ガリレオやらニュートンやらが神々の神秘が織りなす自然界の不思議を次々に科学と数式の前に明らかにし、デカルトが考える葦である我々が自(おの)ずから論理的に思索する事を訴えるような時代になると、自らの知識を存分に鍛えてそれを総動員して、事の正否を選別して、疑いないと確認出来た事柄だけを用いて理性的な解釈を加え、社会や倫理も考えるべきだという思想が生れて来た。神を前提に置く神頼みの思想体系をある程度の知識人達が吐き捨てた時、バロック時代のおそらく早い内に精神世界におけるパラダイム変換が始まった。これはルネサンス期の古典古代の復興を通じて火が付けられた思想方面の発達に大いに基づいていたが、理性的に捉えるという事がある程度の知識人の共通認識になり、それが貴族やら、高等市民やらに浸透し始める頃、特にフランスでは人間社会の事柄を悉(ことごと)く理性によって判断改善するべしという啓蒙主義の時代に入ってきた。そんな思想漲るパリではすでにコンセール・スピリテュエルがイタリアもののソナータやコンチェルトなどを演奏し、イタリア的オペラとフランス的なオペラの両方が開催され、それだけでは飽きたらず30,40年代にはリュリ氏伝統に沿わないラモのオペラに対して反対賛成両陣営が「ぶてぶて」と互いに格闘するほど音楽界は熱気を帯びていたのである。そんなある年、確か1746年にノエル・アントワーヌ・プリュシュなるフランス哲学者が出版した書物の中に
「私は昨今のパリ音楽について、自然に即した旋律を歌わせるようなすぐれた音楽がある一方で、全くもって粗野な音楽が図々しくも幅を利かせていることを知り、大いに憤慨に堪えません。転調やらリズムやらを駆使して無駄に鬼面人を驚かした上に品性までゆがみ歪んだでねじ曲がったこの種の音楽は、まったくもってバロックで、バロックで、どこまで行っても捻(ねじ)り曲がって、もはや私は歪んだ真珠のようだと声高らかに嘲笑の意を表せずには居られないのあります。」
と書き込んだことが、意に沿わない音楽をバロック的として非難して音楽作品に当てはめる最初期のお手本を示してしまった。折しも、1751年から1772年に掛けてダランベールとディドロらによる「百科全書」が全世界のあらゆる事柄を網羅する大辞典として出版を開始、音楽の章の多くをルソーが記し、論理性を持った理性によって社会を改編すべきであるように、音楽も我々の精神に理に適った方法で作曲されるべきだと明言する啓蒙主義の時代だったから、音楽を巡る論争留まるところを知らず、1752年にはイタリアオペラとフランスオペラの賛否を争う「ブフォン論争」が繰り広げられることになった。しかしこうした自覚的に音楽を捉えようとする傾向や、知識階級が啓蒙思想的な思考を共通して持ち、その思考から比較的類似の趣味を持つコスモポリタン的な文化階層が形成され始めたこと、さらに物質人物思想の各国間流通が一般的になってきた事などから、やがて自然と音楽的指向性がバロックより一層共有された古典派と呼ばれる時代に流れていくことになる。
しかしそうなる前、18世紀前期から中期に掛けては、例えばパリでプリュシュが歌う音楽と呼んだ単純な伴奏の上に感傷的で流れるような旋律美が己惚れるジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレーシ(1710-1736)の音楽や、名人芸と活動的なリズムが疾走するようなヴィヴァルディのコンチェルトや、ひねりを加えた豊かな和声に複雑なリズムで安堵を失ったラモの音楽、さらにプリュシュお気に入りのジャン=ジョゼフ・カサネア・ド・モンドンヴィル(1711-72)などの音楽が同時期に演奏され、一方ドイツではバッハやテーレマンが活躍し、イギリスではヘンデルがオペラ上演に命を捧げていた。18世紀前期は盛期古典派の時代同様、音楽的に魅力に満ち溢れたすばらしい時代で古典派語法直前の音楽語法の刈り取りのシーズンを迎えていた。教科書ではこの中から4人の収穫物を取り出して、時代を切る一例として提示しているので、博識の全くない愚鈍の私はそれに従うことにしよう。
・やあ、今日も風邪をひかないで遣っているかい。ワンポイントのジョスカンだよ。今日は声楽曲をもっと知って欲しいヴィヴァルディの年号さ。ここだけの話し実は彼には辞世の句があるんだ。それで彼の生没年を覚えてしまおう。
「いろんなや(1678)つが居るからさ、居な(17)くてよい(41)と見捨てられ」
世間の皆様から見捨てられて投げ込まれたヴィーンの共同墓地に死後書き込んでくれと懇願したのだけれど、あまり悲惨なので拒否されてしまったんだ。可哀想だから覚えて使ってあげる良いよ。それじゃ、また。
