芸術家は様々な状況の中に身を投じ、ある時は舞踏の騒がしさの中にあり、一方では美しい自然の中で安らぎを得る。しかし町を歩いても、野原に出かけても、彼女の姿が頭の中を巡り、彼の心を騒がせる。
弦楽器のトレモロの刻みの下から、ベースが分散和音を奏で、ハープが夢の中のように3連符の分散和音上行型で答える。そんな夢の中のような序奏は、実際のワルツの序奏というよりは、ベルリオーズのプログラムにも暗示されるように、芸術家の靄のような夢想を現わしている。そしてある時は舞踏の騒がしさの中にあり、という恋人の情景の一つが、序奏の中から導き出されるのである。
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メランコリックだが、明確にワルツの伴奏を打ち付け8小節が2回のワルツ主題(39-53)は、非常に安定していて、主人公の内面ではなく、実際の舞踏会場の音楽を現わしているようだ。ワルツという楽曲は、開始主題を主要テーマとして繰り返しながら、定期的に性格を変える別の楽曲に、ワツルのリズムを保ちながら、次々に移行していくものだから、ここでも(54-67)、(68-77)、(78-93)と次々に移行し、94小節から再びワルツ主題が回帰する。そしてここまでが現実的な舞踏会を現わしている。したがってワルツ主題を中心に考えれば、ABAの様に主題が中間部に逸脱した後に回帰する。非常にスマートな構成になっているが、開始部分では弦楽器だけ行なわれた主題提示が、94小節からの再現では、ヴァイオリンの主題旋律に対して、管楽器も加わって伴奏を打ち付け、少し発展した姿を見ることが出来る。このワルツ主題部分は調性も(A dur)で保たれ、非常に安定性の高い部分を形成している。
ワルツ主題が特徴的な音型を何度も繰り返しながら、まだ次の楽曲に至らず逡巡するような効果を使用して、115小節で(A dur)の属和音で半終止。そのまま同じ音型を繰り返しつつ(F dur)に転調する。直前の音型を使用し続ける連続性と、調性の断続性を旨く利用して、登場した(F dur)は、直前の(E-Gis-H)から見ると、ナポリ関係に位置する調性であり、(A dur)領域から遠隔調への逸脱と、ナポリ進行の不可思議な響きによって、作曲者のパンフレットに基づけば、現実の世界から彼女のイメージを誇大妄想する主人公の空想領域に移っていくわけだ。この部分が唐突に聞えないのは、同じ精神状態がすでに序奏で提示されているからでもあるが、直前の楽句の素材が、断絶していないという直接的な理由がある。すなわち継続的にワルツの伴奏が使用される分けだが、いったん恋人のイメージがあふれ出してワルツの伴奏が聞えなくなってしまう部分から、次第に再びワルツが回帰してくる遣り方は、彼女のイメージの登場(121)を見事に演出している。やがて妄想の合間に聞えてくる現実世界のワルツの音型は、(129)小節からメロディーラインが途切れがちに断片的に弦楽器で聞え始める。その前面で、主人公のイメージに浮かんだ彼女の旋律が、木管楽器により例のイデー・フィクスを奏で、非常にはっきりした旋律となって、テーマとして躍り出る。直前の音楽が背景に引き下がりつつ継続され、その前景で新しい場面が展開する方法は、オペラなどから導き出されたものだろうが、対位法の使用に新たな見地を開くものでもあり、非常にモダンな遣り方だ。そして主人公の妄想領域は(F dur)領域をほぼ守って展開されている。
面白い事に、背景に沈んでいた間にもワルツは継続していたので、それが回帰する頃には、大いに華やかさを増して盛り上がっているという、プロットが敷かれていて、これが見事に成功している。つまりドラマ性を内包しないワルツ楽曲なら、さらにワルツ主題と異なる変遷を多々に越えた後に辿り着くはずの主題回帰の華やかさを、恋人のイメージを前景に置くシーンを作ることによって、オペラチックに解決して、彼の妄想の間にも随分時間が流れたように感じさせるものだから、この部分のワルツ主題の回帰が、長大なワルツ変遷の履歴にも匹敵してしまうのである。このような舞台芸術的、映画監督的に楽曲配置を行なう純器楽曲なんて、確かに当時の音楽界から考えると、ずば抜けて新鮮だ。例えばシューマンなどのロマン派的と見なされる楽曲では、構成に置いてこんな斬新な遣り方は夢にも思わないくらい、ベルリオーズは先んじている。先んじているというよりは正確にはユニークな一匹狼なのかも知れない。特に優れている点は、一つの事象から次の事象に移りゆく物語構成ではなく、同時進行など楽句部分が意味上に絡み合う多重構造にあるかも知れない。
