Hector Berlioz(1803/12/11ラ・コート=サン=タンドレ - 1869/3/8パリ)の生涯について記す。
フランス南部のラ・コート=サン=タンドレで医師を務めるルイ=ジョセフ・ベルリオーズ(1776-1848)が、グルノーブル出身の裕福なお嬢さんマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン(1781-1838)と1802年に結婚した。母親は都会っ子だったから田舎町のさえない生活にノイローゼになり後に宗教活動に生き甲斐を見いだすことになったそうだ。そんな両親の元で、4人の成長した子供のうち長男として生を受けたエクトールは、1803年12月11日に誕生した。
ところがどっこい6歳の時に入った寄宿制の神学校は2年間で閉鎖となり、英才教育は己の手でと思ったか父親は、18歳まで一般学校に行かせず自分で勉強を教え、ヴェルギリウスなどの古典まで教え込んでしまったのである。そんな生活が、友達知らずで文学にのめり込む生粋の空想家を生み出す原動力となったわけだ。12歳の頃、父親の縦笛フルートであるフラジオレットを悪戯に演奏する息子に、父は指使いやら、楽譜の読み方を教え、13歳の時にはリヨンでヴァイオリン奏者をしていたアンベールを呼んで、フルートなどを教えさせてみた。ベルリオーズの美しい声を見て取って、歌うことを覚えさせたアンベールのお陰で、音楽なんてやくざ者(ジョングルール)のすることよと大反対の母親が居たにもかかわらず、和声の勉強まで始めてしまった。その後大喜びで勝手に作曲を始めてしまったベルリオーズだが、15歳の時には優れた作品をパリのプレイエルに送って出版を目論むほどだった。アンベールの後、ドランに師事すると今度はギターの演奏で、先生を超えてしまったともいわれている。しかし16歳になると、そろそろ医学の勉強をしろと親父に言われた。時は満ちたと思った父親は医学を学ばせるため、大学入学資格試験を受けさせ、一緒に受けた従兄弟と共に合格したベルリオーズは、パリ大学で研鑽を積むべく故郷を後にしたのである。
ところがベルリオーズ、解剖学で目眩がしたとか言いながら、パリのオペラ熱に浮かされて、特に22年に上演されたグルックの「タウリスのイフィジェニ」を見て感激し、「例え誰の反対に遭おうとも、私は音楽家になるのだと心に誓った」と回想録に記入しているくらいだ。ベルリオーズは目覚めてまったのである。親父に決心を伝えて反対されながらも、さっそくカンタータ「アラビアの馬」を作曲すると、パリ音楽院に通うシェロノのつてによりジャン=フランソワ・ル・シュール(1760-1837)に見て貰う事が出来た。ル・シュールは彼に「和声は駄目だが、熱意と激情が認められる」とエールを送り、漲ってきたベルリオーズはシェロノに教わって和声を勉強し直し、特別生徒としてル・シュールのクラスで受講させて貰えるようになったのである。また「ウグイスは声を持って生まれるが、君は管弦楽法を持って生まれたのだ」とベルリオーズに言ったというル・シュールの言葉もよく引用されるが、果たして真相はいかに。
彼は「荘厳ミサ」を作曲して、借金を背負いながら1825年7/10にサン・ロッシュ教会でこれを演奏、成功する自分を確信したかローマ大賞に別の作品を応募するが、翌年これは見事に予選落ちを果たした。さらに音楽家になることを反対する両親と手紙の応酬があったが、何とか認めて貰って1826年にパリ音楽院に正式入学、ル・シュールの授業はもちろんのこと、アントン・レイハの対位法授業を受講したり気合い十分だった。一方サン・ロッシュ教会での借金事件を知って、借金だけ返済して「後は知らん」と仕送りを止めた親父だったが、息子がバイトを重ね食事を切りつめ、ついに病気になったりしていたので、甘い親馬鹿振りを発揮して、再び学費を送ってやることにしたのである。
