10-2章 17世紀後期フランスのオペラと音楽

[Topへ]

フランスにおけるオペラ前夜

 カルヴァンが編み出した新教徒が元で、貴族同士の利権の絡んだユグノー戦争が1562-98年に渡って繰り広げられると、フランスは「以後ろくに(1562)食わ(98)ずに」内戦状態を悲しんだ。1572年には摂政カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)の思惑すら越えてカトリック民衆による新教徒虐殺(サン・バルテルミの虐殺)まで沸き起こると、ギュイーズとアンリ3世が順番に暗殺されたので、ブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルが1594年に新教からカトリックに改宗する戦略によってアンリ4世として即位を認められた。彼は1598年のナント勅令により新教を認め、一部都市で公的礼拝を認めるおふれを出すと戦争を終結させたのである。アンリ4世はシュリ公マクシミリアン・ド・ベテュヌ(1560-1641)に財政を任せ、シュリ公は「農耕と牧畜がフランスのおっぱいだ!」と叫びながら農業政策を遂行、女性の胸を讃えるフランソワ1世の伝統に則ったが、国王アンリ4世は「どうかそこに工業も加えておいてくれ。」と注文を加えた。
 その後フランスではカトリックの勢力がますます強くなり、ついにカルヴァン派新教勢力はすっかり意気消沈してしまった。あるいは宗教の情熱そのものが社会における中心から幾分離れた為かも知れないが、クレマン・マロ(1496-1544)が詩編をフランス語に翻訳して始まったクロード・グーディメル(c1514-1572)クロード・ル・ジュヌ(c1530-1600)のカルヴァン派宗教音楽も、バロックな頃にはすっかり下火になってしまうのである。一方カトリックの宗教曲としてはジャック・モーデュイ(1557-1627)の「レクイエム」(1586現存部分的)や、アンリ4世の葬儀で演奏されたウスタシュ・デュ・コーロワ(1549-1609)の「死者のためのミサ曲」(1606)など作曲が続くが、ここバロック時代にいたっては音楽史の記述のウェイトそのものが宗教曲から世俗曲に移行していくことになる。

バレ・ド・クールな時代

・王妃ルイーズがブルゴーニュ地方やイタリアの宮廷で流行していた、舞踏音楽であるバレを取り入れて、一つの詩による物語的な総合スペクタクル舞踏を、1581年に「シルセ、あるいは王妃のバレ・コミーク」として上演させた時、フランス独特のバレ・ド・クール(宮廷バレ)が誕生した。その後しばらくは無骨者の喜劇バレばかり流行っていたが、ついに1609年、以前アンリ4世の王妃だったマルグリット・ド・ヴァロワが「私のことをマルゴ王妃とお呼び!」と命じながら上演した「王妃(だったマルゴ)のバレ・コミーク」が上演されると、以後宮廷音楽に相応しい優雅さを獲得したバレ・ド・クールが盛んに上演され、この時作曲をこなしたピエール・ゲドロン(1570/75?-1619/20)は後の多くのバレに関わった。さて、子供も作れぬ嫁ならばと離縁されたマルグリットに変わり、アンリ4世はメディチ家から嫁を迎えるべくフィレンツェに向かった。オペラ「エウリディーチェ」の上演で皆さんお馴染みのアンリ4世とマリ・ド・メディシス(マリア・デ・メディチ)の婚礼の後、パリに遣ってきたマリ・ド・メディシスは1604年にカッチーニをこの都に招くなど新音楽の布教を始め、イタリアでのオペラとモノディ音楽は直ちにフランス人の知るところとなったのだが、バレ・ド・クールによる舞踏中心の祝祭的出し物があまりにもフランス人気質に合っていたためかオペラに対する関心は薄く、カッチーニのモノディーな調べもエール・ド・クールの人気の前にあえなく消え去った。

エール・ド・クール(宮廷歌曲)

・エール・ド・クールというのはヴォドヴィルというホモフォニックなシャンソンから生まれた有節的な歌で、初めはルネサンスシャンソンの名残の見られるポリフォニック・アンサンブルが多かったが、この頃になるとリュート伴奏による独唱、2重唱の歌曲が好まれ、すでに16世紀後半から大流行を極めていた。エール・ド・クールの中には単独作品からのし上がってバレ・ド・クールの中に挿入されるものさえあったのである。アンリ4世時代の重要な作曲家は先ほどのゲドロンだが、肝心の国王アンリ4世は1610年にパリの街角で馬車もろとも暗殺されてしまった。

