クリスマス・イルミネーション

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クリスマス・イルミネーション

「もうすぐ到着」

メールに打ち込んで送信したとき、高層ビルのシルエットの合間から、鈍い赤みを残して消されようとする西空が、つかの間見えて、また消えた。高級デパートのきらびやかを過ぎるとき、クリスマスシーズンのメロディーが、声を忘れた instrumental で、華やかにこぼれてきた。案内役みたいな受付がちょっと見えた。若い女性が二人して、サンタクロースのコスプレを飾っていた。それなのに、入口へ吸いこまれる人はまばらで、ただ沢山のスーツ姿のサラリーマンが、ひしめくビルから逃れ出ては、駅へと足を速めつつある宵を、華やぐ照明ばかりがどこまでもきらびやかなのだった。

「さすが、部長でございます」

 軽薄な声が横にした。思わず振り向くと、飲み屋のフロアーで占められたビル口で、黒蟻じみた一群が、たむろして入口へともぐり込もうとしているのだった。まだ若い太鼓持ちが、

「ささ、どうぞ、どうぞ」

まるでコメディアンみたいな、不可解なジェスチャーで、偉ぶった中年上司をいざなっている。悲しいくらいの道化芝居だった。

「あんな姿をライブカメラに流して、ひとり自分で眺めたとしたら、なんとも思わないだろうか」

そんなことを考えたら、毎年の忘年会の様子が浮かんできて、なんだか遣り切れない。結局は、今の自分だって、たいして違わないんだ……

 暖かそうな手袋をした男の子が、

「ぼくねえ、ぼく、サンタさんに、お願いするんだい」

なんて、母親の手を引くようにして目の前を過ぎていく。その時ふと、

「あの子のこころからのお願いが、いつしかあのコメディアンの姿へと辿り着いただろうか」

馬鹿なことを考えて、ひとり苦笑い。まったくどうかしている。

 不意にメールの返信が、お気に入りのメロディーで流れて来た。うれしくなって開いてみると、

「立ちっぱなし。モノレールがまた一台。さむいさむい。早くこーい」

なんて書いてあった。

「いますぐ」

とだけ返信して、携帯を閉ざしたら、仕事帰りの疲れたこころにも、ちょっとだけ元気が戻ってくる。信号が変わったとき、行き交うヘッドライトはキラキラして、町並みが活気づくように思われた。

 べつにあいつが、モノレールで職場に通っている訳じゃない。俺がモノレールで、帰るわけでもない。ただふたりの帰宅ルートと、落ち合う場所との兼ね合いで、例のモノレールの駅が、待ち合わせ場所になっている。いつ決めたルールだろう。それは忘れてしまった。高架の高みにある駅と地表のあいだには、中空の遊歩道が広がっていて、広大な天井で覆われていたから、どんな天候でも待ち合わせられるし、片方が遅れる場合は、近くのデパートや書店へと繋がっているから、暇を潰すのがたやすかった。もちろん、お気に入りの喫茶店で待ち合わせることだって出来たが、なにしろ有料だから、日頃の利用を差し控えるような、暗黙の掟がふたりのあいだにはあったのである。

 自分は空中庭園を目ざして、黒塗りの階段を上りゆく。二十一世紀のバベルの塔はあちらこちらに建っている。大通りの隅から折れ曲がるように大地を逃れると、狭い回廊はほどなくぱっと開けて、外気と繋がった雄大なフロアーを、暖色ライトが照らしているのだった。まるで人工的に、日暮れを取り戻したような錯覚で、愉快になってスーツ姿の合間を縫(ぬ)っていく。もっとも、自分だってスーツ姿なのだから、はた目に見たら、働き蟻の一員には違いないんだ……そんなことを考えると、ちょっと馬鹿馬鹿しい。ようやく、不思議なブロンズ像の前に、後ろ向きに立っているあいつの姿が見えてきた。寒そうな大気をブラウンの厚手で遮断して、ぼんやりブロンズを眺めている。いつもと変わらない穏やかなたたずまい。ちょっと脅かしてやろうと思って、俺は後ろから近づいていった。そうしたら、すんでの所で振り返って、

