学校嫌いの休日

(朗読)

学校嫌いの休日

 小さい頃から、学校が不気味でならなかった。

 まるで、人を画一化した、生体部品に変えていく、

無頓着な、社会装置のように思われてならなかった。

それなのに、なんだかんだと、

反発は口先ばっかりで、怠惰に喜び合って、

均質化した笑いや、話題に興じつつ、

終局的には、あの奇妙な箱の中を、

肯定しているとしか思えない、あのクラスメイトたち。

誰もが、同じパッケージに閉じ込められて、

誰もが、同じように行動させられて、

それでいて、なんの主体性もない、

それでいて、みんな楽しそうにしている、

あのだらだらした、教室が嫌いだった。



 本当に、何であんな同じ制服を着て、つまらない教科書そののままの授業なんて、選択性のない時間枠一杯に、好奇心の弾力性もなく、挙国一致体制の、スケジュールまかせに聞かなければならないのか、まるで理解できないのだ。

 だったら、どんなのならいいんだ?

それは、俺なんかには分からない、だけど、

もっと全然違う、勉強をするにしたって、

もっと伸び伸びと、主体的に学習できるような機関が、

いくら何でも、二十一世紀の世の中に、

これだけの大人がいて、作れないなんてあり得ない。



 だから、自分は学校になんか行きたくない。それはいじめとか、無視とか、そんなんではなくって、わざと何でもだらだらやろうとする、あの集団行動の雰囲気が、俺には地獄のように思われるだけなのだ。



 ああ、つまらないなあ。

 だって、あいつらの話しときたら、まるで平面じゃないか。

 活力のある、本当を求めるための有意義な会話では無くって、ただ商業的に与えられた餌の話しばかり、次から次へと、魚みたいに、釣り針に引っ掛かりまくって、ものやら見てくれやら、あとは異性のことばかり、驚くほど同一の精神でもって、仲睦まじくもたれ合っていやがる。そうして、感情と直結しちまったみたいな、動物みたいな言葉さえ叫びまくる、あの下卑た笑いさえも、俺は嫌でたまらなかったのだ。

 それにしたって、不思議でならない。同じ年齢にしたって、もっといろいろな価値観があって、もっと健全な、お勉強とは関係のない。ただ精神の生真面目なところを目ざすような学校が、異質な価値観を持った学校が、市内に一つくらいはあったっていいと思うのだが、お勉強の出来るにしたって、出来ないにしたって、情緒的には同じところに団子みたいに固まって、押しくらまんじゅうに幸せそうに密集しているのは何故だろう。自分にはそれが理解できないのだった。



 学校の違いにしたって、生徒の分類の仕方が、ただ数学が解けるとか解けないとか、記憶力がどの程度とかいった、そんなものだけで成り立っていて、生き方や価値観をごちゃ混ぜにして、どれもこれも娯楽漬けにシャッフルするから、常に同質的な傾向が、隆盛を極めてしまうに違いのに……



 足を引っ張り合うことが美徳で、

引っぱられた奴は、幸せそうな顔をして、

落ちた泥の仲間入りを果たして、

ムツゴロウみたいに、大喜びするばかり。

 だから、学校は嫌いなんだ。

どうしても、行きたくない。

どんなに諭されても、あそこでは自分自身の、

自我が崩壊してしまうような不安が、

みじんも、ぬぐい去れないのだ。

誤魔化してみてもしょうがない。

正直に白状しよう。

俺は、あの空間が恐ろしかったのである。

自分が次第に、別のものにされていくようで、

不気味でたまらなかったのである。



 そうして今日も、自分はまた一人、

仮病を使って、サボっている。

幸いにして、両親は共働きなのだし、

いつの間にか、ちょっとした体調を言い訳に、

自分が学校を休みがちであるという現実も、

中学時代からの絶え間ない努力の結果として、

もちろん、親不孝ではあるには違いないが、

良いことだとは、決して思わないのだが、

それでも学校も両親も黙認してくれるような、

有り難い立場を享受することが出来たのだから。



 自分はその事だけは、唯一感謝しているのだ。

感謝しながらも、彼らの意には沿わない。

だって、よく夢を見るのだ……

 それは学校の夢で、大抵はうなされている。

 いじめではない。学力の問題でもない。

 ただいつもの何気ないクラスの光景に、自分はありきたりに存在している。何の変わったところもない。それなのに、気味が悪くってたまらなくなって、どうしても、どうしても、そこから逃げ出したくなってくる。それなのに、体が動かない。