ルイ13世(在位1610-1643)でもまだ駄目よ

 9才のルイ13世をマリ・ド・メディシスが摂政としてイタリア人のコンチーニが影ながら操るうちに、コンデ公らが大反乱を引き起こしたので、仕方がないから大金を差し上げてお帰り頂いた。そんなうわべだけの国王ルイ13世とスペイン家の娘アンヌ・ドートリッシュを結婚させるために開催された1614年の全国身分会議(三部会)では、第1身分の聖職者と第2な貴族と第3身分とは云っても到底一般市民ではない高等法院などの官職保有者達が対立したので、これはいかんと翌年解散して三部会に蓋をして縄で括ってしまった。この縄が切って落とされる時フランス革命が始まるがそれはまだ先の話し、国王はお縄頂戴騒動の時に獲得したリシュリュー(1585-1642)を重要な助っ人として、コンチーニを討ち母を遠ざけた後、ドイツでは30年戦争始まる1618年から、リシュリューを宰相にルイ13世の親政が開始するのである。
 こうしてフランス中央集権化が急加速し、地方の貴族や第3身分を代表する高等法院の反感を尻目に地方総監アンタンダンが派遣され、中央役人が直接地方を監督する体制が確立。かつて内乱を引き起こした新教徒が軍事力を保ったままなのに不安を抱き、ラ・ロシェル市で叛乱があったのに乗じてすべての新教徒から政治的力を奪い取ってみた。こうしてイエズス会も活躍する強力カトリック国になったフランスは、不埒なことに30年戦争が起こるとハプスブルク家に対抗するために平気で新教側に旗をなびかせ、36年からは直接参戦までこなす越後屋のようなえげつなさでぶルボン朝を謳歌していった。そんな歌が下層民に届くはずもなく、財政確保の為の重税が元で貴族の叛乱と共に農民の反乱が相次いだが、切ないほどに弾圧されて打ちひしがれた。

王宮音楽組織の形成

・この時代、文化政策にも力が入れられ、1635年には国語の研究から近代フランス語を誕生させることになる「アカデミ・フランセーズ」が創設、1640年には「王立印刷所」を置き文化邁進に勢いを付けた。一方別の舞進として舞踏会や音楽会が国王中心に沢山催され活気を呈した。バロックフランスの土台を提供する音楽組織も確立したが、それは次のような組織になっていた。

宗教曲
→王室礼拝堂聖歌隊(シャペル・ロワイヤル)
世俗曲
→エキュリ(野外音楽など)
→シャンブル(宮廷内での音楽などで、音楽監督の下に楽長を置き、専属作曲家も組みする)
その他に
→王の24のヴァイオリン(グランド・バンド)という王付きのヴァイオリン部隊が音楽親衛隊として活躍した

バレ・ド・クール最盛期

・マリ・ド・メディシスが摂政だった時代、詩と音楽に舞踏とパントマイムの合わさったバレ・ド・クールは宮廷音楽のとっておきとして刈り取りのシーズンを迎えた。例えばルイ13世が結婚した1615年にピエール・ゲドロンとその娘婿アントワーヌ・ボエセ(1586-1643)によって作曲された「王女陛下のバレ」や、ルイ13世が企画し自ら火の悪魔役を己惚れ演じきった1617年の「ルノーの救出」などがあるが、この救出もやはりゲドロンが音楽を担当し、この時演じた火悪魔の情熱を胸に秘めたルイ13世は、3ヶ月後自ら政治を指揮する親政を開始するのであった。

・1620年頃にリシュリューが本格的に政治の中枢にのめり込むと、それに合わせるようにバレ・ド・クールがより小市民的題材のメロドラマ仕立てに変化し、やがて合唱に始まり一連のアントレが続く「バレ・ア・アントレ(入場付きバレ)」が誕生した。アントレとは登場を意味するフランス語で、当時の音楽用語では幕の一部や1情景を表わす一方、主人公の登場や開幕の舞踏もアントレと呼ばれていた。ここから転じて組曲の序曲もアントレと呼ばれる当時あの頃なのだが、入場的合唱付きのバレが、アントワーヌ・ボエセらを中心として発展し、後のオペラ・バレの布石を打ち込んだ。

