10-3章 17世紀後期イギリスのオペラと音楽

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イギリスにおけるオペラ前夜

 後の女王エリザベスが誕生した翌年の1534年に新大陸からスペインに上陸したジャガイモ。そんなことは露も知らず当時のイギリス国王ジョージ1世は「以後指図(1534)は受けぬ」とカトリック教会に反旗を翻しイギリス国教会を成立させた。以後エリザベス女王(在位1558-1603)が即位しフランス、スペインといった強国の重圧を跳ね除け、1588年にはスペインの無敵艦隊アルマダを見事撃退する頃、ジャガイモはイギリスにも到達したというから宿世(すくせ)の因縁は恐ろしい。イギリスは折しも歌わない普通の劇がオペラに取って代わられるまでの束の間の夏を謳歌し、ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)らがロンドン中を所狭しと駆けずり回っていた。その後独身を全うした女王が事切れると、血縁関係からスコットランド国王がそのままスコットランド兼イングランド国王として即位、ジェイムズ1世(在位1603-1625)率いるステュアート朝が開始した。ジェイムズ1世は国王は神から授けられた特権だとする王権神授説を政治の場で振り回し、議会との軋轢が後の革命の火種となった。当時の議会は貴族が没落した後に台頭した各地方の地主であるジェントリが多数を占め、彼らはまた中央から任命され無給で治安判事などの仕事を行っていたから、議会との対立は地方小勢力軍団との内乱をも意味したのである。しかし彼の時代には動乱には至らず、彼の宮廷ではルネサンス音楽の最後の華であるリュート歌曲であるエアや、数多くのヴァージナル曲に器楽マドリガルなどが賑わっていた。

ジェイムズ1世の時代

・鴨葱の称号を欲しいままにしたジョン・ダウランド(1563-1626)の出来の良い息子ロバート・ダウランド(c1591-1641)は1610年に「音楽の饗宴」を出版したが、このリュート伴奏歌曲集の中には祖国の作曲家と共にフランスやイタリアの音楽が紹介され、カッチーニのモノディ曲や、ピエール・ゲドロンのエール・ド・クールなどがイギリス人の目に留まった。気が付けばフランスではエール・ド・クールに飽きたらず国王貴族参加で踊りまくるバレ・ド・クールの何と豪華で絢爛なことか。その憧れがすでに16世紀からあったイギリスのマスク(仮面劇)を、宮廷催しの一大イベントとして成長させた。これは、皆さんで行列をしながら登場したのち、対話を挟んで楽しい歌と踊り(アンティマスク)を行っていると、金ちゃんの仮装隊が入場し技巧的なダンスに明け暮れ、最後には仮装隊も観衆も一緒にどんちゃん騒ぐような展開を見せ、場合によっては国王も仮装ダンスに加わる、音楽と演劇とダンスが混ざり混ざった宮廷スペクタクルの一種だった。劇場におけるシェイクスピアの好敵手と名高いベン・ジョンソン(1572/3-1637)はこのマスクのために数多くの台本を仕立てたが、例えば1605年の「暗黒のマスク」ではアルフォンソ・フェルラボスコ(1578前-1628)が音楽を担当している。そのベン・ジョンソンの息子であるロバート・ジョンソン(c1583-1633)や、ジョン・コプラリオ[クーパー](1570/80-1626)、トマス・キャンピオン(1567-1620)、ニコラス・レイニア(1588-1666)など数多くの作曲家がマスク音楽を手がけるが、今日完全版のスコアはまるで残されていないそうだ。
・次のチャールズ1世時代にも宮廷音楽は相変わらずマスクに華やぎ、宮廷内の音楽家はニコラス・レイニアをトップに据え、新たに兄弟作曲家ヘンリー・ロウズ(1596-1662)ウィリアム・ロウズ(1602-1645)らが加わった。この時代の有名なマスクとしてはジョン・ミルトン(1608-74)が台本を書いた「コウマス」(1634)があり音楽はヘンリー・ローズが担当した。

挙動の不審なチャールズ1世

・次の国王チャールズ1世(在位1625-1649)が即位すると、エリザベス時代から問題になっていた財政悪化は更に進行し、王権神授説を薙刀よろしく振り回す国王は議会の承認を得ないで課税、おまけに王権を我に授けた国教会だけが唯一の宗教だと叫ぶと、カンタベリー大司教ウィリアム・ロードを動員して国教会に楯突く者達を次々に弾圧していった。特にジェントリ層、議員達の中にも広まるピューリタンは弾圧の筆頭だったが、彼らは国教会自体がかつてカトリックから分離したものであるのに、改革がまるで不徹底であるのに苛立った新教徒達であった。あまりにも議会を無視する国王に対して1628年「権利の請願」が提出され、「イギリスの慣習法を守って何事も議会によって決定することです、今すぐにです。」と国王に突きつけられた。エドワード・クックも間の手よろしく「国王が法なのではありません、法が国王なのであります。」と演説したら、国王は翌年議会を解散し、一層の絶対主義王制を楽しんで見せた。

