10-5章 17世紀後期オペラ以外の曲

[Topへ]

17世紀後半の世俗声楽曲

イタリアのカンタータ

・17世紀後半になるとカンタータというジャンルは、通奏低音伴奏による独唱や2重唱で叙唱とアリアの交替を行う、愛情などを主題にした10分から15分ぐらいの曲に定着した。オペラと違って音楽だけで繊細な表現を表すため、作曲上の実験場となり、600曲以上のカンタータを作曲したアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)のカンタータでは、転調で準備無しの減7和音が多用され異名同音的な曖昧さを出したり、終止和音に味を付けたりするために減7を使用する姿を見つけることが出来る。
・その他カンタータの拡大版として器楽合奏による伴奏と反復句(リトルネッロ)が大々的に付けられた変種も生み出され、2重唱のトリオソナータ風声楽曲ではステッファニがすぐれた作品を送り出した。
・さらに半ば劇風でオペラとカンタータの中間を行くようなセレナータというジャンルでは、少数オーケストラと数人の歌手によって行われるアレッサンドロ・ストラデッラ(1644-1682)の作品が後の作曲家の手本を示した。
・他の国々ではそれぞれお国の有節歌曲が華やぐが、一方声楽曲の芸術ジャンルのスタンダードとしてイタリア式カンタータが各国に広まっていくことになる。

フランス

・カリッシミに師事したマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645から50頃か-1704)がイタリア様式の作曲を行って世俗カンタータや、宗教オラトーリオなどを作曲すれば、ルイ・ニコラ・クレランボ(1676-1749)もイタリア影響をもろに受けたカンタータを作曲した。

ドイツ

・イタリア・ドイツ語のカンタータが栄えて来ると宗教的な詩でも一曲作ってみたくなったので、アーダム・クリーガー(1634-66)が宗教的なカンタータを送り出してみた。この遣り方は以後流行ったが、ドイツではオーケストラ伴奏と反復句(リトルネッロ)を十全に付け分厚くすることが好まれ、17世末になると独立した有節歌曲よりも圧倒的に複楽章形式がこの世の夏を謳歌した。

イギリス

・1660の王政復古頃にようやく新しいモノディ叙唱を模倣する試みが開始され、カリッシミやストラデッラの作品が人々の興味を引くようになった。それにつけてもパーセルやブロウなどの歌曲はまったくもってイギリス的であるが、教科書にあるパーセルのオード(頌歌)「聖シシリアの日への頌歌」(1692)ぐらいはぜひ聞いておきたい。一方、もっと庶民的なイギリスの歌としては、宴会などで無伴奏で歌うキャッチcatchがあった。

17世紀後期の教会音楽

 カトリック圏では従来のジャンルであるミサ曲、バロック時代に生まれたオラトーリオの他、聖母マリアを讃えるためのマニフィカトや、イエスの死に嘆く聖母マリアの詩に作曲を行ったスターバト・マーテルなどが盛んに作曲され、ルター派ではイタリアの世俗的カンタータの宗教曲への転用や受難曲の流行、フランスでは特にルソン・ド・テネブレ(暗闇の朝課の独唱)に行う旧約聖書の「エレミアの哀歌」に作曲することが流行るなど、それぞれに特徴が見られるが、オラトーリオはやがて各国に伝わり次々に新しい作品を生み出し、聖務日課の曲であるはずのテ・デーウムはやがて大きな祝祭行事に花を添える声楽曲として各国でもてはやされた。