そんな中でもローマ大賞を目差すコンクールに応募したり、見事予選で蹴落とされたりしながら、1827年に再びローマ大賞に応募。このローマ大賞、奇しくもベルリオーズが生まれた1803年に、フランスに君臨していた偉大なナポレオン・ボナパルトによって芸術家育成の賞として儲けられたもので、大賞を取ると芸術家としての名声を得るだけでなくローマ留学の奨学金が出る美味しいコンクールだったのだ。今度は予選を通過して、しめたと思ったベルリオーズ、しかしこの「オルフェウスの死」は演奏不可能作品だと言われて、なかなか最後まで認められない。このままでは自分がオルフェウスより先に死んでしまいそうだ。
そんなある日、1827年9月に上演されたイギリスの劇団のシェイクスピア劇を見た彼は、驚いてしまった。シェイクスピア劇のすばらしさはもちろんだが、花形女優のハリエット・スミッソンがオフェーリアを演じる余りの美しさに、心拍向上ぞっこんいかれ・・・・おっと失礼、年上(27歳)のお姉さんに憧れを抱き、熱烈な感情を燃え上がらせてしまったのである。何度も何度も手紙を送りつけて「今すぐ逢うのです!」と迫るベルリオーズ、案の定「怖いわ、ストーカーだわ」と思われて、叶わない恋となってしまった。意気消沈した彼はまさか大量のアヘンを吸いまくったかどうだか知らないが、後にアヘン中毒者の幻想というプロットに基づいて「幻想交響曲」を完成させることになる。
そんな中にあっても28年には重要な出来事があった。ヴァイオリン奏者であり指揮者でもあったフランス人のフランソワ・アントアヌ・アブネック(1781-1849)は、パリ音楽院のヴァイオリン科の教授を務めていたが、彼がこの年パリ音楽院管弦楽団を設立し、彼の指揮によって3月9日第1回演奏会が開催されたのである。曲目はフランスものではない、なんとベートーヴェンの「交響曲第3番」がパリでの紹介を兼ねて演奏され、2回目もベートーヴェン、そして3回目の4月13日には「エグモント序曲」と共に「交響曲第5番」が演奏されてしまったのである。これを聞いたベルリオーズは雷に打たれたように、痺(しび)れて動けなくなってしまった。
「シェイクスピアが詩で新世界を幕開けしてくれたように、ベートーヴェンは音楽で新しい世界を切り開いてしまったのだ!」
後にそう記すように、ベートーヴェンの行なった古典派言語をドラマチックなものの構築に活用する作曲に、自らの進む道を確信してしまったのである。
想像力の漲ってきた彼は、5月には初めての自作演奏会をパリ音楽院で開き、またカンタータ「エルミニー」でローマ大賞に応募、これが2位を受賞するなど作曲活動を活発化、29年4月にはカンタータ「ファウストの8情景」を自費出版するほどだったが、これを意気揚々とゲーテに送りつけたところ、残念ながらゲーテには辿り着かずカール・フリードリヒ・ツェルターの手に渡ってしまったそうだ。この29年3度目のローマ大賞に応募したが、カンタータ「クレオパトラの死」では会員が度肝を抜くような斬新奇抜なエンディングを描ききったために、大賞を保留されてしまったとも言われている。しかしこれは1位無しの2位なので、事実上の1位である、ローマ留学の資金は捻出されないが、田舎のお父さんお母さんは音楽家として認めてくれて、借金まで払ってくれたのだそうだ。
