古事記第4変奏6、こやつめ

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逃避

 スセリビメは哭き濡れて、葬儀のための喪具(はふりつもの)を持つ手も震え、足取りは千鳥(ちどり)のように定まららず、父の後ろをとぼとぼ歩いていく。さんざん喚(わめ)き散らして、父の癇癪(かんしゃく)にあって、平手打ちを受けた頬がまだ痛む。涙は押し殺しても流れ落ちる。その嗚咽が聞こえるたびに、スサノヲは不愉快になる。娘を留(とど)めた歓びと、娘の幸せを奪った後ろめたさが葛藤(かっとう)し、彼ほどの男も、煮え切らない想いに満たされたからである。ここまでする必要はなかったか。だがあの男は・・・。

 この混濁(こんだく)した心のうちに、オホナムヂが遠く現れた。鳴鏑(なりかぶら)の音(ね)に促されて、はっと顔を上げると、オホナムヂが大手を振って歩いてくる。鳴鏑(なりかぶら)を片手に掲(かか)げて、何と憎たらしい、誇らしそうに近付いて来る。泣き崩れかけた娘が、いきなり走り出したかと思うと、迷子が親元へ飛び込むみたいにオホナムヂに抱きついた時には、スサノヲはもう歓んでいるのか、怒っているのか、自分の本心が分からなくなった。オホナムヂを認めたい気持ちと、許し難いという苛立ちが、啀(いが)み合って胸がむかむかする。何も言いたくなくなった。鳴鏑(なりかぶら)を差し出すオホナムヂに対して、
「後(のち)の話は館だ」
とだけ言って、彼は二人を残して立ち去ってしまった。

 二人の目にはスサノヲはおろか、互いに相手の姿以外、何も見えていないようだった。抱き合ったままで見つめ合う。未来の幸せを探すみたいに、瞳の奥をはるか遠くに覗き込む。そして寄り添ってそっと口づけを交わした。スセリビメの頬を水色の滴がしたたる。あごを離れて地面へ落ちた時、透き通った鈴の音(ね)がした。オホナムジはそんな気がしたのである。空には半分欠けたツクヨミ(月読)が、優しく二人を見守っていた。

 館に戻ると、二人は八田間(やたま)の大室(おほむろや)に呼び出された。スサノヲはすぐには首を振らない。
「まあ、我(われ)の頭(かしら)の虱(しらみ)を取れ。
その間に考えるから。」
といって巨体をどかりと横にした。首を後ろに向けて、容易に起きあがりそうにない。さっそく頭(かしら)を覗き込んでみる。驚いた。虱(しらみ)ではない。そこにひしめいていたのは、何百もの足を這わせた黄泉(よみ)のムカデだったからだ。時々、オホナムヂの方を睨み付けて関節をぎいぎい軋ませている。そっとスセリビメの方を見ると、顔を真っ青にして首を横に振っている。毒でもあるのかもしれない。オホナムヂは袖から赤土(はに)の付いた牟久(むく)の木の実を出した。枯れ野でモグラから貰った物だ。これを食い破り、赤土(はに)と共に吐き出せば、さすがのスサノヲもムカデを食い殺していると思い込み、なかなかの男だと愛(め)でる心が勝り、愉快になって寝てしまったのである。

 やがて大きないびきが館を揺るがし始めた。オホナムヂは大神の髪を取り、すばやく館の垂木(たれき)に結(ゆ)わえると、庭にあった五百引(いほびき)の石(いわ)を大室(おほむろや)の戸に取り塞いで、その妻スセリビメの手を握り、
「大神は我が命が尽きるまで結婚を認めないつもりだ。
二人で逃げるのだ」
と言うが早いか、スサノヲの生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と、また天(あめ)の詔琴(のりごと)を奪って走り出した。驚いたスセリビメが前のめりになって「あっ」と声を上げる。振り向いたオホナムヂが体を抱える。その拍子に鞘(さや)に触れた詔琴から、美しい音色が響き渡った。

 スサノヲははっと我に返った。顔を起こすと二人が居ない。しまったと思って立ち上がろうとすると、髪が垂木(たれき)に結わえ付けてある。ふざけた真似をしやがる。しかし、解(ほど)こうとすると気が焦って容易に解(と)けそうにない。あまり苛々するので、仕舞いには首を振り回し、髪ごと垂木を引き抜いた。大室(おほむろや)の戸に手を掛ければ動かない。カッとなって蹴り掛かれば、石(いわ)ごと戸は粉々に砕け散った。こうして庭に出た時、しかし二人は遠くに走り逃(のが)れていたのである。「許さぬぞ!」と大声で叫ぶやいなや、スサノヲは館を飛び出した。