ピューリタン革命(1642-49)

・国王だんだん図に乗ってスコットランドに国教会制度を押しつけ始め、反発を食らうと戦争で屈服させようと戦費調達に乗り出した。長らく解散しておいたから大丈夫だろうと議会を招集して課税を承認させようとしたのである。しかし、そう旨く行くものかと議会が反対を突きつけたので、一旦解散させて脅しておいて新たに議会(長期議会)を招集、再度課税を迫って見せた。怒れる議会はたとえ議員変わるとも止(や)むことを知らず国王に一大抗議文を突きつけて無理にでも承認させると、国王はしかたなく首だけコクリと頷いたが履行する気は毛頭無い。かえって頷きながら兵隊を議会に突入させる始末だ。遂に戦争が勃発し、議会が「議会の敵に回った者の土地は没収する」と布告を出したので中立的な立場はもはや許されず、全国が国王派か議会派に態度を決めて参戦するピューリタン革命へと発展した。貴族やジェントリは多く利害の絡み合いからそれぞれの陣営に別れ、大雑把に
国王派ー国教会・大ジェントリ・名門貴族達
議会派ーピューリタン・中小ジェントリ・ロンドン大市民
と見ることが出来るが、ごく一般的な割り切りに過ぎない。むしろジェントリ層が真っ二つに分かれて戦争を繰り広げたところに、世俗的利害関係を見て取ることが出来るぐらいだ。

・内戦は正規教育を受けた軍隊を持つ国王軍が圧倒的パワーで押してくるので、各地バラバラの軍隊で自分の地域から離れて戦いたがらない兵士達に渇を入れるべく、オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)が理想の軍隊を結成してお手本を示せば、敵から「鉄騎隊」と言って恐れられた。しかし議会派は思想の違いから長老派と独立派に内部分裂気味でうだつが上がらないので、クロムウェルは己の手腕で1644年に国王を撃破し、1649年には恐ろしき断頭台で国王の首を土産にした。結局最後はクロムウェル属する独立派が長老派と、人民主権と王政廃止を叫ぶ平等派までも武力で弾圧。おまけにアイルランドまで征服して、大土地所有ジェントリを中心とする共和制を開始した。

共和制の下の音楽活動

・禁欲主義のピューリタンな政策によって「打つ、買う」の取り締まりが強化し飲むのにも節度が重んじられる禁欲の嵐が吹き荒れ、1642年には有害だとしてイギリス最大の娯楽である劇場まで封鎖されてしまった。壮大な宗教音楽もいらざる享楽だとしてオルガン破壊やら聖歌隊の解散に、音楽界も冬を迎えたかと思える有様だったが、それ以外の一般俗音楽は大いに結構なものとされたから、かなりの暖冬だった。クリストファー・ギボンズ(1615-1676)のように宮廷所属の音楽家達が解雇され各地で世俗音楽に関わったり、音楽教師をしたり、海外に活路を見いだしたりする中、宮廷でのマスクは形を変えて、学校劇に紛れ込んで学校マスクになったり、音楽劇ではなく「パントマイム付きディアローゴ」だと言い張ったり、音楽付きの劇を「コンサートを開く」と言って誤魔化しながら、マシュー・ロック(1621/2-1677)など新たな作曲家が数多くの音楽劇をゲリラ活動で生み出していった。音楽としてすぐれたマスクである1653年の「キューピッドと死に神」をクリストファー・ギボンズ(1615-76)が作曲するなど嘗てのジャンルも命脈を保つが、そんな中上演された1656年の「ロードス島の攻囲」はヘンリー・ロウズやマシュー・ロックが音楽を担当し、事実上イギリス最初のオペラと呼ぶことが出来る作品となった。
・ただし当時のロンドンっ子達が一番接する音楽は、このような西洋音楽史に軒を連ねる名曲シリーズではなく、ブロードサイド・バラッドまたは単にバラッドと呼ばれる流行歌で、元々の民謡などを元にしたものや、他の楽曲の旋律をお貰いたりしつつ、日々起こる事件や戦争などをニュース替わりに歌詞だけ印刷して歌いながら販売されたのだという。今日その旋律は器楽編曲や舞曲化された姿として残されているが、当時のバラッド自体が、場合によっては劇のショート・コメディなどで使用されていたジグという舞曲に乗せて歌われたりすることがあったそうだ。

