12-3章 バッハの生涯 後半

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ライプツィヒ時代(1723-1750)

 ザクセン選帝候の元、ドレスデンに次ぐ重要都市だったライプツィヒは、中世以来自治都市となり東西貿易の接点として定期市を開く権利を獲得、1409年にはライプツィヒ大学が開設され、ハイデルベルク大学に次ぐドイツ最古の大学として、哲学者のライプニッツを初め、後にはレッシングやゲーテ、フリードリヒ・ニーチェが在籍する名門校として知られることになった。宗教改革の時にはヨハン・エックとマルティン・ルターの論争がここで行なわれ、ライプツィヒは新教の都市となった。この宗教改革時にカントール制度が出来、初代カントールとしてルター派楽譜出版者として有名なゲオルク・ラウ(1488-1548)が就任、付属学校が都市の管轄となりカントールはラテン語教育も行なう伝統が生まれ、ルターの書物を立て続けに出版している間に出版業が賑わい始めた。カントール制度とは教会に付属するギムナジウムと呼ばれる学校教育を見直し、知識人としての一般教養のためラテン語の授業と、対位法的な宗教曲を歌うための訓練を施し、その生徒達を中心に独唱者と聖歌隊、器楽奏者を含む教会音楽を行なわせるために形を整えたもので、教会音楽と生徒の面倒を見るのがカントール、彼の指揮のもと演奏を行なう教会音楽隊のことをカントライと呼んだ。バッハが自ら通い、ライプツィヒで教えたのも皆このカントール制度による学校である。よってルター派正統主義の精神は非常に強く、バッハが就任する頃になっても、ある種礼拝の精神高揚がこの地域には見られたという。さてカントールの方は、その後も1594年からはゼートゥス・カルヴィシウス(1556-1615)が楽長に、1616年からはヨハン・ヘルマン・シャイン(1586-1630)が取って代わり、30年戦争後の復興はヨハン・シェレ(1648-1701)を迎えて再起を図り、1701年にヨハン・クーナウ(1660-1722)が楽長に就任、彼は学者としての知性をラテン語授業に事細かに注いだために、後任者のラテン語教育能力が一層重要な意味を持つことになった。一方ライプツィヒの大学には法律を学ぶべくゲオルク・フィーリプ・テーレマン(1681-1767)が在籍し、1693年から1720年の間には都市内でオペラも上演され、テーレマンの多数の作品が上演されたが、さらに都市を彩る高度なアマチュア音楽団体として幾つかのコレーギウム・ムージクムと呼ばれるオーケストラが、コーヒーハウスや町の広場で演奏を行なっては市民達を楽しませていた。こうして選帝候に所属しながらも自治都市として大きな自由を許された、当時人口2万5千人ほどのライプチィヒだったが、就任直後のバッハはとてもコーヒーにうつつを抜かしている場合ではなかったに違いない、彼の仕事の内容を箇条書きしてみよう。

バッハのお仕事

1.聖トーマスの付属学校教師として
・12-23歳の生徒からなる(当時の変声期が17-18歳で十分聖歌隊は組織できたらしいが、何で時代によって変声期が変わるのだろうか)付属学校は決して音楽学校ではなくライプツィヒ大学進学を前提に基礎科目とラテン語、宗教、音楽に基づくトータル教育をモットーにするため、ある意味音楽才能だけで入学させるわけにはいかないのだが・・・でもバッハ時代の時間表を見ると、音楽だけの学校にしか見えないな。
・バッハの仕事は
音楽レッスン
生徒の監督
ラテン語授業(これは50タラー出して他の人に頼んだ)
葬儀の際に墓地まで監督

2.市内主要教会の音楽監督
・平日もどこかの教会で必ず礼拝が行なわれていたライプツィヒでは、日曜祝日ともなれば、午前7時から礼拝が開始され町中礼拝音楽が鳴り響く事になったので、教会歴おおよそ59回ほどの日曜・祝祭日のミサのために4つの主要教会に55人ほどの学生聖歌隊を能力別に分配して、聖トーマス、聖ニコライ教会には第1,第2聖歌隊を分け一方ではカンタータを、もう一方では多声声楽曲を、そして新教会(マタイ教会)には簡単な多声音楽を第3聖歌隊に、聖ペテロ教会は出来の悪い第4聖歌隊に単旋律コラールを歌わせて教会音楽を遣り繰りしなければならなかった。これを毎週欠かさずに行い、毎週ごとに上演される新しいカンタータを作曲し演奏指導を行なうと共に、カンタータ上演のための器楽奏者も集めなければならなかった。例えばシュタットプファイファー(町楽師)などもそのために動員されただけでなく、聖歌隊の上級生を渋々器楽に回したり、コレーギウム・ムージクムなどで活躍するアマチュアの大学生にも声を掛けどうにか演奏にこぎ着ける有様だった。ところでこのシュタットプファイファーというのはトランペットを吹き鳴らしたり、ツィンク(コルネット)やサックバット(トロンボーン)といった管楽器で街頭を賑わせ、祝祭や行事を盛り上げ、また市庁舎や塔の上から吹奏楽を鳴らして、時間から火事まで知らせるため市に雇われた吹奏楽演奏家達で、このような塔などでの定期演奏は、16世紀初めのハレで始まったとされているが、バロック時代には各地で行なわれるようになっていた。ライプツィヒの17世紀後半では定員4人の吹奏楽師と定員3人の弦楽師クンストガイガーが居て、他にもファゴットなどを演奏する見習い1人が市の雇う音楽家達だった。彼らは市庁舎バルコニーから定時に演奏などを行ない、ライプツィヒ17世紀後半の町楽師ヨーハン・クリストフ・ペーツェル(1639-94)の作品は今日でもよく演奏されているそうだが、もちろんカンタータの演奏も彼らの重要な仕事の一つだった。