30年になると彼は「幻想交響曲」に取りかかった。1月から4月にかけて作曲され4月16日にはこれを完成。いよいよローマ大賞を狙うカンタータ「サルダナパルの最後の夜」を作曲していると、パリで7月革命が勃発した。かつてナポレオン陥落後のヴィーン会議では1792年以前のヨーロッパ秩序を維持する正統主義が定められたが、これに基づいて1815年に王政に返り咲いた国王ルイ18世があまり反動政策を打ち出すので、再び革命が勃発したのである。その結果として市民裕福層たるブルジョワジーを代表するルイ・フィリップ(1773-1850)が国王に就任して、立憲君主制が開始されるのだが、ベルリオーズ自身が鉄砲を持って走り回ったかどうかは分かったものではない。とにかくこのカンタータによって8月21日ついにローマ大賞を受賞。審査では己の書きたかった楽譜を抑えて、受賞後に書き直してしまったという曰く付きの作品らしい。
そんなベルリオーズ、かつてのスミッソンに実らぬ恋破れた後には、マリー・モークという娘さんと婚約も済ませていた。後はローマで箔を付けて帰ってきて結婚すればいい。彼は完成した「幻想交響曲op14」の初演を12月5日に執り行い、聴衆に紛れ込んでいたフランツ・リスト(1811-86)に多大なる衝撃を与えて遣った。リストはベルリオーズと親交を深め、4年後幻想をピアノ編曲したのだが、これは今日でも販売されているから、「一人幻想」を楽しみたい方はぜひどうぞ。ナクソスから演奏したCDも販売されている。ちなみにこの曲のスコア出版は遅れたので、シューマンなどはこのリスト版のピアノ譜を使って評論を述べる始末だった。それはさておきベルリオーズは翌年初め、婚約者に手を振りながら翌年ローマに旅立って行ったのである。
ローマでメンデルスゾーンや、グリンカと知り合いながらもしっくり来ないので孤独に奮闘していると、手紙が届いた。婚約者の母親からだ。ワクワクして手紙を開封すると、この母親なんたることか娘をピアノ製造業でお馴染みのプレイエル家の息子、カミーユ・プレイエルと婚約結婚させてしまったのである。立ち上がったベルリオーズ、脳天霹靂として血が竜のごとく駆け上がる。自伝に寄れば、ピストル2丁購入して走り出す。
「女装して女中に成りすまして娘も母も殺してやる、そして自分も死ぬのだ!」
そう考えて、パリに戻って馬車を飛ばしたのである。ところが途中のニースにたどり着くと、馬が急に立ち止まって・・・・馬車が急に立ち止まってから・・・・まあどうしたのか、後のことはよく分からないが、とにかく冷静に考えを改め、ローマのアカデミー館長に許しを請い、「許してやる」と手紙を貰ったので、ピストルを放り出したのである。彼はローマに戻って作曲を続け、序曲「リア王」「ロブ・ロイ」やモノドラマ「レリオ、あるいは生への復帰op16」などを完成させパリに戻っていった。この「レリオ」は先の殺人未遂から立ち直る自分をモチーフにしていて、「幻想交響曲」の続編という位置付けを自分でしているが、死にきれなかった芸術家が目を覚まして「ああ、生命はまったく明らかだ」と生きていることを確信するところから始まり、レリオの台詞の合間に音楽が挿入されるという変わった作品になっている。ベルリオーズは自分でこれを、メロドラマとモノローグ(独白)の合わさった「メロローグ」だと宣言したが、だんだん精神が現世に回帰してくるような遣り口には、皆さん戸惑ってしまったようだ。
パリに戻ると片思いの相手スミッソンは、三十路を越えて足を痛めて舞台人生から転げ落ちて、おまけに率いる劇団は借金まみれに陥っていた。さっそくリストやショパンらと慈善演奏会で借金返済を助けているうちに王子様願望が沸き上がったものか、老いたるお姫様に手を差し伸べると、彼女も拒む力無く(?)1833年の10月に2人は結婚した。故郷の父母は大いに反対したらしいが、もっともな話だ。この時マブダチのフランツ・リストが立会人を買って出たのである。こうしてベルリオーズは、彼女の借金返済のためにも音楽評論で賃金を稼ぐ生活を開始。新聞に批評を書きながら作曲や指揮を行ない、絶対音楽でない文学的な何ものかを音楽で表現しようとする音楽、すなわち標題音楽を己のモットーとした。
