マニキュアの色

(朗読) 

マニキュアの色

「あんた、また彼氏と別れたわけ」

「しょうがないじゃない。だいたい、二人とも残業ばっかで、ぜんぜん噛み合わないのよ」

「それで、ずるずる?」

「だって、慣れてくると、なんかしてもらう気にばっかりなるんだよ。男ってさあ。もうこりごり」

「ハルっていつも、そればっかりじゃないの」

 ハルは春恵のハルである。春恵はベットに転がっている。ベランダから取り込んだ服が離散している。ごろごろするから、掛けふとんもぐちゃぐちゃになってしまった。

 学生の頃は、こんな汚くなかったのに。

 ようやく携帯を閉ざしてから、春恵は考える。片づけるのもおっくうな気がする。仕事の資料だの、読んだんだか、読まないんだか分からないような女性誌だの、化粧道具だの、犬だか猫だか分からないぬいぐるみが散乱して、総体にゴミゴミとしている。

「あの日の雪の静けさも」

なんて、淋しいのを誤魔化そうとして、歌を口ずさんでみる。けれどもやっぱり堪えられなくなって、テレビのリモコンを操作した。

 近頃、ちっとも楽しく笑えない。

 バラエティさえ、耳障り。

 すぐに切ってしまった。

 それから、ノートブックを開いて、ウィンドウズが立ちあがるのを待っている。ついでに、パリパリと音がして、スナックの袋が開けられてしまうのだった。

「やめようと、思っているのにまたひとつ」

なんて呟くのが、自分ながらにおかしい。けれども、若い頃のチャーミングなほほ笑みが、少しづつ色褪せ始めているように、近頃思えるのだった。

「わたしが古びゆくのかな」

そんな悲しみが、時々、バスタイムなんかに、ぷかぷか浮かんできて遣り切れなくなることがある。

 鏡を覗いて、ちょっとでも肌にハリがないと、もうその事が気になって、気になってしかたがない。

これは、部長の説教を聞かされたノイローゼかな。

それとも、新入社員の教育のストレスかな。

あらゆることを、考える。

 もっとも、昨日まではもっぱら、最終的には彼氏のせいにする習わしになっていた。今日からはそれすら叶わない。それでもきっと、喧嘩別れのあいつのせいだって、シャワーの髪毛と一緒になって、いらいらするには決まっているのだけれど……

 彼女はまだ、スナックを食べている。お風呂はもう少し先のようだ。



 またネットを泳いでみる。

 近頃は、同い年の悩み相談のところばかり読んでしまう。

 時々は、自分も書き込んでみる。そうして、コメントを貰うと、ちょっとだけ安堵するのだった。けれども、どことなく物足りない。本当に慰められたような気がしないから、みじめが湧いてきて、がっかりしてしまうこともある。冷たくあしらわれたり、変に有識者ぶったコメントが、甘えなんて記入してあるのを見ると、小学生の精神に戻って、

「ふざけるな馬鹿野郎」

なんて、どぎついコメントを返したくもなるのだけれど……

それをやったら、なおさらみじめだから、ただ我慢して、

「コメント感謝します」

なんて記している。なんだか、やりきれない。



 今日はどこかのブロクに、出張しているらしい。

「わたしも彼と別れちゃった」

なんてキーボードを叩いている。

友人に電話をして、コメントも書き込んで、

こころが落ち着くのを待っているのだろう。

けれども、近頃ふっと思うことがある。

「昔みたいに、こころがすぐに回復しない」

 わたしはこれからもずっと、こんなことを繰り返して、いつしかシワが生えてきて、震えながらに死んでいくのかなと思う。鏡を見ても、大学時代の可愛らしさが、少しずつ萎れていくのを、近頃ぼんやり感じているのだった。

あんなにかわいかった花なのに、まるでものにならなかった。

そうして、仕事もなんだかしっくりこない。疲れるばっかり。

そうして男はろくでもない。

ああ、嫌だ、嫌だ……

 遣り切れない想いが湧いてくるとき、夕べまでは、彼氏にメールを入れていたはずだった。つまり春恵にしたところで、どのくらい相手に負ぶさっていたのか、分かったものではないのだが、彼女はそれに十分気づいていない。自分が一方的に被害者のように思っている。だから、うまくいかない……