次にそんな日曜日のとある礼拝の順番を主要礼拝教会での例で見てみよう

1.
オルガン前奏(規模の大きい自由形式の曲)
2.
ボーデンシャッツ編の曲集から取られたルネサンス期のモテットを多声で(カトリックのミサでのグラドゥアーレの代わり)
3.
オルガンが導入前奏曲を奏し聖歌隊と器楽によるキリエとグロリア
4.
イントナツィオ(祭壇前で)
5.
使徒書簡の朗読
6.
祈り文詠唱(グレゴリオ聖歌風な単旋律で聖歌隊が歌い、それに会衆が答える)
7.
当日のコラールに基づくオルガン前奏の後、聖歌隊と会衆によるコラール、オルガンは伴奏を勤める
8.
福音朗読
9.
オルガン前奏による導入とカンタータなどの主要音楽
10.
信仰宣言(ルター作の信仰宣言コラール「われらは信ず」を歌う。)
11.
1時間ぐらいの説教(非常に眠くなる・・・のは君だけで、カトリックと違いルター派では聖餐式よりも、説教を重んじたために、全員ペンを持ち出して説教を記入し始めた・・・また作り話を。)
12.
会衆がコラールを説教に呼応して抜粋して歌う(12,13あたりで大きな祝日では、「サンクトゥス」が歌われる。)
13.
聖餐式(オルガン前奏と聖歌隊器楽隊によるカンタータの抜粋や、場合によってカンタータ第2部が?)
→その後聖体拝領の終わりまで、オルガンとコラールの交互演奏などが音楽を続ける。
14.
終了のコラールが歌われ、牧師による祈りがあり、オルガンが後奏する中を下校時刻の蛍の光状態で会衆が家路につく



 教会歴5年分のカンタータを完成させれば、後は使い回す事が可能だと判断したか、意気揚々と毎週分のカンタータ作曲が始まった。カンタータ以外にも夏にはモテット「イエスよ、我が喜び」を作曲しているが、普段はカンタータに地位を奪われていたモテットも、葬儀で頼まれた場合など特定の場合作曲することがあった。バッハにも疑いなく本人の作品だとされるものが4曲あるが、すべて2重合唱を用いて作曲されている。ヴェネツィア生まれの2重合唱方式はまだ命脈を保っていた訳だ。23年のカンタータの中では、第1年度の中では唯一の対話的カンタータである「ああ永遠、それは雷(いかづち)のことば」(BWV60)があるが、これは寓意的人物「恐怖」と「希望」が葛藤と克服の対話編を繰り広げる作品で、後にアルバン・ベルク(1885-1935)が亡き娘を偲ぶ「ヴァイオリンコンチェルト」(1935)の中にこのカンタータの終結コラールからの引用を用いたことでも知られているが、残念なことにベルクにとってこの「ヴァイオリンコンチェルト」は自らを偲ぶ作品になってしまったようだ。1723年のクリスマスにはカンタータの精神で作曲された「マグニフィカト」(BWV243a)の変ホ長調初稿版の姿も見られる。一般的には後に28-31年に改訂されたニ長調の決定稿(BWV243)で知られるが、調性格が絶対的意味を持っていたならば、こんな無頓着な調性変更はしないことを付け加えておこう。
 1724年のハイライトは4月7日に聖ニコライ教会で初演された「ヨハネ受難曲」で、後の「マタイ」同様、聖書の句の部分は福音史家(エヴァンゲリスト)をテノールのレチタティーヴォが、主の言葉をバスのレチタティーヴォが担当し、合唱も聖書の句を歌うが、自由詩で形成されるそのほかの部分は群衆と弟子達が合唱で表され、他の登場人物達が各ソロで歌う構成になっている。このヨハネはマタイよりも自由詩の占める割合が少なく「初めに言葉があった」で始まるヨハネの福音書の性格に沿った客観性・論理性の重視が見られるのだとI教授が力説している。なおこのヨハネは演奏の度に4回改訂されているからこの年に最終形が生まれたわけではない。

ワンポイントJ缶

・やあワンポイントのJ缶だよ、時にはこんな所からも登場するのさ、今日はもちろんヨハネ受難曲(1724)とマタイ受難曲(1727)の覚えかたさ。
「西(24)のヨハネに、フナ(27)のマタイ、よく(49)も書いたなロ短調」
っていうのさ、意味も不明瞭で、なんでフナなのにタイなのかよく分からないけど、うやむやのゴロだけで勝負することもあるのさ。ついでにミサ曲ロ短調も入れておいたから、試験に出なくても使って欲しいね。それじゃ、また。



