第1変奏6、イザナキとイザナミの別れ

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黄泉の月

 からん。後ろの戸口が微かに鳴った。驚いて顧(かえり)みれば何も見えない。先ほどの詔(みことのり)を受け、イザナミの遺体が運ばれてきたのだろう。もちろん見るつもりはない。約束を違(たが)えることが、どれほど厄(わざわいを)を招くか、イザナキほどの神が知らないはずはなかった。イザナミはまだ戻らない。そのうち、青く仄かに輝いていた光の輪郭が、かすれるように黄ばみ始めた。まるで光が闇に帰っていくようだ。しばらく瞳を凝らしていると、その色はくすんだ血の色に変わり、やがてほとんど消えかけの灰色に洗い流された。虫たちが忙しなく鳴き始める頃、黄泉の国にぬばたまの夜が訪れたことを、イザナキは初めて知ったのである。もうあたりを睨み付けて、光の気配を感じるのが苦しいくらい、闇が巨大になってきた。イザナキはそれでも我慢して、館を見失わぬように扉のすぐ前に立ち、ひたすらイザナミの帰りを待ち続けた。

 どれほど待っただろう。黄泉の夜に不思議なことが起きた。イザナキの瞳を凝らす遙かかなたの方角が、もう本当の闇に食いつぶされるように、いっそう黒ずんできたのである。そしてついに、闇と恐れた今までの黄泉の世界が、豊かな色彩世界と思えるほどの暗黒が、ポッカリ水平線の向こうから、顔を覗かせたのである。これは、と思った時にはいけなかった。たちまち黒塗りの水墨画に闇がぶちまけられたように、すべての輪郭が塗りつぶされ、虫たちの鳴き声も一斉に止み、仰いでも闇、振り返っても闇、一切の音すら消えて無くなった。何と恐ろしい世界であろう。さすがのイザナキも恐怖に胸を氷らせ、慌てて戸口を開き館に入ったが、今では扉の音も自分の足音も吸収されて、耳には何も伝わってこない。黄泉の月が登ってきたのである。すべての色彩と音を吸収する、恐るべき黄泉の月が。イザナキは気が狂いそうだった。そして何者かがそこに居る気配。その気配だけが、黒い瞳の向こうに、確かに伝わってくる。

「そこに居るのは誰だ!」
確かにそう叫んだつもりだった。
喉から伝わった振動が、
激しく頭を揺らすほど、
声を張り上げたはずだった。
しかしその声もまた、
黄泉の月に奪われて、
イザナキには何も聞こえなかった。
もしこの時イザナキの顔を見たら、
死人(しびと)の顔をしていたに違いない。
神の強靱(きょうじん)の精神でさえも、
果てなき無には勝てるはずがない。
それでもイザナキは耐えた。
必死になって感触のない世界で、
まんじりともせず息を凝らしていたのである。
夢より遙かに暗い現実の中では、
眠りに付くことすら許されなかった。
時の流れが分からない。
月は今どのあたりか、
闇夜は半ばを過ぎたのか、
それともまだ始まったばかりなのか、
イナナキはそれでも妻の言葉を守り、
ひたすら帰りを待ちわびた。
もしかしたら、
音の消された闇の中で、
彼女はすでに戻っているのかも知れない。
我(われ)のすぐ隣りにあって、
身を潜めて居るのかも知れない。
ああ、とにかく、残された触感だけでも、
何か掴み取らなくては、
もうイザナキの心は壊れてしまいそうなほど、
心が挫(くじ)けそうだったのだ。