 先生が入ってきて、授業を続けている。みんないつも通り聞いている。何の好奇心も刺激できない。下らない授業内容。ものを教える能力が欠落していやがるんだ。そうして、チャイムが鳴る。

 先生が消えると、みんなが騒ぎ出す。動物の鳴き声みたいな、各種の響きが一斉に、頭のなかを駆け巡る。こんなのが、本当に、未熟にしたって、知性を持った人間の姿なのか。

 自分はまるで、檻の中に入れられた動物のように、精神が解体されるような恐怖に苛まれて、嫌で嫌でたまらない。そのうち空気が淀んできて、一刻も早くここから逃げ出したいのに、どうしても、体が動かない。

 その挙げ句の果てに、ようやく目を覚ますのだった。



 あまり恐ろしくって、実際に叫んでいたことも何度かあった。

 親父が朝になってから、叫び声がしたと伝えてくれたので、始めて思い知ったくらいである。

 そうして朝になれば、

自分が学校へ向かう前に、

両親は職場へと向かうのであった。



 ああ、有り難い。

唯一、生まれて幸運だったことは、

週に一度か二度くらいは、

ひとりっきりで家に引きこもることが出来る環境。。

さすがに毎日は無理だけれども、

数少ない、自分を保てる環境。。

だって、

学校の世界は、

自分には地獄のように思われるのだから……



 だから共働きの両親には悪いけれど、

自分はこうして、誰もいない家に一人きり、

何をするでもなく、もちろん悪いことをするでもなく、

かといって、勉強やら、何か良いことするでもなく、

ただぼうっと人生を無駄に過ごしているのだった。

時々は窓辺から、裏の林の季節ごとの営みを、

まるで左遷されて馬鹿になった、若年寄みたいに、

「若葉が茂ってひぐらしの気配も近づいた」とか

「小春日和に枯葉が舞い散るこのリズム感」なんて、

意味もなく眺めているのが、

ただ唯一の幸せにも思えるくらいであった。



 そうして、望みなんかは何もない。

 だって、望みなんて、望ましい社会があって、

始めて生まれてくるものでは、ないだろうか。

そうして、好奇心というものは、そうした望ましい社会へ、

あるいは熱心な誰かと手を携えて、始めて相互関係の中から、

生み出されてくるものではないだろうか。

 ただ、ぽつねんと自分があって、それが永遠に自分ひとりで、

社会はろくでもないもののように思われて、

そのろくでもない奴らが、なにやら、不気味な声で、

「悪臭の中に出てくることこそ自立の精神である」とか、

「悪臭に足を踏み入れないのは引きこもりの甘えだ」などと、

訳の分からない屁理屈を唱えている。

 穢れから何とかして逃れようとする純真の心さえ、

動物的に卑しめて、俺たちを引きずり出そうとする。

 だって、そんなに、引きずり出したいなら、

ぱっと扉を開いたら、駆け出したくなるくらいの、

立派な社会を築いて見せろ。そうすれば、誰だって、

こんな悲しい思いで、部屋に閉じこもったりするものか。



 それでも、自分はまっさらの引きこもりではない。

ちゃんと、ぎりぎりの出席は稼いでいる。

計算の出来る男だ。そのかわり遅刻も多い。

多いだけじゃない、午後になってからでも、

平気で出席する。みんな拍手してくれることもある。

ちょっと、照れる。そんな時、みんなが嫌いなわけでもない。

けれども、学校にいる瞬間の、みんなという存在は、

やはり、総体に恐ろしく思えるのだった。

分からないだろうな、こんな気持ち。

でも、俺と同じような奴が、

クラスには、二、三人いる。きっとあいつらも仲間かと思う。

けれども、話し合ったことはない。

恐らくはそれぞれに、こころに秘めたまま、

他人同士で終わっちまうに違いない。



 今は、午後の一時半。

自分は、大抵、夜中まで起きているから、