・・・何なんだいったい

 とにかくその西のヨハネが終わると、カンタータも第2年度目に突入、バッハは一つのコラールが全曲に渡り活躍する「コラール・カンタータ」という遣り方を思い当たり、1年目と同名の別のカンタータである「ああ永遠、それは雷のことば」(BWV20)で作曲を開始した。このコーラル・カンタータで2年目の大部分が作曲されていくが、特にI教授が最初の頂点だと力こぶを入れて力説するカンタータ「イエスよ、あなたは私の魂を」(BWV78)をぜひとも聞いておく必要がある。
 翌25年にはマグダレーナ・バッハのための音楽帳も2巻目に突入、以後妻や子供達が記入を加えに加えて音楽一家の証とするが、バッハの方は 2月にヴァイセンフェルス宮廷に出かけ公爵の誕生祝いにカンタータ「逃れるのです、消えるのです、そして退いて失われておしまいなさい、様々な憂いよ・・・そんな訳は前代未聞だ。」(BWV249a)を作曲、これは後に改訂されて「復活節オラトーリオ」(BWV249)となるが、この曲がきっかけとなってペンネーム「ピカンダー」こと詩人のクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ(1700-64)と知り合い、彼の詩による一連のカンタータ作曲へと繋がっていくことになった。復活節にはいると、詩人からの要請か、はたまた用いる技法ことごとく出尽くした為か、コラール・カンタータの遣り方をうち捨てて、しばらくまた聖書の句に始まり最後にコラールで閉じられるスタイルで作曲を開始、カンタータ「お前達は泣いたり叫んだりなんかして」(BWV103)以降続けて9作品を女流詩人であるマリアーネ・フォン・ツィーグラー(1695-1760)の詩を用いて送り出し、2年前5月末のカンタータ演奏から数えてカンタータ2年度分をめでたく作曲した。しかし次がいけなかった、大学付属の聖パウロ教会における礼拝音楽監督権を巡って、ここの音楽監督権を手に出来ればすぐれた大学生の要員を使用できると思ったか、臨時収入に期待したか、前々から大学側と対立していたのだが、遂に意を決したバッハがザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世に直訴状を提出、大学との関係を和解が出来ないほど悪化させ、怒鳴り声を張り上げている内に作曲が疎かになり、気力も失せて大学付属教会の方は副指揮者に任せてしまった。クリスマス期に8曲ばかりカンタータを作曲し「笑みは、私たちの顔に満ち」(BWV110)では「管弦楽組曲4番」のフランス風序曲の転用が見られるが、翌年26年になってまたやる気をなくす事件でもあったか、マイニンゲン宮廷楽長である親戚ヨーハン・ルートヴィヒ・バッハ(1677-1731)のカンタータを毎週演奏し、「持つべき者は親戚ぞなもし」とうそぶいた。もっとも1750曲以上のカンタータを作曲して自作だけで全うしたテーレマンや、1400も残したグラウプナー(1683-1760)のようなカントールは次々に新作を送り出すバロック時代にあってもむしろ例外で、より多くのカントール達は自作のカンタータと教会がストックして持っていた前任者などのカンタータ、さらに流行のものや親戚知人関係のカンタータなどを織り交ぜて上演するのが普通だったから、バッハの態度は何ら避難するに当たらない。この時代はとりわけ新しい作品が求められた時代だったが、近過去の音楽の上演ももちろん行なわれていたのだ。そんなわけで小休止の後、6月頃になって漸く少しずつ書き始めたカンタータの中には、今度は独唱者用カンタータを取り入れ、例えば「わたしは喜こんで十字架を背負いましょう」(BWV56)はバスの為に書かれたカンタータになっている。9月になるとケーテン候レーオポルトが新しい妻を貰って子供が出来たというので、お祝いに「パルティータ第1番変ロ長調」(BWV825)を送りつけ、せっかくだから出版もしてみた。これに気をよくして以後も大体1年に一曲づつパルティータを出版してみたら、1731年には「クラヴィーア練習曲集第1巻」に纏めて世に送り出せるようになったので、ここに来てバッハも出版の世界に足を踏み入れてみた。
 1727年にはカンタータ「わたしは満ち足りました」(BWV82)の様な傑作を作曲しながら、遂にお待ち遠様「マタイ受難曲」(BWV244)を仕立て上げ、ピカンダーの歌詞に基づき「ヨハネ受難曲」よりも自由詩の占める割合の多いドラマ性の強い受難曲を世に送り出した。これについては礒山先生大いに奮発した名著「マタイ受難曲」があるので、私は決して国立音楽大学とは何の関係もないが、興味のある方はぜひ購入してマタイ通になってみたらどうだろう。この年も秋になると夫であるザクセン選帝候がポーランド王継承のためにカトリックに転じたときでさえ平然とプロテスタントに止まった偉大な選帝候后が亡くなったというので、バッハは追悼頌歌としてカンタータ「候后よ、さらに1条の光を」(BWV198)を作曲、後の「マルコ受難曲」のひな形となった。他にもこの27年にはオルガン曲「トリーオ・ソナータ」(BWV525-530)6曲が完成され、さらに31年にかけて「プレリュードとフーガ ホ短調」(BWV548)「プレリュードとフーガ ロ短調」(BWV544)を完成させている。
 翌年、ピカンダーがバッハに音楽を書いて貰えることを当て込んで作詞したカンタータの歌詞があるので、バッハがこれに作曲したカンタータ群が後に失われてしまったのだという学説も囁かれる1728年には、聖ニコライ教会の副牧師が「礼拝のコラール選定権は俺様のものだ」と叫び、すでに選定を任されていたバッハと対立し、聖職会議でみごと新しい歌詞のコラール選定を認めさせられてしまったので、ふて腐れて曲を書かなかった可能性も高い。歌詞の辻褄(つじつま)を合理的に解釈し、啓蒙主義的精神の漲る巷でトレンドの歌詞を選ぶ新しい風潮に対して、バッハは頑(かたく)なに古い「ドレースデンコラール集」にこだわって居たのである。さらに11月になると嘗ての君主ケーテン候レーオポルトがわずか33歳で天上に去ったとの訃報(ふほう)が入り、バッハは泣きながら自らの葬送音楽を用いて追悼礼拝を行なった。
 明けて29年2月には、ヴァイセンフェルス公の誕生祝いに音楽を添えるべく出立すると、どうもありがとうと宮廷楽長のポストを返礼にくれたので、現地就任はしなかったものの1736年まで「ライプツィヒ音楽監督兼ザクセン=ヴァイセンフェルス公宮廷楽長」とオルガン免許書に書き込んで見せた。しかし忘れちゃいけない、彼はオルガンのスピード違反で何度か捕まったり取り締まり役に追い立てられたこともある、前科を持った古今東西きっての名オルガニストだったのである。3月になると、テーレマンがかつて大学在籍中に町の名物にまで成長させたツィマーマンのコーヒーハウスを拠点にする音楽演奏団体コレーギウム・ムージクムの指揮を任され、コーヒーと世俗音楽にうつつを抜かして教会での極悪非道な生活を忘れようとした。大学生のオーケストラとは言っても、音楽学校など存在しない当時のドイツにあって、ヘンデルやテーレマン、さらにバッハの子供達のように音楽を志す場合でも一般大学に入ることが出世に大きく関わっていたから、大学生の中には作曲家演奏家予備軍が沢山ひしめいていたのである。このコレーギウム・ムージクムでは器楽曲、特にチェンバロ協奏曲が重要な出し物だったが、世俗カンタータも時に演奏され、1729年のうちに音楽劇(ドラマ・ペル・ムジカ)と題された「急げ、渦巻く風達(フェーブスとパーンの戦い)」(BWV201)が演奏されている。この年は出版物の委託販売の仕事も開始して、ヴァルターの「音楽事典」などを販売しているが、なぜそんなやくざな家業に手を染めたのかは謎である。さらに6月にはヘンデルが母の見舞いにハレに来ているというので、息子フリーデマンにヘンデルを呼びに行かせたところ、「バッハより母が大事だ」と言われてお引き取り願います状態に陥ってしまったそうだが、10月には聖トーマス教会にヴァイマール時代の友人ゲスナーが「お久しぶりでげすなー」と言いながら就任したので、初めて教会内に見方を得た心持ちがして、兼ねての権限により音楽才能のある生徒を優先的にトーマス・カントルに入学させようとしたところ、市参事会は「音楽ばかりが宗教じゃあなかろう」と大いに憤慨、バッハの推薦しない者を次々に入学させた。この事件を持ってバッハの怒りは、その怒り正当かどうかは別にして頂点に達し、カントールの仕事もまるで上の空、「そんな生意気な奴らは教えない」といってすたすた帰ってきてしまう有様だった。とうとう1730年、ライプチィヒの行政機関の中枢である市参事会自らバッハを呼び出して、「俺たちでさえドレースデンの選帝候との折り合いを見て、だましだまし行政を取り仕切っているのに、なんだ、お前は一人でまるで自分勝手に、なんでも思いのままか、全部己のままじゃなきゃ気が済まないとは何事か。無断で生徒を地方に派遣したり、勝手に許可もなく旅行に出かけたり、歌の授業さえ等閑(なおざり)じゃないか」と散々罵声を浴びせたが、そのぐらいで折れるぐらいなら最初から頑固一徹ことあるごとに衝突を起こすわけがない、「ライプツィヒのノモス作れるならば、誰がノモスを作ろうと構わない」とプラトーンの名言を格好良く披露し音楽が旨くいけば都市政治も旨く行くのだと皮肉れば、逆鱗たちまち参事会を駆けめぐり、とうとうバッハに減俸減俸と判決を言い渡して、大いにお灸を据えた気でいたが、バッハは「そんな頓珍漢な処分は、大嫌いです」と叫ぶと、夜通し上申書を書き上げ、これを参事会に提出。寄宿生達ことごとく名前を挙げて(嘘を書くな、嘘を)、有用な者から役立たずの屑まで選別して、事細かに説明を加えた最後に、「これじゃあまっとうな教会音楽なんてできっこありません、ルターが聞いたらどんなにお辛いことでございましょう」と締めくくった。もちろん市参事会はその手は食わない。見事敗れ去ったバッハは、転職のシーズンが迫ったことを感じ取り、オールドルフ時代の親友でありロシア大使としてダンツィヒに就任していたゲオルク・エールトマンに当てて「仕事有りませんか」と手紙を送りつけた。これがバッハの作曲作品の次に名高い「エールトマン」書簡である。実は同じような上申書は前任者のクーナウも2度出しているから、有る意味でこの地のカントールの切ない伝統に過ぎなかったのだが、肝心の教会音楽がこんな有様だったから、バッハは憂さ晴らしとばかりにコレーギウム・ムージクムの演奏にのめり込み、週1回、場合によっては2回のペースで、冬はゴットフリート・ツィンマーマンのコーヒーハウスで、夏はツィンマーマン所有する近くの野外庭園で市民見物の世俗音楽に明け暮れた。場合によってはドレースデンから遊びに来る音楽家達ハッセやゼレンカなどが飛び入り参加をして、大いに盛り上がることもあったと言うが、新聞の広告を調べると歌声入りのカンタータの上演も演奏される事があったようだ。おそらくバッハの管弦楽組曲2番3番はこのコレーギウム・ムージクムのために書かれ、またケーテン時代の数多くの協奏曲がチェンバロ協奏曲に改変され、チェンバロ1台用から4台用まで合計14曲が今日でも残されている。どうせならチェンバロの音色よりも多彩な管弦楽の音色で楽しみたいというので、チェンバロコンチェルトを復元した、各種コンチェルトもCDで出回っているから興味のある人は探してみたらいいでしょう。ちなみにコレーギウム・ムージクムはファッシュがレーマンのコーヒー店で開始した別のグループもあり、やはり毎週の演奏で町を賑わしていたが、やがてジングシュピールの作曲家として知られ「音楽週報」(1766-70)などジャーナリズムの活動を行ったヨーハン・アーダム・ヒラー(1728-1804)が指揮者になると、1781年に織物組合開館ゲヴァントハウスに音楽会場を設け市公認の演奏会を開催、これはゲヴァントハウス演奏会と呼ばれ、今日に続くゲヴァントハウスオケの開始を告げた。

