シューベルトの生涯と楽曲紹介

[Topへ]

フランツ・ペーター・シューベルト
  (Franz Peter Schubert)(1797-1828)

学習期

 小学校の校長先生をしていたモラヴィア出身のフランツ・テオドール(1763-1830)と、シュレージェン出身のエリザベス・フィッツ(1756-1812)が結婚して、大量の子供を産み落とした結果生き残った5人の子供の1人が、ヴィーン郊外リヒテンタールで生まれたフランツ・シューベルト(1797-1828)だった。誕生日は1月31日。貧しいものからは授業料を取らない結果自らも貧しいという清らかな父親は、学校経営者の傍(かたわ)らにチェロを嗜み、音楽好きの常として、子供に教育と共に音楽を覚えさせた。こうして幼きフランツも父親からヴァイオリン、さらに長男イグナーツからピアノの第一歩などを教わりならが、1階を教室として2階に家族が住まう集合住宅型の建物で幼少時代を過ごすが、この建物は今ではちゃっかり(?)シューベルト記念館としてヴィーンの観光名所の一つになっている。6歳からは学校に入学して学業の一歩も踏み出したが、音楽の才能が華開いてしまったので、慌てた父親はリヒテンタール教会の聖歌隊指導を行なうミヒャエル・ホルツァーに指導をお頼みて、オルガン、歌唱、理論などを教えて貰うことにした。
 軌道に乗って宮廷礼拝堂聖歌隊ソプラノ少年歌手として採用されたシューベルトは1808年、帝国が運営するカトリック系神学校、帝室王立寄宿制学校(コンヴィクト)に奨学金を得て入学。ここはヴィーンの事実上音楽学校として重要な施設であり、宮廷楽長のアントーニオ・サリエーリ(1750-1825)から作曲を学び、宮廷オルガニストのルツィツカ(1758-1823)からピアノも教わりつつ、寄宿寮オーケストラで第2ヴァイオリンを担当しながら、遊び仲間のヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788-1865)や、シュタットラー、ホルツアプフェルらと知り合いて少年時代を謳歌した。すでに1810年にはかなり長いピアノ曲である「ファンタジア」を作曲するほど、五線紙に飢えていたシューベルトを見かねた友人たちが、五線紙を買ってプレゼントしたり、ピアノの廻りに群がっては歌いまくって(?)居る間に、後のシューベルティアーデ(シューベルトの作品を仲間内で楽しむ夕べの演奏会みたいなもの。)の様相を呈してきたのだという。モーツァルトを敬愛し、ベートーヴェンを殿上人と讃えては自らの作曲の糧にしていたシューベルト。その有能と見込まれたか、1812年から約2年間、対位法やイタリア歌曲の作曲方法など、サリエーリから週2回のレッスンを無料で見て頂いた上に、彼との師弟関係はさらに後まで継続することになる。こうして作曲街道を走り出した彼は、やがて1813年に学校を退校する前までに、早くも80曲ほどの作品を完成させていた。ジャンルは日曜日や祝日に自宅で行なう、兄2人のヴァイオリン、父のチェロ、自分のヴィオラのための室内楽用の作品が多く書かれ、また1812年に母親がお亡くなりた時には、葬儀に使用するためか「キリエ」「サルヴェ・レジーナ」なども残され、交響曲第1番ニ長調(D82)は変声期を迎えて退学する1813年、校長先生に献呈されたのだそうだ。もしハイドンだったら、このシンフォニーが即刻「校長先生交響曲」と呼ばれるところだったが、そうはならなかったようだ。そしてこの年、お父様はあっぱれ再婚を成し遂げたのだった。