それでいて、何をしているかと問われても、

大したことはしていないのだが……

 とにかく、学校をサボったときは、昼頃になって起きてくる。

そうして、誰もいないシンとした一軒家で、適当な食事をとる。

今日はめずらしく、その後で、こうしてノートなんか取り出して、

日頃のうっぷんを、思いつくままに記している。



 自分にはアコースティックがよく似合う。

落書きは、ノートブックにこそふさわしい。

このノートにはいろいろな事が書かれている。

詩作の試みも、幾つか収められている。



日だまりよ舞の枯葉をきらきらと

うつす窓辺も僕の休日



なんて短歌が書いてあるページもある。そうかと思えば、



粉雪こんこん つくしを埋めて

驚きあわての ひばりも消えた

冬よあがくな 僕らの春を

どうか返して くださいな



なんて、意味不明の詩が書いてあるページもある。

そう、もし自分に何か希望と呼べるものがあるならば、

……中原中也みたいな、本当の詩人になってみたい。



 そろそろ、音楽が聴きたくなってきた。

自分の生活の中で、精一杯くらいの悪さといえば、

せいぜい親父のウィスキーの瓶から、ばれない程度に、

いや、あるいは、すっかりばれていて、

見過ごされているだけなのかもしれない。

それは、分からないが……



 ウィスキーをお湯で割って、グラスにくるくるまわしながら

お気に入りの音楽を、差し込む陽ざしと戯れながら、

のほほんとした安らぎを持って、聞いてみるこそあわれなり。

この瞬間だけが、自分には幸せだって、

心から、思える瞬間なのだ。

だから、あわれは、悲しい意味じゃない。

古典で言うところの、しみじみとしたおもむきに違いないんだ。



 きっと、自分の生存は、親には迷惑を掛けているに違いない。

あるいは、休みがちの真相を、聞きたくて、でも聞けないで、

時に委ねているのかもしれない……



 自分にはただ、あの不気味な教室が、そして、奇妙な学校の、

理想世界から写し取ったにしても、

疑いなく手ぶれを起こしているような、

まっとうな精神であれば、まるで、生きたままに、

倦怠から逃れられない狭い檻の中にでも、

放り込まれたような絶望にさいなまれる、

あの、空間が恐ろしくてならなかったのだ。

 けれどもそれを、どうやって、

誰かに、伝えることが出来るだろう。

観察すれば、観察するほど、少なくとも、

学校というパッケージに収められた、その瞬間の人というもの、

教師にせよ、生徒にせよ、あるいは話の通じる友人さえ、

いることは、いるのであったが……

どうしても、懐疑の念がぬぐい去れずに、

心が拒絶反応を引き起こすばかりなのだ。

恐らくは、だからこそ、あいつらだって、

自分に違和感を覚えているには違いないのだけれど……

そうしてもし、そうであるならば、

よくまあ、それなりに、打ち解けて、

邪険にもしないでいてくれる、その事だけは、

有り難いとは、思うけれども……



 やっぱり、恐ろしい。

なにが、恐ろしいのだか、

自分には、よく分からない。

分からないけれども堪えられない。

でも、恐らくはきっと、そんな異分子くらい、

五十年前にも、百年前にも、あるいは千年前だって、

ある種の教育組織が存在するところにおいては、

一定水準できっと生まれてしまうに違いないのだ。

だから、たまたまそれが自分であっただけのことで、

本当は、自分が不気味と考えているものの、

現実は、不気味なものではないのかも知れないのだが……



 そうだとしても、

自分にどうしてその誤謬(ごびゅう)を諭せるだろう。

自分はひたむきに反省して、同調することをのみ、

指標として掲げなければならないのだろうか……