・真っ赤な髪の毛でお馴染みの自他共に認める「赤毛の司祭」(イル・プレーテ・ロッソ)だったヴィヴァルディは、政治や経済の栄光は過ぎ去ったものの芸術都市としては人も羨む享楽に満ちた生活を満喫できるヴェネツィアに1678年誕生した。サン・マルコ大聖堂のヴァイオリン奏者だった父から音楽を教わり、後に作曲とオルガンをレグレンツィから学んだ彼は、聖職者街道を順調に進み1703年には無事司祭になったが、非道いぜんそくの為に司祭の仕事はまるで役に立たなかった。しかし社会的立場は大いに強固だったので、女子のための捨て子養育施設であるピエタ養育院のヴァイオリン教師となり、1716年には合奏長に出世した。この施設はほとんど専門音楽学校的な音楽教育機関を兼ねていたので、婦女子音楽隊はヴェネツィアにおいて今日の女子十二楽坊以上の人気を誇っるアイドル的グループの一つだった。パンフィーリ宮殿の建築修飾をバロックと叫んで非難したシャルル・ド・ブロスさえもこれには大変心酔し、「こんなすばらしい音楽会には他のどの都市に行ったって出会えっこありません。」と讃えるほどだったから、嬉しくなったヴィヴァルディはカンタータにオラトーリオにミサ曲から世俗の合奏コンチェルトまで次々に作曲して行った。このピエタ養育院との関係は亡くなる直前の1740年まで断続的に続いていくことになる。1711年に音楽出版の都アムステルダムでコレッリ伝統の協奏曲様式も残るコンチェルト集「霊感による調和」(op3)が出版され国際的に名声を獲得して、以後続々と出版が続いた。さらに1710台半ばからはヴェネツィア、サンタンジェロ劇場を拠点にオペラ活動を開始、ヴェネツィアオペラの中心人物として君臨し、ヴェネデット・マルチェッロが「流行の劇場」で大批判を繰り広げるほどの大王振りに、各地各国にまでオペラを引っさげ演奏に出掛けた。その他にも1718から20年に掛けてマントヴァに滞在して宮廷楽長の地位を獲得し、1723年以降ローマで謝肉祭の時のオペラを上演するなど調子付いて来たので、1725年頃には四季の4曲でよく知られた「和声と創意に対する試み」(op8)を出版、完全に急-穏-急の3楽章によるリトルネッロ形式によるヴィバルディータイプの協奏曲を定着させ、国際的名声も一層高まった。以後も各地を巡りつつ音楽活動を続けるが、1740年パトロンの有力候補だったカール6世の元で活躍するべく財産全部をかき集めてヴィーンでオペラ上演の興行を手配している内に、カール6世が亡くなってオペラ上演がしばらく禁止になって財産が転落した上に、次の皇帝との関係も保てないまま病気になって天上人になってしまったらしい。だから喘息持ちは気を付け無いと危ないとあれほど云ったのに。彼が外国人なのでありふれた共同墓場に投げ込まれたら、モーツァルトの時同様後のゴシップネタの中心になって、そればかりが詮索される今日と相成った。
・50曲以上作曲した事はほぼ疑いがないが、本人が94曲と言い放っているのはまだ虚言か真言か分らない。しかし当時の音楽はまさに消費物でオペラも次々に送り出されたため、スコアが保存されているものは24曲に留まり、現在演奏可能な状態に辿り着いているのはほんの18曲ぐらいなのだそうだ。教科書によると、彼はオペラ「ティート・マンリオ」をたったの5日間で書き上げて、作曲者の速筆部門で世界の頂点に君臨した。今日、これだけヴィヴァルディが世間一般に浸透している様に見えながら、実はもっぱらコンチェルトを中心に古楽ブームが推移して来て、最近バロックオペラの膨大なジャンルに本格的にメスが入れられ始めたばかりなので、ヴィヴァルディのオペラについてとやかく言える段階ではないが、1713年から1719年にかけて彼の作品は辛辣なこともあるヴェネツィア聴衆を最も引きつけたオペラ作曲家だった。
・自ら聖職者だった彼は、世俗音楽と同時に宗教音楽の需要多(おお)なるヴェネツィアで50曲以上の宗教曲を作曲した。教科書ではペーター・リオム番号RV588の「グローリアニ長調」とRV594の「主は言われたDixit Dominus」を勧めているが、私はRV621の「スタバート・マーテル」を圧倒的にお勧めする。そして「まーてるみぜりこるでぃえ」のフレーズでお馴染みの「サルヴェ・レジナ」(RV616)もアカデミア・レゼルヴァータ的には聞いておきたい作品である。
・450曲以上も作曲して次々に消費される協奏曲を充たしたこの種の音楽では、特に弦楽器だけによるものが70%以上を占め、さらにその中でもヴァイオリンが独奏的・または優位に立ったものが70%以上を占める。一方別の視点から見るとコンチェルトの2/3は独奏コンチェルトで、楽器が増えて2重奏などの曲でもスタイル的には独奏コンチェルトと変わらない。彼は特に緩徐楽章に1,3楽章に匹敵する重要性を持たせ、彼のコンチェルティーノ部とリピエーノ部でのモチーフの扱いや回帰、発展の方法はコレッリに続く荒波となって18世紀前半期のこの種のジャンルに大きな影響を与えた。バッハがヴァイマール侯爵の息子がイタリアから持ち帰ったヴィヴァルディのコンチェルト楽譜を編曲して同時に吸収した話しは、音楽ファンには堪らないものらしい。(ああそうですかい。)
・なんでも、マンハイム楽派が作り出したと考えられていた古典派の交響曲の様式、常套手段の多くはすでにここに見られるので、シュターミッツの地位はもうちっと下げても好さそうだという話しだ。
・やあ、続いて登場のジョスカンだよ。今度は知らない人には耳から鱗が落ちてくるほど見事なフランスの作曲家ラモの年号さ。
「一路はみ(1683)出す新音楽を、いいな無視(1764)しちゃいけねえぜ。いいなにこにこ(1722)笑みたたえ、和声論ではパリ住まい。」
初めての人はぜひ声楽曲を何度も聞いてラモを体験して欲しいね、それじゃまた。