エール・ド・クール

・漸く1628-30年頃になってモノディ風の通奏低音型がフランスに降り立つより遙か昔から、フランスではリュートが大流行を極め、ルイ13世も1612年からロベール・バラール(c1575-c1650)にリュートを習い、後に王妃のアンヌ・ドートリッシュもエヌモン・ゴティエ(1575-1651)から弾き方を伝授して貰った。それどころか、リシュリューまでもリュートが弾きたいと言いだして、エヌモン・ゴティエの門を叩いたが、さすがの名宰相もこれだけはふるわず「宰相どのは国家という音楽の演奏に専念した方がよさそうです。」と云われてしまった。そんなわけで有力貴族達は競い合って音楽家を雇い入れ、自ら雇った音楽隊で演奏させることがステータスにもなっていく。王妃は彼女専用の音楽組織を持ちアントワーヌ・ボエセを抱え込んだし、ルイ13世の弟ドルレアン公はミシェル・ランベール(1610-1696)を雇い入れた。リシュリューまでも1632年に壮大な劇場付きの宮廷をこしらえて、ジャン・ド・カンブフォール(c1605-1661)などを呼び込んだら、この宮殿は後にルイ14世に提供されパレ・ロワイヤルと呼ばれることになった。ランブイエ伯爵夫人に始まる女主人開催のサロンも開始され、スキャデリー嬢のサロンでは「プレシオジテ」なる超インテリ指向のもったいぶった趣味の世界を堪能し、ドニ・ゴティエ(1603-1672)などの音楽家が活躍を見せた。中でもグランド・マドモワゼルと呼ばれた、モンパンシエ嬢のサロンは極めつけの大サロンで、やはりエティエンヌ・ムリニエ(c1600-1669以後)などが作曲しながらサロンをふらふらした。

宗教音楽

・カトリック音楽が大量に残っているのだが、次第に著述領域が狭くなるのは何故なのかしら。そんな寂しい作曲家の例としては、王室礼拝堂副楽長を務めたニコラ・フォルメ(1567-1683)やフランスオルガンの礎を築いたと言われるジャン・ティトルーズ(1562/3-1633)、さらに南フランスで暴れ回っていたアンニバル・ガンテーズ(c1600-c1668)などが居た。

青年ルイ14世とフランスオペラ

 1642,43年にリシュリューとルイ13世が相次いで亡くなると、43年わずか5才のルイ14世がフランス国王に即位した。まるで13世の時と同様の遣り方で母のアンヌ・ドートリッシュが摂政を務めそれを枢機卿のマザランが支えきる。30年戦争の締め括りでは貴族同士の対抗意識をえげつなく利用した采配によりコンデ公が大いに活躍する直接戦争介入によって、見事48年のウェストファリア条約はフランスの勝利条約と相成った。戦争の水面下で苦しんだフランス農民と負担増加の市民達、さらに売官制で貴族の称号と役職を手に入れたのに地方総監アンタンダンに監督される高等法院の面々など欲求不満が燻(くすぶ)る中で、重商主義政策によって貿易・金融業者だけは甘い汁を吸う。この偏った汁物に嫌気が差してか高等法院と民衆が手を結んだ。1648-53フロンドの乱の始まりである。結局高等法院と民衆は結んだ手がほどけて、高等法院のフロンドと呼ばれる前半戦はあっけなく幕を閉じたが、叛乱を見て取ってもう一つの不平者である地方貴族が王権反対貴族と手を携え民衆を扇動した。貴族のフロンドである。走り回って逃げるルイ14世を追いかけ、とっ捕まえるのかと思えば何のことはない、結局貴族民衆それぞれに分裂しているところを叩かれて鎮圧されてしまった。鎮圧に気をよくしたマザランは30年戦争以後も争い続くスペインとの戦争に1659年有利な条件でピレネー条約を終結し西の国境を固め、1660年にはそのスペインから女王を嫁がせて西の脅威を取り除くためマリ・テレーズ(1638-1683)をルイ14世に与えてみた。
 マザランはリシュリューの政策を引き継ぎ、旧貴族層や高等法院などの購入貴族(貴族の称号を購入して買い取った成り上がりもの)の反感を押え、地方総監アンタンダンを強化し中央集権と官僚制を確立。直接税(タイユ税)を減らし、間接税(塩税など)を増やして、重税の印象を減らしつつ財源を確保。しかしタイユ税は聖職者や貴族に免税特権があるために、結果として民衆の怒りを招いた。後のフランス革命に連なる土台も又、この時期に形成されていったのである。