許諾

 傾きかけた月明かりを目差して、黒いシルエットが逃げていく。仄光りしたガラス質の細道を、おとぎ話の影絵のように、二人手を握りあって遠ざかる。まるで寂寞(じゃくまく)の人形劇のような逃避行に、ツクヨミ(月読)の命もはっと息を呑むほどだったが、その幻影の印象画は、館を飛び出したスサノヲによって打ち破られた。地響きと共に追い走るスサノヲの雄叫びは、すべてを阿修羅の画に変えていくようだ。その踏みしめる足下(あしもと)は、一足ごとにのめり込み、歩道の滑らかな鉱石は、氷の悲鳴のように砕け散った。烈しい地響きが怒りにまかせ、逃げゆく二人の体を揺さる。逃げゆく二人の心を揺さぶる。その足音は次第に近付いて来る。

 息も継がずに手を引いて、転びそうになるスセリビメを助けるように、オホナムヂはなお逃げる。天(あめ)の詔琴(のりごと)が鞘に触れ、掻き鳴らされて悲鳴を上げる。その時スサノヲはすぐ後ろに迫っていた。巨大な手を一振りして、オホナムヂを掴み取ろうとした時、慣れ親しんだ詔琴(のりごと)から音が飛び散ったのである。スサノヲははっとした。二人の重なり合う手が、決して離れないその手が、不意に妻と出会った頃の自分を思い出させ、手を引くオホナムヂの後ろ姿が、不意に己の姿と重なり合ったからである。大地は激しく揺れ、何度倒れかけても、それでも諦めない二人の、必死に逃れる姿を見て、スサノヲはふと追い駆ける足を緩めた。二人が気が付かないくらい、わずかに歩みを緩めたのである。

 それからしばらくして、光射す黄泉の出口に向かって、二人は倒れ込むように逃れ出たのであった。それすら気が付かず、しばらくは全力で走っていた二人だったが、気が付けばあの足音がしない。大地の揺れもしない。ただ光に出たまぶしさと、忙しない鳥のさえずりが、暖かい大気の中にこだましている。おやと顔を見合わせて、互いの足を緩めて振り返った。その時である、遠くの後ろから空気を振るわせて、
「オホナムヂの神よ」
と呼ぶ声が胸に響き渡った。二人の振り向いた先に、父は黄泉の口に手を掛け、厳めしい姿をして我らを眺めている。はろはろに望(みさ)けて遠い闇の口に立って、スサノヲはオホナムヂに宣言したのである。

「その、
汝(な)が持てる生大刀(いくたち)、
生弓矢(いくゆみや)もちて、
汝(な)が兄弟(あにおと)を、
坂の御尾(みお)に追い伏せ、
また河の瀬に追い払いて、
おのれ、
オホクニヌシ(大国主)の神となり、
またウツシクニタマ(宇都志国玉)の神となりて、
その我が娘、
スセリビメ(須世理毘売)を正妻(むかいめ)として、
宇迦(うか)の山の山本に、
底(そこ)つ石根(いわね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、
高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居(お)れ。こやつめ!」

 祝福の言葉を受けたオホクニヌシの神は深く頭を下げ、娘の目には涙が溜まっている。スサノヲはこれを見て満足すると、黄泉戸(よもつと)をさし塞(ふさ)いで、黄泉の世界に帰って行ったのであった。こうしてオホナムジは戻ってきた。スサノヲの元で大きく成長し、今まさにオホクニヌシの神として帰って来たのであった。ただちに彼は生大刀を振り、生弓矢を番(つが)え、その八十神(やそかみ)追討の兵を挙げると、噂を聞きつけた武者どもが続々と集まってくる。八十神(やそかみ)の粗暴(そぼう)に辟易した神どもが、彼を望みに集まってくる。ついにいくさとなれば、我が兄弟(あにおと)を、坂の御尾ごとに追い伏せ、河の瀬ごとに追い払い、ついに残らず討ち果たすと、オホクニヌシの神は、始めて国を作ったのである。スサノヲの詞(ことば)通り、出雲の宇迦(うか)の山(鳥取県出雲市のどこか)の山元に宮柱を立て、氷椽(ひぎ)の木を天高く築くと、これを我が宮として統治を開始したのであった。

2008/06/03掲載

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