・1715年に太陽王が水平線の彼方に沈んでいくと、わずか5歳のルイ15世(1715-1774)が即位、オルレアン公フィリップ(1674-1723)が摂政として政治に当たった。宮廷はヴェルサイユからパリに移り、オルレアン公はパレ・ロワイヤルで生活を開始、今までの反動か享楽的生活がパリ中に漲った。パレ・ロワイヤルではオペラの衣装で仮面舞踏会が連日催され、統一的趣味の強要の無くなった貴族達は自らモードを作り始めた。女性のスカートが横幅を馬鹿みたいに広げたパニエが流行し、香水やら室内修飾やら次々に新しい流行が生み出されていった。この一連の貴族中心のモードをひっくるめてフランス語の貝殻を表すロカーユのような繊細優美かつ室内修飾的なロココのココロと呼んで、他の国々のバロック的誇大妄想より一層上品な芸術だと己惚れ始めたのだ。こうしてフェート・ガラント「優雅な宴(あるいは、みやびな宴、はたまた粋な宴か)」の精神がパリ中を覆い尽くした。嘗ての儀式張った生活にうんざりした貴族達は自由と解放をスローガンとして新しい芸術を求める一方、農民達の田園世界とその理想世界で行われる牧歌的世界への憧れは、農民達の楽器であるミュゼット(バグパイプ)やヴィエール(ハーディガーディ)を細工の効いたお宝として部屋に置き音を出すような流行まで生み出した。
・ルイ15世は1725年にポーランド王家の娘マリア・レシュチンカと結婚したものの、政治にはろくに顔も出さず、ポンパドゥール夫人(1721-1764)を初め何人もの愛人を侍らせて芸者遊びに興じていた。1722年に宮廷自体はヴェルサイユに戻ったものの、フランスの文化は以後パリを中心に繰り広げられていく。そんな宮廷シャンブルの音楽家は偉大なド・ラランドが1726年に死ぬと、後任にアンドレ・カルディナル・デトゥシュ(1672-1749)が入り、作曲家としてフランソワ・ルベル(1701-1775)やフランソワ・フランクール(1698-1787)らが活躍。ルベルは世界を構成する4大元素「地水火風・または土水火気」を元にバレエ「4大元素」(1737)なるものを作曲して、低音が土で、フルートが水、ピッコロが気で、ヴァイオリンが火なのだと言い切った。その頃のクラヴサン奏者にはダングルベールやクプランの元に、1730年クプランの娘マルグリット・アントワネット・クプラン(1705-c1778)が加わる。ヴィオール奏者にはマラン・マレやアントワーヌ・フォルクレ(1672-1745)、フルート奏者にジャック・マルタン・オトテール(1674-1763)やミシェル・ブラヴェ(1700-1768)、ヴァイオリン奏者にジャン・マリ・ルクレール(1697-1764)やジャン・ジャック・カサネア・ド・モンドンヴィル(1711-1772)とまことに豪華な顔ぶれ並ぶロココの宮廷は、日々豪華な音楽に溢れかえった。
・一方エキュリの音楽も、ここに来てフィリドール一族やオトテール一族が活躍を見せ、中でもアンヌ・ダニカン・フィリドール(1681-1728)と「フルート奏法」(1707)でも知られるジャック・マルタン・オトテール(1674-1763)が傑出していた。フランスはエキュリで活躍するような管楽器が一大発展を遂げた場所で、ヴァイオリンのイタリアと管楽器のフランスが後の古典派的オーケストラの下準備を整えたとも言われているが、彼らのおかげでオーボエが合奏の主要楽器にのし上がり、フラウト・トラヴェルソもリコーダに取って代わった。
・14世の邪魔が無くなり貴族達は再び自ら音楽家を雇うようになっていくが、同じ頃裕福市民層などブルジョワジーの力が大きくなり、彼らもまた音楽家を雇いサロンを主催、いつの間にかサロンはブルジョワジーの男性主催者が行なうものにシフトしていく。中でもラモのパトロンであるアレクサンドル・ジャン・ジョゼフ・ル・リシュ・ド・ラ・ププリニエール(1693-1762)は徴税請負人として間接税、消費税の取り立てをしながら財を築き、大いに著名人を集めた大サロンを組織した。
・市民層が成長すると、1725年にはフランスでも公開演奏会「コンセール・スピリチュエル」が開始され、アンヌ・ダニカン・フィリドール(1681-1728)が四旬節の期間王立音楽アカデミが休みになる期間に合わせて、宗教声楽曲と器楽曲を演奏することによって幕を開けた。この演奏会は始めのうちオペラが閉鎖された期間のみ開催可能で、フランス語を使用した歌は歌ってはいけないと言った決まりがあり、ラテン語による宗教音楽か純器楽曲だけが演奏されていたが、後にフランス語世俗声楽曲が取り上げられるようになると、オペラ以外の音楽活動の中心になっていった。金銭上の契約でド・ラランドのグランモテが1770年まで演奏されるが、もっとも取り上げられたのはモンドンヴィルで、ルクレールは1728年にここでパリデビューを飾った。