 堪(こら)えきれずに立ち上がった。
そして静かに指を探りながら、
建物の有様(ありさま)を知ろうとした。
そのとき何かに躓(つまず)いた。
館の敷居に足を奪われ、
前のめったイザナキが両手を突き出した瞬間、
ぐちゃり、
音は無いが、
そう表現するしかないような、
腐った臓物に手が触れたようなおぞましい感触が、
彼の手の平を支配したのである。
何かが蠢(うごめ)いている気配、
彼の全身が大きく震えた。
よほど激しい叫び声を上げたのだろう、
その振動だけが、
彼の頭を激しく揺さぶった。
もはやイザナキは妻の詔(みことのり)も忘れ、
己の理性も取り落とし、
あらゆる思考が途絶え、
ほとんど条件反射的に、
右の髪に刺した聖なるツマ櫛の長き枝(えだ)を折ると、
これに念を込めて、
一つ火を灯して見渡せば、
目の前には崩れた肉体が、
蛆(うじ)たかれころろきて、
体の上をはいずり回り、
「ころろ」「ころろ」と蠢(とどろ)きながら、
その肉体を食いあさっていたのである。
その腐り果てた肉は、
みずから物の怪を生みだし、
頭(かしら)にはオホイカヅチ(大雷)おり、
胸にはホノイカズチ(火雷)おり、
腹にはクロイカヅチ(黒雷)おり、
陰(ほと)にはサクイカヅチ(折雷)おり、
左の手にはワカイカヅチ(若雷)おり、
右の手にはツチイカヅチ(土雷)おり、
左の足にはナルイカヅチ(鳴雷)おり、
右の足にはフスイカヅチ(伏雷)おり、
合わせて八(や)くさの雷神(いかづちがみ)がうごめいていた。

雷神(いかづちがみ)

 イザナキは確かに自らの叫びを聞いた。ちょうどこの時、黄泉つ国に朝が訪れ、月の力を奪い去ったからである。後ずさるイザナキに、八くさの雷神が一斉に「ギイイギイ」と鳴き声を上げ、今にも飛びかからんばかりの勢いでこっちを睨んでいる。神の心臓を持たなかったなら、イザナキはその場で事切れていたことだろう。すなわち走り逃げて戸を開(ひら)き、微かに光感じる闇めがけて、精一杯に飛び出したのであった。

「あに辱(はじ)見せつ」

 おぞましい声が響き渡り、驚いて振り返れば、腐りかけた肉体のまま立ち上がったイザナミの遺体が、肉を取り落とし、蛆を取り落としながら、慌ただしく松明を灯しつつ、燃えさかる館を飛び出してきた。その背後には醜き鬼の女どもが刃(やいば)をかざし、あらゆる戸口から湧き出る湧き出る。

「ヨモツシコメ(予母都志許売)よ、あの者を討ち取るべし」

と腐敗の王が命じれば、一斉にイザナキに向かって走り出した。闇に足を取られつつイザナキは逃げる。後ろには迫り来るヨモツシコメ。牙をむきだし、包丁や鎌首を振り立て追い来る姿は、闘獣(とうじゅう)に狩り出されたけだものが、三日三晩餌(えさ)を貰えず、檻からステージに上がった時のよう。それほどの異様な目つきで、醜女(しゅうじょ)たちはイザナキに追いすがった。刃物は少しずつ近くなる。手は間もなく腕をも掴む。もう衿(えり)をも捕まれる際どき刹那、イザナキは月桂冠のごとく髪を飾っていた黒御鬘(くろみかづら)の輪を背後に投げ捨てたれば、輪を作る草々の実はたちまち幹を伸ばし、エビカズラ、すなわち山葡萄の実を稔らせる。黄泉つ国では知らぬ香ばしき匂い立ちて、ヨモツシコメども驚き振り返りて、これを千切り食らう間に先を急ぐ。

 なお追う。牙を紫に染め、次の餌を求めて追い来る姿は、人の味を知ったオオカミが、三日三晩餌(えさ)にありつけず、荒野で人に出会った時のよう。それほどの異様な目つきで、醜女(しゅうじょ)たちはイザナキに追いすがった。刃物は少しずつ近くなる。手は間もなく腕をも掴む。もう衿をも捕まれる際どき刹那、右の髪に刺したる聖なるつま櫛を細かく折って投げ捨てれば、その竹櫛の欠片は散らばって、あたり一面に笋(たかむな・たけのこ)がはえる。黄泉つ国では知らぬ香ばしき香りたちて、ヨモツシコメ驚き振り返りて、これを千切り食らう間に先を急ぐ。