ライプチィヒ1730年代

 1731年、26年から順次出版されていたパルティータが6つになったのでセット価格で「クラヴィーア練習曲集第1部、今ならもう一曲付いて同じお値段(だから嘘を書くなって)」として自家出版を試みたが、非常に慎ましい売り上げに止まった。なかなかジャパネットのようには行かないものである。ところでバッハの組曲は「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」の順番で作曲されたが、このパルティータにいたって舞曲は大きく様式化され、実際の舞踏から大いに遠ざかった。声楽の分野では、損なわれたカンタータが有れば話も変わっているが、31年中にはわずか4つのカンタータしか教会のために書いてやらないという徹底ぶりを見せたバッハ、しかしこの年11月にはカンタータ「起きなさい、と声が私たちに呼びかける」(BWV140)という傑作が完成されている。また、同年ナポリで修行を積んだドイツ人のヨハン・アードルフ・ハッセがドレースデンの宮廷作曲家に就任したというので、オペラ「クレオフィーデ」(1731)見物に息子のフリーデマンを伴って出かけたが、どうもバッハの心の中には、ドレースデン宮廷作曲家として活躍したいという思いが有ったらしい。しかしドレースデンは音楽家で溢れかえっていた。果たしてバッハが入り込む余地があるものか、ここで当時のドレースデンの音楽家達をざっと見てみよう。