「残念でした」

なんてほほえむのだった。

「なにが残念なんだよ」

俺は負け惜しみを返す。

「だって、おどそうとか企んでたでしょ」

すっかり読まれていた。

「そんなことねえよ」

思わずぶっきらぼうになってしまった。それから二人して笑い出す。彼女はブロンズを眺めながら、

「いつ見ても不思議」

と指さした。

「初めっから、意味不明に作ってあるだけだろ」

「なにか深遠な意義が込められているのかも」

「嘘っぱちの現代アートさ。どうせ、夢のなかで見たかなんかだろ」

「そんなことない。だって、題目に『定理を逃れた貘(ばく)の落とし子』って書いてあるじゃない」

「貘の落とし子ったって、やっぱり貘だろ」

「じゃあ、貘ってなによ」

「さあ、想像上の動物かなんかじゃないか」

「哲学者のペットかも」

「それで定理を逃れて家なき子か」

「きっと束縛されるのが嫌だったんだ」

「また、勝手に決めて」

「だって、そんな表情してるじゃない」

なんて眺めながらほほえんだ。また、いつものたわいもない会話が始まるんだ。行き交う人波のかなたには、上り階段がエスカレーターと並んでいて、モノレールの駅が、ぽっかりと口を開いていた。駅へ向かう用はない。ふたりは肩を並べて、その反対側、ちょうど路線が指し示す隣り駅の方へと歩み出す。それからほどなくして、幅広の穏やかな階段へと辿り着いたとき、目の前には、クリスマスシーズンのイルミネーションが、裾を両幅に広げた遊歩道を、どこまでも飾っているのが、まるで寒い冬の慰めみたいにして、キラキラと映し出されるのだった。

「わあい」

彼女が息を吐くみたいな歓声を上げる。

「きれいだね」

そっと手を差し出すから、

「そうだな」

俺はその手を握り返した。

 階段を降(くだ)りきると、六車線はありそうな歩道はなかなかの人だかり。遊覧に色どりの電飾を眺めたり、仕事に打ちのめされてそそくさと立ち去ったりする人影が、シルエットに入り交じって、まるで冬ざれの影絵みたいなはかなさで、流れを揺らしているのだった。

「去年と全然違うね」

「彩色が増えたな。あんな、赤やら黄色やら、点滅灯で飾ったりしてなかったし」

「そうそう。去年はひたすらブルー」

「それに、人影もまばらだった」

「やっぱり、テレビのおかげかあ。紹介されちゃったから、みんな眺めに来るんだ」

 ついこの間、どこかの局のニュースの合間に、天気予報と一緒になって紹介されてから、歩行者が急に増えたのだ。

「向こうまで歩こう。人の多いところなんて、どうせこのあたりだけなんだ」

「うん。それにしても、ずいぶん冷えたねえ」

彼女は、白くなりかけの息をはあっと吐いてみせた。

「だって、こんなにモコモコで飾ってんだから大丈夫だろ」

俺が、春を夢みるような桜色したマフラーを引っぱると、こいつはわざと引っぱられるままにもたれ掛かりながら、

「寒さは足もとから募ってくるもの」

そっとつぶやくのだった。夕べのうち列島に寒波が訪れたから、今朝のニュースでも今年一番の寒さを連発してたっけ。かといって厚手の手袋をするほどの、切ない冷たさでもないのだけれど……

 モノレールの高架を中央にした遊歩道は、帰宅途中の人々と、ネオンを楽しむ親子連れやカップルが入り交じって、寒そうな大気を賑やかに慰めるみたいに、話し声をカクテールさせていた。すでに階段の降り口には、ひときわ背高の樹木が一本、駅へのシンボルを兼ねてすっくと立っていて、ちょうどそのてっぺんへ向けて、みずうみ色に蛍光するロープライトが、幾何学の定式か何かでもあるみたいに、規則正しく八本、円錐形を描いてるのだった。いわばその中に納められた常緑樹に住まう、まるでさまざまな彩色を放つ冬蛍が、思い思いの点滅を企てるみたいに、雪の吐息のような静けさで、瞬いては、また、消えてゆく。それをみんなはしばし歎息したり、指さしたり、あるいはうつむいては、急ぎ足に立ち去ったりするのだった。