 ここにいたり、遺体より生まれし八くさの雷神、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を従えて、ヨモツシコメに代わり追い迫る。異様な形をした巨大な刃がにぶく光り、灯した松明を掲げて走り来る。黄泉つ国が裂けるほどの足音が響き、おぞましき雄叫びを張り上げて迫り来る。しかし遙か彼方には、ようやく微かな光の気配が、イザナキに手招きをしているのが見えた。あそこだ。イザナキの命は、もはや息をするのも忘れて、腰に穿かせる十拳剣(とつかつるぎ)を抜いて、後ろ手を防ぎながら走り逃げる。

 なお追う。黄泉つ槍はイザナキの服を裂き、黄泉つ刀はイザナキの帯紐をぶった切り、あわや一太刀浴びせかかる雷神の剣を返して、足蹴(あしげ)に吹き飛ばしつつ走り逃げる。ついに大地が色彩を戻し始め、イザナキは輝かしい勇気を得たが、八くさの雷神は退(しりぞ)くことを知らず、彼のしりえでに追い来ます。なお逃げる。ようやく黄泉平良坂(よもつひらさか)の境(さかもと)に辿り着いたが、もう息が続かない。返す剣に力が入らない。くそったれめ。せめてほんの一息。ほんの一息でいい、新鮮な空気を吸わせてくれ。中つ国の豊潤な大気を吸わせて、 我(われ)に力を与えてくれ。

 してやったりと嬉しき奇声を発し、
大きく刃を振り上げる雷神だったが、
ああ有り難い、
目の前には麗しく葉を広げる桃の木が豊かに、
沢山の実をならせて佇(たたず)んでいるではないか。
すなわち走りつつ桃の実をもぎり取って、
渾身の力で3つほど後ろに投げれば、
桃は雷神に当たって激しく砕け、
熟しきった聖なる香りが、
あたり一面に立ちこめる。
これにはさすがの雷神ものけぞった。
後ろから従う黄泉軍も、
おぞましき匂いに鼻をつまみ、
すさまじい悲鳴を上げる。
腐敗と死臭を好む彼らには、
我慢ならない香りに慄(おのの)いて、
ついに黄泉つ国へと逃げ帰ったのである。
イザナキの命、
桃の幹に倒れ込むようにようやく息を吸い、
掴み取った桃の実を一口かじれば、
何と麗(うるわ)しい瑞々しさ、
何とすばらしい命の滴(しずく)、
ようやく息を吹き返したのである。

 嬉しくなったイザナキは、
桃の実に詔(みことのり)を授けた。
「汝(な)れ、我(あ)を助けしごとく、
葦原の中つ国にあらゆるうつしき青人草の、
苦しき瀬に落ちて患へ悩む時に助くべし。」
ところが天つ言葉で告げたものだから、
桃の実には意味が分からない。
気づいてもう一度詔(みことのり)して、
「お前ども、我(われ)を助けたように、
この葦原の国に生まれ出るすべてのいとしい人間どもの、
苦しみ喘ぐ時に助けてやるのだ。」
と叫ぶと、桃は大いに感激し、
たちまち花開き、また実を付ける。
愛(う)いやつめ。
イザナキの命はその桃の木に、
オホカムヅミ(意富加牟豆美)の命という名前を授けてやった。

別れ

 その頃ようやく、黄泉御中主の神と交渉を終えたイザナミが、これは何事かとイザナキの元に追いつき、「愛(うつく)しき我(あ)がなせの命」と叫べば、イザナキの命まだ終わらぬかと驚きて、振り返るいとまさえなく、握りしめた十拳剣(とつかつるぎ)を振り払い、そびえ立つ岩戸(いわと)を打ち砕き、

「汝(な)れ、黄泉つ国の境(さかい)に立ちて、
葦原の中つ国を守るべし」

と叫び、その千引きの石(ちびきのいわ)を黄泉平良坂(よもつひらさか)に向けて、思い切って投げ転がした。岩は激しく地を揺らし、闇の境をさし塞ぐその一刹那、光に浮び上がったイザナミの姿が、懐かしき我(あ)がなに妹(も)の姿がひらめいたのである。2人の瞳が触れ合った。

