すなわち出雲より海人(あま)を引き連れ舟を漕ぎ出(い)だし、それを常日頃に仕える天馳使(あまはせづかひ)に見立て、
「お前ども、海人馳使(あまはせづかひ)どもよ、
ヌナカハヒメは噂に違(たが)わぬ美しき姫であろうか」
など尋ねれば、
「まさに。七つの色を移ろうほどの、奴奈川(ぬなかわ)の勾玉の煌めきも、玉(ぬ)の川の乙女を賛えるので、まあ精一杯というところです。」
「そうですよ命(みこと)の旦那。灯りも静かにまとう衣を、するりと落として恥じらえば、白肌(しらはだ)の照り輝くほどのべっぴんだって話しです。」
「だがしかし、うまくそこまで行けるかどうか」
「何を言いますお偉いお方」
「景気付けに一つ行きますか」
とオホクニヌシの神を前にして、
海人馳使(あまはせづかひ)どもが一斉に、
「ヤチホコ(八千矛)の強き矛(ほこ)はと尋ねれば、
朝日に大地を耕す矛よ、
昼に兵(つわもの)蹴散らす矛よ、
その勢いで館に戻れば、
夕べに女(おんな)を貫く矛よ。
矛を振るえばいかずちの、
強き証しは益荒男(ますらお)の、
ヤチホコ(八千矛)こそは無敗の命(みこと)。」
と斉唱しての大笑い、大変下品なことになってしまった。オホクニヌシの命よ、君の若き日の一途さはどこへ消えてしまわれたのか。男神というものは、いつの世も変わらないものである。とはいえそこは神の命(みこと)、高志(こし)の国へ到着するやいなや、ヌナカハヒメ(沼河比売)の館を一巡り、たちまち御歌(みうた)を作って姫に求婚を願い出ることにしたのである。
ところがしくじった。せっかくの御歌であったが、海人馳使(あまはせづかひ)に委ねたところ、大変な失態を演じてしまった。彼らはしょせん、にわか作りの天馳使(あまはせづかひ)に過ぎなかったのである。すなわち館の板戸の前で、取り次ぎもなく大声で歌いまくってしまったのであった。
八千矛(やちほこ)の神の命(みこと)は
八島国(やしまくに)の妻抱きそこね
遠々(とほとほ)し高志(こし)の国に
賢(さか)し女(め)の有りと聞かされ
細(くわ)し女(め)の有りと聞かされ
さあ呼(よ)ばいにおっ立つぜよ
さあ夜(よ)ばいにあり通うぜよ
太刀(たち)の緒も今だ解かずに
旅衣(おすい)をも今だ解かずに
さ乙女の居眠る板戸(いたど)を
押しゆすり我(わ)れおっ立ち居(お)れば
引きゆすり我(わ)れおっ立ち居(お)れば
青山にヌエは鳴きぬ
野行(のゆ)く鳥、雉(きざし)は響(とよ)む
庭(にわ)つ鳥、鶏(かけ)は鳴く
うるさくも鳴く鳥どもめ
この鳥どもを殺してしまえ
身に従(した)がう、海人馳使(あまはせづかひ)よ
彼の語りごとは、こうであったさ
扉の向こうで、不意に女の笑い声が二つ三つ起こり、からからと音を立てて走り去る。どうやら姫ではなく、侍女が取り次ぎに控えていたらしい。一風変わった御歌を姫に伝えに参ったのだろう。遠くから見守っていたヤチホコの神は激怒した。戻り来る彼らを捕(つら)まえると、そんな出鱈目な御歌があるものか、お前達は満足に言葉も覚えられないのか、そんながさつな声を出しやがって歌心も知らないのか、毎日魚ばかり捕っているから言葉が乱れるのだ。だいたい毎日下品な歌ばかり歌いまくって、私は船の中でどれだけ我慢したか分からない。いっそ皆(みんな)して鮫にでも食われてしまうがいい。などと、あまりにも命(みこと)らしからぬ罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐くので、海人馳使(あまはせづかひ)も震えおののき、狼狽(ろうばい)そのままにヌナカハヒメの館に走り戻った。何としてもヤチホコの神の願いを叶えなければ、本当に鮫の餌にされるかも知れない。ところがなんともはや、女とは不思議なものである。この不可解な御歌騒動に興を起こしてか、ヌナカハヒメは侍女達に返歌を歌わせることにしたからである。
八千矛(やちほこ)の 神の命(みこと)
ぬえ草(くさ)の 女(め)にしあれば
我が心 浦渚(うらす)の鳥ぞ
今こそは 我鳥(わどり)にあらめ
後(のち)は 汝鳥(などり)にあらむを
命は な殺(し)せたまひそ
いしたふや 海人馳使(あまはせづかひ)
事の 語言も こをば
歌慣れた侍女達の声は朗々として美しい。その歌心は、
「ヤチホコの命よ、
なよ草ほどのか弱い女でありますから、
この心は波打ちの鳥。