イタリア・オペラ導入の試み

・イタリア人でバルベリーニ家とも親交を持つローマ神学校卒業生の宰相マザランは考えた。「どうかしてイタリアのオペラの魅力をフランス人にも広めたいものだ。」彼は早速歌手と作曲家をイタリアから調達し、演出家のジャコモ・トレッリ(1608-76)まで呼び寄せて1645年に初めてイタリア・オペラを上演した。トレッリはヴェネツィアで舞台装置家として君臨し非常に効果的に舞台を操る魔術師だったから、フランス人も気に入るに違いないという訳である。しかしフランスの人々は確かに舞台を褒めちぎったが、肝心の音楽には無関心。泣きながらアマリリつれなしと歌うマザランの元に、新教皇誕生により逃れてきたバルベリーニの人々が頼ってパリに来た。よしきたマザラン、この時一緒に付いてきた音楽家にオペラを遣って貰って反応を伺うが、フランスの皆さんやっぱり音楽には無頓着。こうなりゃこれで極めつけ、ルイージ・ロッシまで呼び込んでオペラを上演するが、やはり音楽だけは浮かばれない。ついにはフロンドの乱が始まって石まで飛んできた。こりゃもう音楽どころじゃないや。
・しかし別の所でフランス音楽の救世主がちゃんとイタリアから潜り込んでいるのだから、世の中というものは不可思議なものだ。フィレンツェからグランド・マドモワゼルのイタリア語の話し相手兼哀れ雑用係を全うすべく連れてこられたジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)が、フロンドの乱によりパリを追われたモンンパンシエ嬢の元から離れて、1652年にパリでルイ14世の宮廷に使えることになったのだ。こうして翌年、歴史に名高い1653年の「夜のバレ」が同じ年に生れたコレッリを讃えるかのようにトレッリの舞台演出で行なわれるのだが、残念ながら我らがリュリ氏は作家じゃない方のモリエールと共に踊る方に回されて、音楽はジャン・ド・カンブフォール達が担当した。この時ルイ14世があまねく輝きもの皆を見守る太陽に扮装し、リュリが「光あれ」と叫ぶとモリエールが「あそこからだ!」と答え、天上からぶら下げられたルイ14世がぺかぺか光ながら降りてくるという演出が後に彼を「太陽王」と呼ばせる事になった。一方リュリはルイ14世を支える小さなヴァイオリン親衛隊である「王の小さなヴァイオリン」(プティト・バンド)を自らの指揮でデビューさせている。
・ところで、マザランはあまりにもオペラ導入の試みが空振りの連続なので1658年には自分でバレ・ド・クールを主宰するなど老人になった振りをしていたが、1659年にルイ14世とスペイン王家の娘マリ・テレーズの結婚式が決まるやいなや、最後の力を振り絞ってイタリアのカヴァッリに声を掛け新作オペラの依頼を試みた。これを聞いて心配になったルイ14世はこっそりカヴァッリを呼び寄せ「どうかオペラの中にバレ曲もふんだんに差し込み給え。フランス人はバレがなくちゃ完結しないから。」といって励ましたが、1660年が来てみればカヴァッリは「いやあ宰相様、作曲も政治もいつもうまく行くとは限りませんね。」あはははと笑って旧作の「セルセ(クセルクセース)」を上演させてしまった。もちろんバレ曲を折り込んでは見たのだが、フランスの皆さんイタリアから遣ってきたカストラートに対して「きもい」と連発なすって、哀れマザランはすっかり意気消沈してそのまま天上に召されてしまったので、1661年からルイ14世が意気揚々と親政を開始するのである。カヴァッリのバレ曲入りの新作オペラ「恋するエルコーレ」が上演されたのは漸く1662年になってからであった。

新しい時代の幕開け

・ルイ14世は「舞踏の王立アカデミ」(1661)や「音楽と詩の王立アカデミ」(1669)など多くの王立アカデミを創設し、国王を中心としたフランス文化の邁進を遂行、1661年にはカンブフォールの死を受けてリュリ氏が音楽監督兼作曲家にのし上がり、後の時代の第一歩を踏み出すと、同じく楽長に就任したミシェル・ランベールはすっかり日和ってリュリ氏に娘を嫁がせた。音楽は相変わらずバレ・ド・クールに満ちあふれていたが、この1661年、モリエールの台本によって喜劇的なバレ「うるさがた」が上演されコメディ・バレの先駆となったが、ここでまた一悶着あった。バレを上演した財務総監フーケの屋敷の豪邸っぷりに驚いたモリエールが「これなら、国王だって小さく見えますね。」といったら、フーケが「なんぼ小さく見えるったってせいぜい犬小屋ですよ。犬小屋。」と言ったから大変な騒ぎになった。壁に耳あり障子に目あるルイ14世はこれを聞くと真っ赤になってジャン・バティスト・コルベール(1619-1683)に向かって「おい、凍れる魂、大理石のジャンよ、フーケなんて奴はたくあん石に括り付けて海に沈めちまった方がフランスのためだ。」と気炎を上げれば、案の定フーケは逮捕され、コルベールが財務総監に繰り上がった。怒り納まらないルイ14世はちゃぶ台をひっくり返すと、誰にも犬小屋扱いされない世界一の宮殿の建設を決意。1661年に開始して、1682年まで20年以上の歳月を掛けて完成されるヴェルサイユ宮殿のプロジェクトが始動した。この20年の間に、ルイ14世は踊るのを止め、それに合わせて、バレ・ド・クールの流行も下火になり、新しく誕生したコメディ・バレも1673年のモリエールの死と共に大きく退いた。いよいよオペラが離陸する最後の曲がり角がゆっくりと通り過ぎていくのであった。

