17世紀前半すでにイタリア音楽に沸き立っていたドイツではシュッツがいち早く初のドイツ語オペラ「ダフネ」を上演したという伝説が残されているが、1618年から開始される30年戦争によって大規模な音楽作品を堪能している余裕は無くなってしまった。やがて30年戦争が終結するとドイツの諸宮廷は再度文芸を復興しようと競い合うようにイタリア人作曲家を登用し、カルロ・パッラヴィチーノ(1630-88)やアゴスティーノ・ステッファニ(1654-1728)がヴェネツィアオペラをひっさげてドイツに遣ってきた。ステッファニはミュンヘンとハノーヴァーで新作を次々に上演して1689年には代表作「獅子王エンリーコ」を上演するなど活躍したから、ドイツ人作曲家のラインハルト・カイザーとヘンデルがすっかり感銘を受けてしまった。防具を完備した騎兵が練り歩くようなヴェネツィアオペラの華やかな厚みは、特にヴィーンなどにいつまでも居座って、1723年に皇帝カール6世戴冠式のためにプラハで上演されたヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)の祝典オペラ「誠実さと勇気」を持って捧げ歌とした。(?)
・ドイツの独唱歌曲伝統と学校などでよく行われていた本格的な学校劇はそのまま発展すれば、あるいはドイツ的な独特なオペラを誕生させる可能性があったが、30年戦争の壮絶な文化的破壊を被ってすっかりしおれてしまった。その後17世紀半ばに始まった宮廷ごとの文化再建運動が、すでに芸術的に豪華絢爛たる花びらを咲かせ舞い踊っていたイタリアとフランスに向けられた時、ドイツ諸芸術はイタリア的なものとフランス的なものに満ちあふれた。特にフランス的なものはルイ14世が現われてヴェルサイユを建設していくと同時に、ドイツ諸侯の憧れの的となったのである。やがて音楽に関してはイタリアとフランスとドイツの伝統が全体として5:4:1の比率になったが、各宮廷ごとに大きな比率の差を持って混合している。(・・・嘘を書くな嘘を。)
・こうして17世紀を通じて、さらにその後もイタリアオペラが好まれ続けたドイツでは、特に南ドイツのカトリック圏ではイタリア宮廷と密接な関係を持ったイタリアオペラが早くから上演されていた。一方自由都市ハンブルクは自覚を持って1678年に公開オペラ劇場を開設すると、1738年まで懸命になってドイツ人によるドイツ語オペラを擁護し続けた。中でもラインハルト・カイザー(1674-1739)はハンブルクのために100曲以上の作品を残し、ダ・カーポアリアに華やぐイタリアオペラの束縛から離れた作品を仕立て上げて見せた。旋律にはドイツ歌曲を思わせるものもあり、対位法的書法の伴奏形や、対位法を意識したようなベースラインをもった曲を仕立てる。彼は晩年沢山の笑劇も作曲しドイツの喜歌劇を離陸させたが、ハンブルクの重厚なドイツオペラはやがて人々に見放されて最後にはあえなくイタリアオペラに飲み込まれて幕を閉じた。このイタリアオペラの津波は18世紀に入ってから大きなうねりとなってドイツ、イギリス、フランスに襲いかかり、イギリスとドイツではイタリアオペラが重要なステータスシンボルに、そしてフランスではやがてブフォン論争を引き起こすことになるが、それはまた次のお話に譲ることにしよう。
・一方歌と対話の交替をドイツ語台本で行うジングシュピールSingspiel(歌芝居)が発展を遂げ、会話の部分をイタリアオペラのように叙唱で行なってみたら、準オペラ的な一つのジャンルにのし上がった。やがて1743年にイギリスバラッド・オペラ「悪魔は放たれた」のドイツ語訳上演が成功したのを見て取ったヨーハン・アーダム・ヒラー(1728-1804)が自らの作曲で「悪魔は放たれた」をドイツ語上演した時、ジングシュピールは大流行を見せ始めた。こうしてドイツ北方で始まったジングシュピールの流行熱が18世紀半ばにヴィーンなどの南にも認められ、18世紀後半には北も南もジングシュピールの春を迎えた。
・フリードリヒ3世が息子をブルグント公国の娘さんマリアと結婚させたのが事の起こりで、跡継ぎ無くしたブルグント公国が転がり込み、富裕の土地を一気に手に入れ急成長を遂げたハプスブルク家。そのありがたい妻マリアの旦那さんこそが「戦争は他の国にやらせておらっちは婚姻政策で拡大すべし」と叫んだマクシミリアン1世(在位1493-1519)に他ならないが、芸術大好きっ子の彼は宮廷をインスブルックに移し、次々に自分の子供を政略結婚に使ってみた。この時代の音楽は宮廷が他に移ろうが移ろうが常に音楽の中心地であるヴィーンと、彼がインスブルックに置いた宮廷で栄え、フィレンツェで引き抜いた宮廷作曲家ハインリヒ・イーザーク(c1450-1517)らが活躍、多くの音楽家はルネサンス音楽家の製造庫フランドルから集められた。