しんしんと降りつのる雪の重さに堪えかねて、庭の松の枝が夕べに折れる音がした。ずしん、雪が落ちる音に驚いて、老人は玄関を開く前の、庭先へと回ってみた。
静寂を極めたみたいな雪が降る。池には氷が張っている。氷の下で、鯉はどんな夢を見るだろう。老人はようやく向こうに松の枝を見つけて、あれかと思って安堵する。
玄関へ戻ると、鍵の音はカチャリと、即物的な響きをする。
家に灯りはない。ずいぶん広すぎる一軒家だ。今の自分には大きすぎる。傘に降り積もった雪を何度も払いながら、たたむと指先がひび割れている。かさかさと悴(かじか)んで、干からびかけた虚しさが、折れた松の枝を思い出させた。玄関の暗さばかりがつのるような味気なさ。老人は慌てて電気を灯すのだった。
ふっと、玄関先までランプがもれ出すみたいに、ほのかな雪さえ明るんだとき、不思議なくらい幼い感情が、あの「わあい」というような高揚が、ふっと湧いては、虚しく消えていった。冷たい雪に慰められるくらい、心はもう冷え切ってしまったのだろうか。そう思うと淋しくなって、しばらくは呆然として、雪を舞わせる灰化の雲の様子を、眺めながらに白い息を吐いていた。
さあ、家へと上がろうか。
ガラガラガラ。
軋んだような扉が閉まる。
活けるのも忘却した益子の花瓶が、冷たく下駄箱に置かれている。樫(かし)の靴べらが古めかしい。革靴を脱ぐのが一苦労だった。
「ただいま」
思わずつぶやいてから、苦笑した。折りの合わない妻はもういない。互いに険悪にたてついて、けれども男性優位の体質のまま、一喝を食らわしていたあの頃も、遠い昔の面影となった。
それを疑問と思ったことはない。
きっと今でも考えない。
それは老人にとっては、極めて正統の所作であり、婆娑羅(ばさら)に穢れた現代の狂態こそが、憂うべき失態には違いなかったからだ。
しかしあんな妻でも、いれば幸せだった。手を合わせながら、線香を燻(くゆ)らせながら、回顧(かいこ)することだってあるのだった。自分の作る乏しい一菜(いっさい)よりも、あの頃の食卓は賑わっていた。魚とひじきと豆腐に奈良漬けが赤味噌の汁物と合わさっただけでも、今の虚しさとは比べものにならない。それな毎日は至極当然と見えながら、得難い奇跡であったことを、今では感じることさえあるのだが、けれども老人はもう、考えるのもおっくうらしく、ただおぼろげな回想を玩んで、すぐに廊下を摺って座敷へと向かうのであった。
障子をすっと開いて踏み込むと、畳の柔らかさが踵(かかと)を宥(なだ)めてくれる。すこし濡れた靴下が冷たい。パチン。ぶら下げた紐を引っぱって、ようやく、明るい世界へと戻った気分がした。
ああ、寒いと思って、石油ストーブのレバーを押し下げる。傘が斜めにジジジと下の方に火花を散らしたかと思ったら、ぱっと青いほのうが燃え盛った。その若い勢いが、羨ましくも見えてくる。懐かしくもある。いや、回想はすまい。繰り返したところで、あの頃はもう戻らないのだ……
寒い寒いとつぶやいて、こたつのスイッチを「強」にする。
深めの掘炬燵だから、温(ぬく)むまで時差がある。まだつま先は差し込めない。また畳を摺る音がした。
仏壇の蝋燭(ろうそく)にマッチを擦れば、点し薫ずる二本の線香を前香炉(まえこうろ)に突き刺すとき、軽く振った鈴棒(りんぼう)から、チーンとはかない響きがする。かつて未来を夢見た頃から、この響きだけは変わらない。そうして、今ではこの家屋も、自分と共に朽ちていくらしかった。
漆黒の位牌が金文字を浮かび上がらせる。
婆さんの写真は決して口を開かない。
だから一方的に語りかける。