ルイ14世(在位1643-1715)の親政

 カヴァッリに弄ばれ天に召されたマザランを追悼したルイ14世は、貴族達によるはれぼったい顧問会議を閉鎖、少人数重臣による会議を中心に1661年自ら親政を開始した。「私が国家だ!」の一声で、中央集権的官僚機構とその下に連なる地方総監制度を完成させ、兵制改革と、財政改革に乗り出すのである。
 兵制改革では貴族達の役職を少しずつ骨抜きにして彼らの私兵の力を弱めながら、国民徴兵制の度合いを増加させ、ヴォーバンに任せて軍隊・戦術・兵器の改良を行うと共に、貴族と密接な関係を持つ騎兵隊を中心とする戦術から歩兵を中心とする戦術にウェイトを移し、その背後で砲兵が活躍する新しい布陣を敷いた。
 一方財政改革では、旧態依然たる国内産業の復興整備が進まず国際貿易に出遅れ、戦争っ子ルイ14世の多大なる戦費も増大し、加えて17世紀中期の全ヨーロッパ的な飢饉が重なった三重苦を脱するために、重商主義政策がコルベールによって推進された。高関税により輸入を減少させ、国内産業を保護し、輸出品の質を向上させ輸出を増加させながら、東・西インド会社など大航海貿易特権会社を組織、「国富は金・銀の量で定まる」とうわごとのように繰り返しながら、コルベールはコルベルティスム(コルベール主義)を全うした。

ヴェルサイユな祝祭

・ルイ14世は犬小屋の恨み忘れず、フーケから奪い取った芸術家を総動員し、ルイ13世が狩りの館としたヴェルサイユに膨大な宮殿建設を決意した。建築家ルヴォーに画家兼修飾家のシャルル・ル・ブラン、造園家のル・ノートルらにプランを与え、完成する前からその地にてどしどし祝祭を催した。例えば1664年には「魔法の島の楽しみ」という大祝祭を行ない、ここでは作家のモリエール(1622-1673)にリュリが音楽を付け、カルロ・ヴィガラーニの舞台装置でバレが踊り狂うコメディ・バレも上演。1668年には、フランドル戦争の和平を記念して、記念祝祭「ヴェルサイユの大ディヴェルティスマン」が上演。先ほどの3人組みの出し物が中心を成し盛大に繰り広げられる中、愛人をルイーズから王妃侍女だったアタナイス・ド・モンテスパンに鞍替えした挙句、戦争にまで逢い引きよろしく連れて行ったルイ14世が一層の宮殿拡張をご命令遊ばした。1672年からイギリスと同盟を結んでオランダを奪い取ろうとしたオランダ戦争を引き起こせば、戦のさなかの戦勝記念で遂にリュリ氏のオペラ「アルセスト」が上演され祝祭のハイライトを飾ったのである。彼は一番の問題であったレチタティーヴォのフランス版レシを生み出すと、フランス語の調子に合わせ絶えず拍子が移り変わる朗誦様式を導入し、フランス宮廷歌曲であるエールとレシの交代に、器楽曲サンフォニやフランス人お好みのバレを組み込み、自ら最適な序曲ウヴェルチュールを形式化し、一つの独自のオペラ様式を生み出した。この「アルセスト」では、台本をジャン=フィリップ・キノ(1635-1688)に任せ、これをもって偉大なオペラの開始を告げることになった。後のフランス人作曲家が、リュリとルイ14世の影響力から進んでこの様式を取り入れたからである。しかしこの作品にもかかわらず、オランダ戦争自体は78年に幾つかの領土を得るだけにとどまった。
・ここで生み出された序曲ウヴェルチュールを説明しておくと、5声部の弦楽器で演奏され、楽譜に記入されなくても付点のリズムで演奏される荘重なずっしりとした2拍子の前半部とその繰り返しの後、テンポの速いフゲッタ風のアレグロが続きこれがもう一度繰り返される、その後に最初の部分と似たアラルガンドが入る事があり、後この部分の拡大が一般的になると、全体として緩ー急ー緩の3部分の楽曲として、管弦楽組曲の序曲などにも使用されるようになっていった。
・ヴェルサイユの方は1677年から、新建築主任にジュール・アルドゥアン・マンサール(1646-1708)が就任、新館の北と南に巨大な翼を広げて宮殿を更に拡張し、「鏡の間」を建設すれば、80年代末にはル・ブランの内装も終わり、一通りの形になった。今日残る礼拝堂は1710年になって、オペラ劇場も1770年のマリ・アントワネット結婚式に合わせて開場となるものの、喜びに我慢できないルイ14世は、1682年、ついにヴェルサイユに大量の貴族を引き連れて定住を決意したのである。その宮廷を舞台としてルイ14世は国王生活のすべてを役者のように演じきることによって、貴族達を犬としての脇役に据え置いて一層の体力削減に成功した。しかしさすがに財政難と、国王親近者の死などによって、大祝祭は漸く下火になってくる。