イタリアはボローニャ

・サン・ペトローニオ教会が宗教音楽の中心として栄えた。教会の起こりは1436年、フィレンツェでサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の建堂式が開かれデュファイの祝典モテートゥス「少し前バラの花が」の高らかに響き渡った年、建堂式に出席していた教皇エウギニウス4世がこのボローニャのサン・ペトローニオ教会にもカペッラを置いてみた時に始まる。16世紀末から器楽奏者を集め出し、バロックな17世紀に入るとヴェネツィアのように大規模器楽を動員した教会音楽を高らかに演じるようになった。この地の教会音楽は1657-1671年の間マウリツィオ・カッツァーティ(c1620-1677)が楽長に就任するに及んで絶頂期を迎え、すぐれたカペッラと器楽奏者によって教会行事に器楽付き声楽曲だけでなく、器楽によるソナータやコンチェルトが導入され、カッツァーティ自ら大喜びで作曲を行った。この教会でのソナータやコンチェルトはたちまち各地に広まって、後に大量生産される器楽によるコンチェルトの走りとなったのである。この時期ジョバンニ・バッティスタ・ヴィターリや、ジョヴァンニ・パオロ・コロンナ(1637-1695)なども教会カペッラに加わり、コロンナは1674年からこの教会の楽長職を継いだ。
・コロンナは大規模器楽付き宗教声楽曲に置いて弦がただ声部パートを重複して演奏しているのに嫌気が差して、遂に弦楽器に独立声部を与えて、1680年に「楽器協奏による9声のミサ曲」を作曲したという伝説が残されているが、このミサ曲は当地の伝統に従ってキリエとグロリアだけからなるグロリアミサになっている。彼はオラトーリオの作曲家としても広く知られ、それを慕ってかどうかは知らないがジュゼッペ・トレッリ(1658-1709)もボローニャに遣ってきた。
・次の楽長ジャーコモ・アントーニオ・ペルティ(1661-1756)もやっぱりすぐれてしまった。器楽活躍めざましい「協奏ミサ曲」を18世紀初頭に送り出すなど作曲を繰り広げるだけでなく、トレッリとジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706-1784)を教育して世に送り出したのである。
・またこの地にはアドリアーノ・バンキエリ(1568-1634)によって1615年創設された音楽活動専門のアカデミが存在し、この伝統が受け継がれて1666年に6並びを記念したアッカデミア・フィラルモニカが誕生した。当初50人もの音楽家をメンバーとして開始したこのアカデミは、作曲家、歌手、楽器奏者というグループを持ち、コロンナやヴィターリなどが参加した。しかしボローニャ教会音楽のお父っつぁんだったカッツァーティは長年作曲技法などで対立するジュリオ・チェーザレ・アレスティ(1625-1704以降?)がアカデミメンバーであったため参加できず、挙句の果てにアレスティは作曲論争でカッツァーティを打ち負かしてボローニャを追い出してしまった。このアカデミは後にコレッリ、トレッリ、ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706-1784)と豪華な顔ぶれが会員の資格を得て、若きモーツァルトが異例の入会を果たす逸話にまで連なっている。
・他にもオペラ劇場も華やぐボローニャはバロック時代を通じて重要な音楽都市として君臨した。

イタリアの新しい潮流

・17世紀後半にはいると、薄手の声部書法と均衡の取れた見通しのよい楽曲によって、叙情的で感傷的な音楽を半音階を多く使用して生み出す作品が新しいトレンドとして人々の目に留まった。北イタリアのレグレンツィやロッティ、ナポリのアレッサンドロ・スカルラッティと特にジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレーシ(1710-36)らの音楽は、ドイツ人達にエンプフィンザームカイト(感傷性)と呼ばれて喜ばれた。

カリッシミ以降のオラトーリオ

・オラトーリオも栄えた。四旬節のように宗教的に享楽主義が禁じられた時期にはオペラ劇場が閉鎖されていたので、華やかオペラの代理人としてオラトーリオが大いに活躍し、アッカデーミアなど種々芸術団体の施設でも演奏された。この時代のオラトーリオはおおよそ二つの部分から作られることが多く、典礼で用いる場合に説教の前と後で、私的俗的な演奏会では接待や饗応を絡めて前後に分けられたりした。すでにラテン語によるオラトーリオよりもイタリア語によるオラトーリオ・ヴォルガーレが好まれ、特にイタリアとカトリック圏ドイツではイタリア語オラトーリオを謳歌した。時代は下るがヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1783)が1750年ドレスデンで演奏した「聖アゴスティーノ(アウグスティヌス)の改宗」などがその代表例かも知れない。一方フランスではシャルパンティエらが俗語を軽蔑してラテン語によるオラトーリオ・ラティーノで作曲し続けた。彼はミサ曲においてもイタリアの影響を受けて、名曲「真夜中のミサ曲」(1690頃)を残しているが、この中にはフランスのクリスマスの為の民謡ノエルが沢山取り込まれている。