「たい焼き買って、たい焼き買って」

群青の帽子をした男の子が駄々をこねていた。

「しょうがないゆう君ねえ」

母親が引っぱられる方には、車両販売のたい焼き屋の照明が、鮮やかな赤色車体をクリスマスバージョンに飾っている。

「たい焼きかあ」

隣のこいつまで、たい焼きに釣られそうなんで、

「子供じゃないんだ」

そう言ってすたすた行き過ぎると、彼女は渋々ながら後ろから付いてくるのだった。

「あれ、今日はあきらめたんだ。いつもなら、スーツを引っぱってでも、甘いものには目がないくせに」

「だって」

「子供と同じみたいで恥ずかしかったんだろ」

そう言ったら、図星だったらしく、知らないといった調子で、俺を追い抜いて威勢良く歩き出す。そんな、オペラコミックのヒロインみたいな、仕草を変える彼女を見ていると、なぜだろう、自分はいつも、仕事の疲れなんか忘れて、穏やかな気分にさせられてしまう……

 モノレールは、歩道中央にある分離帯に設けられた、樹木やらベンチやら、ちょっとした公園のはるか頭上に、硬質のレールをどこまでも延ばしていた。下界では、両側をクリスマスツリーに着飾った街路樹に挟まれて、最先端の発光ダイオードを駆使して、イルミネーションのきらめきが広がっているばかり。さながら、冷たいおとぎの国の幻想みたいに、人々のこころを慰めるように色を違えて、カラフルな影絵灯籠となって続いているのだった。

「それで、バイトサボった有紀のやつがさあ」

「サボったって、あいつ、またサボったのかよ」

分離帯にあるベンチから、学生服を着たカップルが、恐らくは高校生だろう、からからと響く声で語り合っている。あるいはひときわ大きなツリーのあたりには、

「ママぁ、ママぁ」

なんて、はぐれて泣きべそを掻いている、赤ジャケッツの女の子の姿もあった。何気なく眺めていると、

「こら、あつ子、なにやってんのよ」

母親が叱りつけるみたいに現れて、夢中に駈け寄った女の子は、わあっと大声を上げてしがみついた。それから、手を握られながら、まるで引きずられるみたいに、影は後ろの方へと消え去ってしまうのだった。あいつが、

「よかったね」

なんて安堵する。俺は照れくさくなって黙ってうなずいた。

 有名商社の高層ビルからは、仕事の区切りが付いたのだろう、似たものスーツのサラリーマンのかたまりが、寒さに驚くみたいにこぼれ出て、ただでさえ闇を親しむべき冬の夕暮れを、黒ずんだ制服で隠すみたいに、あるいは同化してひっそりと逃れるみたいに、イルミネーションの合間をすり抜けていく。なんだか不意に侘びしくなって、ふたりともぼんやりそれを眺めているのだった。

「みんな足早だね」

「そうだな」

「ちっとも楽しそうじゃない」

「仕事帰りだからな」

「イルミネーションなんてお構いなし」

「毎日見慣れてるから」

「そうじゃなくって……」

「なんだよ」

「楽しがる感性が遠のいているじゃないかな」

「それは、幼い頃みたいには楽しまないだろうさ」

「わたしたちも一緒かな?」

「そうだな。やっぱり、ひとりで歩いてたら、あいつらと同じように足早に立ち去るかもしれないな」

……そうなんだ。イルミネーションが華やいで見えるのは、結局はこいつのおかげなんだ。わずかにそんな思いが兆(きざ)したが、言葉にはならなかった。すると彼女は屈託もなく、

「しょせんは規格化されたサラリーマンなのかな」

なんてつぶやいた。

 そう。二人とも逃れられない何かに束縛されている、都会のサラリーマンに過ぎないのだ。でも、あるいは自分たち、一人では逃れられないほどの弱虫でも、こうして二人手を取り合ったなら、道を踏み外しても生きていかれるだろうか……

「おなじスーツを着て、働き疲れのお仲間か」

こころに屈託を抱えながら、俺はそんなひと言で済ませてしまうのだった。

「そういえばさ」

彼女は止めなかった。

「なんだよ」

「去年より、なんか疲れてる気がするね」

「そうだな。なんか年々、疲れていくような気分」

わざと体をぐったりさせて、背中を丸めて見せたら、ようやくこいつは笑い出した。でも、カバンの書類やら薄型ノートブックにフォルダ分けされたデータを思い起こすと、何だか遣り切れない。