こうして両手を合わせながら……
生前はうるさいばかりの婆さんが、写真の向こうから憎らしげにぶすくれている。それが今では、唯一の話し相手のようにさえ、老人には思えてくるのだった。
部屋なのにこんなに寒い。
雪はこれから峠を迎えるのだろう。
走り回った犬の墓すら、いづこかへ朽ち果てた。あの頃作った、かまくらの、なかに炭櫃(すびつ)の温もりを、灯した頃の友だちも、今はどこへと消えたろう。
しんしんしんしん。
耳を澄ませば、降りしきる雪の音が、聞こえるような、気もするのだった……
赤々と石油ストーブの炎が高まって、やかんがカタカタ騒いでいる。
慌ててレバーを調節して、無くなりかけたやかんを握って、
「あちっ」
なんてわずかに笑いながら、台所へと向かうのだった。細い足を重たそうに動かすとき、松の折れ枝を踏み出すようにさえ、束の間、思えるくらいである。
水道を捻れば、水は活力がある。七分に満たしてストーブに掛け直してから、今朝の残り味噌汁の鍋をコンロに掛けてみる。御飯は面倒だから、レンジ用の真空パックである。無頓着に今日スタイルを踏襲しているが、それでいて、よく今日のすべてに対して憤慨する。それを矛盾であるとは、けれども老人は考えない。
ただ、冷蔵庫から納豆を取り出して、だらしない、御飯のパックの端を何度もやり直して、必死になって開けようとして、ようやくちょっと開いてから、レンジに押し込んだ。時間は二分。何度繰り返しても、不安がぬぐい去れない。確かめるような動作が散漫である。あるいは彼は、手回し式のタイマーでないと、実感が湧かないのかもしれなかった。
ポットにはお湯が入っている。
緑茶も近頃は、粉末タイプで済ませている。決してまずいとは思えない。そうしてまたテレビをつけると、乏しい晩餐にありつくのだった。
水商売見たいな、化粧のお化けが映し出されるたびに、彼はいつでもぎょっとする。外人とも違う、こんな妖怪のために、自分たちは国を築いて来たのだろうか。質素を美徳とするひたむきの精神は、すべてが打ち砕かれた。誰のために?
自らのためにではない。それは分かる。だが、自分以外の国民はすべて、こんな生き物に生まれ変わるために、不気味な自我を極めるグロテスクな不健全を、ひたすらに指標として、戦後の日本を築いて来たのだろうか。ただ我ひとりが、誤認の果てに干からびて、朽ちてゆくばかりなのだろうか。侘びしくなって、慌ててニュース番組に変えると、また殺人事件が特集を賑わしているのだった。
恐らく爺さんは、あの頃の死亡事件の数を、きれいさっぱり忘れちまったに違いない。そうしてあの頃の、淡々としたニュースの伝達方法を、思い出せないに違いない。いつからか、真実をのみ伝えるべき媒体が、デフォルメに情動をむさぼり始めたことに、気づいていないに違いない。それから市井の人々のつまらない格好を、水商売とは関わりのない姿を、確かめる気力をすら失ってしまったに違いない。だからブラウン管の虚偽を現実と錯覚して、まるで不気味な国家へと生まれ変わったような絶望に落ちいって、なおさら虚しさが募る一方だったのである。
かといって、チャンネルを切ると、シンとした部屋の明かりまで覆い被さってくる。今夜は雪があたりを清めてくれるから、不浄の喧噪は宥められ、寂寞(じゃくまく)のうちに深更(しんこう)へと到るのだろう。そう思うと、テレビを切ることもまた、恐ろしい事のように思えるのだった。
恐ろしいだなんて、男たるものが。
いや、恐ろしいものは、恐ろしい。
無理を我慢してもこころは報われない。