・フランスはディジョンの教会オルガニストである父だけから音楽を学んだらしいラモは、1701年にはミラノ辺りまでイタリア参りを行ない、ついでにアヴィニョン参りも行った後1702年の内にクレルモン=フェラン(1630年にクレルモンとモンフェランが合併させられて出来たフランス中部の都市で、今日ミシュランの本社がある。)の大聖堂オルガン奏者となった。夢抱いて1706年にはパリに出てオルガン奏者の傍ら「クラヴサン曲集第1巻」を出版するが、そっぽを向かれ1709年には泣きながらディジョンで父の後を継いでノートル・ダム大聖堂オルガニストに就任した。1715年になるとまたクレルモン=フェランのオルガニスト奏者に鞍替えをし、1722年に執筆した「和声論」を出版したところ今度は人々の関心宜しかったので、チャンスに乗じて再度パリに進出する。奇しくもバッハがライプツィヒに到着するのと同じ1723年のことであった。作曲家として名声を得る道はオペラに有りと大望するが、金も知人も愛想笑いも知らないラモは、理論家に音楽が掛けるものかとあざ笑われながらひた向きにオルガン奏者と音楽教師で生活を繋いでいた。1728年にはカンタータやクラヴサン曲集2巻などを発表し、3,4の小さい音楽劇のために曲を書くなどして少しずつ作曲家の名声を獲得していた彼に、1731年救いの手が差し伸べられた。ラモにとっての最重要パトロンである由緒正しい貴族の血を持つ大富豪アレクサンドル=ジャン=ジョゼフ・ル・リーシュ・ド・ラ・ププリニエール(1693-1762)がうちの宮廷の音楽監督を務めてみてはどうかと声を掛け、数多くの宮廷人や知識人が招かれ音楽演奏に華やぐこの宮廷でラモは今までとは全く違う世界を思う存分堪能することになる。彼のサロンでは哲学者のヴォルテールやジャン=ジャック・ルソ(1712-78)、画家のヴァン・ローやラ・トゥール、冒険家にして色事師のカサノーヴァなど数多くの人々に溢れていたし、ラ・ププリニエールが将来性を見込んで連れてくる音楽家やパシにある城館の14人のオーケストラなどすばらしい音楽環境が揃っていたからである。ラモはここでオルガン奏者・指揮者・城館付き作曲家として活躍し、40にして立つどころの騒ぎじゃあない、漸く50才近くになってオペラ界に立ち上がる準備が整った。そしてこれが契機になってか、1733年にラモのオペラ「イポリートとアリシ(つまりヒュポリュトスとアリーキア)」が上演され、ただでさえ音楽優劣議論に華やぐパリで賛否両論の騒動を沸き起こした。パリではすでに1702年にフランソワ・ラグネがイタリアで見たオペラとカストラートのすばらしさを「音楽とオペラにおけるイタリア人とフランス人の対比」として出版すると、1704頃ル・セール・ド・ラ・ヴィエヴィルが「イタリア音楽とフランス音楽の比較」で反旗を翻し、知識人の間にフランスイタリア優劣論争が始まっていたのである。そんなことに構っては居られない、ラモは以後数多くのオペラを作曲し、ラ・ププリニエールのお陰で知り合った数多くの宮廷人のために作曲を行ない、1749年からは、再び音楽理論の著述も開始。翌年に「和声原理の提示」を世に送り出してみた。しかし1752年ペルゴレーシのオペラ・ブッファ「召使いは奥様になった(女中奥様)」が上演されると、フランスオペラとイタリアオペラの優劣を戦わせるブフォン論争が勃発。かつてラモに「貴様の作曲した音楽は沢庵(たくあん)石に括り付けて沈めちまったほうが、フランスのためだ。」と罵られた事のある、気持ちだけは偉大な作曲家のジャン=ジャック・ルソが、嘗ての腹いせにラモの音楽をいじめ抜いて、とうとうラ・ププリニエールとの繋がりまで断ち切られた。その後も旧作上演は続くが、その後新作上演されたオペラは「遍歴騎士」だけになってしまったのだ。すぐさまラモはルソーに沢庵石を送りつけるべく、イタリア音楽を大いに擁護する百科全書派に対して23冊もの理論書を立て続けに発表、ドイツのマッテゾンやイタリアのマルティーニ神父と音楽理論の手紙を遣り取りしながら、年金を貰って著述生活に明け暮れた。1764年には貴族の称号を貰ったので、大いに奮発して最後のオペラ「ボレアード」を作曲していたのだが、ルソーが送り返してきた沢庵石に打ちのめされて死の床に就いた。彼は終油の儀式を行う司祭の歌い方が正しくないと叱っている内に疲れ果てて永遠の安息に付いたという。もちろん沢庵石も一緒に墓の中に入っている。
・イポリートと恋人アリシ、イポリートの父上テゼス(つまりうっかりテーセウス)と妻のフェードルが登場しフェードルがテゼスの前妻の息子イポリートに恋心を抱いてしまううと沸き起こる悲劇を描いたオペラ「イポリートとアリシ」の後、1735年にはオペラ・バレ「粋なインド諸国」を、1737年には傑作の誉れ高いオペラ「カストールとポリュクス」を作曲、続いて1739年にはオペラ・バレ「エベの祭典、別名、詩歌の3つの才質」とオペラ「ダルダニュス(つまりダルダノスはろうで固めた鳥の羽でお馴染みのイカロースのお父上)」と続いた。彼のオペラ上演で沸き起こったフランス伝統オペラ派と革新オペラ派の対立は、リュリ擁護の伝統主義者が「難解でこねくり回して不自然極まりない」と非難するにもかかわらず、ラモのオペラはパリっ子の大人気作品となっていった。晩年にはブフォン論争に巻き込まれ、いつの間にかフランス伝統オペラの中心人物にされ、さらに一悶着あったが、後期の重要作品は教科書によるとコメディ・バレ「プラテ(プラタイア)」(1745)と重厚オペラ「ゾロアストラ」(1749)だそうだ。