「しまった!」

その姿は雷神(いかづちがみ)に侵(おか)されることなく、天下(あまくだ)りしたままの姿で、優しい瞳を投げかけていた。懐かしさが蘇り、思い出が胸をよぎる。慌てたイザナキは岩への詔(みことのり)を戻そうとしたが、もう遅かった。無常の岩は轟(ごう)と唸りながら、想いすらも閉ざすように、坂をさし塞いでしまったのである。イザナキは慌てて岩に向かい、

「速(すみ)やかに開け」

と叫んだが、岩はもはや答えない。神とはいえ、一度言依(ことよ)さした詔(みことのり)を、たやすくは覆(くつがえ)せなかった。彼は走り寄り、満身を込めて岩を押しのけ、また剣(つるぎ)で砕き、再び素手で掲げ、少しでもずらそうとしたが無駄だった。ついに岩を背にしてもたれ崩れる。その時、岩の向こうから、澄み渡る声が聞こえてきた。闇の向こうではイザナミが、満身を込めて岩を押しのけ、また剣(つるぎ)で砕き、再び素手で掲げ、少しでもずらそうとしたがうまく行かず、岩を背にしてもたれ込んでいたからである。二人は岩を隔て、互いの背を合わせ、互いの気配を感じ、募(つの)る愛(いと)しさに胸が苦しかった。イザナミの命が悲しい声で尋ねる。

「なぜ一つ火を灯したのです。
いかに朽ち骸(くちがら)とはいえ抜け身ならば、
もとに戻ることも出来たでしょうに。
あなたに視られた肉体の羞恥が、
憎しみとなって亡骸に宿り、
八くさの雷神(いかづちがみ)を生んだ以上は、
わたしに戻るべき空蝉(うつせみ)はありません。
もうこれでお別れです。」

「私は待ったのだ。
懸命に待ったのだ。
黄泉を流れる時はよどみ、
下(くだ)ることを知らない。
中つ国の年月を幾つ越えても夜は明けない。
それでも私は耐えたのだ。
ただあの一瞬、
お前の体にこの指が触れた一瞬、
私は魂を取り落とした。
それが咎めなら謝ろう。
だが闇は恐ろしい。
何物もあらぬ世界には、
神も勝てないことを、
私は初めて知った。
どうか許して欲しい。」

と優しい声で答えれば、
岩を隔てたイザナキの頬を涙が伝い、
堪えることが出来なかった。
それでも声では悟られないように、

「ここでお別れです。
まだ生み終えぬ神々はあなたに任せて、
私は天つ神の名代(みょうだい)となって黄泉つ国にいたり、
主(あるじ)となってこの国を治めましょう。
それが定められた道なのですから。
あなたさえ岩を塞がなければ、
このようなことにはならなかった。
こうなった以上は、私はこの日を境に、
あなたの国の人草(ひとくさ)を、
一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺し、
黄泉つ国の人草とすることでしょう。
さあ、どうかあなたから、
別れの言戸(ことど)を渡して下さい。」

と鋭くいった。
イザナキはその声に恋慕(れんぼ)の籠もるのを知り、
頬に別れの悲しみがとめどなく流れ、
それでも涙を悟られないように、

「愛(うつく)しき我(あ)がなに妹(も)の命よ、
それなら私は、
一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立て、
この国の青人草(あおひとくさ)を決して絶やすまい。
たとえ遠くに隔てようと、
我らは永久(とわ)に夫婦でいよう。
さらば。」

と鋭くいった。
イザナミはその声に愛(いと)しさが宿るのを知り、
地に崩れかけて涙ながらに、
「さらば」
と答えた。

 こうして幸せしか知らぬ夫婦神の代(よ)が終わり、あらゆる別れを煩う世(よ)に、私たちは生きているのである。これをもってイザナミの命、ヨモツオオカミ(黄泉津大神)となり、またチシキノオオカミ(道敷の大神)となって黄泉つ国を治め、イザナキの命はさし塞いだ岩に、チガエシノオオカミ(道反之大神)、またはヨモツトノオオカミ(黄泉之戸の大神)の名を与えると、その地、出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)を立ち去ったのである。

2007/08/06

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