だからである、ワルツ主題は管楽器の伴奏をさらに高め、弦楽器の最上声に非常に細かい修飾音型を加え、華やかに進行するのだ。途中からハープが3連符を加え、さあ、舞踏会もすっかり盛り上がって参りました。この主人公は、もしかしたらワルツの高まりによって、舞踏会場に引き戻されたのかも知れないが、ベルリオーズの意識では、恐らくそれと同時に、主人公が恋人を思い高揚した気持ちが、高揚したワルツ主題にそのまま内包されているのである。本来参加者の一妄想が、鳴り響く舞踏曲に作用するようなことは、現実にはあり得ないのであるが、楽曲の印象は言葉のように明確ではないから、故意に多重的意味あいを持たせるには、もってこいのジャンルである。いずれにせよ、楽句の意味の絡み合いは、練り上げた小説のようで、ベルリオーズの天才と云われる所以である。彼は楽曲におけるストーリーテーラーだったのだ。それにしても何でそんな所(183小節)でハープに3連符伴奏を導入させることを思い付くか、と感心するほど管弦楽法や作曲家として超一流だからこそ、彼の考え出したストーリーの戦略が、見事に機能してしまうわけだ。まあ縦横無尽、とでも言うのだろう。
ワルツ再現部分は、管楽器の十全な使用や、提示部分で弦が行なっていた旋律を管に受け持たせ、途中に木管だけによるカデンツ風部分と、ゲネラルパウゼ(228-232)でワルツ主題再現への期待を一層高める効果など、舞踏曲のクライマックスを形成するべく変化が付けられているが、構成上はワルツ提示部分を踏襲する。舞踏曲の真髄は繰り返しの喜びにあるのだから、もちろんこの踏襲は必然なのだ。そして遂に233小節から、弦楽器が伴奏に周り、管楽器群がユニゾン的にワルツ主題を演奏するクライマックスに到達し、256小節から中間的逸脱部分を終止風に置き換えたワルツの締めくくり(ワルツのコーダ部分)が華やかに行なわれていくのである。つまりワルツ自体はこの華やかなコーダで締め括られるはずなのだが、開始部分に序奏が置かれたのと同様に、後奏が、つまり楽曲全体のコーダが設けられている。
ここで再びベルリオーズの見事な策略が待っている。前に本来様々な変遷を経てワルツ主題再現でクライマックスを形成されるべき楽曲を、イデーフィックスによる作劇法で、場面転換と時間の圧縮を行なったのだが、今度はそれを踏まえて、この部分に再び恋人の面影を登場させるのである。その旋律は直前のワルツの盛り上がりが信じられないほどシンプルで、クラリネットのメロディーラインを引き延ばしたホルンが支えながら、真ん中に一度だけハープが鳴り響くという薄い楽曲法で表現され、これに少しも違和感がないのは、まさに中間部分のイデーフィクスの登場が強烈に焼き付いて、外面上のワルツと、主人公の内面という配置が正当化されているからであり、同時にワルツ部分の後ろに続く異なる情景というパターンが、ABABのように2回繰り返されているからでもある。しかもこの部分では、調性は(A dur)に保たれ、以前のようにワルツが継続しているのでもなく、ワルツが盛り上がった一刹那のゲネラルパウゼの中で、クラリネットが自由カデンツを奏でるような作曲スタイルで表現されている。例えば映画などでオーケストラから不意に場面を移して、ある部分だけ主人公の口笛が描写され、再びオーケストラに戻されるとき、演出が旨く行けば、現実の音楽から、主人公のアップの合間だけ、主人公側の物語にシフトしたのだと、自然に認知できるような効果が、ここでは使用されている。主人公は初めの時のように舞踏曲の中で自己の妄想に耽るのではなく、ここでは恐らくワルツのクライマックスに自らも心楽しく盛り上がり、高揚の刹那に恋人のイメージを思い出したというような場面設定が為されているのだろう。そして前の部分の楽曲圧縮とバランスを取るように、楽曲圧縮が使用されている。つまりこの場面転換によって、ワルツのクライマックスから直接的に後奏のコーダに移るよりも、ずっと長い時間の変遷を経てコーダに向かったように感じられるが、前の部分と同様のエピソードの効果によって、ほんらいもっと拡大した舞踏曲を目差していそうな楽曲を見事に圧縮し、高い密度に結晶化している。しかも僅かに登場した印象によって、[序奏-A(ワルツ)-B(恋人)-A-B-コーダ]のような楽曲構成をさえ印象づけているが、何よりも純器楽曲的な構成ではなく、舞踏曲であると共に、別の事象が展開発展しているようなドラマ性を、つまり作劇法的な技術を楽曲構成のかなめとして使用しているところに、恐ろしいほどのイマジネーションを感じるわけだ。どうでもいいが、結局場面の意味的説明しかしない楽曲解析って、何かとんでもないふて際ではないだろうか。
2006/09/07
2007/3/23改訂