……なんて、妥協し掛かって、いや、待て、やっぱり、違う、

 やっぱり、あの空間はおかしいのだ。

きっと、いかなる諸外国の同様の教育機関だって、あそこまで、不気味さを感じさせることはないに違いないんだ。自分は、留学なんかしたことはないけれど、それだけは誓って言える。教育機関としての学校という存在が間違っているんじゃない。我が国の教育機関が間違っているんだ。



 それとも、自分が、

おぞましいほどの選民願望を抱いている、

そう糾弾する人も、あるのだろうか。

 それは、けれども、違う……

だって、選民じゃない。

ただもっとひたむきな、普通のものを、

自分は求めているだけなのに。

それを、選民願望としてしまったら、

在り来たりの健全さを求める人間こそ選民であり、

つまりは、底辺に響かせるべき叫び声を持たないものは、

特別な存在であるなんて定義してしまったら、

そんな悲惨な国家は、いくらなんでも滅亡するのではないか。

それにもし、個人主義を認めるのであれば、

それは、それぞれが、自分をスペシャルだと思うことであり、

いわば、ひとりひとりが、それぞれに、選民であるという自我、

けれども選民が、階層をなし得ない、平等それぞれの、

選民であり続けるがゆえに、民主主義が果たされるのであれば、

そもそも、選民願望を持たないことの方が、

よほど、おかしいことにはならないだろうか。



 ああ、これは、屁理屈なのだろうか。

だんだん、何が何だか、分からなくなってきた。

ちょっと頭が、くらくらする。

そろそろウィスキーが効いてきたようだ。



 ああ、うれしいこと。

もう考えるのも、お疲れモードに突入だ。

だって、十四時を回っているのだし、

自分はまた、CDに耳を傾けよう。



 ああ、ウィスキーなんて、ぜんぜん美味しくない。

こんな美味しくないものを飲んで、けれどもなんだか、

ふわふわとした、いわゆる、酔っぱらいの心境だけは、

なんだか、穏やかな慰めであるように自分には、

束の間、思われるのであった……



 さあ、次は何を聞こうかな。

 たしか未成年が酒を飲むのは、悪いことだったっけか。

 そんなことよりもっと、本質的に悪いことが沢山あるはずなのに。

 彼らはそのうち、未成年が酒を飲んだという小説をすら、すべて排除しようと試みるのでは無いだろうか。シートベルトを締めないことは、個人の自由ではいけないのだろうか。

 ああ、何だかよく分からない。

みんなみんな、取り留めもない。

 そうして、ふわふわしている。

 いい気持ち。

 やっぱりこんな陽気を楽しめる酒という英知は、

誰がなんと言っても、ひとりぼっちの愛すべき友には違いないのだ。

おかしいか、何か間違っているか。

えい、糾弾するなら、勝手にしやがれ。

俺は、こうして、自由になれるんだ。



 妄想の、勝利、万歳、ああ、楽しい。

何だか、目が回る、ぐるぐる、ぐるぐる、

回って、おります、ああ、愉快。

じゃあね、もう、筆記用具が、回らない、

文字が、くねくねしている、まるで、

ミミズみたいだ、おかしいや、こりゃ読めないぜ、

ひどい文字だ、きっといいことありそうな、

何だかベットに倒れ込め。



 ああ、もう立ち上がれないや、

このまま一眠りしたら、今日も怠惰の一日が、

自分の侘びしいくらいの、青春の一ページが、

ひとまず、こんなだらけた落書きくらいで、

過ぎてゆくのさ、勉強もせずに。

それじゃあ、みなさん、元気であれ、

また酔っぱらったら会えるかもな、

あばよ。

          (おわり)

作成

[2010/4/21-22]
(原稿用紙換算22枚)

2010/4/22

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