かつてイザナミ(伊邪那美)の命を求め、イザナキ(伊邪那岐)の命が降(くだ)り来たるころ、黄泉(よも)つ国は漆黒(しっこく)に閉ざされた闇であった。しかしてイザナミ(伊邪那美)の命降(くだ)りおり、慕ってタケハヤスサノヲ(建速須佐之男)の命が妻連(つまづ)れに降(くだ)りおり、母に任(まか)され黄泉(よも)つ王となる頃には、兄のツクヨミ(月読)の命も母を慕(した)いて降(くだ)り来たり、中つ国と黄泉(よも)つ国とを往来するようになったのである。黄泉(よみ)にも月の昇る淡き朝が訪れ、知と文芸の命スサノヲにより、黄泉軍(よもついくさ)にさえ秩序がもたらされた。
すでにイザナミ(伊邪那美)の命はこの国を、死者の魂を生命に回帰するための国、根の堅州国(かたすくに)と呼び改めたが、魂を食らう黄泉つ鬼どもの本性は変わらず、中つ国の青人草(あおひとくさ)の芽吹く歓びと、枯れゆく悲しみを共に担いながら、死と闇に誘(いざな)う黄泉(よみ)のおぞましさは、決して無くなることはなかった。スサノヲの命が、荒(すさ)びの命としての半身を、黄泉(よみ)に溶け込ませたからでもある。妻のクシナダヒメ(櫛名田比売)は、年(とし)の半ばを両親の元で暮らし、その間は中つ国に稔りがもたらされ、黄泉つ国は荒涼の冬を迎えるが、クシナダヒメが降(くだ)り居ますと、スサノヲの心も安らぎ、黄泉は短い春を迎えるという、季節の移ろいさえも訪れたのだった。
そして今日(こんにち)、スサノヲとクシナダヒメの娘スセリビメ(須勢理毘売)は妙齢の乙女となり、訪れし野原で蛍草(ほたるぐさ)を摘んでいるのであった。姿麗しき誰かと逢ってみたい。豊かな知性に触れてみたい。この国は醜きものばかり。私も母と一緒に中つ国に向かいたい。知らぬ世界を歩いてみたい。そんな悩みが、乙女の胸を染めているのだった。野に咲く花たちが、まるで青光りする溜息のように、彼女の想いに合わせて瞬いた。まるでホタルイカが群れて漂うみたいに、野原全体が蛍光絨毯(けいこうじゅうたん)のように発光して、そよ風に合わせてなびいている。乙女の心はなにか胸騒ぎ、蛍草のように淡くなびいている。きっと何かが起こりそう。心をふわふわ漂わせ、草原を遊び歩いている。
遠くから何か駆けてくる。私の待っているものかしら。すばしっこくて近づいてくる。姿は見えないけれども、蒼絨毯(あおじゅうたん)の光がこっちに向かって、ゆらゆらと揺れて来る。スセリビメにはそれが可愛がっているネズミであることがすぐ分かった。姫はしゃがんで待っている。ネズミは姫の手に飛び乗って、息せき切って思いを伝えようとした。中つ国の友、あの白兎から、大切な伝言を頼まれたからである。麗しき命(みこと)オホナムヂが、スサノヲの命に救いを求め、根の堅州国に降(くだ)りおり、こちらに向かって来るという。どうか彼を助けて欲しい、それが兎からの伝言だった。
「ほらほら来たよ、遠くから
からから音が、響くなら
はよはよ姿を 見せてみよ
憧れ抱くか 夢の人」
ネズミが歌いながらにスセリビメを冷やかせば、姫は答えて
「醜き男なら、
雷神(いかづちがみ)に頼んで、
葬り去ってしまうわ」
と答える。さすがはスサノヲの娘、並の器量じゃない。オホナムヂは何も知らずに、からんころんと氷のように、足音立てながら黄泉の路を歩む。透き通ったガラス質の歩道は、氷のように滑らかで、その両側には、銀竜草(ぎんりゅうそう)を遙かに大きくしたような銀色(しろがねいろ)の植物が、ランプの代わりに発光し、遊歩道を仄かに照らしている。その遙か向こうには、蒼白い湖のようなものが、ぼんやり浮かんでくる。まるで風に揺らめく星たちのように、光度を震わせつつ、波のようにさやいでいる。その上空をくちばしも長く、オレンジ色に輝く鳥が、「ぴきゅるるー」と鳴きながらあちらに消えて行く。こんな幻想的な光景は見たことがない。オホナムヂは我を忘れて立ちつくす。すると湖の中に同じように立っている影がすこし動いた。光の絨毯(じゅうたん)の上に、若い乙女のシルエットが浮かび上がる。オホナムヂは取り憑かれたように、湖の方に歩きだした。
その黒髪は長く伸び、蛍光(ほたるびかり)の柔らかな、照らし出された麗しい、瞳の奥には未来さえ、遠く夢みしあどけなさ。男ははっと立ちつくす。不思議な胸の高鳴りに、我が身を忘れ時は消え、乙女の髪はさらさら揺れる。オホナムヂは取り憑かれたように、草原のふちに立ちつくした。女がこちらをじっと見詰めている。
その逞(たくま)しき髪束ね、蛍光(ほたるびかり)の冷たさも、返す瞳のその奥に、夢を宿した未来さえ、気高く信じるほほ笑みに、女もはっと立ちつくす。不思議な胸のときめきに、我が身を忘れ時は消え、男の髪は黒く輝く。スセリビメは取り憑かれたように、草原の中に立ちつくした。
その時さっと風が吹き、蛍光(ほたるびかり)がなびく頃、互いの瞳にゆらゆら燃える、心の奥の情熱が、炎のように見えました。二人はそっと近寄って、言葉忘れて驚くままに、どれほど時が流れたろう。やがて男の手が動く。まるで意識もないように、女の腕を握りしめ、そっと乙女を近寄せて、熟しかけた唇に、そっと口づけを交わしたのである。乙女の瞳孔(どうこう)が焦点を忘れ、遠き夢の先を眺めたり、男の瞳を眺めたり、せわしく瞼(まぶた)を瞬かせていたが、ふいに我を思い出したように、驚いた少女は男を押しのけて、慌てて館の方に走り出した。追い掛けて闇のネズミが走り出す。オホナムヂは呆然として立ちつくす。後には蛍光(ほたるびかり)した、草だけざわざわざわめいた。
スセリビメは館に駆け込んだ。その動揺を知ったスサノヲの命は、娘をひと目見て、これはと思った。自分はよく知っている。初恋に芽生えた乙女の震えるような、怯えと期待が入り交じった仕草を、スサノヲはよく知っているのだった。まさか中つ国から誰か来たのか。スサノヲの命は娘に向かって問いただした。するとどうだろう。
「いと麗しき神来ませり」
娘はわざとつっけんどんな口調で言うのだ。これは間違いない。中つ国から娘の気を引くような、若者が紛れ込んで来やがったのだ。まさか娘を奪う積もりか、そんなことは許されぬ。スサノヲは娘の気持ちは察したが、娘に対する父の心は、あれだけの子を産んでも、まだ十分に察し得なかったようである。ただ動揺と怒りが入り交じって頭が熱くなる。そこにオホナムヂがやって来た。自信に満ちた足音も高く、スサノヲの館の前に止まると、二つばかり大きな音を出して、扉を叩いたのである。娘と父は同時にはっとなった。
2008/04/25掲載