この時代のシャンブル

・ルイ14世が親政を開始した頃に音楽監督はジャン・バティストな2人組みであるリュリとボエセ(1614-1685)が任されていたが、彼らの死後それぞれの息子が同じポストに転がり込むなど怪しい新任を経て、1689年にミシェル=リシャール・ド・ラランド(1657-1726)が、1696年にリュリの同名次男ジャン・バティスト・リュリ(1665-1743)がそれぞれ音楽監督に就任するに及んで、新体制が確立。ド・ラランドは楽長と作曲家の役職も兼任し、実際上の音楽界のドンとして君臨した。「王の24人のヴァイオリン」と「王の小さなヴァイオリン」の人材拡充に始まり、シャンブルには多くの音楽家が終結。漸くリュートの影から躍り出てきたクラヴサン・スピネット奏者には、フランスクラヴサン音楽のお父上と呼ばれたジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール(1601/2-1672)と、弟子のジャン・アンリ・ダングルベール(1635-1691)、更にその息子のジャン・バティスト・アンリ・ダングルベール(1661-1735)などが活躍。他にもリュート奏者のルイ・ド・モリエール(c1615-1688)や、ヴィオール奏者のマラン・マレ(1656-1728)が登用され、競い合って曲を送り出していた。

この時期のエキュリ、シャペル

・野外音楽なら祝祭から狩りから従軍までこなすエキュリも拡張され、王室礼拝堂シャペルにおいては1662からアンリ・デュ・モン(1610-1684)が実質上のトップである副楽長に就任、1673年からはド・ラランドも遣ってきて次第に勢力を強めていった。また専用のオルガニストとして1693年からフランソワ・クプラン(1668-1733)が、1703年からルイ・マルシャン(1669-1732)が加わり、世俗音楽だけでなく宗教音楽も非常に充実した。

そんな宗教音楽

・ルイ14世時代の王室礼拝堂では聖書の詩によるモテットが好まれ、グラン・モテ(大モテット)プティ・モテ(小モテット)の形体があった。グラン・モテは、独唱と2重合唱と十全なオーケストラの為の壮大なモテットであるために、場合によっては十全モテットと呼ばれても差し支えがない。代表的な作曲家には、リュリ、シャルパンティエ、デュモン、ド・ラランドなどがいるが、特に70曲以上の手の込んだグラン・モテを作曲したド・ラランドは後に十全老人として崇められることになった。それに対してプティ・モテは少数声部のためのコンチェルトのフランス版で、フランソワ・クプランの「暗闇の日課(ルソン・ド・テネブレ)」(1714)を聞いて涙を流さないものは潜りに相違ない。これは旧約聖書の「エレミアの哀歌」に付けられた音楽で、17世紀フランスで非常に流行っていたものである。さらにクプランにはフランスのバロックオルガン曲として重要な「教区のためのオルガン・ミサ」と「修道院のためのオルガン・ミサ」も残したが、これはフランス式の聖歌隊とオルガンが交互に短く区切られたミサの部分を進行する。
・これにたいして、オラトーリオなどのジャンルも作曲され始めた。しかし、フランスの皆さんは高貴なためか俗語のオラトーリオを大変痛ましく思いなすって、マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645から50頃?-1704)はイタリアとフランスの叙唱とアリアの様式を結びつけたようなオラトーリオを、あくまでラテン語(オラトーリオ・ラティーノ)で作曲した。