・元々筋書きよりも音楽やら舞踏の為にこそあったフランスの音楽劇的な作品は、リュリ亡き後オペラだろうとバレだろうと劇の筋書きの重要性をますます低下させた。ラモの「粋なインド諸国」は地球上の4箇所での独立した物語が4つのアントレ(幕)となったもので、その中の「寛大なトルコ人」はモーツァルトの「後宮からの誘拐」の物語りである。ラモは理論家の情熱を捧げて旋律をすべて和音から導き出し、旋律を支える和声に不明瞭な所はまるで存在しない。そして彼が定義した属和音、下属和音などの理論整然とした和声進行で楽曲が作られている。オペラの序曲はリュリ風の序曲の第2部分を拡大したり、晩年3つの部分からなるイタリア風序曲シンフォニーアの形式を取り入れたりするが、オペラで使われる主題が序曲に取り入れられることが非常に多く、ゾロアストル序曲では劇の経過が序曲に織り込まれている。一方アリアはフランス人気質かイタリアの様に叙唱とアリアの様式の区別は曖昧で、型としては短い2部分形式AB型と、ABA型が多い。そしてイタリアオペラが後に破棄した合唱は、ラモに置いてごく当たり前のものとして使用され、効果を高めた。
・特にオペラ内での器楽部分(仏)サンフォニでの創意と描写能力には感嘆する教科書が、彼のことを「フランスきっての音画家tone painter」と呼んでいる。数多くのクラヴサン曲も楽しいが、1741年に出版された唯一の器楽合奏曲集であるトリーオ・ソナータ集「コンセール風のクラヴサン曲集」を聞いて見たらいい。
・理論派の彼は以後200年の音楽理論の出発点になった。長3和音と短3和音を比率の原理の持つ自然性から明らかにしようとし、和音の基礎をオクターヴ内の3度の組み合わせであるとした彼の理論は、7の和音、更に下方に3度を加えて9の和音や11の和音まで論理の中に当てはめた。さらに彼は一つの和音は転回型が変わっても同一の和音だとし、一つの調性を主和音、属和音、下属和音と他の修飾和音で組織化し機能和声を確立した。それだけでは飽きたらず転調は一つの和音が機能を変更して成されると言い切ったから、まさに近代和声のお父っつあんと呼ばれるに相応しい業績を残したのだ。
・生まれがバッハと同じで、バッハが亡くなったのち9年間踏ん張るヘンデルは、失明に至った医者もバッハと同じジョン・テイラーで、まるでバロック時代が最後に生み出した2卵生双生児みたいな気がしないでもないね。だから年号はバッハの方だけ覚えておけば自動的に導き出されるのさ。
・後に国際的音楽消費大国であり合唱の伝統あふれるイギリスの市民権を得て、イギリス人ジョージ・フリデリク・ハンドルとして生涯を全うしたヘンデルは、ザクセン・ヴァイセンフェルス公アウグストの外科医兼理髪師を務める63歳にも達した父親ゲオルク・フリードリッヒの一大奮発によって、34歳の母ドロテア・タウストのお腹の中からドイツ北東の市ハレに誕生した。父親にとっては8番目の子供となったが、今の妻子の元では2人目だ。ハレはルター派の都市として、ホーエンツェレルン家が治め宮廷にはすぐれた音楽家が在籍していたが、バロック時代初期のザームエル・シャイト(1587-1658)も1609年からここの宮廷オルガニストを勤め、1620年頃には楽長に就任、ミヒャエル・プレトーリウスも名目楽長になったことがあった。30年戦争では人口が半減したが、戦後再びシャイトの活躍や、その後ヨハン・フィーリプ・クリーガー(1649-1725)が楽長に就任して、音楽の復興を成し遂げた都市だった。そんな音楽の町で、早くから音楽にのめり込む息子に驚いた父は、宮廷か教会ぐらいしか就職口のないそんなやくざな商売に手を染めては大変だと、楽器を取り上げるが、やんちゃ盛りは親父の目を盗んでは音楽にのめり込んだ。とうとうアウグスト公爵まで音楽の才能が有りそうだと言い出すので、法律家としての道に進む条件でハレ聖マリア教会オルガニストのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァホ[ツァッハウ](1663-1712)に音楽を教授させた所、宮廷楽長とその弟クリーガー兄弟からも影響を受けながら大いに成長、オルガン、チェンバロ、ヴァイオリンにオーボエを学び、ツァホの持つドイツとイタリアの膨大な楽譜を賢明に写し取りながら大発展を成し遂げた。すでに亡くなった父との約束を律儀に守り1702年にはハレ大学の法学科に進学、途中で退学するものの、初期の啓蒙主義や敬虔主義などに花咲くハレ大学で、当時の新しいタイプの音楽家が進む、取りあえず大学に入って出世の道を確保すると共に、大学の精神と知識を身につける一方で、ライプツィヒ大学に在籍していたもう一人のバロック時代を商才共に兼ねそろえて生き抜いた才人ゲオルク・フィーリプ・テーレマンとも友人になり、またすぐにハレ大学に付属する大聖堂の見習いオルガニストとなった。
テーレマンと親交を続けながら、1703年にはオペラ上演真っ盛りの自由都市ハンブルクに旅出ったヘンデルは、今度はやがて音楽理論家として名をはせるマッテゾンと親交を結び、劇場オケで弦楽器奏者に任命され、イギリス大使ジョン・ウッチの息子に音楽を教えながら活動を開始。マッテゾンと連れだってリューベクにブクステフーデの夕べの音楽を見物に出かける一方で、1705年には初のオペラ「アルミーラ」を上演して見せた。主役を演じたのはまたしてもマッテゾンだ。同じ頃聞いたカイザーのオペラ「オクタヴィア」にすっかり感銘を受けるが、マッテゾンから「君の音楽は、優れたハーモニーを持ち、スタイルも抜群だ、だのになぜこんなに気乗りがしないのかと思ってみたら、どうも旋律がだらしなすぎる。イタリアで勉強したまえ。」とご忠告を食らって、1706年には泣きながらイタリアへ向け武者修行に出発した。