作曲だって負けてはいない。翌34年に完成させた「イタリアのハロルド」op16は、ロマンにどっぷり浸かった詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)の「チャイルド・ハロルドの巡礼」に着想を得て作曲されたもので、「幻想交響曲」の主題がイデー・フィクス(固定観念)として全楽章に登場するのと同じように、初めの楽章でヴィオラで提示される「ハロルドの主題」が、全曲に登場することになる。ヴィオラ独奏を持った交響曲という位置づけで、ヴィオラ奏者が活躍できる作品だが、信憑性に乏しいエピソードが好まれて付随している作品だ。つまり名ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニ(1782-1840)が、優れたヴィオラを手に入れてほくほくしながら、ベルリオーズに対して「私に匹敵する作品を書いてくれ」と依頼したのだが、このハロルドの楽譜を提出すると「このハロルドぐらいの活躍じゃ問題外だ!」とパガニーニが叫んで決裂したというのだ。これはベルリオーズが自伝(回想録)に記した逸話で、誇大妄想に突き進むこの伝記は読み物として楽しい反面、真実性に問題があると言われている。イタリアルネサンスの芸術家ベンヴェヌート・チェリーニ(1500-1571)の自伝なら読んだことのある人もいるかもしれないが、西洋文学に置いて物語的自伝というジャンルは決してマイナーなものではないのである。これは半分は物語であって、自分の半生をレシート片手に詳細に記録するレポートではないから、現実と違っているのはむしろ当たり前なのである。これを誇大妄想というのはお門違いであり、むしろ幼少から古典文学やロマン派文学に触れていたベルリオーズの、文学的作品だと見なすことが出来るだろう。
とにかく、その自伝では「私はヴィオラが常に弾いている曲を頼んだのだ」と1楽章を見てがっかりするパガニーニに対して、ベルリオーズが「そりゃあんた自身にしか書けまへんがな」と言い返して、曲をヴィオラ独奏付きの交響曲に変更したのだという。これは有名なパガニーニを出して自分に箔を付けた可能性も否定できないが、確かにヴィオラパートを見ると、1楽章ではヴィオラ協奏曲に近い活躍を見せる一方、後ろの楽章に向かうほどオーケストラ全体の中に埋没しがちで、協奏曲から交響曲に移り変わるような心持ちがする。初演にはフランスのロマンっ子達、ヴィクトル・ユゴーやら、フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、アレクサンドル・デュマなど大した奴らが足を運んだそうだ。
37年にはオペラの構想を練っていたが、政府から7月革命の犠牲者追悼のためのレクイエムを注文され、旧作織り込んで懸命に作曲を行なうと、残念ながらドタキャンされ(式典短縮で音楽が不要になったとか)、しかし何とかアルジェリア(1830年からフランスが支配の魔の手を伸ばしていた)でお亡くなりたダンレモン将軍の死を弔う曲として採用され、12月5日(なぜか幻想の初演と同じ日だ)にアンヴァリド(廃兵院)にあるサン・ルイ教会で初演された。曲の構成のためにミサ固有文の順番を変更するなどし、大がかりな楽器編成に、通常オーケストラの東西南北(オーケストラと離れてではない)に4つの管楽器別働隊を配置し、ティンパニが16台も轟いたり、相変わらずお騒がせなベルリオーズだが、このレクイエムは非常に高い評価を得ることが出来た。しかし音楽家の成功とは、つまりオペラで成功することであったし、自身オペラ熱に浮かされて医学の道を踏み外したくらいだから、中断していたオペラを完成させ、世間様に問うてみる必要がある。