パリの音楽とオペラ

 ルイ14世が戦争とヴェルサイユに明け暮れる頃、パリでは自立的な音楽繁栄が見られ、やがてオペラがクローズアップされてきた。

オペラ前夜のパリ演劇界

・パリでは16世紀にオテル・ド・ブルゴーニュ劇場が、1634年にマレ座が常設劇場として開場し、特にマレ座はピエール・コルネイユ(1606-1684)の作品上演で華やいだ。さらに16世紀からイタリア劇団がパリで活動を行なっていたのだが、1658年に巡業を終えたモリエール一座がパリに帰ると、かつてリシュリューが建築したパレ・ロワイヤルの劇場を、イタリア劇団とモリエール一座が交互に使用、調子に乗ってきたモリエールは王室に繋がりを持ちリュリ氏と1670年のコメディ・バレ「町人貴族」など全8作を共同作業で上演した。しかしこのような華やかな劇場コメディ・バレの花が、モリエールの死を期に衰退。おそらく死に関わらずモードの変換だったのだろう、ルイ14世も踊り疲れて同じ頃王宮でのバレ・ド・クールの熱も下火になった。

フランス・オペラの登場

・マザランがカヴァッリに泣かされる少し前、1659年にピエール・ペラン台本ロベール・カンベール作曲のパストラールがマザランの目に留まり「君達ならあるいはオペラにまで到達できるかも知れない」と言われたのが遠因となってか、1669年ペランに「オペラのアカデミ」創設権が与えられた。こうして1671年に上演されたペランとカンベールコンビによるパストラール「ポモーヌ」は、146回も公演を繰り返し大成功を収め、遂にフランスオペラ最初の作品の栄誉を賜った。こうして歴史に名を残したまではよかったものの、ペラン氏は運営担当者に有り金全部奪われた挙句すっかり罠にはめられて、ついには牢獄生活にまで転げ落ちてしまった。悪徳目覚ましい我らがリュリ氏がこれを見逃すはずがない。彼は1672年、「オペラのアカデミ」権利を買い取ると、これを頼もしいと思ったかルイ14世はオペラの権利も含んだ「王立音楽アカデミ」の創設特権をリュリ氏に与えた。こうしてリュリ氏以外は無断でオペラは上演できない、声楽6人以上、器楽12人以上の上演も勝手に行えないという、しちゃかめちゃかなリュリ独裁体制が確立してしまったのである。リュリ氏は大喜びで王立オペラの柿落とし作品パストラール「アムールとバッキュスの祭典」を上演した。こんな極悪非道とは組めないとモリエールがリュリ氏とのコンビを解消して、マルカントワーヌ・シャルパンティエの元に逃れ、1673年にシャルパンティエ音楽による新作コメディ・バレ「病は気から」を上演したから、我らがリュリ氏はモリエールに呪いの指揮棒を与えてみた。効き目抜群呪いの指揮棒、あわれモリエールは気から病にかかって亡くなってしまったのだ。早速リュリ氏は小粒のオペラも上演できないように締め付けを強化、漲る作曲パワーを発散すべくフィリップ・キノー(1635-1688)の台本を元に悲劇「カドミュスとエルミオーヌ」(1673)を上演し、これが本当の意味でのフランスオペラの第一歩となった。1674年にはモリエール一座の活躍していたパレ・ロワイヤル劇場まで自分のものとし、この劇場は長らくフランスオペラの中心地として君臨することになる。リュリ氏の生み出した悲劇は後に「リラ(つまり音楽)付きの悲劇」(トラジェディ・リリーク)と呼ばれ、彼はキノ台本、舞台装置カルロ・ヴィガラーニなどを動員して1年に1作品のペースで新作を独占的に取り仕切った。従って、彼がフランスオペラを誕生させたのは、他に作曲可能なものが居なかったせいでもあるのだ。
・キノは神話などを題材にし、幕間などに余興ディヴェルティスマンをふんだんに折り込んだ、王への追従と国の賛美ちりばめた台本を提供し、リュリ氏はイタリア式叙唱がフランス語に合わないために、フランス式の叙唱を編み出して音楽を付けていった。これはイタリアのようにアリアと叙唱を分離させないで、お話言葉的な単純叙唱とより拍節的な叙唱を移ろいながら、一層拍節的なエアAirで見せ場を築くという、遠くドビュシの「ペリアスとメリザンド」に続くフランス伝統の開始を告げる遣り口だった。それだけでは飽き足らないリュリ氏は遅く荘厳な付点多用のA部分と、動きが活発でフーガ風なB部分をABやABAのように組み合わせてオペラ序曲とするウヴェルテュール「フランス風序曲」を劇の頭に備え付けた。そんな彼のオペラの代表作は1684年の「アマディス」と、1686年の「アルミード」が挙げられる。「アルミード」はタッソの「解放されたイェルサレム」から取られ魔女のアルミードが、とらえた十字軍騎士の一人ルノーに恋をしてしまうという物語で、当然このルノーは象徴的にルイ14世に置き換えられる台本になっていた。ちなみにこのウヴェルチュールは後のバロック組曲などに好んで使用され他国にまで広がっていくが、丁度同じ頃イタリアではシンフォニア「イタリア風序曲」が誕生しているから面白い。

