古事記による第1変奏5、黄泉つ国

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黄泉つ国

 ここにイザナキの命、
その妹イザナミの命を追い、
天つ国に舞い戻りて、
タカミムスヒ(高御産巣日)の神に訊ねれば、
「汝(な)が治めし国にはあらず。
黄泉つ国(よもつくに)にいたるべし。」
と告げて八尋殿の奥に消えてしまった。
言依さして中つ国を造らせ、
用が済んだら慰めの言葉もなしか。
御上の連中はこれだから嫌だ。
そう思うと天つ神の非情が恨めしい。
気を取り直して降り戻ると、
出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)より続く、
深黒(しんこく)の洞穴を探し当て、
イザナキの命は、松明を持って闇に振りかざした。

 ここに坂とあるは境なす幽玄の秘境を指すが、なるほど覗いてみると気が滅入る。その闇はぬばたまの夜を五枚重ねて、墨に付けたよりもなお暗い。おぞましくも誘い込むように、カグツチを刺したような血なまぐさい匂いが立ちこめ、さすがのイザナキも心を乱(みだ)し、踏み出す歩みを何度返したことか。しかしイザナミへの思いは黄泉(よみ)への恐怖に勝り、彼は境界を越えて闇の世界に踏み込んだのである。

ヨモツミナカヌシの神

 これを見たヨモツミナカヌシ(黄泉御中主)の神、
激しく怒りて、控える黄泉軍(よもついくさ)どもを鼓舞し、
「あの神、二度と国に帰すことを許さず。すぐ射殺すべし。」
と詔(みことのり)すれば、
黄泉軍ども五月蠅(さばえ)のごとくに奇声を上げる。
側に控えし麗しき命(みこと)驚きて、
揺らめく虹のように立ち上がれば、
あまりのまばゆさには闇の声さえ静まり返った。
すなわちイザナミの命、
「彼こそかつての愛(いと)しき夫なれば、
怪しきものにあらず。逢うことを許して欲しい。」
ヨモツミナカヌシの神、
「されば逢うことは認めよう。
されどもし灯(あかり)り点(とも)し、
我が国を探らんとすれば、
帰すこと許すまじ。」
と言うと、黄泉風(よもつかぜ)を送りて、
イザナキの松明を消させ、
また国の灯火(ともしび)を消させたのである。

再開

 仰ぎ見れば闇、振り返っても闇、先も戻りも分からない。松明を念じ灯しても、たちまち風に消されてしまう。さすがの神も勇気は挫け、初めて恐怖の念に捕らわれたイザナキだったが、帰る道さえ定まらない今となっては、つま先を前と信じて進むほかなかった。気を紛らわせるようにイザナミの名を呼び、またもう一歩踏み出せば、靴は氷でも踏むようなカランとした音を立て、頬に寂しい風を感じると、さわさわとススキの触れ合うような音が聞こえる。やがて聞き慣れない鈴のような響きをして、黄泉つ虫達が鳴きだした。

 闇にも自然の営みがあることを知ると、なにか懐かしさにとらわれたイザナキだったが、冷たい鏡を踏むような感触と虫の音(ね)を頼りに、道らしき先を歩んでいった。神の瞳が慣れてくると、ついには闇の中に、蒼く透明なガラスが闇を照らして輝くような、不思議な輪郭が浮かび上がり、幻想の黄泉の世界が姿を現したのである。何があるのかはよく分からない。ただ闇の中に、道らしき黒光りの光沢(こうたく)が遙か彼方(かなた)に、風が吹くたびに両脇がほんの少し青みがかるのは、黄泉の草花が、さらさらとなびいているのかもしれない。ついにはさあさあと小さな、せせらぎの音さえ聞こえてきた。時々獣のような恐ろしい声が、イザナキの肝を冷やしたが、天を駆ける優しい闇鳴き鳥が「ぴきゅりーぴきゅりー」と行く頃には、やがてちかちかと、蒼鏡に翡翠(ひすい)を反射させたような、微かな瞬きの繰り返しが、自分を呼んでいるのが分かった。イザナキの足音が速くなる。

 ようやく光に辿り着くと、そこは小さな館のようだった。手探りで戸を探し、横に引けば音もなく、流れるように扉は開き、さらなる闇の中に踏み込んだイザナキは、小さな声で、
「イザナミの命、そこに居るのだろう」
と尋ねた。

「愛(うつく)しき我(あ)がなせの命」
懐かしい声が、闇から聞こえてくる。
イザナキは走り寄って、
「愛(うつく)しき我(あ)がなに妹(も)の命」
と答え、彼女を抱き締めようとしたが、
不思議なことに声の先には触れる温もりはなかった。
イザナキの命は改めて、
「なぜ我(われ)を残し、黄泉つ国に降ったのだ」
と訊ねれば、
「なぜかは知らず。
魂が体を離れ、何時(いつ)しかここにいたります。
これが我(あ)が身の定めなのでしょう」
と答える。イザナキはそれでも、
「愛(うつく)しき我(あ)がなに妹(も)の命、
我(あ)と汝(な)の作れる国は、
今だ作り終えず。共に帰るのだ。」
と命じれば、イザナミの命は答えて、
「残念です。なぜもっと速くに来てくれなかったの。
私はすでに黄泉のかまどで煮炊きをし、
黄泉つ戸食い(よもつへぐい)をしてしまった。
しかし愛(うつく)しき我(あ)がなせの命よ、
よくここまで来てくれました。
私も帰りたい。魂を戻すすべを黄泉つ神に訊ねましょう。」
そう言うと、誰か近くの者に語りかけるように、
「おいお前。私の亡骸を比婆(ひば)の山から運んで来ておくれ。」
と命じる。
他に誰か居るのだろうか、がたりとドアの方で音がすると、
静かに足音が遠ざかったのだが、イザナキには何も見えなかった。
「イザナキの命。私はこれから黄泉つ館に登り、
現人(うつせみ)に戻れるか聞いてみましょう。
私の空蝉(うつせみ)が運ばれてくるでしょうが、
決して火を灯して見てはなりません。
黄泉つ国で決して火を灯さないこと。
我(あ)を汝(な)視(み)たまいそ。
約束しましたよ。」

 イザナキが頷(うなず)くと、イザナミの気配は遠ざかり、後には何もない、真っ暗な闇の中にぽつんと残されてしまった。闇は恐ろしい。イザナキは戸を放つと新しい大気を吸って、微かな光の気配を追って、少しでも闇を遠ざけた。これで黄泉つ神を説得できれば、再び共に神を生み、喜び語り合えるのだ。そう思うと、心には光も浮かび、胸が高鳴るのだった。

2007/07/30

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