「結局、同じことの繰り返しか……」

そう思ったが、口には出さなかった。

「このままで、いいのかな」

澄んだ瞳が覗き込んでくる。

「また、それか」

「毎日が、もっと楽しくっちゃいけないのかな」

彼女は、ぐっと甘えるみたいに凭(もた)れて来た。暖かみが胸に込み上げてくる。もし、ずっと今みたいに歩いて行けたなら、職場なんか消え失せて、ふたり、砂浜に寝そべるみたいにして、いつまでもほほえんでいられたなら、自分にはそれが一番の幸せのような気がする。だって、人のいのちの意味なんて、本当はそんなものではないだろうか……そんな思いが浮かんだら、なんだか急に恥ずかしくなって、

「今日は、ずいぶん待ったか」

わざと素っ気なく答えてしまうのだった。彼女は、考え事を現実に引き戻されたような瞳をパチクリさせて、

「うん。十五分くらい」

なんて時計を見ながらささやいた。

それから、

「やっぱ、二十分かな」

と訂正して見せるのだった。

「今日はずいぶん早かったんだな」

「いつもは、待たせる方が多いのに?」

「そうそう。たまには逆にならないとな」

「不公平?」

「だって俺、昨日なんて、三十分も凍えてたし」

「嘘ばっか。連絡入れたら、近くの本屋にいるから、そっちに来いって」

「嘘じゃないって、本屋のなかでも寂しくて、こころ震わせて待ってたの」

「だって、F1の総集編かなんか立ち読みしてたじゃない。試しに後ろからじっと眺めてみたら、復帰後のシューマッハの記事にのめり込んで、ちっとも気付かない」

「そんなアホなことしてたのかよ。気付く訳ないだろ」

「アホとはなによ。以心伝心とかないわけ?」

「ある訳ないじゃんか。でも」

「何よ」

「幽体離脱ならあるかも」

「やだ、それって、全然関係ないじゃない」

 いきなり笑い出すから、ぱっと花が咲いたみたいに明るくなって、自分も噴き出した。彼女がほほえむと、なぜだかこころが和やかになる。今でも時々、不思議に思えるくらいだった。

 不意に、高架のレールを突き抜ける音がして、仰向いた時、暖かそうな黄色の窓並びが、光の筋となってふたりを追い越していった。駅を出たばかりのモノレールは速度を高めつつ、どこまで走って行くだろう。窓ガラスには、沢山の人影が、ここからでも見えるような気がしてならなかった。

「やっぱり、みんな仕事帰りだね」

「なかには、買い物客だっているだろ」

「それはいるけど……」

「いるにはいるけど、一番の使命は経済の護送列車ってか」

「やだ、列車じゃないよ。モノレールだよ」

「じゃあ、サラリーマンの幽送モノレールか」

「朝から晩まで働いて、へとへとなって帰宅して、みんな幸せなのかな」

「どうかな。でも、学校で養成されるままに、レールの先にある職場社会が、当然だなんて思ってる連中には、それが一番の幸せなんだ」

「また、そんなこと言って。職場の同僚って、そんな人たちばっかりなの?」

「だって、代替可能な名目を、本質と捉えたまま、それが遣り甲斐だなんてほざいている連中で成り立っているんだろ、どうやら、この経済大国とやらは」

「佐々木さんとか、高田のヨッちゃんとかも、やっぱり一緒なのかなあ」

「そりゃ、フィーリングは合うし、友達だとは思うけど……でもやっぱり、敷かれたレールを転がっているだけだってことに、どうしても気付かないらしい。そうして、根源的な価値基準なんてどこにもなくって、ただ与えられた事柄を無批判にこなしては、それが遣り甲斐だなんて本気で信じている……そうでければ」

「そうでなければ?」

「そんな思想なんて、どうでもよくって、慣習的に企業へ通っては、帰宅を繰り返して一生を終えるのが、人生だなんて無頓着に思い込んでいるんだ」

「でもそれは、思想とかポリシーなんかじゃなくって」

「ようするに、そんな風に飼育されたから、ざっくばらんにお手やらお座りを繰り返す、哀れな犬っころに過ぎないんだ」

「やだ、やっぱり今日も、哀れな犬っころになっちゃうんだ」

また彼女の頬がほころんだ。深刻ぶった毒舌も、雪解けみたいに流れ去る。こいつがどれほど俺にとって必要なのか、こいつは分かっているのだろうか……

「なんだよ、聞きたそうだったから、犬っころでオチを付けてやったんじゃないか」

「哀れな犬っころ論だね」

「なんだそれ。犬っコロロン?」

「やだ、犬のコロロンじゃないの。犬っころの論題」

「そうなのか」

わざと変な顔をしてやったら、発作みたいに噴き出してしまう。それから、ツボを突かれたみたいに、人の肩を叩いて口もとを押さえてみせるのだった。こいつの明るさが、冷たくなりかけた俺のこころを、いつでも暖めてくれる。何だか不意に、抱きしめたい思いがした。

