ベートーヴェン 交響曲第2番 概説

[Topへ]

概説

 1800年、弦楽4重奏曲6曲(作品18)と共に交響曲第1番を送り出して以来、ピアノ協奏曲第3番(1800)、プロメテウスの創造物(1811)、多くのピアノソナータを作曲し、演奏会、交際、ピアノ教師としての仕事など順調に進行していたベートーヴェン。しかし、耳の調子が芳しくない事や、ヴィーン宮廷での定職が得られないことなどがあって、心身穏やかならざるベートーヴェンは、医者に勧められてハイリゲンシュタットに赴き、
「自分の遺書を親類に向かって書くことによって精神の不安定を克服するための」
処方箋を実践しようとした……という証拠は残されていないが、今日ではもっぱら、ベートーヴェンが不意に自殺の強迫観念に駆られて遺書をしたためたとみなされている。
 しかし、その場合でも今まさに自殺をしようと決心して書いたのではなく、自殺するほどの思いが湧き起こるに任せて記した心のプロフィールであり、明確な遺書というよりは、その感情を記すという行為によって乗り越えようとした結果のような文章に思える。
 初め兄弟に向かって書かれた手紙の出だしが、書いている間に途中から自らの内面との対話や自己精神の確認に移ろって、また手紙の対象者に向けた文章に変化するなど非常に錯綜していて、もし一流の小説家がわざとこの効果を狙った手紙をねつ造しても到底適わないほどのある種のリアリティを持っている。それは死を決意した人の諦観ではなく、生と死と格闘しつつある人の、こころの叫びであるから、明確な遺書ではないのであるものの、遺書よりももっと情念がこもったものであると言えるかもしれない。
 なお、本人の手紙では、「ハイグルンシュタット」と書き込まれているようだ。そんなことは別にどうだっていいが。



 交響曲第2番からすっかり離れてしまった。いずれこの第2番は、1800年のスケッチブックに、第1楽章の序奏などが現れてから構想が続けられたが、1802年、この遺書の書かれたハイリゲンシュタットに滞在している間に集中的に作曲され、同年のうちに完成し、翌年1803年4月5日にアン・デア・ヴィーン劇場で作曲者の指揮によって初演を迎えることになった。献呈を受けたのは、彼の重要な支援家の一人であったリヒノフスキー候で、出版は管弦楽のパート譜が1804年に、総譜が1822年にジムロック社から出版された。

楽器編成

・フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,ホルン2,トランペット2,ティンパニ1対,弦5部

演奏時間

カラヤン指揮ベルリン・フィル1961,2年演奏の時間
  第1楽章-10:16
  第2楽章-10:33
  第3楽章-3:51
  第4楽章-6:18

古楽演奏のガーディナー版の時間(すべて繰り返し有り)CD作成が1994年
  第1楽章-12:07
  第2楽章-10:18
  第3楽章-4:25
  第4楽章-6:07

2005/4/24

[上層へ] [Topへ]