ルネサンスのイタリアからして音楽に関してはフランドル万歳だったから、これは当然のことだったのだ。続くカール5世(在位1519-1556)の時代はスペイン出張やら戦争やらで宮廷音楽もほどほどだったが、続くフェルディナント1世(在位1556-1564)時代には華やぎを取り戻し、マクシミリアン2世(在位1564-1576)の時には、パレストリーナを雇い入れようと躍起になるほど賑わった。結局宮廷楽長になるべく遣ってきたのはフランドル人なフィリップ・デ・モンテ(1521-1603)だったが、次の芸術に命を捧げた鬱病皇帝ルドルフ2世(在位1576-1612)の時にはやはりフランドル人であるヤコブス・デ・ケルレ(1531/2-1591)やヤーコプ・ルニャール(1540/5-1599)らが活躍、宮廷音楽の主導権も全くもってフランドル音楽家が握っていた。
・皇帝フェルディナント2世(在位1619-1637)が即位すると同時にグラーツの宮廷で抱え持っていたイタリア人音楽家達をヴィーン宮廷カペッラに一斉採用すると、皇帝の2番目の妻もモンテヴェルディが若いうち使えていたマントヴァゴンザーガ家出身だったために、モンテヴェルディを初めとするイタリア音楽が宮廷で賑わい始めた。この時期イタリアオペラも上演が開始され、宮廷音楽家の中にはイタリア人なジョヴァンニ・ヴァレンティーニ(1582/3-1649)なども姿も見られる。しかしフェルディナント2世は後にマントヴァ公継承を主張して攻め込んだおりに、うっかりモンテヴェルディの作曲した楽譜類を大量に損なわせてしまったからそう拍手も送れない。イタリア音楽は更に皇帝が継ぎに変わると一気にヴィーン宮廷に入り込んで来た。
・ヴァレンティーニが楽長になると、ミサ曲やモテットだけでなくイタリア世俗歌曲も作曲し、自らの弟子達にもイタリア音楽を勧めイタリア風邪が非常に流行りだした。1641年には初演に1年遅れてモンテヴェルディの「ウリッセの帰郷」が上演され、ヴェネツィアの大家カヴァッリも遣ってきて「エジスト」(1643)や「ジャゾーネ」(1650)を上演、やがてヴィーンで初演されるオペラも現われ始める。オペラだけでなく当然オラトーリオもヴィーンでの上演機会を増やし、ヴァレンティーニは1643年に「聖アガピトの生涯」を作曲するなどオラトーリオを根付かせた。ヴォルフガンク・エープナー(1612-1665)やヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-1668)もオルガニストとして登用され、宮廷音楽は一気に華やいだ。そんなヴィーン伝統から、とんでもない作曲皇帝が誕生してしまうことになった。
・遂にミサやオラトーリオ、世俗曲の作曲をこなし、チェンバロ、ヴァイオリン、フルートなどを自ら演奏するレーオポルト1世が満を持して登場し、オペラやオラトーリオの上演は実りのシーズンを楽しんだ。1660年代にヴィーン宮廷にいたピエートロ・アンドレア・ツィアーニ(1616以前-1684)や、ヴェネツィアオペラの大家アントーニオ・チェスティ(1623-1669)の作品が上演され、チェスティーの1668年に上演された「黄金のリンゴ」は膨大な費用を掛けたバロック的オペラの典型となった。1682年からはアントーニオ・ドラーギ(1634/5-1700)が宮廷カペッラ楽長に就任し彼の作品も多く上演される頃、数多くのイタリア人作曲家の隙間にヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー(c1620/23-1680)やヨハン・カスパール・ケルル(1627-1693)、さらに一時滞在したパへルベルなど、ドイツ人作曲家達も顔を覗かせた。
・ハプスブルク家自体は1683年に10万のオスマン・トルコ軍に包囲され、ポーランド国王ソビエスキらに泣きながら助けて頂くなど、宮廷音楽ほど揺るぎない繁栄を極めることが出来なかったが、この撃退で漸くトルコの力が弱まり、1713年のユトレヒト条約ではスペイン継承戦争(1701-13)終結の結果ミラノ・マントヴァ・ナポリ王国をハプスブルク家が継承することに成功した。