速報リュリ氏死去

・極悪非道悪辣大福餅と他の作曲家達から陰口を叩かれたリュリ氏が、自ら呪われた指揮棒に打ちのめされて亡くなった。これによりオペラの上演が他の作曲者に許されるやいなや、マラン・マレ、シャルパンティエ、アンドレ・カンプラ(1660-1744)、アンドレ・カルディナル・デトゥシュ(1672-1749)らが一斉に拍手喝采「天才は死んだ」と叫びながらオペラを作曲し始めたからさあ大変、パリ中はオペラで賑わい、アンドレ・カンプラは1697年の「優雅なヨーロッパ(粋なヨーロッパ)」で新しいジャンルであるオペラ・バレまで上演してしまった。言うまでもなくオケヘム没後200周年を記念して上演されたものである。アルザスに生まれたドイツっぽであるゲオルグ・ムッファト(1653-1740)は、リュリ氏とその後のフランス音楽をドイツに持ち込んで紹介。フランス風序曲と、オーケストラ奏法を勧めたことによって、ザルツブルクやヴィーンなどに知られるようになった。
・パリでは1680年さらに別の再編が劇場界に起こり、後の時代に影響を及ぼすが、リュリ氏に追い出されていたモリエール1座とマレ座の人々と別の一座が王令によって統合され、コメディ・フランセーズが誕生したのである。シャルパンティエやドラランドが大喜びでこの劇場のために作曲を開始した。
・こうした新しい時代精神を受けてだろうか、やがて次第次第にフランスで永らく命脈を保ったリュート音楽の大流行も、調弦の面倒で悪き貴族趣味と見なされるように成っていき、音楽史の舞台から姿を消していくことになった。

パリでの宗教音楽

・1685年にナント勅令を廃止しても新教徒には文句を言わせないカトリック大国になったフランスでは、パリの教会でもド・ラランド、シャルパンティエ、ルイ・ニコラ・クレランボー(1676-1749)やアンドレ・カンプラが宗教音楽を作曲し、フランソワ・クプランやドラランドはオルガニストとしても活躍した。

周辺地域

・国王以外の宮廷はほとんどルイ14世に飲み込まれてしまったが、ギュイーズ公女マリ・ド・ロレーヌ(1615-1688)はシャルパンティエをパトロンとして支え、ルイ14世最晩年の愛人であるマントノン夫人フランソワーズ・ドービニュ(1635-1719)は女性のための寄宿学校を設立しクレランボーに音楽を任せるなど活躍を見せた。
・地方でも数多くの作曲家が居るのだが、南仏はエクス・アン・プロヴァンスのサン・ソヴール大聖堂からはカンプラだけでなく、ジャン・ジル(1668-1705)も登場して重要な音楽的役割を果たした。2人揃ってレクイエムを作曲したからそれを聞いてみるのも又一興だ。

1715年太陽王沈む

・コルベールの保護貿易が引き起こした対外不安定の解決どころか、むしろ率先して戦争を巻き起こしたルイ14世は、ファルツ継承戦争ではほとんどすべてのヨーロッパ諸国を敵に回し大した成果の上がらない戦争を遂行。スペイン継承戦争(1701-13)ではユトレヒト条約によりスペイン王家をブルボン家に結びつけるのに成功したとはいえ、各国を敵だらけにした上に、条約でアメリカの土地をイギリスに多く与え、イギリス国際貿易の躍進を一層加速させるなど、見てくればかりの戦さに終始した。財政赤字は増大を続け、コルベールは金の使い方を知らない国王に目を回してさすがにノックダウンしてしまった。マザラン時代に沸き起こった税の矛盾も解消されず、社会矛盾は増すばかり。挙句の果てに1685年にナント勅令を廃止したら、新教徒である大量の商工業者が外国に逃れて、技術力だけでなく、資本までも一緒に国外に出て行ってしまった。「いったい何を遣っているのかしら。」そんな批判もこっそり増える頃、1715年の9/1にルイ14世は水平線の彼方にゆとりを持って沈んでいったのである。

2005/01/25
2005/03/01改訂

[上層へ] [Topへ]