こうして1838年9月10日に初演された「ベンヴェヌート・チェリーニ」だったが、ベルリオーズは打ちのめされてしまった。あまりにも見事に大敗北を喫し、もう劇場作品は2度と採用して貰えないはどの負け犬の心持ちに陥ってしまったのである。果たしてウェーリー・バルビエの台本がまずかったのか、もっと重要な要因があったのだろうか、彼はずっと後になってもこれは傑作だと確信しているが、取りあえず今はそれどころではない。オペラ上演に興行収益を当て込んで先行投資の借金重ねた重い重圧と、芸術家にありがちな糸が切れたような放心で、文字通り起きられなくなってしまったのである。知人達が演奏会を企画して、どうにか救ってやろうと模索していると、12月16日の「幻想交響曲」などをプログラムとした演奏会が開かれ、どうも驚く、聴衆に紛れ込んでいたニコロ・パガニーニが「私ったら、感動して泣いちゃった」と手紙をよこして、2万フランという莫大な資金援助をしてくれたという。有名人から認められて、金銭入ったベルリオーズ、たちまち元気百倍、翌年39年に合唱付きの劇的交響曲「ロミオとジュリエット」(op17)を完成させると、これを親愛なるパガニーニ先生に献呈して見せた。初演は39年11月24日、ここで転(こ)けたらもう再起の道はないか、背水の陣で臨んだベルリオーズだが、見事大成功を収めることが出来たのである。ただ座っていたヴァーグナーが「天才とその限界」と呟いたそうだが、これは余計なお世話だから放っておこう。曲の途中の「マブの女王」のスケルツォでは、西洋音楽史の先生(西洋音楽史のページ参照)が我慢できなくなってツアー・デ・フォース(離れ業)だと叫んでしまったことでも知られている。ただしパガニーニの2万フランは、実際はベルリオーズの出版関係者のパトロンがパガニーニからという名目で2万フラン出していたのが真相のようで、ベルリオーズは真実を知らないばかりに、魂が有頂天になり大成功を納めることが出来たのかも知れない。調子が出てきてこの頃レジョン・ド・ヌール勲章(ナポレオンが設け今日まで続く勲章制度)まで頂いてしまった。またパリ音楽院も39年からベルリオーズのことを図書館員として、僅かばかりの給料でサポートしてくれた。
翌年40年には再び政府から作品を委託され、7月28日に7月革命追悼10周年の式典で「葬送と勝利の大交響曲」(op15)が演奏される。合唱と弦に吹奏楽を動員したこの大規模作品は、後にベルリオーズ自身の追悼でも使用されてしまったが、この時は高い評価を得て成功を収めた。翌年にはテオフィル・ゴーティエ(1811-1872)の詩に基づく管弦楽伴奏歌曲「夏の夜」(op7)が作曲され、すでに幻想の妻ことスミッソンとは冷え切って別居していた彼は、1842年歌手のマリー・レチオを恋人として引き連れて、ヨーロッパを巡る演奏旅行に出発した。ブリュッセルや、ライプツィヒ、ドレースデンなどで演奏を行ない、シューマンやメンデルスゾーン、ヴァーグナーなどのロマンっ子達の協力を得ながら、成功を収めて43年5月にパリに戻った彼は、44年には「ローマの謝肉祭」「フランス賛歌」などを作曲上演し、「ドイツ、イタリア音楽旅行記」そして今日でも重要な「近代楽器法と管弦楽法」を出版するほどの活動をみせ、そのヴァイタリティーは留まることを知らない。
45年から翌年に掛けてはフランス南部からプラハ、ブタペストなどを巡る演奏旅行を行ないつつ、不屈の名作「劇的物語、ファウストの劫罰(ごうばつ)」(op24)の作曲を進めた。これはゲーテの傑作(・・・本当にあれは傑作なのかしら)を元にした、独唱・合唱とオーケストラのための作品で、パリに戻って12月6日に初演されたが、会心の自信作で足を滑らせる悲しい宿業を背負ったベルリオーズ、またしても大失敗したことは、彼のためにもお知らせするのが残念である。恐らく運命の大成功日である12月5日を一日逃したことが、決定的なミスだったに違いない。(・・・ほんまかいな。)