・続く大きな戦争である1733年のポーランド継承戦争ではナポリ王国をスペイン側ブルボン家に譲らされたが、1737年にトスカーナ公国でメディチ家がお家断絶した時には見事ハプスブルク領に加えてみたカール6世は、1698年から宮廷作曲家だったヨハン・ヨーゼス・フックス(1660-1741)を1712年に宮廷カペッラ楽長に就任させた。遂にドイツ人が楽長をもぎ取ったのである。しかし喜ぶのはまだ早い、このフックス自体がこってこてのイタリア色に染まっていた。皇帝の信望熱いフックスは対位法の教科書「パルナッソス山に登りましょう」(1725)の出版費用を出していただけるほどだったから、1723年にはオペラ「堅国と不技」で膨大な費用を掛けてタルティーニやクヴァンツ、ゼレンカなどを参加させて途方もないスペクタクルに仕立てて見せた。オペラ台本作家としてアポストロ・ゼーノ(1668-1750)やピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)らも活躍したヴィーンでは、この時期副長にアントーニオ・カルダーラ(c1670-1736)らを迎え、オペラだけでなくソナタなど数多くの器楽曲も大いに栄えたのである。
今日バイエルン国立歌劇場などドイツ最大のオペラ中心地を誇るミュンヘンは、一時ルター派の街になったこともあるがバイエルン公アルブレヒト5世(在位1550-1579)とヴィルヘルム5世(在位1579-1597)の時にカトリックの中心地に返り咲いた。この16世紀にオルランドゥス・ラッスス(c1532-1594)が活躍して居たのは有名だが、後にここは30年戦争(1618-1648)時にバイエルン選帝侯として伯付けを上げて見せた。
・30年戦争時代は音楽も黄昏れたがこの頃から次第にイタリア人達が増加を開始。バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア(在位1651-1679)が1652年にイタリアはサヴォア家から妃を迎えるに及んで、イタリア音楽は一気になだれ込んだ。宗教曲よりも世俗曲に力が入れられ、1653年にはミュンヘンで初めてのオペラも上演。1656年にはヨハン・カスパール・ケルル(1627-1693)が楽長になると、当地のオペラレヴェルを一気に高めた。あまり革新的なので虐めにあってか、後にケルルはヴィーンの方に去っていく。アゴスティーノ・ステッファニ(1654-1728)も一時ミュンヘン宮廷に滞在してみた。
・17世紀末から混乱期を迎えた選帝侯領は18世紀初頭に始まったスペイン継承戦争などで敗北し、1714年まで領土を追われて各地を彷徨い歩き回った。これに吊られてイタリア人エヴァリスト・フェリーチェ・ダッラーバコ(1675-1742)などのお抱え音楽家達も一部が同行して1714年のバイエルン帰還を待ちわびた。ミュンヘンに戻るとカペッラ楽長にベルナベイ、ディレクトールにトルリ、合奏長にダッラーバコを置いて今までの鬱憤を音楽で晴らすと同時に、トンマーゾ・アルビノーニ(1671-1751)がop9のコンチェルトを選帝侯に捧げオペラを仕上げるなど各地の作曲家とも近しい関係を持った。こうしてミュンヘンは18世紀の半ばを越えて古典派時代に突入するまで、イタリア人達が中心になってイタリア音楽を奏でる絶好の都となってしまった。
ドイツからブレンナー峠を越えてローマへ向かう時、重要な中継点を担うザルツブルクは塩の名産地として古くから栄え、はえある塩の砦「ザルツブルク」の名を欲しいままにした。ここでの音楽はザルツブルク大司教(塩大司教)ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(在位1587-1612)が「北のローマ」の夢を実現させるべく大聖堂再建や個人宮廷ミラベル宮殿を建設しただけでは飽きたらず、大聖堂聖歌隊を再編成し、それとは別に宮廷カペッラを誕生させ、世俗曲ばかり大量に演奏し始めた時に開始した。塩城は大司教の軍隊を持つ独立国家気取りだから当然軍隊用の楽団もあって軍楽も盛んに演奏されていた。
・次のマルク・ジッティヒ・フォン・ホーエネムス(在位1612-1619)はイエズス会で教育を受けたばっかりに身も心もイタリアにかぶれ、このお陰で早くもイタリアンバロックの新風が塩城に押し寄せてきた。1612年にはイタリア人でフィレンツェのカメラータの一員としてオペラ「エウリディーチェ」にも関わったフランチェスコ・ラージ(1574-1620以降)が訪問して、塩大司教に自らの作曲を捧げたが、ここにすでにモノディ音楽が収められているのを見ることが出来る。1614年にはイタリア以外で初めてのイタリアオペラも上演され、気をよくした大司教は翌年我が輩の夏の離宮であるヘルブルン宮殿を建設、ここの劇場で以後イタリア人作曲家によるイタリアオペラが上演されるようになっていく。
・「塩はカトリックに等しい」と叫んだ大司教の政策で30年戦争に中立を決め込んで戦火を免れたザルツブルクでは、1628年に新ザルツブルク大聖堂が完成した。ただしこの時ヴェネヴォリの「53声のミサ」が上演されたというのはとんでもない夜迷いごとだったらしい。ミラベル宮殿もバロック建築家の大家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントが改築して今日の姿となった。