ドレースデン

・すでにシュッツの最晩年にはすっかりイタリア音楽家に染まっていたドレースデンは、シュッツの後もカルロ・パルラヴィチーノ(1630-88)のような「こってこて」のイタリア人音楽家が活躍するスパゲッティーな様相を呈していたが、漸くイタリアの庶民の間にまで麺型パスタが浸透し始めたのも思えばこの17世紀のことだという噂もある。しかし、ドイツ人の活躍もあった、アーダム・クリーガー(1634-1666)がドイツ語歌曲において後のリートに繋がるような重要な仕事をすれば、後にハンブルクのオルガニストに就任するマティーアス・ヴェックマン(c1619-1674)も一時ドレースデンに勤め、1674年にはビーバーを加えてヴァイオリン3羽ガラスと人々に歌われたヨハン・ヤーコプ・ヴァルター(c1650-1717)とヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフ(1656-1705)が共にドレースデンに在職、1676年からはシュッツの弟子ベルンハルトが教会音楽の中心的作曲家にのし上がった。ドイツ勢の奮起にいたく感じ入った選帝候は1680年、イタリア人作曲家を悉(ことごと)く解雇する暴挙にまで踏み切るが、やっぱりドイツ人だけじゃ、物足りない。急にオペラが恋しくなってイタリア人作曲家も宮廷に置くことにした。その後いよいよバッハとも関わりのある選帝候フリードリヒ・アウグスト1世(在位1694-1733)が即位するのだが、彼は政情不安定なポーランドに眼を光らせながら、1697年に期を見てカトリックに改宗すると、見事カトリックなハプスブルクの支持とついでにロシアの支持を取り付け、ポーランド国王アウグスト2世(在位1697-1733)としてポーランド王に即位、宗教を鞍替えして平然と出世の道を進むドレースデンの悪い伝統に則った。調子が出てきた選帝候は1700年から1721年まで行なわれる北方戦争にも進んで参加、デンマークやロシアと結びスウェーデンに対して不毛な戦を挑んで見せたため、スペイン継承戦争と合わせて18世紀前半には、局地的ながらヨーロッパ中を戦争が駆け抜ける結果となった。しかしこれも21年にニスタットの和約で実質上の勝利を治める事が出来、これに気をよくしたものか、翌年1722年には後期バロック建築の傑作ツヴィンガー宮殿が完成するのである。
・このカトリック改宗でルター派音楽が見捨てられたかと思いきや、とんでも無い、平気でルター派の音楽も引き続き演奏し、同時にカトリックの典礼音楽も執り行うなど、自由奔放な所を繰り広げたドレースデンは、1717年からドイツ人のヨハン・ダヴィット・ハイニヒェン(1683-1729)を宮廷楽長に大いにすぐれた音楽家が集まった。ヴァイオリン奏者のフランドル人ジャン・バティスト・ヴォリュミエ(c1670-1728)、フィレンツェ出身のヴァイオリン奏者フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニ(1690-1768)、ドイツ人のヨハン・ゲオルク・ピゼンデル(1687-1755)らの活躍するヴァイオリン部隊。さらにフルート奏者のピエール・ガブリエル・ビュファルダン(c1690-1768)や、コントラバスのヤン・ディスマス・ゼレンカ(1679-1745)、さらにリュート奏者のシルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1686-1750)、自らの名前を新しい楽器に与えたパンタレオン奏者のパンタレオン・ヘーベンシュトライト(1667-1750)などが任期の長短は別にしてこのドレースデン宮廷に在籍し、さらにポーランドにあるポーランド王のための楽団にも、例えばプロイセンに就任する前のヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)や、フランツ・ベンダ(1709-1786)などが在籍していた。これだけの名の知れた音楽家がそろっている上に、名目上はカトリックに改宗したドレースデンにとって、ルター派丸出しのバッハの居場所は無いように思わたのも無理はない。
・さらにこのドレースデンではイタリアオペラも流行を見せていた。1717年にはヴェネツィアからアントーニオ・ロッティ(c1667-1740)が呼ばれてオペラを上演、ツヴィンガー宮殿にもオペラ用大劇場が建設され、1719年には次の選帝候と神聖ローマ帝国皇帝の娘が結婚する運びになったので、一層気持ちを引き締めて上演準備を行なって開幕に備えていた。しかし、そこに現れたるはバイタリティー溢れる偉大な作曲家、歌手をあさってはイギリスにさらっていく我らがヘンデル氏がドレースデンにもやって来て、有力歌手を悉(ことごと)くイギリスに連れ去ってしまったからさあ大変、結婚式を待つまでもなく劇場は大混乱をきたして、しばらくの間劇場閉鎖に追い込まれてしまった。劇場が再開されるのは漸(ようや)く1726年になってからのことである。「改名してイギリスに帰化したハンドル氏、恐るべし。」と大いに恐れおののいた選帝候だが、劇場の再会、さらに31年にハッセがドレースデンに就任すると、漸く輝かしいオペラの時代を取り戻すことになった。音楽家も次の選帝候フリードリヒ・アウグスト2世の元で、新たにヴィオラ・ダ・ガンバ奏者のカール・フリードリヒ・アーベル(1723-1778)らが加わり、ハッセなどのイタリアオペラが華やかに上演されて行くことになる。