教師を捨てて

 3度も懲役検査の勧告を受けて恐れおののいたシューベルトは、軍役を避けるべく、ヴィーンの聖アンナ師範学校に入り教師資格を得ると、1814年からは父親の学校で初等教育の教師として仕事をしながら、実は作曲に情熱を燃やすという毎日が始まった。
 もちろん、先生には情熱を傾けなかったのであるが、この1814年のうちに、リヒテンタール教会でミサ曲が演奏され、一応公開演奏会デビューということになった。この「ミサ曲ヘ長調(D.105)」や最初のオペラ「悪魔の別荘(D.84)」がこの年に作曲され、さらには17歳のうちにやってのけちゃった離れ業として名高い、リート「糸を紡ぐグレートヒェン(D.122)」までもが作曲された。これはゲーテのファウスト第1部において、メフィストフェレスに連れられたファウスト先生が見事グレートヒェンを釣り上げる刹那に、乙女心満載でグレートヒェンが恋に目ざめてしまうという糸車の歌であるが、糸車の回転を特徴的なピアノ伴奏に織り込みながら、「あの方の握手、そして口づけ!」の歌詞で妄想高じて糸を回す手が止まり、ピアノ伴奏が途切れるような素人でも目に付く効果はもとより、その他にも非常にきめ細かい作曲の配慮が行き届いている。あたかもこの年開かれたウィーン会議が、ぐるぐると踊り廻りながら、突然に立ち止まったかのような見事な配慮が!(何のこっちゃ。)そのために、これを持ってドイツリートが旅立ちの朝を迎えたと言う人たちもいるぐらいだ。しかし、別の人は、「いいや、魔王こそが真のドイツリートの完成なのだ!」と大いに反論を加えるのだった。
 この頃も相変わらずアントーニオ・サリエーリのもとで作曲勉強を続け、またグローブ家と親しく付き合ううちに、自分より3歳年下の娘さんテレーゼ・グローブに恋心を抱いてしまい、「この方と一緒に神秘のご結婚など所望致したく」などと、心の内にあれこれ秘めた思い駆け巡っていたが、残念ながら彼女は後に他の男性に嫁いで行ってしまった。冬になるとヨーハン・マイヤーホーファー(1787-1836)という詩人とも知り合い、翌年1815年も学校の教師はどうしたのかと思うぐらい、交響曲2番3番を含む膨大な作品を生み出した。ただし、このマイヤーホーファーは後に家無しシューベルトが身を寄せていたこともあったシューベルティアーデ仲間だが、最後には自殺に追い込まれた。しかも男色高じての自殺という噂があるようだが、はたして「男色男色」との掛け声にシューベルトも「愉快愉快!」と叫んでしまったのかどうだか、余計な詮索は避けておくにこしたことはない。
 1815年にはいると、後に1821年にジョスカン没後300周年を記念して作品1として正式出版される「魔王(D.328)」が作曲されたが、これはシュパウンが書き残した逸話が今日愛されて必ず引用されている。
「マイヤーホーファーと友にシューベルトの所に遊びに行ったら、どうも驚く、大声でゲーテの「魔王」の詩を朗読しながらどたばた歩き回って居た彼は、唐突に、あるいは情感を押さえきれずに机の前に座ると、筆が紙を走るのさえもどかしいほどの速さで、あっという間にバラードを完成させた。彼の家にはピアノがないので、私たちはコンヴェクトに駆け込んで、大声で歌い続け、しまいには「すんばらしい!」「ひゃほーい!」と歓声を上げたのである。」
 そんな叫び声を上げたかどうかは定かではないが、この年には皆様お馴染みの「野ばら」(D.328)も作曲され、また交響曲第3番ニ長調(D.200)が完成した。音楽での職なども探し回っていたがなかなか見つからず、学校の授業中にうっかり黒板に音符を書き出したら、生徒が一同そろってそれを歌い出す始末だった。(・・・・そりゃどこかの捏造逸話だろう。)
 交響曲第4番ハ短調「悲劇的」(D.417)第5番変ロ長調(D.485)が作曲された1816年は、教師を辞める年となった。すでに学校に通うのが苦痛になって居たところ、シュパウンの家に出入りしていたフランツ・フォン・ショーバー(1796-1882)が「21世紀の不登校教師の走りかね?」と皆目見当も付かない事を言って、「これじゃあ息子さんのためにならないから」と渋るお父上を説き伏せた後、シューベルトを俺様の家に住む客人扱いとして学校から救い出した。こうしてシューベルトは、自らの収入源など無い状態で、親の金の変わりに、知人達の資本に大きく依存しまくりながら、現代のニートの走りさえも演じて見せたのである。友人たちは一丸となってシューベルトの作品を世に送り出そうと努力し、友人の中で一番身分の高いシュパウンはゲーテに手紙と共にシューベルトの作品を送りつけてみたが、ゲーテは恐らくよくあるお宝紹介の手紙だろうぐらいに考えて、あるいは目を通すことは無かったのかも知れない。そのままの手紙がヴィーンに送り返されてきた。またこの頃から、バリトン歌手のフォーグル(1768-1840)やら、未完成交響曲でお馴染みのアンセルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟など多くの人々と知り合いて、商人の家であるゾンライトナー家で自由に集会を許されたので、やがてシューベルトの音楽を仲間内で楽しむためのシューベルティアーデという名称で、大いに内輪の演奏会が開かれていくことになるわけだ。
 そんな訳で1817年になって、俺の歌を誰よりも旨く歌いこなせるフォーグルと知り合ったシューベルトは、この年リート「死と乙女」(D.531)や、「ます」(D.550)から、交響曲第6番ハ長調(D.589)までを完成させ、前途が開けているような心持ちがしてくるのだった。