ファウスト先生の住むハンガリーの情景に始まる楽曲は、メフィストフェレスに連れられて、マルグリートを拐かして、逢い引き宜しく重ねていたというのが第3部までを形成している。しかし第4部では、マルグリートが母親に睡眠薬を飲ませたところ、ついうっかり薬が過ぎてお亡くなりてしまい、彼女は牢獄送りで絞首刑が言い渡される。ファウスト先生大いに慌てて、メフィストフェレスと魂の契約を済ませてしまい、その代わりマルグリートを助けるのだ、今すぐにですと叫ぶわけだ。さあどうなるのかファウスト先生の魂は。悪魔に食べられちゃうのかこうご期待・・・かどうかは知らないが、まあそんな楽曲なのさ。(急に投げやりな。)
大失敗に泣きながらロシアに向かうベルリオーズだったが、ロシアでの遠征は大成功を収め、イギリスにも渡って48年帰国。この年パリで2月革命が起こった。ベルリオーズは「回想録」の執筆も始め、50年にはパリにもロンドンのフィルハーモニック教会を作ろうと試みるが、これは会員が集まらず1年後解散。どうもどうしてもフランスだけが呪われている。パリの音楽界はいったいどうなってしまったのか。不審がった彼は、ひょっとして俺の名前だけで判断してんじゃ無いかと思い始め、50年の11月に「パリの宮廷礼拝堂楽長ピエール・デュクレが1679年に作曲した、古風なオラトリオの断章が発見されました」と自作を偽って作曲スタイルもバロック風に発表したところ、これが大絶賛されてしまった。はっはっは、実は俺だよとベルリオーズが顔を出しても、賞賛が消えないので、この曲を発展させて全3部の大作に仕上げた作品が、「キリストの幼時」(op25)であり、これは54年12月10日に初演され、完成型でも高い評価を得ることが出来た。
ベルリオーズは51年から55年にかけて定期的にロンドンで演奏を行ない、パリ以外では比類無い大作曲家として名声を博していたが、地元でも52年にパリ音楽院の図書館長に、56年にはフランス学士員会員に選ばれるぐらいのことはあった。(なんか冴えがない。)そんな中、別居の妻ハリエットが54年に亡くなったので、親愛なるマリーと再婚をする。49年に作曲されていた「テ・デーウム」op22が、ようやく55年になって初演。めげることを知らないベルリオーズは、56年にはいると壮大なオペラ「トロイアの人々」の作曲を開始した。
これは、最近ヴァーグナーの呪いもあってしっくりしないマブダチであるリストと一緒にいる、ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人から進められて始めた企画で、子供頃より親しんだヴェルギリウスの「アイネイアース」からトロイア戦争をオペラにするという着想を与えられて、我慢できなくなって書き始めてしまったらしい。これは58年に完成するが、非常に残念なことに、上演の当てが見つからず、ようやく1863年になってから、第2部だけが上演。22回上演され収入だけは大成功だったが、全体上演に向かうほどには至らず、そのまま死後の上演を待つことになってしまった。それより少し前、62年にはバーデン・バーデンにある劇場からの依頼でオペラ「ベアトリスとベネティクト」を作曲し、これは好意的に受け止められつつ、しかし第2の妻マリーはこの年お亡くなりて、心に隙間を感じながら、演奏旅行など致しておりましたが、67年にはハリエットとの間の子供ルイまで先に天上に行ってしまうので、68年ロシアに最後の遠征旅行に立ち向かった後は、翌年3月8日の死を待つのみだった。そしてトリニテ教会で葬儀が済むと、彼はモンマルトル墓地に葬られたのである。
2006/07/24
2006/10/24改訂