 通りの向こうには見回りの警官が、暇を誤魔化すようにしてあたりを眺めている。何となくみんな、近づかないように避けていくのだった。彼女はようやく表情を戻して、

「でも、世の中、そんなコロロンばっかりなのかな」

とうとう犬っころはコロロンと命名されてしまったようだ。

「お前のまわりはどうなんだよ」

「うーん。そんな論題とは関わりなく、もっとルーズなような」

「もっとルーズって、どうでもいいってことか」

「そうそう。学校と一緒だよ。そこに通って勉強するって定められてるから、それが当然だって信じ切っている。だからその中で、だらだら楽しむの」

「だらだらって、だらだらの割には、みんな、懸命に働いている気がするけどな」

「そうだね。でも、なんか、だらだらしている」

「ようするに、ポリシーのない一生懸命だから、根源的にだらだらなんだろ」

「その代わり、無意識のこびやら、悪口が、はけ口として求められている感じだよね」

「まるで学校と一緒だな」

「わたしたち、養成されちゃったのかな」

「養成じゃなくって、飼育だろ」

「やだ、それじゃあ、やっぱりコロロンなわけ?」

「そうそう、そのコロロン。世の中、すべからくコロロンなのさ」

「そうなんだ。でも略したら、すべっコロロンだからね」

あんまり変なことをシンミリ言うものだから、俺の方が思わず噴き出した。

「すべっコロロン? なんだそりゃ」

 馬鹿みたいに笑い合っていると、時の流れが、職場での刻みとはまるで違う、トゲのないもののように思われてくる。こんなわずかな幸せを得るために、本当に自分たちは、朝から晩まで働き続けなければならないのだろうか。それともシステムに組み込まれただけの作業工程を悟らずに、それが遣り甲斐だなんて、信じて生きなければならないのだろうか。なんだかよく分からない。ふとうつむいた足もとに、居酒屋のビラが転がっていた。

「クリスマスキャンペーン実施中」

ビラの文字が見えたとき、それと同じセリフが、遠くから景気の良い響きとなって聞こえてきた。向こうの方で、セールストークをしているらしい。

「ただいま、七時までビール半額、クリスマスキャンペーンを実施しております。フライドチキンのメニューもございます」

居酒屋なんて近くになさそうなのに、サンタの格好をした学生のアルバイトが、さかんにビラを配っているようだ。連れ添いの多いところを狙って、まとめて飲み屋へ誘うつもりなのか、ただビラを消化しているだけなのか、それはよく分からない。俺は急にビールが飲みたくなってきた。いつの頃からだろう、疲れた体がアルコールを願うようになってしまったのは。

「ビール半額だって」

思わずつぶやくと、

「また、すぐ釣られる」

「でもフライドチキンなんてあんまりメニューで見ないじゃないか」

「そんなの、ケンタッキー買って、おうちビールした方がおいしいって」

「そうかな」

「だらしない、すぐ食べ物に釣られるんだから」

日頃とは逆の立場に追いやられてしまった。

「それに」

「それに何だよ」

「居酒屋ビールなんてまるでサラリーマン専科じゃない」

「しょうがないさ。しょせんはサラリーマンなんだから」

 今度は笑わなかった。二人の間を、淋しいくらいの風が吹き抜けていく。賑やかだった駅前を逃れるに従って、人影は靴音を早めていくらしい。電飾を楽しむ家族連れは少なくなって、帰宅途中のスーツ姿が目立つくらい。それな忙(せわ)しい足並みはソソクサとして、イルミネーションに見とれる軽やかさとは違っている。追い立てられるようにして過ぎていくのだった。

 けれども、ちょっと無口になって、二人、慰め合うようにして歩いていくと、やがて中央分離帯の公園みたいなところに、クリスマスシーズンの賑やかな音楽が響いてきた。そうして沢山の山吹色やら、椿色やら、こぼれた星の青々とした瞬きやら、もう一杯の彩色電光は急に近づいて、そこには、サンタクロースやらトナカイやら、さまざまな着飾った灯火が、彩色を競い合っているのだった。