イギリス国教会の音楽

・王政復古後アンセムとサーヴィスを中心に栄えたが、改革前のアンセムはルネサンス期の書法でフル・アンセムが多かったが、プラーム・ハンフリーなどが大いに大陸の音楽を導入したこともあって、器楽合奏が有り合唱の間に独唱を織り交ぜたヴァース・アンセムが一般的になった。

南ドイツ、カトリック圏

・ヴィーン、ザルツブルク、ミュンヒェンなどでは、例えばヴィーンに君臨した神聖ローマ帝国皇帝などによって大規模な宗教音楽が盛んに演奏された。対位法の教科書を実践すべく立ち上がったヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)は1716年の「聖カルロ(カルロス)のミサ曲」[カノン・ミサ曲とも]においてパレストリーナ的古様式の復活を目指したが、好まれたのはヴェネツィア人で1716頃ヴィーンの宮廷副学長に就任したアントーニオ・カルダーラ(c1670-1736)のように新様式と古様式を見事に織り交ぜた折衷主義の方だった。

ルター派の教会音楽

・17世紀中頃パウル・ゲルハルトが新しく書いた詩がコラールに加わり、ヨハン・クリューガー(1598-1662)がベルリンでこれに基づき「歌による信仰の実践」(1647)を作曲する頃、コラールは次第に家庭用の賛美歌から公的聖歌としての役割を強めていた。やがて教会でオルガン伴奏によって会衆が歌うコラール唱が至る所で響き渡ると、新しいコラール音楽の作曲法は最上声ばかりが旋律的なカンツォナール様式に移行した。
・ルター派の中にも豊かな音楽こそが神への奉仕だと看做す正統派の他に、音楽は質素で単線律でも良いくらいだと思う敬虔派があって互いに対立していたそうだが、ここではとりあえずカンタータと受難曲を中心に教科書を追って終わりにしよう。一方多くの教会ではラテン語礼拝が残され、「マニフィカト」や「テ・デーウム」の作曲も引き続き行われただけでなく、ミサなどもラテン語で作曲され、その多くはルター派流のキリエとグロリアだけのグロリアミサの形を取っている。

ルター派の宗教コンチェルト

・声と器楽が互いに渡り合う声楽曲であるコンチェルタート音楽と、有節詩を持つ独唱アリアはイタリアバロックの生み出した偉大な成果に違いないが、ドイツ人達はこれにコラールを結びつけて様々な楽曲を生み出した。これを宗教コンチェルト(独geistliches konzert)と云うが、場合によってはコラールを使用しない例も数多くヨハン・パヘルベル(1653-1706)などは自分勝手な作曲でこの種のジャンルを充たした。他の作曲家としてシュッツの弟子でハンブルクのオルガニストを勤めたマティーアス・ヴェックマウン(1619-74)や、「起きなさい(または「目覚めよ」)、と云う声が私達に呼びかける」でお馴染みの(?)フランツ・トゥンダー(1614-67)、アンドレーアス・ハマーシュミト(c1611-1675)、そしてトゥンダーの娘婿にしてリューベクのマリア教会でトゥンダーの後を継いだディートリヒ・ブクステフーデ(c1637-1707)らが居た。ブクステフーデは宗教コンチェルトに変奏形式を導入しトゥンダーの「起きなさい」による変奏曲などを残し、あらゆる音楽を組み込んだ劇の様に進行するコンサート「夕べの音楽(独Abendmusik)」を催して、後に20才のバッハがはるばる物見旅行に訪れている。