名声を求めて

 1818年はニート脱出の年かと思われた。まず始めて入場料を獲得できる公開演奏会でシューベルトの作品「序曲(D.590)」が演奏されたうえに、夏の間エステルハージ伯爵の避暑地であるハンガリーのツェレスという場所で、伯爵の令嬢2人にピアノを教えるという至極まっとうな仕事を貰って、胸を張って避暑地に向かったのである。2人の令嬢マリーとカロリーネには当然一介のピアノ教師ぐらいの付き合いしか出来ないものだし、まだ幼い少女であるから、ついうっかり自分の世話を任された30歳の侍女と親しくなってしまった。嬉しくなって手紙に「侍女は三十路でとってもキュートで、僕の話し相手なのさ。」とか何とか書いている内に、侍女のペピーから「お姉さんが教えて上げる」と誘われたんだか何だか、内気なシューベルトはワクワクしながらベットに入ったら、見事梅毒にかかってしまい、後の生涯は梅毒と共に歩む切ない人生と相成ったという説が取りざたされている。
 しかし当面は順風に進んでいるので、避暑地での生徒2人のために「4手用ピアノ曲」を多数作曲したり、もちろん多くのリートやピアノソナータなどを作曲。翌年19年になると2月にリート「羊飼いの嘆きの歌(D.121)」が公開演奏会で歌われ、また別のリートが雑誌のおまけに載るなど、いよいよ名声獲得への道が開けているようなので、フォーグルと一緒に夏のバカンスとして北オーストリア旅行を満喫し、秋からはマイヤーホーファーの家に居候を決め込んだ。この年、自作のリート「ます」の旋律を利用した、「ピアノ5重奏曲イ長調(D.667)(通称「鱒のピアノ5重奏曲」)」も完成し、自信満々に自らの佳作をゲーテに送りつけて遣ったが、返答があった証拠は残されていない。
 1820年になると、ついにケルントナートーア劇場で彼のオペラが2つ続けて上演され、「弦楽4重奏断章ハ短調(D.703)」やら「さすらい人幻想曲(D.760)」などが完成した。翌年21年には記録の中に「シューベルティアーデ(シューベルトと友人たちの音楽の夕べ)」という名称が顔を出し、前から行なわれていたシューベルト集会も、定期的な会合として本格的に行なわれるようになってきたが、この年アントーニオ・ディアベッリ(1781-1858)の元で初めの7つの出版番号付リートが出版され始めることになり、作品1の「魔王」の売り上げが殊の外宜しかったので、次いで作品2の「糸を紡ぐグレートヒェン」と続いていくことになる。実際はこの後185曲ものリートが出版物として市場に出回り、結構な収入があったらしいので、大貧民の星としてのシューベルトのイメージもまた変わってくるのかも知れない。
 しかし一方で、カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)がドレースデンで上演する話が付いた「アルフォンソとエストレラ(D.732)」など、合わせて3つのオペラが上演まで到達できず、オペラ「ロザムンデ(D.797)」は僅か2夜で上演打ち切りと相成った。こうして大作曲家としての名声を獲得するための登竜門であるオペラでは、どうも冴えない舵取りとなったが、一方1822年には「ヴィーン一般音楽新聞」にシューベルトの歌曲の批評が載るなど、次第にリート作曲家として認められ、1822年10月30日の日付で交響曲第7番(D769)の総譜化が始まるなど、さらなる高みに到達すべく精進を重ねていた。