「すってんサンタのトナカイばきゅーん」

そのあたりから、意味不明の掛け声が響いてきた。音程の外れたクリスマスソングが響いてきた。近所の母親に連れられてか、数人の子供たちが、楽しそうにはしゃいでいるのだった。賑やかな合唱を余所に、母親たちはかしまし話。そんな様子だった。

「ねえ、すってんサンタってなんだろう」

こいつが不思議がる。

「転んだサンタのことだろ」

「そうなんだ、じゃあ、コロロンと一緒だ」

「それより、トナカイばきゅーんって、なんか穏やかじゃないな」

「それって銃声だよね。あきらかに」

「はたして、サンタがトナカイを撃つのやら、トナカイがサンタを撃つのやら」

「やだ、どっちにしてもいけてないじゃない」

「大丈夫。十分いけてるって」

「どういけてるのよ」

てくてくと語り合ううちに、もう子供たちのはしゃぎは後ろへと遠ざかってしまう。彼女は、振り返った。

「いいなあ。毎日はしゃいでばかりで」

「なんか、久しぶりに追い掛けっことかしてみたい気がする」

「一日中、遊んでばっかりの冬休み」

「それで宿題は最後の日に山積」

「あら、わたしはそんな不始末はしなかったよ」

「そうなのか。俺なんか、学校が始まってから、すいません、持ってくるの忘れましたって」

「なんとか次の土日まで持ちこたえて」

「そうそう」

「いたなあ、そんな友達」

後ろのほうから、「メリークリスマース」なんて気の早いセリフが、風に溶け合って聞こえてきた。クリスマスになる頃、あいつらには冬休みが訪れるのだろう。ちょっと仰向くと、群青になりきれない夜空には、数えきれるほどの星数が寂しくきらめいていた。自然の営みは、都会の人工照明には、太刀打ち出来ないほどもの静かで、それでいて変わることなく、俺たちを見まもっている。そういえば、すこし前、ふたご座流星群のことをニュースでやってたっけ。いつか一緒に見ようって言いながら、今年も行けなかった……

 俺が、そんなことを口にしようとしたとき、

「みんな、二十年後には企業戦士にさせられちゃうのかな」

彼女はしんみりとつぶやくのだった。二十年前、自分は、あんな幸せそうにはしゃいでいたのだろうか。

「いや、そうじゃない奴もいると思うけど」

自分は昔のことを考えながら、屈託を逃れる風につぶやいた。すると彼女は、

「ねえ、企業戦士ってさあ」

「なんだよ」

「全然、騎士じゃないよね」

その意図がつかみ取れないで、俺はしばらくキョトンとして彼女の瞳を覗き込んだ。

「それって、どういう意味だよ」

「だからさ」

「だからなんだよ」

「全然、ナイトじゃない」

「ナイト?」

「しがない消耗品みたいな」

「なんだ。ようするに、物語の登場人物にもなれない、あまたの兵士たちってことか」

「うん。そうなんだ。でもさ、どんなにみじめな騎士でも、足軽よりは良くない?」

「そうかな」

自分はしばらく考えてから、

「スーツ姿のサラリーマンよりも、時代錯誤のドンキホーテであれってか」

「やだ、なにそれ。格言なの?」

「そうそう、今週の格言」

「でも、自分だってまるまるスーツ着てるじゃない」

「じゃあ、駄目じゃん」

わざとがっかりして、うな垂れて見せながら、屈託を逃れてまた笑い声。それから、なんだか分からない、不意に子供の頃を思い出して、俺は彼女の背中をぽんと叩いてみるのだった。それなのに、こいつはいつまでも笑っている。だから、こいつの背中を押すようにして、わざと威勢良く歩いていてみせると、仕舞いにふたりは、追い掛けっこみたいな小走りになって、するすると人波をすり抜けていくのだった。ああ、肌寒の大気が心地よい……

 なんだかたまらなく愛おしくなって、後ろから抱きしめたくなってしまう。でも人目が気になって、やっぱり躊躇した。ほらみろ、ようするに軟弱者なんだ。どこかでそんな声が、優しく咎めるような気がして、胸の奥がチクリと痛かった。

 ようやく疲れたみたいに、歩幅を緩めて横ならび。肩を触れ合って歩いていくと、やがてイルミネーションの絶え間の暗がりで、浮浪者みたいな老人が、よれよれとなってゴミ箱をあさっているのが飛び込んできた。まるで闇に巣くう住人みたいにみすぼらしい。