ルター派の教会カンタータ

エールトマン・ノイマイスター(1671-1756)が1700年に作曲用の宗教詩というものを創作しカンタータと命名すると、脚韻が不規則で行の長さも不揃いなマドリガーレ的な詩が作曲家の挑戦心に火を灯し、正統派も敬虔派も等しく賛成票を投じるほどバロック音楽の諸要素を織り込んだ宗教声楽曲が誕生した。後の受難曲もそうだが、聖書自体の言葉よりもレチタティーヴォとアリアを作曲するのに相応しく作られた自由詩を重視る傾向はドイツオペラが上演されていたハンブルクを中心に流行が始まっている。初期の作曲家としてヨハン・フィーリプ・クリーガー(1649-1725)やライプツィヒのヨハン・クーナウ(1660-1722)、ハレで活躍したヴィルヘルム・ツァホ(1663-1712)などが居たが、バッハと同時期に活躍したクリストフ・グラウプナー(1683-1760)、ヨハン・マテゾン(1681-1764)、ゲオルク・フィーリプ・テーレマン(1681-1767)にとってもカンタータは最重要楽曲だった。ヨハン・アードルフ・シャイベ(1708-76)はテーレマンのカンタータこそが自然で人の心に訴えるとしバッハの作曲を打ちのめしたために、昨今では不本意ながらアルトゥージと並んで愚か者の代名詞にされている感がある。しかし「シャイベとアルトゥージを足して2で割ったような」などという形容詞の表現は慎みたい。

ルター派の受難曲

・ドイツでは聖書の著述に基づいてストーリー展開する劇風な音楽のことをヒストリア((ラ)物語り)と呼んで好んで作曲していたが、中でもこよなく愛されたのがキリストの受難を扱った受難曲(独passion)だった。すでに中世から物語り・キリストの言葉・群衆が3人の声で分けられて劇のような進行を見せて居たが、ルネサンス期にはいると群衆の部分をモテット様式で多声化して作曲するヨハン・ヴァルター(1496-1570)などが登場し、後になると詩全体をモテット様式で作曲するようになった。ヨアヒム・ア・ブルク(1546-1610)やレーオンハルト・レヒナー(c1553-1606)らの受難曲がこれにあたる。しかし17世紀後半にイタリアのオラトーリオが盛んに演奏されるようになると、叙唱、アリア、重唱、合唱、器楽曲を駆使する役者の居ないオペラタイプが大流行し、例えばシュッツの「十字架上の7つの言葉(十字架7発言)」などに見て取ることが出来る。他にもヨハン・ゼバスティアーニ(1622-83)やヨハン・タイレ(1646-1724)が受難曲を作曲した。

・18世紀にはいると聖書の物語を元に自由に詩を加え練り直し、あっぱれなまでの細部描写とこじ付けで内容を豊かに飾った受難曲の詩が生み出され作曲家に刺激を与えた。この種の受難曲はオペラの殿堂ハンブルクで始まり、ドイツ中にブームを巻き起こした次の2つがそれである。
クリスティアン・フリードリヒ・フーノルト(1681-1721)
→「血を流している瀕死のイェーズス」(1704)
バルトルト・ハインリヒ・ブローケス(1680-1747)
→「世の罪のためにすこぶる苦しみを受け、まさに死なんとするイェーズス」(1712)
→この詩は作曲家の心を揺さぶり18世紀中にテーレマンやヘンデルなど15人もの作曲家が受難曲を書いてしまった。

18世紀以降のミサ曲

 オラトーリオがストーリーの劇的進行に注目が集まり、オペラと器楽曲の世俗様式に触発され書法上の違いが無くなっていったように、ミサ曲においても5つの部分をさらに文節に区切って、合唱、独唱、二重唱などを効果的に配置することによって作曲するようになっていった。一方パレストリーナ様式に対する復帰運動もすでにバロック時代から始まり、ローマのパスクアーレ・ピザーリ(1706-84)はア・カペラ合唱で18世紀のパレストリーナを目指し、フックスは古様式の復活をもくろみ80曲ものミサ曲を書いた。「ミサ・カノニカ」では全楽章をカノン技法で作曲するほどの情熱が、古典対位法の教科書として名高い「グラドゥス・アド・パルナッスム」(1725)を記すことになったが、ラモの「和声論」の3年後の事だった。ルター派もミサ曲を残したが、普通は「キリエ」と「グローリア」からなる小ミサ曲として作曲され、礼拝ではその小ミサとサンクトゥスが場合によって使用された。ただしカトリック圏のように継続的に沢山の作品が残されている分けではない。一方バッハの「ロ短調」は5つの通常文すべてを作曲したフルミサである点が、ルター派の作曲家としてはユニークな例になっている。

2005/02/16
2005/03/01改訂

[上層へ] [Topへ]