閑話休題とは話を本筋に戻すこと

 1733年2月偉大なザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世が亡くなり、替わってフリードリヒ・アウグスト2世が選帝候を継いだ。ポーランド王も兼ねていたドレースデン選帝候はポーランド王アウグスト3世としても即位し、これに乗じたバッハは後に「ミサ曲ロ短調」(BWV232)の前半部分となる「キリエ」と「グロリア」を作曲上演し新しい選帝候に献呈、カンタータ「岐路に立つヘラクレス」(BWV213)など明からさまに選帝候家族を讃える祝賀カンタータを立て続けに提出して、翌34年には選帝候のポーランド王戴冠記念に「自らを讃えるのです、祝福されたザクセンよ」(BWV215)まで作曲し、「宮廷作曲家にしてください」と何度も懇願する露骨な作戦に打って出たが、このカンタータを演奏したトランペット名人シュタットプファイファーの老齢ゴットフリート・ライヒェ(1667-1734)は超絶演奏が祟ってか翌日亡くなってしまうし、宮廷作曲家の依頼も虚しく無視される結末を見た。仕方がないので気を紛らわして俗に「コーヒー・カンタータ」と呼ばれる「おしゃべりはやめて、お静かに」(BWV211)を作曲、17世紀アラビア方面から輸入されたコーヒーは当時ヨーロッパ大都市に3千件ものコーヒーハウスが立ち並ぶほどの流行を見せ、大方バッハもコーヒーを愛飲していたのかもしれないが、このカンタータにおいて婦女子がコーヒーを飲むなんて怪しからんと叱る固くなな父親と、やんちゃ娘の遣り取りがコメディータッチのキビキビした音楽ですっきりと描き出された。思えば新大陸からやってきたタバコも当時の最新トレンドだったが、バッハはマグダレーナのクラヴィーア手帳にたばこの小唄なんかも書き込んだりしている上に、遺産にタバコ入れがあるからおそらくスパスパ吸っていたことがあるのだろう。さて34年のクリスマスには既存曲の転用改訂満ち溢れた「クリスマス・オラトーリオ」(BWV248)を作曲して宮廷作曲家成らずの憂さを晴らしたが、悲惨なことに数少ない味方であったゲスナーまでもバッハを見捨てて(では無いが)ライプツィヒを去ってしまった。翌35年には「イタリア趣味による協奏曲ヘ長調」(BWV971)と「フランス様式による序曲(序曲付きパルティータ)ロ短調」(BWV831)の2曲をペアにして「クラヴィーア練習曲第2部」として出版してみたところ、息子ヨーハン・ゴットフリート・ベルンハルト(1715-39)のミュールハウゼンオルガニストの職が決まったので、ついでに出かけて改修されたオルガンを試し弾きしてみたりしている。
 さて旅だったゲスナーの後釜にはヨーハン・アウグスト・エルネスティというわずか27歳の新進気鋭のやり手校長がトーマス学校に就任して来たが、「啓蒙主義漲(みなぎ)る新しい時代に、学問よりも音楽を重視して歌いまくるならず者集団って、全然よくない!」と心底心を痛め、ごろつきの元締めであるバッハに喝を入れるべく1736年に副指揮者の選任をバッハに断り無く変更して見せた。下級生に乱暴をしたからクラウゼの任を解き、代わりに同名の別人クラウゼを副指揮者とするという至極もっともらしいが紛らわしい人選だった。バッハは虐めの総元締めであるクラウゼのままで合唱を行なうのだと市参事会に出向いて怒鳴り込んで、エルネスティと対立を深めたが、本来関係のない一生徒であるエルネスティに選ばれたクラウゼに対して、皆の前で「副指揮者の無能、ここに極まれり!」と罵って音楽部屋に居られないように仕向け、彼の人生を無茶苦茶にしてトラウマ宜しく追い出したる所などは、後のルートヴィッヒ大王を彷彿とさせる混迷の珍事件であった。ヨハンナ裁判だのクラウゼ事件だのに至っては、誰が真の問題児なのか分かったものではない。事情はとやかく知らないがもし当人に落ち度あるならば、芸術家として尊敬できるからと言って、何でも許したら取り残された無名の市井人が可哀想だ。ここにいたって幾分悪徳高まって来たバッハは、友人のロシア帝国駐在大使カイザーリンク伯爵に取り次いで、まんまとザクセン選帝候の「王室宮廷楽団所属作曲家」の称号を奪い取ってみせた。歌舞伎なら止めが入って「よっ、セバスチャン!」とでも言ったところだ。
 しかし校長と争っている最中に新たな敵が現れた。かつて聖ニコライ教会オルガニストの職を試験官であったバッハ氏に見事にけ落とされたヨーハン・アードルフ・シャイベ(1708-76)が、「この恨み、晴らさずにいられようか」と叫びながら、ハンブルクで音楽批評を開始。1737年の5月に出版された「批評的音楽家」の中で、誰にでも本名が分かる匿名でバッハの音楽を「混迷の極みを持って自然に背いた骨折り損の無駄な苦渋に満ちた動機の絡み合いの、主役が誰かも分からない旋律パッチワークに至っては、下劣を極めて返す言葉もない」と高らかに述べたのである。思い返せばもはや対位法どころの騒ぎではない、時代精神はすっかりギャラント精神溢れていたから、美しい旋律とそれを邪魔せず讃えるような伴奏がもてはやされ、到底バッハの音楽など分かりたくもない聴衆が続々と時代に押し寄せていた。これに対して頭のてっぺんから溶岩立ち上る活火山と化したバッハは、友人の修辞学教師ビルンバウムに反論を書かせて、これをそこら中に配りまくっては、3拍子で地団駄(じだんだ)を踏んで踊り続けたという。単純明快溌剌(はつらつ)開けっぴろげの時代にどっぷり浸かった漸進主義のシャイベにとって、当時にあってパレストリーナやカルダーラなどの作品を通じて「古様式」を習得中のバッハなどは、有らぬ方向に足を踏み外した愚か者に写ったのだろう。当時の音楽のトレンドをマッテゾンの「完全な楽長」という音楽評論から覗いてみると、「音楽の根本は歌うと言うことにあり。声楽はもちろん器楽に置いても、卓越した心をを揺さぶるとびっきりの旋律が大事である。その旋律はすでに聞いたことがあるほど親しみやすく自然である平易(へいい)、文章のように正しく区切られアクセント付けされ統一感を持った明瞭(めいりょう)、前後関係が流れるように淀みない流麗(りゅうれい)、なめらかに心地よく歌うな優美(ゆうび)という4つの言葉で表される。」とあり、ペルゴレーシに見られるようなすっきりしたフレージングとそれを支える理に適った和音設定を持つギャラント様式こそが欲求に答えるものだと考えられていた。実は意外とトレンド好きのバッハも、嘗てはヴィヴァルディーのコンチェルト法に関心を示したし、ペルゴレーシのスタバートマーテルの筆写譜を持っていて、これをドイツ語詩編曲に改作するなど巷のトレンドも十分理解していたが、彼の場合まだ見ぬ様式の新たな取り入れ作業は、現在と共に過去にも向けられ、過去の忘れられた音楽様式も今日最新の音楽様式も、共に新しい音楽様式で吸収すべきものがあるという、時代を先取りしすぎた作曲態度を持っていたのである。
 そんな古様式研究の成果は1739年に出版された「クラヴィーア練習曲集第3部」に見ることが出来る。オルガン用に書かれ、前奏曲とフーガの2つの楽曲を挟んで、21曲のオルガンコラールと4曲のドゥエットを配したこの曲は、数を音符や楽曲に当てはめるという、後年ますます顕著になる数に象徴性の儀式も盛り込まれたれている。この39年10月にはしばらく弟子に譲っていたコレーギウム・ムージクムの指揮を再び自ら振っているが、この世俗の殿堂でも教会音楽においても、もっぱら旧作の再演が目立ち、新作の作曲数は驚くほど少なくなった。

