかけることを、格好悪いことのように信じ込まされて、相互にだらしなく足を引っ張り合っているようにすら思えてなりません。そうして、近頃、端末で繋がっているということが、足を引っ張り合うためには、最先端の道具となってしまい、私たちの学生の頃よりもっと、この列島の経済の歯車から、抜け出せないような未来の成人たちを、学校は大量生産しているようにも、この頃なんだか、不安に思うことすらあるのです。

 次第にお酒が回ってくるくるします。
  するとますます、馬鹿なことばかり浮かびます。
   わたしの精神と、頭のなかはまるで繋がりなく、
  わたしは考えるのが嫌で、焼酎へと逃れるのに、
 アルコールの方では、かえってわたしを駆り立てて、
  答えの見いだせない、ありとあらゆることを、
   めくらめっぽうに押しつけるような気配です。

 わたしは何のためにこんなことを悩むのでしょうか。憂国主義など掲げたこともないのに、わたし自身の問題が、近頃社会へと転化されて、なおさらわたしを苦しめるのは、わたしが歳を重ねて、もはや自分ばかりを問題としきれない、悲しい年齢を迎えつつあるせいなのでしょうか。それとも自分ひとりでは苦しくって、間違いを社会のせいにして、まだしもこころを救おうとする、自己救済の作用がこころに及ぼした、徒労の色した蜃気楼に過ぎないのでしょうか。ああ、何がなにやら、さっぱり分からなくなりました……



 最後の曲が途切れました。どんな歌詞だか覚えていない。好きなはずの声なのに、まるで頭に浮かばない。そのくせ、おかしい、鼻歌なんか歌っているのです。フレーズだけはしっかり焼き付いているのは、なんだかとっても不思議なことです。そんな不思議を感じるたびに、すきま風の淋しさが募ってなりません。こんな妄想ばかり、あれこれと悩んでいるような、若さも保ちきれない下り坂の女ひとり、今からでも貰ってくれるような人が、どこかにいるでしょうか。

 わたしは男の人が苦手でした。いいえ、違います。女の人だって苦手だったのですから、ようするに他人が苦手だったでしょう。けれども、ずっと信じていました。いつかきっと、一人くらいは、本当にわたしの滅茶苦茶な思いをだって、受け止めてくれるような人が、どこかにすっくと立っていて、わたしはもうすべてを投げだして、泣き崩れて、安心して体を任せっきりにして、その時は、きっと生まれて始めて、悪夢なんかにうなされることなく、アルコールなんかに打ちのめされることなく、穏やかな、穏やかな眠りにつけるんだって、馬鹿だなあ、本気で信じて、どうにかこうにか歩いてきたのです。

 本当の愚か者。わたしはそれに違いありません。でも、そろそろ悟りのシーズンです。どんなに待っていたって、王子様なんて現れるはずがないんだ。かといって、自分からそんな人を見つけ出すなんて、もう考えさえ及ばない。だって、自分がこころを隠して、妥協して誤魔化して、誰かに合わせようとしない限り、きっと誰とも、うまくなんかいきっこないに決まっているのです。でもそんなことをしたって、わたしは永遠に、誰かに打ち解けることなんて、出来ないには決まっているのに……

 無縁死…………
  たったひとつだけ、
   絶対的に得られる、
    永遠の穏やかさ。
   急に恐ろしくなって、
  慌てて、メインの電気を点けました。
 なぜだか、鼓動が大きくなって響きます。
こころが、ひび割れている気配です。

 父さん、母さんのところへ、帰ろうかとも思うのです。もう駄目だって、泣きついても、許されるような気も、かすかにするのです。けれども、わたしは、やはりあそこには戻りたくないのです。何かしか、違和感を覚えるのです。だって、あそこには、学生時代のわたしが蜃気楼みたいに、柱の影から、街角のあちこちから、わたしを窺(うかが)っているに違いないのです。わたしはあの頃の、悲しい思い出と格闘しながら、よりいっそうひとりぼっちになって、苦しまなければならないのではないでしょうか。

 ああ、神様にお祈りできなくなった人間は、どんなにどんなにみじめだろう。超越してすがれるものがなくなったわたしたちは、どうやって絶望から逃れるだろう。こうして、アルコールに全身をもたれ掛かってみても、どうしても、どうしてもぬぐい去れないもの、消化しきれない真っ暗な不燃物。それを、どうやって片つけることが出来るのでしょう……

 分からない、

  わたしには何も分からない……

 また、涙が出そうになって、

慌ててキッチンへと駆け込んだ。



 これで、最後に致します。そう思って、さっきも注いだのでしたが、焼酎をまたグラスに満たしてしまいました。そうしてだらしない、とうとうオレンジジュースなんかで、割ってみるのです。もう、酒すら語れない女になりました。そうして、きっと夕べみたいに、次第に意識が朦朧(もうろう)として、わたしは床にうつ伏したまま、投げだされた朝の余韻に、ぽつんと目覚めるのです。味気ないくらいの、人の世の普遍性……

 なんでこんな世の中に、生まれてきたのか分かりません。考えても、泣いても、叫んでみても何も変わらない。多少のアクションを起こしても、同じ所へと還元されてしまう。逃れるべき場所がどこにもない。逃れるべき、異なるポリシーの集団が、どこにも存在しない気配です。まるで国民が総体に、並列回路みたいに、同質的なところへ寄り添っていて、ただ娯楽の何の違いをばかり、個性だなんて主張する、驚くべき失態を繰り広げているような夜更けです。

 そうして、ちょっとでも思想の異なる、階層の異なる、価値観の異なる亜種を発見すると、圧倒的なスケールで、押し潰そうとするのです。それでいて、人と人とは、ますます希薄に、乏しい言葉の羅列で、会話を全うしているばかりです。安っぽい歯車が大量生産されて、彼らは、彼女らは、それが個性だなんて主張するのでしょうか、それはまるで経済のためにのみ存在する、代替可能な部品そのものなのに……

 ああ、どうかしている。こんな考えは、本当にどうかしている。わたしは壊れている。そうして、壊れながらも、立派に鼓動を保ち、悲鳴を上げながらも、ただ経済のためにのみ存在して、軋みをあげるみたいに、どうにかこうにか、また夜明けを待って、お仕事へと出かけるのです。自分の人格とはなんの関わりもない、ただ利潤のために奉仕することを使命として。

 神様、お聞かせ下さい、
  どうしてこんな世の中を、
   あなたは、築きあげてしまわれたのですか。
  主よ、あなたは私たちを、
 本当に、見捨てて、しまわれたのでしょうか。

        (おわり)

作成

[下書き2010/8月→9/18]
(原稿用紙換算25枚)

2010/09/18

[上層へ] [Topへ]