・こうして音楽的重要地点にのし上がった塩城はハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644-1704)や、フランス生まれのドイツ人ゲオルグ・ムッファト(1653-1740)らが活躍、ムッファトはローマにも留学しフランス・イタリアの器楽合奏曲をいち早くドイツ圏に紹介して見せた。
・18世紀に入ると、ヴィーンで活躍中のアントーニオ・カルダーラが数多くのオペラを上演したり、ヨハン・エルンスト・エーベルリン(1702-1762)らが活躍している間に次第にフランスかぶれのロココ調音楽がなだれ込み、天童が生れるのに相応しい土壌を形成した。
ここはブランデンブルク選帝候の位を代々継いできたホーエンツェレルン家が支配するルター派の都市であったが、17世紀初頭ヨハン・シュターデンがニュルンベルクから遣ってきて宮廷オルガニストに就任する頃音楽的繁栄が始まった。その後30年戦争でやはり一時風前の灯火に落ち入るが、1661年にはオペラ上演が行われ、この伝統は時代が下って1734年になると宮廷楽長ヨハン・プファイファー(1697-1761)の元でヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1783)などのオペラが多数上演された。また1670年代にはヨハン・フィーリプ・クリーガー(1649-1725)とヨハン・クリーガー(1652-1735)の兄弟クリーガーが一時滞在するなど音楽が栄えたが、18世紀半ばに芸術の最大パトロンであったフリードリヒ大王の姉ヴィルヘルミーネが亡くなった時、バイロイトはロマン派の時代に至るまでしばらく音楽的冬眠を試みるのだった。
・834年以来司教座が置かれ繁栄が始まったハンブルクは、ドイツ最大級の貿易港を持ち、13世紀には北方商業圏ネットワークであるハンザ同盟にも加盟し大いに奮発した。自由都市は市参事会を中心に運営が行われ、都市全体の教会音楽監督には参事会に迎え入れられた音楽監督がカントールとして職務を全うしていた。17世紀初めには、エラスムス・サルトーリウス(1577-1637)、継いでオラトーリオタイプの「ヨハネ受難曲」(1641-3年)を作曲したトーマス・ゼルレ(1599-1663)、その後はドレスデンから遣ってきたクリストフ・ベルンハルト(1628-1692)がカントール職をこなし、1721年にジョスカン没年200年を記念してゲオルク・フィーリプ・テーレマン(1681-1767)が楽長を引き継いだ。彼らの下で、ヒエロニムス・プレトーリウス(1560-1629)、ハインリヒ・シャイデマン(c1595-1663)、ヨハン・アーダム・ラインケン(1623-1722)や、マティーアス・ベックマン(c1619-1674)などのオルガニストが活躍、オルガン制作者のアルプ・シュニットガー(1648-1719)は彼らのためにとびっきりの名器を仕立て上げた。またいち早く音楽における定期的な刊行本も出版され初め、まず1722年にマッテゾンにより「音楽批判」という音楽情報誌の出版が始まり、1728年からは楽譜集「信頼のおける音楽の師」が2週間ごとに出版されていった。
・こうした市民生活中心の都市ハンブルクでは、参事会に雇われた器楽演奏家達によって世俗音楽が盛んに奏され、作曲家サークルがいち早く誕生し、1660年にはマティーアス・ベックマンが市の音楽愛好家を終結してコレーギウム・ムージクムを組織、この団体を持って公開演奏会を開催してみせた。後にテーレマンも同様の団体を組織し大活躍を見せるが、このような音楽的熱気の中で1678年にイタリア以外で最初の公開オペラがハンブルクに誕生、ヨハン・タイレ作曲の「人間の創造、堕落、救済(アダムとエヴァ)」を持ってこけらを落とした。こうして教会関係者の白い眼をものともせずドイツ語オペラが開始すると、1690年代から最盛期を迎え、ヨハン・タイレ、ラインケン、ヘンデルらの他に、先ほど述べたラインハルト・カイザーやヨハン・マッテゾン(1681-1764)、さらにクリストフ・グラウプナー(1683-1760)らが作曲を行なった。1722年にはテーレマンがオペラ劇場の音楽監督に就任するが、リートやドイツ風舞曲の投入ぐらいではイタリアオペラとフランスオペラの中途半端な混合に変化は見られず、やがて大量にのさばり出すイタリアオペラの流行によって劇場は1738年、あえなく幕を閉じた。
2005/02/15
2005/03/02改訂