イタリアに到着すると生でシシリアーノが演奏されている。6/8や12/8で短調な曲が哀愁を醸し出すのに早くも感化されながら、ヴェネツィアで有名な初期のカンタータ「ルクレツィア」を作曲すると1706年末にはローマに進出、翌年からパンフィーリ枢機卿やら3大パトロンの一人フランチェスコ・マリーア・ルスポリ公爵のために曲を書き、もう一人の3大パトロンであるピエートロ・オットボーニ枢機卿の宮廷でも活躍して見せた。このイタリア滞在では特にルスポリをメインパトロンとして、腰を据えたヘンデルは、数多くの音楽家と知り合うことになる。有名なところでは、アルカンジェロ・コレッリ、アントーニオ・カルダーラ、そして親子スカルラッティに、アゴスティーノ・ステッファニらと面識を持ち、同い年のドメーニコ・スカルラッティとはオットボーニの宮廷で鍵盤楽器の激しいバトルを演じて見せた。さて1707年末になると今度はフィレンツェに出張しオペラ「自分に勝つこそ真の勝利、ロドリーゴ!!!」をメディチ家のために上演、1708年4月の復活祭ではルスポリ邸でオラトーリオ「復活」が演奏され、豪華コレッリ引率45人による器楽が参加し、2回の演奏のためだけに1500部ものリブレットが印刷されたそうだ。その年の初夏にはナポリに足を伸ばし自作を演奏したり、翌年シエナやヴェネツィアに出かけたが、ヴェネツィアで27回も上演されたオペラ「アグリッピーナ」を置きみやげに1710年ドイツはハノーファーに旅出った。これはゲオルク・ルートヴィヒ選帝候に雇われてハノーファーの宮廷楽長に就任したからだが、ヘンデルはカンタータ「アポロとダフネ」を作曲するやいなや1年間もの休暇を獲得してロンドンに出発してしまった。
1710年の7月にロンドンに到着すると丁度今まさに開始したばかりのハイディガー主催のイタリア・オペラ継続上演プログラムとしてオペラ「リナルド」を初演して見せたヘンデルは、ハノーファーに一時的に戻ったものの1712年には再びロンドンにやってきて、オペラを次々に上演。ヘンデルの使えるゲオルク・ルートヴィヒ選帝候の母親は当時のイギリス国王だったアン女王の従兄弟で、皇太子のいないアン女王が亡くなると選帝候がイギリス国王になる条令があったから、このヘンデルを何度もイギリスに向かわせる寛大な処置には、女王に選帝候の伝言を伝える係とか、あるいはアン女王の動向を探るとか、毒を盛るとか(こらこらこらこら)選帝候の意向が働いているのかもしれない。ピカデリーにあるバーリントン伯爵邸に滞在し古典主義な詩人アレキサンダー・ポープ(1688~1744)やら、後に英語による「乞食オペラ」でヘンデルに一泡ふかせてみせるやんちゃ者のゲイと知り合い、王室からの依頼に応えて初めての英語作品「ユトレヒト・テ・デーウム」や「アン女王の誕生日のための頌歌」を作曲した。
1714年にアン女王がなくなると自らが使えるハノーファー選帝候がかねての約束を履行してイギリス国王ジョージ1世としてロンドンにやってきたので、ヘンデルは国王の臨席き気をよくしてオペラ「リナルド」を上演、王室から400ポンドの年金を約束され、後に皇太子妃カロラインの娘たちの教育も兼ねて600ポンドに繰り上がった。イギリス国民はドイツ人が国王になって内心非常に複雑な思いでジョージ1世を眺めていたが、英語もしゃべれずおかげで議会はより独立性を高めるし、国王は故郷恋しとハノーファーに遊びに帰るという。国王のお供をして一時ハノーファーに帰った1716年には、ハレで友人のシュミットを捕まえてロンドンに家族諸共招き寄せ、秘書兼コピーストとして雇って見せたが、ハイデッカーが率い切れなかったロンドンオペラのシリーズはヘンデルの上演共に立ち消えて1717年に一端幕を閉じた。やけっぱちになったハイデッカーの元に国王お誘いのための水上船遊びで演奏する豪華音楽の企画が舞い込んできたので、同年ヘンデルの「水上の音楽」が演奏されたのだが、国王の乗る船の横に50人の演奏者の乗った別の船が寄り添って、どんちゃん騒ぎを繰り広げるこの手の企画は後も続き、どこまでがいつ作曲されたのか到底分からない。同じ頃ハンブルクからの依頼も舞い込み、ヘンデルはドイツ語最後の大作としてブローケスの詩に基づく受難曲「世の罪の苦しみのためにまさに死のうとしているイエーズス」を作曲してマッテゾンに当てて送りつけてみた。ロンドン近郊にある後のシャンドス公爵の邸宅では「シャンドス・アンセム」や、英語劇音楽に初めて手を付けた「エーシスとガラティーア」第1稿と「エステル」第1稿を作曲したりしていたが、1719年ベートーヴェンよりいち早く運命が戸を叩くと叫んでロンドンに戻ると、ヘイマーケット女王劇場で始まるロイヤル・アカデミー・オブ・ロンドンの創設に参加した。