「ドンキホーテだって、近頃じゃ難しいのさ」

自分はあごで老人をしゃくって見せた。

「団塊の兵卒であることが、もっとも少ない労力で、社会の保証に守られるような仕組みになってるんだ」

「そうかな」

「昔は英雄たちの時代だった。兵士なんて劣悪な環境で、待遇も悪くて、食料にも乏しく、最前線に送られて、ばたばた倒されていくばかりだったけど、残念ながら今は違う」

変な比喩を持ち出したので、彼女はだまって覗き込んでくる。俺は止めなかった。

「前線でも身の安全は保証され、ハイリスクを追わない程度の作業工程を与えられ、労働時間も守られ、衣食住を全うする十分な賃金も得られ、それどころか、各種社会保障に支えられて、与えられた作業工程さえ全うすれば、その代償として、社会からレクリエーションやら映像やら、音楽やら、時の流れを忘れさせるべきあらゆる娯楽を、飽食気味に摂取できるんだから……」

「それで、みんな、英雄放棄?」

「そう。英雄の生涯なんて、あまりにもハイリスクだから、ハウス栽培の兵卒にはいつわりの憧れしか抱けないんだ。それよりは、娯楽の向こう側に英雄を眺め暮らして、自分たちはそれで満足して、ポリシーのない兵卒として、社会のなかに埋没しているのが一番楽な生き方なんだ。だって、口先だけで苦しい、大変だって言っていれば、それで一生暮らせるんだからね。つまりは、みんなと同じように、経済の部品となっていれば、一番の幸せ……は得られないかも知れないけれど、代わりに、一番の安全、一番の気楽、ほどほどの愉快、娯楽という名の快楽、みんな与えられるわけさ」

「ふうん」

彼女はしばらく、考えるような仕草をしていたが、やがてゆっくり内容を探るみたいにして、

「英雄なんていなくってもいいけど、やっぱりお菓子に興味のある人が、大手製菓企業に就職したり、喫茶店が好きな人がスターバッカスに就職したりするのって、なんか、本質的にいけてない気がするけどなあ」

「スターバッカス? なんだそりゃ」

「さあ、なんだろう……酒の神?」

「自分で言っといて、俺に尋ねるな」

空いている手で、彼女の頭をちょっとこづいて見せた。大げさに避けようとした時に、ちょっとよろめくから、思わずその肩を引き寄せた。その顔が、ぐっと近づいてくる。淡い香水の匂いがした。急にたまらなくなって、俺は彼女をぎゅっと抱きしめる。こいつがつぶれるかと思うくらい、力一杯抱きしめたのだった。

「どうしたの」

不思議そうにつぶやいたが、俺はもう答えなかった。

「去年もここで抱きしめられてたね」

こいつは甘えるみたいに、耳元で、そっとささやいた。

「覚えてるか。去年、クリスマスプレゼント、何が欲しいって尋ねたときのこと」

「もちろん、覚えてるよ」

 行き交う人影は、すっかりまばらとなって、二人のまわりには咎める者もなく、イルミネーションだけが俺たちを見守っている。いつしか電飾の色彩は、たった一つの色に収斂(しゅうれん)されていった。月夜の海底の神秘みたいに、ブルーで満たされてゆくのだった。それが澄んだ風と一体になって、かすかな星々の住まう天上へと、ヒンヤリとした大気を吹き上げるとき、優しい夜空から、青光りした粉雪が、降り注ぐような錯覚に囚われた。ああ、去年と同じ光景だ……

「あの時、お前、言ったよな。今とは違う生き方が欲しい。あなたと二人で、違う生き方がしてみたいって」

「そうだよ」

「でも、それよりずっと前から、こうしてふたり、今の仕事に明け暮れて、一生を終えるのかって、そんなことばかり、悩んでいたよな」

「だって、こんな沢山の人波が、途切れもせずに、どこにあっても続いていくばっかり」

「でもそのおかげで、こんなイルミネーションが見られたり、サービスの行き届いた都市のなかに生きていける」

「だけど、生きているわたしたちは、こころをすり減らされていくばっかり」

「システムが肥大して、人らしい感性が、別のものへと置き換えられてしまうのさ」

「ああ、やっぱり、職場が憂うつだなあ」

 背中に回した腕をぎゅっとしがみつくみたいに、こいつは淋しそうにささやいた。まるで冬の蛍の精一杯の悲鳴みたいだ。そんなささやかな悲鳴を騒音に消し去りながら、この都市は成長を続けていったのだろうか。そう思ったら愛おしいくらいに、またこいつを抱きしめてしまうのだった。厚着の感触の下から、か細い肌のぬくもりが、かすかに伝わってくる……