要塞に出かけて

 ところがどっこい、彼の精進は別の方にも突き進んだ。1821年頃から友人のフォーグラ、シュパウンらと溝が出来はじめ、シューベルティアーデをすっぽかしたりと、良くない兆候が現れ始めた。一説によると、ニートの生みの親である親愛なるショーバーと一緒に、夕暮れになってからこっそりと出兵するという変わった遊び、日本では「不夜城がよい」とも呼ばれることがある夜の要塞がよいが、シューベルトの中でマイブームとなってしまったのだそうだ。こうして若きシューベルトの、錯綜した夜の世界が完全に華開いてしまった。そして、シューベルトが見事に梅毒に冒されたのは1818年ではなく、要塞大フィーバーに明け暮れた1822年の夏のいずれかで、通い詰めた挙げ句に移されたかも知れないというから驚きだ。ロッシーニがヴィーンに遣ってきて旋風を巻き起こしているからと言って、なんたる羽目のはずしよう。ライブドアショックならずとも、明確な物証でも出てきたら、シューベルト株が暴落する危険はないのか。しかしご安心あれ、彼は作曲というしっかりした生産ラインを持っているから、空っぽの株高が崩壊するようなことは無いのである。こうして要塞攻略に出かけては、朝になって打ち負かされて家路につくというすさんだ生活の挙げ句、ついに22年の終わり頃、皆さんが口をつぐんで誰も病名を書かないという、「男なら分かってくれるよね病」が、ついにシューベルトの体調を恐怖のどん底に叩き落としたのだ。「梅毒梅毒切ない切ない」と寝たきり状態になったシューベルトは、1823年2月28日には「健康状態が外に出ることを許さないから訪問できないのよ」とうなだれた手紙を送り、皆を心配させつつヴィーンの一般市民病院に入院する事態(5月頃から?)にまでなった。
 ベートーヴェンがミサソレムニスを完成させ交響曲第9番の筆を進め、ウェーバーがヴィーンでオペラ「オイリアンテ」を初演して華々しい活躍を遂げている1823年に、何という失態か。とうとう一時は髪の毛まで全部抜けきったため、日本人なら出家の道を歩むところだったが、そういう訳にもいかず、非常に難儀な思いをしていた。体調が良くなるかと思えば、またひどい症状が帰ってきて、8月に「健康はまあまあ良好」と書いたかと思えば、11月初めにはまた悪化、11月末には虚勢を張って「完全復活」と手紙を出しみれば、翌年4月の知人の手紙では「シューベルトはもう歌えないし、間接が痛い痛いと言っています」と書かれる有様。したがって、交響曲第7番が完成されなかった真の理由として、梅毒でしばらくお優しくなって作曲できなくなっていた上に、これ以降は作曲観が変化して興味を失ったとか、取りあえず当面自分の優先順位の高い仕事を行ないつつ、後で完成させる気持ちはあったのだが、時間が残されていなかったという見方は、あるいは真実に近いのかも知れない。
 シューベルトがこんな有様だったので、シューベルティアーゼも開かれなくなり、元々離れ気味だったシューベルトの友人たちも彼の周辺から遠ざかり気味だった。22年から作曲が開始して23年に完成したリート集「美しい水車小屋の娘(D.795)」の一部は、この入院先で作曲されていた可能性があるそうだ。他にも、付随音楽「ロザムンデ」も23年に完成し、ピアノ曲「楽興の時(D780)」はこの年から作曲を開始している。しかしこの後シューベルトの魂は、楽しい快活の精神から幾分陰鬱の籠もる状態に変質して行くかもしれない。