これは60人の裕福市民や貴族が200ポンドづつ出し合い、国王保護資金付きで自ら出資する経済基盤の上にイタリア・オペラを継続的に上演することを夢見たオペラ興行団体で、ジョスカンに敬意を表して21年間継続的に続くものだとされた。折しも翌年1720年といえば、実際はスペインが握って手を出せない筈の南アメリカ大陸貿易を一手に引き受ける南海会社の株が急激に鰻登りに上って、挙げ句の果てに崩壊する南海南海泡沫(サウス・シー・バブル)事件がわき起って、計算の得意なはずのニュートンが大損害を被っただけではなく、自殺財産没収身分剥奪とロンドン中を大混乱に陥れるのだが、ここからバブルという言葉が生まれたことは横に置いておくとして、このような株式投機熱があつく燃え上がるロンドンでは、何でも株式会社にして経営を行おうとする精神がみなぎった。このロイヤル・アカデミー・オブ・ロンドンも、国王庇護とはいっても支出は補助に止まり総裁副総裁が置かれ24人の取り締まり役が運営を握る合同株式会社であり、ヘンデルの他に2人のイタリア人であるジョバンニ・ボノンチーニ(1670-1747)、フィリッポ・アマーディ(1690-1730頃活躍)が作曲を担当し、同時に演奏を取り仕切った。順調に滑り出したシーズンだが年ごとにカストラートのセネジーノやら、ソプラノ歌手のクッツォーニ、ファウスティーナなどをイタリアから多額の資金を出して調達していたら金銭難に陥り、おまけにセネジーノは金銭かっぱらって祖国に帰っていくのが風刺されるは、クッツォーニとボルドーニという歌手は舞台で観客2大派閥を形成ししのぎを削ったあげく、舞台の上で取っ組み合いを初めて「2匹の雌猫事件」と新聞に醜態をさらすは、またそのクッツォーニはヘンデルの楽譜じゃ歌えないとまくし立てて、怒り狂うヘンデルに抱えられ窓から突き落とされそうになるわで、大変な騒ぎになった。当時は即興当たり前、歌手にあわせて毎回楽譜を書き換えるのが普通だったが、ものには限度ってものがある。その上1728年になるとゲイがイタリアオペラを風刺し英国庶民的な歌バラドからなる英語の歌詞の付いた「乞食オペラ」を上演し、バラド・オペラブームに火が着くと、それに合わせてお客を奪われ、見事資本を使い果たし1728年にはシーズンは打ち切りになった。ただしバラドの寄せ集め的なこの種のオペラでは作曲家の仕事はバラッドのアレンジぐらいで、芸術的オペラには到達しなかったのである。この間に行われた合計487回の公演のうち245回はヘンデルのオペラで、2位のボノンチーニの108回を大きく引き離し、イタリアオペラのシーズンは、ヘンデルオペラのシーズンと化していた。こんなオペラ三昧の合間に1720年にはハープシコード組曲を出版し、1727年には次の国王ジョージ2世の戴冠式にあわせ「戴冠式アンセム」を作曲する一方、ドイツ人のくせに生意気だという声をかわすために、1726年イギリスに帰化することにした。もちろんオペラのシーズンも直ちに再開された。1729年の始めに運営実務をハイデッカーとヘンデルが握る第2期ロイヤル・アカデミーのシーズンが開始、今度は完全に自分だけのオペラシーズンという贅沢きわまりない環境を手に入れたヘンデルは、大喜びでイタリアに歌手をあさりに出発した。
同じ頃ヘンデルの「エステル」を王室礼拝堂少年合唱団が、演技と器楽の間に聖歌隊を配して上演したところ大成功を納める事件が有ったので、ヘンデル自身一つこれをオペラのシーズンに取り上げようと目論んだ。しかし聖書物語をオペラ劇場で上演するやつはいねえがとロンドン主教が家々を探し回って歩くのにおびえて、配役なしの合唱と器楽で演奏することにしたので、結局ヘンデルの英語によるオラトーリオ作品の最初のものとして「エステル」第2稿、ついで「エーシスとガラティーア」第2項が上演された。
第2期ロイヤル・アカデミーの最後のシーズンが開始する33年になるとオペラ・オヴ・ザ・ノビリティという新興オペラ団体が、独裁者ヘンデルに喝を入れるべく立ち上がりイタリアから作曲家ニコーラ・ポルポラ(1686-1768)を迎え入れ進んで敵対関係を築いた。契約終了のヘンデルはバブルのいわくのある南海株式会社の株を売り払って、ハイデッカーと2人で1万ポンド(日本円でざっと5千万ぐらいかな)ずつ出し合って、すぐに誕生したばかりのコヴェント・ガーデン劇場に移り次々に新作を上演して対抗した。オペラ「オルランド」(1733)や「アルチーナ」(1735)、そして偉大な?「アリオダンテ」(1735)などを次々に作曲し、これらのオペラでは敵対勢力に対抗するため、フランスからバレリーナのマリ・サレを雇い入れオペラの中にバレを投入したダンス・オペラを作曲し見せ場を設けた。さらに1733年にはオラトーリオ「アセイリア」をオペラのシーズンの中に組み込んでオラトーリオの上演を交え劇場を運営したが、中でもオラトーリオ「アレグザンダーの饗宴」は大成功を納めた。しかし相手も一歩も譲らず客を引くので、オラトーリオ上演の合間にヘンデル自らオルガン・コンチェルトをお披露目して観客の目を引くなどデッドヒートが続くうちに、とうとう相まみえて1737年、ヴェネツィアで始まった初の公開オペラ劇場サン・カッシアーノ劇場の開設100周年だというのに、両方のオペラが幕を閉じてしまった。こうした余興としてのオルガン協奏曲は今日、作品4と作品7としてのオルガン協奏曲集に収められているが、この演奏のために使用されたオルガンは教会のフルオルガンではなく、劇場用の比較的小型のオルガンだった。イタリアで生前のコレッリから影響を受けたヘンデルは、コレッリ型の作曲技法でこれらを送り出した。