ライプチィヒ1740年代

 プロイセン大王フリードリヒ2世の伴奏者を勤める息子のカール・フィリップ・エマーヌエルの出世に気をよくして、41年にベルリンとポツダムに訪問することにしたバッハだったが、丁度この時、ハプスブルク家がカール6世の死去に伴い女性マリア=テレジアが相続する途端にバイエルン選帝候が異論を唱え、プロイセン大王も相続にはシュレジェンの割譲が必要だとしていちゃもんを付けオーストリア継承戦争が勃発していた。バッハが到着してみれば戦争に出かけたフリードリヒ2世は、シュレジェンに出かけて留守だった上に、妻の急病の連絡が入れば会えなく帰宅することになった。その憂さ晴らしに11月はドレースデンに出かけ、ついでにカイザーリンク伯爵の元を立ち寄ると、少年にしてカイザーリンク伯爵の眠れぬ夜のチェンバロ演奏を任されたヨーハン・ゴットリープ・ゴルトベルクに弾かせる為の不眠薬の曲を作ってくれないかと所望されたので、これに答えて「アリアと種々の変奏」を作曲したところ、後に「ゴルトベルク変奏曲」(BWV988)と呼ばれるようになった。この曲は後に「クラヴィーア練習曲集第4部」として1741-2年に出版されたが、彼自身の譜面には変奏曲の後に「14のカノン」(BWV1087)も姿を見せる。正確な作曲年代は不明だが、最近では「フーガの技法」(BWV1080)も40年代前半に作曲され、これを晩年出版のため印刷板を掘ると共に最後の4重フーガなどを補おうとしたところ、途中で断念したらしいと考えられている。この作品はバッハの死後出版されたが、5年間に30部しか販売されず、切ない無理解の時代を長く生き抜く試練の時を切り抜けて今日に至った。
 翌42年には既存の作品を集大成して24の調に纏めて送り出すという荒技の第2弾「平均律クラヴィーア曲集第2巻」(BWV870-893)も完成し、一層こなれた隙のない「前奏曲とフーガ24曲」を世間様にお披露目すると、ピカンダーの仕える主人が荘園新領主に就任したのに絡んで「農民カンタータ」(BWV212)も作曲、農民が方言で領主を讃える当世風音楽をさらりと書いて見せた。また、同年最後の子供レギーナ・ズザンナが誕生すると、これを持ってさすがに夜中のクオドリベット、「組(く)んず解(ほぐ)れつしてみた」の主題に基づく一大奮発も終焉を見せた可能性がある。
 45年にベルリンのバッハことエマーヌエルに子供が出来たという便りが有ったので、47年に丁度ドレースデンからハレのオルガニストに転任していた息子のフリーデマンを伴って、初孫見たさに再びベルリンとポツダムに旅行することを決意。偉大なプロイセン国王でベートーヴェンもあこがれたという「定冠詞付きのThe大王」の誉れ高いフリードリヒ2世は、自らもフルート演奏をこなす才人だったので、到着するやいなや大王の与えた主題に基づいて驚愕の即興演奏を行なったバッハは、翌日は教会でオルガン演奏も披露、さらにその晩の宮廷では自作の主題による6声のフーガを演奏し、ついには大王から「貴方も王だ」と讃えられた。この時即興演奏に使われた楽器は、チェンバロではなく新しく生まれやがてチェンバロを駆逐するフォルテピアノだったという。このときの王の主題に基づいて大王に捧げるべく作曲された曲集こそ「音楽の捧げ物」(BWV1079)である。もちろんついでに出版も行い世間様にすこしでも知って頂こうという涙ぐましい努力も怠らなかった。ついでなので、偉大な大王のプロイセンの音楽事情についてもちょっと見ておこう。

プロイセン

・中世末になって漸く商業都市として姿を現すベルリンは、初めブランデンブルク選帝候国内の一都市に過ぎなかった。1417年に選帝候の位がホーエンツェレルン家出身者で受け継がれるようになると、ベルリンもこの家の支配下となり、1470年には選帝候国の首都になった。このホーエンツェレルン家が後にドイツ騎士団領を獲得、これがプロイセン公国となると、1618年に2つの領土が結びつきブランデンブルク=プロイセンが誕生。選帝候ヨハン・シギスムント(在位1608-1619)の元、初期プロテスタントの重要な作曲家であるヨハンネス・エッカルト(1553-1611)らによって音楽が栄え始めた。しかし30年戦争がいけなかった、両軍の間をコウモリのように渡り歩き、味方と敵を時に応じて入れ替えていたら、結局両軍に荒らされまくり、ドイツ全土でも最大級の被害を被って、音楽どころではなくなってしまったのだ。しかし講和叶ったウェストファーレン条約では何とか領土を拡大し、以後経済復興に伴い音楽もすこしずつ活気を取り戻すのである。
 その後、選帝候フリードリヒ3世(在位1688-1713)は1701年に皇帝レーオポルト1世から王の称号を使用してよいと許可を得て、これによってプロイセン国王フリードリヒ1世(在位1701-1713)が誕生すると、彼は文化学問に力を入れフランスを習い各種アカデミを開催、哲学者のライプニッツ(1646-1716)を宮廷に招き、シャルロッテブルク宮(リーツェンブルク宮)の建設を開始した。この名前の主である妃ゾフィー・シャルロッテは大の音楽好きで、彼女の一声で1700年のベルリン初のイタリアオペラ上演が行なわれることになったのである。彼女の死後1705年からはフランス人音楽家の影響力が増してくるが、次の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713-1740)が「国力劣等な我が国で宮廷音楽とは何ごとか、音楽が終わる前に国が滅んでしまうわ!」と怒り叫んで強力な軍事国家への道を歩み始めたので、なんと宮廷楽団は切ない解散を命じられ、路頭に迷った音楽家は名君の誉れ高い、バッハも仕えたケーテン公レーオポルトの宮廷などに転がり込んだ。そんな中にあって次の国王となる皇太子は、若き日を自らの城で学問と文学に没頭し、哲学者のヴォルテール(1694-1778)との手紙の遣り取りも開始、1739年には「反マキャヴェリ論」を書き下ろし、「君主は国家第1の下僕」と名言を残しながら、自らの宮廷にすぐれた音楽家を呼び集めていた。
 そして満を持して登場した大王ことフリードリヒ2世(在位1740-1786)が自らを「啓蒙専制君主」と讃えながら、露骨な侵略戦争を開始。プロイセン人民のみの幸福を果たすべく、宣戦布告なしでシュレジェンを奪い取り、オーストリア継承戦争(1740-48)を勃発させると、シュレジェンを完全確保したら同盟国を一切無視して勝手に終戦宣言するという非常な悪徳ぶりを世間に知らしめた。「悪徳こそが名君の誉れ」という言葉は残されていないが、この悪行の報いこそが、絶対に手を組まないとされていたオーストリアとフランスが手を結ぶ外交革命となって姿を現し、これにロシアまでもが同盟に加わって、3国が熊虐め宜しくプロイセンを3方から挟み撃ちするという7年戦争(1756-63)が勃発した。これに乗じたスウェーデンが4方向目から戦争に参加し、もはやこれまで首につり下げた毒薬を飲んで自害をするしかないと大王が決意したその刹那、ロシア国王が急にお亡くなりて戦況が大きく好転する奇跡が起こった。大王大いにいきり立ち「私が王だ!」とばかりに反撃に転じると、括り付けた棒の外れた熊のごとく敵軍を蹴散らし、ついにシュレジェンを再確保して戦争を終結して見せたのだった。こうして戦には敗北せずにすんだものの、国内は大いに荒れ、農民や市民に重い負担を強いながら軍隊と財政を持ち直す富国強兵の精神を持って、プロイセンは新たな時代にこぎ出していく事になる。いったいどこが啓蒙主義君主なのか皆目見当も付かないが、ここにあっても父親の軍国精神一辺倒を批判したフリードリヒ大王は、まだ文化芸術の事を忘れちゃいなかった。ポツダムにサン・スーシ((備えあれば)憂い無し)宮殿を建設し西方のヴェルサイユを目指すと、同時にベルリン・アカデミーを再興し、ヴォルテールを宮廷に招き、すぐれた音楽家達を雇い入れたのである。
・こうしてバッハの息子エマーヌエルが鍵盤楽器奏者として宮廷に就任する頃には、ヨハン・ゴットリープ・グラウン(1702/3-1771)とカール・ハインリヒ・グラウン(1709-1786)のグラウン兄弟、フランツ・ベンダ(1709-1786)とヨハン・ベンダ(1713-1752)のベンダ兄弟、大王お気に入りのフルート奏者で「フルート奏法」という貴重な本を残したヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)らが、ポツダムの宮廷で夜な夜な音楽を演奏して「サン・スーシ」と合い言葉高らかに乾杯の合図として酒を飲んでどんちゃん騒ぎを演じていた。