王政復古(1660)はスカルラッティな年に

・1653年、アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)が誕生したのに呼応して軍事独裁体制を築いたクロムウェルが護国卿と呼ばれて、議会に対するぼんやりした不安に怯えながら反対勢力を弾圧しているうちに、ふいに風邪をこじらせて亡くなってしまったから国内が騒然となった。独裁軍部内の意見が定まらず議会を交えて対立する中、密かに国王ご帰還の演出が画策され、1660年に亡命先で王を自認していた前の国王の息子チャールズ2世(在位1660-1685)が国王に就任、議会の力を大幅に認めた国王として拍手を持って迎え入れられる結末を迎えた。処刑した前の国王の祟りか、1665年には大ペストで2万人が死亡し、翌年には市内壊滅の大火事に見舞われるロンドンだが、音楽は宮廷音楽家の再組織や享楽主義精神の蔓延で大いに栄えた。

チャールズ2世時代の音楽

・王室礼拝堂と大室音楽団が再組織され、礼拝堂ではプラム・ハンフリ(1647-1674)やジョン・ブロウ(1649-1708)、ヘンリー・パーセル(1659-1695)にクリストファー・ギボンズなどが活躍、大室楽団(キングズ・ミュージック)ではニコラス・レイニアを楽長にハンフリやパーセルが活躍。フランスを真似て24人のヴァイオリンと、12人のヴァイオリンも結成され、大室を讃えるための合唱、独唱、器楽によるオード(頌歌)が流行した。教会音楽ではフル・アンセムよりもヴァース・アンセムが多く作曲されたが、この頃バロック的な通奏低音がイギリスにも導入され、遅れたバロック精神を楽しんだ。ロンドン市内では1672年市民に開かれた初めての公開演奏会も開始され、ロンドンは音楽の都として輝きだした。

名誉革命(1688)

・すでにチャールズ2世からしてピューリタンに大弾圧を加えたり、1670年にルイ14世と密かにドーヴァー密約を結び王権を強化しようと画策する不埒な奴だったが、彼は大臣任命の権利を最大限活用し、議会の分裂に目を付け国王支持政党を味方に付けることに成功した。これが現在の保守党に連なるトーリー党で、反対する後の自由党はホイッグ党と呼ばれ、2大政党の原型が誕生を迎える。後を継いで即位したジェイムズ2世(在位1685-1688)は常備軍を設置、自らの基盤を固めるが、すでに前の国王の時から王室内に溢れかえっていたカトリックの情熱を、政治的に成就させようと、国教会に対して壇上から国教会以外の(つまりカトリックの)信仰自由を読み上げるように指示、怒れる議会がオランダに向けてお手紙を書いたら、オランダに嫁いでいた王家の血を引く姫君が旦那さんの軍隊を連れてご帰還遊ばして、哀れジェームズ2世は夜逃げと相成った。この戦わずして勝つ革命を名誉革命(1688)というが、女王だけで十分だと考える議会に対して、私も王だと叫んだ旦那がウィリアム3世(在位1689-1702)として即位、女王メアリ2世(在位1689-94)との共同統治を開始した。この時出された「権利章典」によって、税や法の制定だけでなく、王室費用や王位継承も議会を通して成立することが定められたが、大臣任命権はまだ国王が握っていたために、完全な議会制のためにはこの解消が後の時代に残された。

名誉革命以後の音楽

・費用削減もあり王室礼拝堂の音楽はすっぽり寂れるが、ロンドンではオペラに大失敗したユナイテッド・カンパニーが、1689年に女子寄宿学校で行われたパーセルの完璧なオペラ「ダイドウとイニーアス」の大成功を見て取ってパーセルと契約を結んだ。これによりパーセルが亡くなるまでパーセルの一連のセミ・オペラが作曲されていくことになるが、ロンドンっ子は会話の部分の無いオペラよりも会話と歌の交替をより好んだために、パーセルの「ダイドウとイニーアス」以外では、マスクと題されたジョン・ブロウ(1649-1708)「ヴィーナスとアドウニス」(1684/5)ぐらいをフルオペラとして挙げることが出来るぐらいだ。しかしパーセル亡き後、イギリスオペラ界は、物の見事に大陸オペラに飲み込まれた。ロンドンっ子達がステータス交えてイタリアオペラに熱狂したためである。
・1702年にはアン女王(在位1702-1714)が即位、1707にイングランドとスコットランドが連合する一方、ウォルポールなどが責任内閣制を推し進める時代に突入しそうな頃、音楽の中心は完全に劇場に移り、1705年にはクイーンズ劇場がイタリア語オペラによって開演を迎え、以後イタリアオペラの牙城としてロンドンに君臨した。いよいよ大陸からヘンデルがのこのこやってくる時代が足下に迫っていたのである。めでたしめでたし。

2005/02/07
2005/03/02改訂

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