ニコーラ・ポルポラとのクロスカウンターアタックがよっぽど答えたのか、健康をすっかり害してパンチドランカーになってしまったヘンデルはロンドン郊外に療養に出かけたものの、ボタンすらろくに止められない症状が現れて、ついに1737年5月に脳卒中で下半身不随に陥った。体をぴくぴくふるわせながらドイツのアーヘンに転身治療に向かうと天はまだ彼を見放さず、ヘンデルは見事復活してロンドンに直行帰還するとオペラ「ファラモンド」を作曲して次のシーズンに備えながら、自らの代わりに悪魔に取り付かれた王妃カロラインの急死に際して「葬送アンセム」を演奏して悪霊を追い払った。こうして1738年から41年までの4つのシーズンがまたしてもハイデッカーとヘンデルによって行われ、喜劇「クセルクセース」(1738)や3本のトロンボーンにカリヨンまで加えたオラトーリオ「サウル」「エジプトのイスラエル人」やら作曲が続く。この最後のシーズンの締めくくり1741年に上演されたオペラ「デイダミーア」はヘンデル最後のオペラとなった。シーズン合間にも「聖セシーリアの日のための頌歌」やかつてアトラクションで演奏されていたコンチェルトをまとめた12曲のコンチェルト・グロッソ集(作品6)を出版するなど、休むことを知らず、シーズンの終わった1741年にはすでに「メサイヤ」と「サムソン」のオラトーリオの作曲に取りかかった。
オペラは資金がいくらあっても事足りず、おまけに次第に台頭するロンドン市民階層には貴族支援度の高いイタリアオペラよりも、英語によるオラトーリオの方が遙かに受けがよい。時代精神はもはや貴族的ではないとヘンデルもオラトーリオによる演奏会シーズンを考えてみたが、取りあえず41年から42年にかけてアイルランドのダブリンに演奏旅行に出かけ(作曲だけ多く書くなら沢山いるが、作曲からオペラ企画歌手調達演奏監督演奏旅行と休むことなくイタリア時代から続くこの人のバイタリティーは、あらゆる作曲家の中でもっともすさまじいかもしれない。)、その地で2シーズンばかり開催して既存のオラトーリオを上演する一方、収益を病院などに寄付する慈善演奏会を開催し「メサイア」を上演し大成功を納めた。
43年コヴェント・ガーデン劇場に戻ったヘンデルは四旬節に行うオラトーリオだけによる新たなシーズンを開始、別の企画で行われていたオペラシーズンとは完全に分離し、己の企画を全うした。もちろんオラトーリオの合間には己のオルガン即興演奏など出し物には事欠かない。こうしてヘンデルだけに振り回され続けるイギリス音楽界は、今度はオペラ対オラトーリオ派が生まれて大騒ぎ状態を満喫、「サムソン」「メサイア」の上演に続いて、オラトーリオ「セメレ」や「ヘラクレス」「ペルシャザル」などが次々に演奏され、1747年のオラトーリオ「ユダース・マカベウス」に到達した。この作品の大成功によって見事シーズン運用は採算が間に合うようになり、続くオラトーリオ上演に弾みをつけた。
1748年にイギリスがオーストリア継承戦争で勝利すると、ジョージ2世は祝典行事を計画、花火と共に演奏されるヘンデルの「王宮の花火の音楽」が鳴り響き、ロンドンは群がる見物客で大根チェルト状態に陥った。1750年にバッハが亡くなったのをぼんやりした不安として感受したものか初めて遺書を書いて大陸に向かうと、案の定馬車が大崩壊をきたし大けがをするが、めげずにのこのこ生まれ故郷ハレまで出かけてからロンドンに戻る。しかしオラトーリオ「イェフタ」の初演の後白内障の手術を受けた所、同年1752年の内に失明してしまった。執刀医は、かつてバッハの目を手術して失明させてみせた太っ腹な医者ジョン・テイラーその人で、各地を渡り歩いて金を持った目の悪い著名人に私の仕事で誰さんは目がお見えになりてだの、どこの何とかさんは顔の見分けが付くようになってだの騙くらかして金を稼いでいたとも噂される。しかしヘンデルはそれでもまだ踏ん張って死ぬまで旧作上演をもってシーズンを毎年全うするが、1750年以降は必ず四旬節シーズンの最後を「メサイア」で締めくくった。国王臨席のロンドンメサイア初演では、ハレルヤコーラスのところでついうっかり立ち上がった国王ジョージ2世に合わせて、全員立ち上がってしまうという珍事まで勃発、以後ハレルヤで立ち上がる行事が伝統として定着してしまった。さらにシーズンが終わるとファオウンドリング・ホスピタルで定期的に「メサイア」を演奏し、収益のすべてを寄贈した。最後のオラトーリオ「時と真理の勝利」は、1707年ヘンデルがイタリアで初めて作曲したパンフィーリ枢機卿の台本による「時と悟りの勝利」を英語台本に書き下ろしたものに、音楽を改訂して既存作品引用と口頭で写譜させた幾つかの新曲をつけたもので、従って彼のオラトーリオはゴールトベルク変奏曲のアリアのように始めに回帰して幕を閉じた。(ほんまかいな。)1759年に亡くなると遺言通りウェストミンスター・アベイに埋葬され、J・クロフトの「葬送アンセム」が鳴り渡ったが、翌年にはメナリングが早くも逸話満載の「ヘンデル伝」を著述して見せた。
2005/03/08
2005/03/22改訂