さらに作曲の質が高まって来る

 幸いと峠を越して症状が治まったのか、24年5月に再びエステルハージ家から避暑地でのピアノ教師の仕事を貰ってツェレスに出かけたシューベルト、これから数年は体調悪化の話は手紙から消えるそうだ。ツェレスではすっかり魅力的な18歳に成長していたカロリーネと再開し、知人への手紙で彼女を「魅力溢れた生ける星」と書いて讃えるほどのゆとりを見せたが、もともとひどい近視で小太り気味で背の低かったマッシュルーム君であるシューベルトに、カロリーネが恋心を抱いたとも思えず、病後のこけた顔をじろじろ見られて「先生急速にお老けなすって」と言われるぐらいで終わってしまったかもしれない。
 この年には歌曲「死と乙女」の旋律が取り込まれた弦楽四重奏曲ニ短調「死と乙女」(D810) や、8重奏曲ヘ長調(D.803)、さらに1823,24年頃シュタウファーによって発明されたアルペジョーネという楽器のためのアルぺジョーネソナタイ短調(D821)も完成したが、これは今日ではもっぱらヴィオラかチェロで演奏されている。
 翌年25年になると、サー・ウォルター・スコット(1771-1832)の詩を曲にして3つの「エレンの歌」を作曲しそれなりの収入を獲得したが、この「エレンの歌」第3番は有名な「アヴェ・マリア」(D.839)そのものだ。「ピアノソナタイ短調(D.845)」などの出版も軌道に乗り、シューベルティアーデも多く開催されるようになり、すべてがうまく回り出したようなので、夏になるとまた北オーストリアのグムンデン、ガスタインに旅行を楽しむと、未来が開けているような心持ちがしてきた。そしてある説では、24年にベートーヴェンの第9番交響曲を聴いて霊感を得て作曲開始した交響曲(グムンデン・ガスタイン交響曲と後に呼ばれるもの)が、この旅行中に完成され、これが27年のヴィーン楽友協会理事に選任された事を受けて提出され、100フローリンを獲得することになったが、28年になってシューベルトが初めての自作だけのリサイタルでこの交響曲を演奏しようとしたところ、「あまり長くて難解じゃけれ、グレートじゃない方にしておくれんかなもし」と楽友協会側からお断りされて、小さなハ長調交響曲である第6番が演奏されることになったという。これを持って交響曲第8番「ザ・グレート(大きい方)」(D.944)の名称が誕生したというわけだ。結局演奏されなかったこの曲は、シューマンが1838年に発見して、メンデルスゾーン指揮で初演されることになった。

30代前後なのに晩年とは

 話を戻して大曲に熱を注いだ25年だったが、ウェーバーのお亡くなりた翌年26年には、弦楽四重奏曲ト長調(D887)が作曲される他、相も変わらずリートが作曲され続けている。27年に入ると病床のベートーヴェンを見舞い、同年大王がお亡くなりた時には葬列の松明を持って振り回して叱られたりした(・・・振り回してません)。この27年には、ピアノ学習者にお馴染みの2つの「4つの即興曲(D.899、D.935)」が完成し、不滅の名作「冬の又三郎」・・・じゃなかった、ヴィルヘルム・ミュラーの詩に基づくリート集「冬の旅」(D.911)も完成、作曲家としてさらなる高みに登っている所だったが、ホワイトアウトか、それともザイルが切れたか、急に頭痛がし始めて体調悪化、鬱状態もひどくなり、年末には人様にお会いできないほどになってしまったという。原因は最近の説によると、梅毒治療に当時じゃんじゃか使用されていた水銀の治療によって、水銀中毒に掛り、この恐怖の水銀が、彼を次第に頭痛や憂鬱の症状に追い込みながら、ついに27年に最終的な発症となって、結局立ち直ることが出来ないまま、1828年の11月19日にお亡くなりてしまったというのだ。死の5日前には自分だけのためにベートーヴェンの弦楽4重奏曲(op131)を演奏して貰ったという話がのこされている。そんなわけで父親は死因を「神経熱」と記し、「腸チフス」の説も取りざたされたが、これらは当時の謎病に使用する代名詞で、恐らく直接の死因は水銀中毒だというのである。したがってこれからはシューベルトと聞いて、「梅毒梅毒切ない切ない」とからかう子供が居たら、注意して改めさせて、「水銀水銀怖い怖い」と切実に訴えることを教えたいものだ。
 しかしお亡くなる前、28年の3月には生まれて初めて自らの作曲作品だけでの自作公開演奏会を行ない成功を収め、命さえ尽きなければ前途は明るいものだったのかも知れない。この年、結局演奏はされなかったものの、この演奏会のためにさらに推敲を重ねていた交響曲第8番ハ長調「ザ・グレート」(D.944)が最終的に完成し、また教科書も讃える弦楽5重奏曲(D.956)や、最後の3つのピアノソナタ(特に最後の変ロ長調D.960が有名)が完成され、晩年に作曲されていたリートは死後まとめられリート集「白鳥の歌」(D.957)として後の世に伝わることになった。一方この水銀中毒はシューマンがピアニストを断念する原因と、晩年に彼が海底2万マイルを目指してライン川に飛び込んで、病院送りになってしまった事件の原因にもなっているらしいから恐ろしい。・・・・と最後に余計な脱線を含みつつ、以上がシューベルトの本を一冊も読まないで切り抜けた、シューベルトの誤魔化し略歴のすべてである。

2006/1/27
2006/2/2改訂

[上層へ] [Topへ]