 人の一生は、大学生までで終わりなのかな。

 なんて、馬鹿なコメントをしたこともあった。

 するとあちこちから「そうかもしれないね」

「わたしもそう思う」なんてコメントばかりが返ってきたのだった。

その時は、コメントが二十以上も連なって、変な盛り上がりを見せてしまった。けれども彼女は、自分ではブロクはやっていない。そんなゆとりなど、とてもじゃないけれど見つからなかった。



 とにかく、仕事が重々(おもおも)しすぎなんだ。

 それも、わたしだけじゃない。誰もが、あっぷあっぷしながら、迫りくる片づけを必死にこなしている。次から次へと押しよせてくる、ノルマの試練に立ち向かううちに、歳月はどんどん流れていってしまう。それでいて、仕事の内容がマンネリだから、なおさら時の流れが加速されるのだ。

 ときどきは、それが恐ろしくなって、真空みたいになってしまうこともあるのだった。たとえば紅茶を飲みながら、何を飲んでいるか忘れてしまうような、ポカンとした真空。そんなときは、味気ないほどの惨めさでうなだれてしまう。侘びしいひとりの部屋が、ちょっと牢獄に思えるような瞬間。そうしてまた、男と別れてしまったわたし……

 異性の話しで盛り上がっていた頃が懐かしい。今はなんだか、付き合いすらも、仕事の一環のように思えてならないのだ。恐らくは、だからうまくいかないのだろうけど……彼女はようやく、そのくらいのことに思い当たった。そうしてまた、スナックを口に放り込んでいる。急に喉が渇いて、キッチンから、ウーロン茶を取ってきた。

「ダイエットなんて夢まぼろしのごとくなり」

なんて、無意味なことをつぶやいて、一人で笑っている。今ならまだ十分かわいい表情である。けれども……

 恐らくは、あと十年もたったら、彼女はその可愛さを保てないだろう。時限爆弾のような脅迫が、近頃かすかに、彼女の心を重くしている。そうして、このまま更けゆく果てに、こんな一人部屋で、ぽつんと呆けたお婆さんになって、ぽっくりいっちゃうのではないかと、少し前に見た「無縁死(むえんし)」とかいう、気味の悪い番組のせいで、強迫観念が湧いてくることだって、近頃あるのであった。

「もう、あんな、不気味な番組つくらないでよね」

職場の冗談では流してしまったけど、とても笑いごととは思えない。こんな侘びしい現実を生きていくくらいなら、子供の頃にファンタジーだとか、夢物語なんか与えないで、クメール・ルージュみたいに、この世の闇でも植え付けておいた方が、まだしも現実的な気すらしてくる。



「ああ、やだやだ」

 気分がふさいできたので、彼女はスリープモードにパソコンを閉ざすと、適当に歯を磨きながら、シャワーを熱めに出してやった。

 ユニットバスは、お湯を入れるタイプだから、湧かしたりなんか出来ない。思えば、学生時代に借りて以来、十年以上もこんな狭い部屋に、平気で過ごしている。そうして欠かさず、ここでシャワーを浴びている。

 仕事に出てからは、毎日々々、蟻さんみたいに……

「行って帰って、行って帰って」

なんて、訳の分からない歌を口ずさんでみた。それから、

「どうせえ、おんなわぁ、いってかえって」

なんて、演歌を真似してみたら、急におかしくなって、一人でバスルームで笑い崩れているのだった。おかげでちょっと元気が回復。それから、シャワーをいじっていると、不意にマニキュアの色が似合っていないのが気になってきた。

「口紅とあっていないせいかな」

なんて思って、慌てて携帯の方へ戻って、

「ねえ、わたしのマニキュアって、近ごろ変じゃない」

なんて、メールを打ち込んでみる。

 もちろん、彼氏にではない。

 友人の恭子にである。

 あいつのアドレスは、けれどもまだ消していない。どこかに未練が残っているのだろうか。あるいは、謝ってくるのを待っているのだろうか。パソコンには、一番目の彼からのアドレスまで、メールと一緒に残されている。フォルダ分けして封印されているけれど、どうしても消せないのだった。それが女ごころなのかもしれない。だが彼氏の方は、はたしでどうであろうか……それは分からない。



 お風呂が溢れないうちに、慣れたものだから、それに合わせて服を脱ぎだした。面倒なので、洗濯機にじか入れ下着。オシャレのないおばさん並の生活がのし掛かってくる。近頃は、柔軟剤にすらこだわらないで、いい加減な洗濯をさえ試みる。この間なんて、おしゃれ着洗いの中性洗剤にしないで、うっかりお気に入りを洗ってしまって、すっかりしょげちゃったこともある。それでも、職場へ向かうスーツだけは、ちゃんとハンガーに掛けられているのだった。