「あの時からもう、一年経ったんだな」

「ぐるぐる、時が回っているような気がするね」

「なにが幸せかは分からない。だけど俺たち、自分で変えなくちゃ駄目だよな」

「変えられるかな」

「ふたりで一緒なら、歩いていけそうな気がする」

「でも、賃金とか、保険とか、おもおもしたしがらみで守られているから、踏み出すのが怖いよね」

「そうだな……弱虫だからな」

 やっぱり、踏ん切りが付かないんだ。今の職場に就職するのだって、どれほどの労力だったか、ふたりとも良く分かっている……だから、そこを離れて賃金を得ること、自分たちがヒーロー、ヒロインになれるような、それは決して、おとぎ話的な英雄のことなんかではなく、ただ本当に掛け替えのない何かを掴み取るということが、どんな些細なものにしろ、ほとんど奇跡のように思われて、誰もが時折はそれを夢見ながら、誰もが諦めきったように、日々の生活へと戻されていく。この都会は、そんな生活者の無気力で、溢れかえっているのではなかったか。羽ばたかせる気力も無かった偽りの翼を、就職と同時にそそくさと仕舞ってしまい、それが夢の終わりだなんて、全力で走り出したことすら無いくせに、口々につぶやきながら、平然と制服を着こなして歩いていく……

 ようするに自分は、与えられたレールの上をずっと歩んできたんだ。そこから踏み出したことなんて、一度もなかったんだ。そうしてこいつも……とんとん調子に大学に入って、どうにかこうにか就職をなし遂げて、大きな挫折もなく、最初からほどほどに目標を設定して、みんなと一緒のレールの上を、暖房付きの列車で運ばれながら、気がついたらもうこの都会の真ん中で、黒いスーツを着こなしていた。そうしてまわりの連中は、あの頃と何も変わらない。やっぱり暖房の列車に揺られながら、朝晩を行きつ戻りつしているばっかりだ。歩むという行為は物理現象には過ぎなくって、精神の羽ばたく勇気なんて、どこにも見当たらないんだ。でも、もしその事が、この都市の宿命だったとして、自分ではそこから逃れることが、臆病のあまり出来ないとしても……

 今は一人じゃない。今はこいつがいる。こいつが隣にて、互いに自分のためだけではなく、相手のためだって本気で思えるのなら……臆病者の足枷を振り払って、道を踏み出すくらいの小さな勇気を、大空に羽ばたかせることだって、きっと出来るには違いないんだ。

「今年のクリスマスプレゼント、何が欲しい」

俺は抱きしめたまま尋ねてみた。

「違う生き方が欲しい」

やっぱりこいつは答えるのだった。

「失敗してもいいのか」

俺にはまだ意気地がなかった。

「そうしたら、二人で死んじゃえばいいよ。今が続くより、ずっと幸せだよ。このままじゃ、こころを無機質にされちゃう気がする……誰でもなくなった、人形が二つぼっち」

いつしか、彼女は、自分の腕のなかで、泣いているようだった。俺はふっと彼女の両肩をつかむと、その顔をちょっと離して、涙目の彼女を覗き込んだ。澄んだ瞳の奥に、大切なものがひそんでいるような気がして、俺はまた、その肩を引き寄せた。それから二人は、優しい口づけを交わすのだった。こいつと一緒なら、歩いていける。ただそれだけのことだから……

 またモノレールが行き過ぎるとき、沢山の疲れたような人だかりが、遠く高架の光にさらわれて、護送されながら揺られていった。どこまでもブルーに染められたイルミネーションは、静かな時の流れへと二人をいざなっている。明日、自分のこころが、おとぎ話めいたこの決意を、どうか忘れることのないように、自分はこの光景を、こいつのぬくもりと一緒にして、深くこころへと焼き付けていた。また彼女を強く抱きしめて、それからもう一度口づけを交わすとき、悲しい光の筋を描いて、モノレールが高架を駆け抜けていくのだった。

                (おわり)

作成

[2010/12/10-22]
(原稿用紙換算41枚)

2010/12/22

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