……それにしても、この味噌汁はちょっと塩っ辛い。ワカメは朝の残りだから、ふてくされた味がする。けれども御飯は美味しかった。パックの御飯を美味しく思うようになったらお仕舞いだ。ある種の諧謔(かいぎゃく)を覚えて、婆さんももういないものだから、ひとりでちょっと笑ってみた。わずかな暖かみがこころに甦る。こんな時にはやはり、感慨を語りかける相手が欲しくなる。生きていればこそ、喧嘩も出来よう。老人は炬燵を弱くした。
「過疎化の影響で、花祭りを今年かぎりで中止する村が、この地域だけで五つもあるんですねえ」
青森だかどこかの訪れ番組で、働き盛りのアナウンサーが雪の行軍を試みる。八甲田山の決死隊。そんな気概は、こいつは知るまい。
「まずは、温泉へ入って、体を温めなくっては、インタビューにもなりません」
なんて不埒千万なことを唱えて、さっそく温泉場へと向かってしまう。けしからん。
「いやあ、ここの温度はちょっと熱めで、成分は」
なんてボードを見せつけにしているから、自分もちょっと温泉へ行きたくなった。思えば旅行なんか、二十年以上していない気がする。なまじ婆さんと折り合いが悪かったから、なおさら出不精に拍車が掛かったのだろう。家族が勧めても、あの頃は断然断った。今は動く気力も湧いてこない。ただ、こうして眺めながらに、羨ましがるのが精一杯の楽しみだった。
茶に興じていると、庭の鉢植えのことが心配になってくる。
すると居ても立ってもいられなくなるのだった。
老人は、そそくさと取り片付けを済ませると、もう一度玄関のライトを照らして、面倒な靴を踵(かかと)から、何度も繰り返してようやくヘラで送り込んで、ガラガラガラと扉を開け放った。
冷たい澄んだ大気が頬に打ちつける。ちょっと風が出てきたらしい。雪はますます降りつのっている。枝を折った松の庭へ回ってみると、けれども軒先の鉢植えは、あまり雪に侵(おか)されていない様子だった。
「この分なら大丈夫かも知れない」
そう思ったが、やはり気に掛かる。それに、庭木すら面倒になってしまったら、自分にはもう何も残されていない、そんな素朴な恐怖もこころの奥底に、ひっそりと顔を覗かせるのだった。
「中に入れてやるか」
老人は、ひとつひとつを丹念に、玄関と、軒下とを往復しながら、頭にかぶる雪を気にも止めず、七つ八つの鉢植えを玄関の、所狭しと中に移し替えたのであった。
「ああ、雪が降る、雪が降る。誰のためとも知れぬ雪」
そんな、懐かしい歌を思い出して、ちょっと口にしてみたら、鎮められた世界に、自分の声だけが谺(こだま)して、けれどもそれは干からびた、諦観(ていかん)のように響くのだった。老人はまたひとしきり、かさかさの指を慰めて、さすってみせるのだった。
ずしん。
また、雪のまとまりが落ちる音が聞こえた。
「しずり雪か」
松の枝が、台なしにされやしないだろうかと、老人はちょっと心配した。それから、はっと、白い息を吐いて、玄関を閉ざすのであった。
降りつのる雪は彼などお構いなしに、老人が子供の頃からそうだったように、そうしてこれからもきっと、彼の子供たちが、彼の孫たちが、いつしか老人のような諦めの、感慨に浸る最中(さなか)にも、清らかに、清らかに、ただしんしんと、変わることなく、すべてを真っ白に染めながら、降りしきるのには違いない。
だから我々は老人を慰めない。
干からびた老人は、きっと、ひとり虚しく死んでゆくことだろう。だが、我々には、我々の行うべき明日の何かが、きっとまだ沢山残されているのだから……
(おわり)
[2010/4/18-19]
(原稿用紙換算13枚)
・木、樹木などの上に積もった雪が、重さに堪えかねて、落ちる雪のこと。
2010/4/19