この鳥は今こそ我がものですが、
後には汝鳥(などり)にもなりましょう。
ですから鳥を殺してはなりません。
君に従(した)がう、海人馳使(あまはせづかひ)よ。」
と歌い、最後に
「彼女の語ったことはこのようでありました」
と締め括った。続けて侍女達はヌナカハヒメの言葉として、
「今夜は自らお越し下さい、私も自ら板戸に控えるでしょう」
と伝えたので、海人馳使(あまはせづかひ)はたちまち活気にあふれて、駆け込むようにしてヤチホコの神に伝えたのであった。オホクニヌシは機嫌を直した。そして夜を待って板戸に立つと、その清らかな声で御歌を歌い直したのである。
八千矛(やちほこ)の 神の命(みこと)は
八島国(やしまくに) 妻(つま)枕(ま)きかねて
遠々(とほとほ)し 高志(こし)の国に
賢(さか)し女(め)を 有りと聞かして
細(くわ)し女(め)を 有りと聞こして
さ婚(よば)ひに あり立たし
婚(よば)ひに あり通わせ
太刀(たち)が緒(を)も 今だ解かずて
旅衣(おすい)をも 今だ解かねば
乙女(をとめ) の寝(な)すや板戸(いたど)を
押そぶらひ 我(わ)が立たせれば
引(ひ)こづらひ 我(わ)が立たせれば
青山(あをやま)に 鵺(ぬえ)は鳴きぬ
さ野(の)つ鳥 雉(きざし)はとよむ
庭(には)つ鳥 鶏(かけ)は鳴く
慨(うれた)くも 鳴くなる鳥か
この鳥も 打ち止(や)めこせね
いしたふや 海人馳使(あまはせづかひ)
事の 語言(かたりごと)も こをば
美しき拍子を捕らえて歌い終えても返事はこない。ヤチホコの神は遙かに待ちわびた。やがて歌のままに、木々の茂る青山から夜明け前の鵺(ぬえ)たちの悲しい声が谺(こだま)し、野の鳥とされる雉が鳴き、庭つ鳥とされる鶏(かけ)が朝の始まりを告げたが、木戸の奥はしんと静まり返っている。ヤチホコはそれでも立ちつくしていた。今こそ肝心であることをよく知り抜いていたからである。するとようやく、鈴のような美しい声が内側からそっと、「もし今宵(こよい)」と聞こえた。ヤチホコの命は耳を傾ける。美しい御歌が心に響いてきた。
青山に 日が隠(かく)らば
ぬばたまの 夜(よ)は出でなむ
朝日の 笑顔(えみ)栄え来て
たくづのの 白き腕(ただむき)
あわ雪の 若やる胸を
そだたき たたきまながり
真玉手(またまで) 玉手(たまで)さしまき
股(もも)長(なが)に 寝(い)は寝(な)さむを
あやに な恋ひ聞こし
八千矛(やちほこ)の 神の命(みこと)
ことの 語言も、こをば
ヤチホコははっとした。その歌心は、
「青山に日が隠れる頃、
ぬばたまの夜が遣ってきます。
朝日のような笑みで向かえ、
たく綱(づの)のようなこの白き腕と、
あわ雪のような若々しい胸を、
そっと抱きよせ撫(な)でては愛(まな)がり、
愛(いと)しい手と手を絡め合い、
股(もも)を長くして、
添い寝することもいたしましょうに。
ああ、どうかそんなに、
今は恋い焦がれないでください。
八千矛(やちほこ)の神の命(みこと)よ。
私の語る言葉は、今はただそれだけ。」
ようやく日が昇り始める頃、ヤチホコは館に帰り戻った。まるで夢でも見ているようである。夢のままに眠りに落ちて、目覚めると陽は大分西に傾いている。身支度を調え、再び館を離れ、ヌナカハヒメの折り戸の前に立ったのは、もう陽を落とした夕焼け空に、鳥たちが別れを告げる、黄昏(たそがれ)の火灯(ひとも)し頃だった。小さく扉を叩く。胸は少年のようにはずむ。腰に差した刀の位置が気になりだして、慌てて直していると、すっと折り戸が開いた。はっとして目を上げる。ヌナカハヒメの瞳が飛び込んでくる。頭に空想しうる最高の女神よりなお、その姿は美しかった。ヤチホコはじっと心内(こころうち)まで覗き込もうと、鋭い射すような、しかし優しい眼差しで彼女を見詰めていた。彼女も同じ気持ちであったに違いない。柔らかく覗き込むような、真っ黒の瞳をぱちつかせた。やがて二人はそっと距離を縮め、その手と手を握り合い、館の奥へと向かうのだった。その夜の灯火は、緩やかに揺らめきながら、二人の姿を見守っていた。そだたきたたきまながり、真玉手(またまで)玉手(たまで)さしまき。ついに二人は結ばれたのである。やがて二人の間には、タケミナカタ(建御名方)の神が生まれ、後にオホクニヌシの元で活躍することになるだろう。
2008/09/11掲載