 ユニットバスにぽつんとしていると、こころに不安が浮かんで来るものだから、ラジオなんかを流しておいたこともあるのだけれど、近頃はそれもしなくなった。代わりに鼻歌なんかでやり過ごしてしまう。だから、音程は、昔よりずっとよい。でもカラオケなんかする機会は、学生の頃に比べたらぐんと減ってしまった。新しい音楽さえ聴かなくなりつつあるらしい。だって、音楽番組も見ないのだし、たまに学生時代の友人と話していても、付いていくのが面倒なくらいに思われるのだった。みんなどうしてあんなに、バイタリティに溢れるのかと思う。そうして自分はただ、お気に入りの歌手ばかりを聞いている。あとは、職場の友人の情報と、映画なんかの流行りものだけで、万事を済ませてしまう。

「駄目なわたし」

思わずつぶやいてしまうのだった。



 やっぱり、あんな奴でも、付き合っていた方がマシだったかな。

 めずらしく弱気が勝ってしまう。

 別れるたびに、乗り越えて来たけれど、新しい出会いへの喜びなんか、あんまり湧いてこなくなってきた。同じ人といる方が、楽な気がしてくる。これってもしかして、おばあさんになる兆候なの?

 慌てて、洗顔フォームを泡立てて、顔をジャブジャブやった。

 それからまた、マニキュアを眺めてみる。爪の色にまでハリがない気がする。無意味な縦筋が目立っている。なんだか、だいなしな気分……

 彼女はそれから、スポンジで泡立てて、立ちあがってゆぶねの中で体をあわあわさせている。あちこち丹念(たんねん)に洗っている。すでにシャンプーは済んでいるから、洗い終わると、スポンジと一緒になって、ゆぶねにしゃがみ込む。少なめに入れておいたお湯が、ちょうどよい高さになった。

「泡のお風呂の完成です」

なんて、思わずつぶやいてしまう。

どうやら最近、ひとり言が多いようだ。

「ひとり言が多いのは、おばさんのサインだ」

なんて、あいつから、からかわれたことを思い出して、急に憤慨してしまった。眉間にちょっとシワがよっている表情は、まだまだ、捨てたものじゃない。じゅうぶんチャーミングに見える。あるいは今のうちに結婚してしまった方が、遠い未来のためには幸せになれるのかもしれない。

意味もなく、不意に、

自分の赤ちゃんが欲しいなんて思いついて、

慌ててじゃぶじゃぶとお湯をかき回した。

なんだかどうかしている。

戻ってこい、いつものわたし。

ひとしきり、歌を再開してみることにした。

「シャツにうつしたほほえみひとつと」

なんて、誰の歌詞だか分からないけれども、

勝手なフレーズをつけて、

口ずさんでいるのだった。



 体を拭いていると、メールが返ってきた。

「マニキュア? 似合ってると思うけど。むしろ口紅かな?」

なんて、冷静な判断が返ってくるので、

「どんな色が合う?」

とまた送りつけた。彼氏がいないから、同僚の恭子が生け贄にされている。

 それから、思い立って、またパソコンを開いて見る。さっそく口紅のサイトを探しだした。こうやって、何かにうつつを抜かしているのが、結局は一番の幸せなんだ……



 だんだん職場での疲れが、睡眠導入剤となって、まぶたが重くなってくる。

マニキュアも、口紅も、どうでもよくなってくる。

彼氏なんかいらないから、とにかく眠りが欲しい。

 春恵はパソコンをまたスリープにして、まだ着ていなかったパジャマに袖を通すと、倒れ込むようにしてベットにもぐり込んだ。

「もう駄目、お休みなさい」

なんてつぶやきながら……

 部屋のあかりは付けっぱなし。

 淋しくてちょっと付けたテレビが、下らない会話を続けていたけれど、春恵の耳には入らなかった。恐らくは翌朝まで、目を覚まさないだろう。



 翌朝、何かにそわそわするみたいに、むくりと起き直ったら、携帯に元彼からの長い謝罪のメールが入っていた。

「今回だけは、許してあげようか」

 いつになく弱気な発言をして、そうして、何だか分からない、こころがちょっと軽やかになるような喜びがあって、彼女はまた仕事へ向かう準備を始めるのだった。

          (おわり)

作成

[2010/4/16-4/17]
(原稿用紙換算16枚)

2010/4/17

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