 ポツダム旅行の後は、長らく参加を要請されていたローレンツ・クリストフ・ミツラー(1711-78)が起こした「音楽学術交流協会」に、もしかしたらヘンデルが会員になった為か重い腰を上げて参加を決意。加入の儀式に乗っ取ってオルガン用カノン風変奏曲「高い空から私は来ました」(BWV769)「6声の3重カノン」を肖像画と共に提出、エリアス・ゴットロープ・ハウスマン(1695-1774)によるこの肖像画は、小学校にも掛けてあるあごが出っ張ったお馴染みの顔だ。「あごへちま」というバッハのあだ名は多くがこの絵に由来する。また詳細は不明だが、この年かつてザクセン選帝候に献呈したはずの「キリエ」と「グロリア」からなる小ミサの続きを書き始めた。ルター派ではキリエとグロリア止まりの小ミサが一般的な形態であるはずなのに、なぜカトリック教会が使用するような大ミサを書こうとしたのか定かではないが、これは1749年に完成し「ミサ曲ロ短調」(BWV232)として現世に残された。・・・つまり、よく(49)も書いたなロ短調である。(あう)
 一方晩年にはオルガン曲も作曲され、「シュープラー・コラール集」(BWV645-650)や、若き日のコラールの改訂である「17(または18)のコラール集」(BWV651-667)が残された。しかし49年初めに行なわれた娘リースヒェンと弟子のアルトニコルの結婚式が行なわれる頃には、白内障で両目が使い物にならなくなったらしく、「そう云えば、若い頃楽譜集を隠す兄に対抗して、月明かりで楽譜を写したこともあったものよ」と目の酷使と勤勉を弟子子供達に聞かせて見せたバッハだったが、一方身体疲れ果てたるバッハ氏の現状に対して大いに拍手喝采を贈った市参事会は「もうすぐ死ぬるであろうバッハ氏の後任者で、従順なる性格を持つ者」を選ぶ試験演奏を行ない、バッハにも聞きに来るように催促してみた。(嘘を書くな。)
 とうとう死に神が、あるいは悪魔が遣って来た。フリードリヒ2世から国からの退去を勧められたこともある、目潰しで知られたイギリスの迷医ジョン・テイラーがいよいよライプツィヒに到着し、美味しい鴨を目ざとく見つけ出し、私の手術でどこの誰さんは視力が回復しての、どこの何とかさんは光が認識できてのバッハに向かって言い寄るので、つい白内障の手術をさせたのが運の尽き、2度目の手術では視力だけでなく体の健康までも奪われたバッハは、潔く悟ってオルガンコラール「あなたの御座(みくら)の前に、わたしは今進み出る」(BWV668)を口頭で筆写させると、伝説では一端視力が回復して皆の顔を心に焼き付け、その数時間後の卒中で7月28日夜に高い空に帰って行った。もちろん聖ヨハネ教会墓地に彼が納められると、悲しみの欠片もない市参事会は、待ってましたと後継者ハラーを彼の職に当たらせたのである。

 

受容史覚え書き

根底に

・彼個人について言えばただ当たり前のことをしただけだったが、多くの弟子達と息子達に施す音楽教育のために芸術作品を教材として提供し、さらにその作品の教え方の方法まで弟子達に伝授するバッハの態度は、19世紀に入って沢山の音楽教師達が一般市民を相手に教材を与え、その教材によって音楽を知っていくという次世代の社会精神をいち早く先取りした側面を持っていた。19世紀初めにツェルニーやクレメンティがすぐれたピアノ教材を生み出し、これによって彼らの音楽的に必ずしも超一流の作品とは言えない練習曲はピアノを習う人々が必ずのように今日でも大いに使用されている。バッハの多くの鍵盤楽曲が弟子達に伝えられ、人々に次第に浸透し、やがて19世紀初頭には鍵盤楽器の教材として一般的に認められるようになるのは、確かに多くの弟子達を要請し、作曲自体が古典派以降の鍵盤語法ではなく対位法的教材としてうってつけだったからだが、バッハの作品がそれだけの理由で復興されツェルニーと同様な意味で生存しているとは、まさか言わないだろう。いや、そう言う人もいるのよ(反語)。対して鍵盤楽器に継いで合唱の復興がいち早く成されたが、19世紀に音楽需要の中心階級にのし上がる市民階級が音楽への関心を高め、18世紀後半から合唱を歌うアマチュア団体も数多く合唱ブームを巻き起こしていたこととも関係があるそうだ。

イタリア

・フリーデマンの弟子、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルスト(1739-96)が1766年にバッハ作品をイタリアへ持ち込み、1768年モンテ・カッシーノにある修道院で「バッハの夕べ」が催される。

ライプツィヒ

・バッハの後任者だったハラーの後に就任したヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715-97)はバッハの弟子であった人で、1789年に彼の指揮でバッハのモテット「主に新しい歌を歌いましょう」(BWV225 )が演奏され、モーツァルトに感銘を与えている。さらにブライトコプフが1764年からバッハ作品の筆写楽譜販売を開始した。

ベルリン

・「フーガの技法」の序文を書いたフリードリヒ・ヴェルヘルム・マールプルク(1718-95)はバッハの熱烈なファンで、バッハ礼賛を繰り返し述べるが、一方バッハの弟子ヨハン・フィーリプ・キルンベルガー(1721-81)はフリードリヒ2世の妹で大の音楽付きだったアンナ・アマーリア(1723-87)にバッハを紹介し、彼女はバッハ・コレクションを収集するようになった。このコレクションを見た、キルンベルガーの弟子で、1770-77年に掛けてオーストリア大使としてベルリンに来ていたゴットフリート・ベルンハルト・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733-1803)が大いに感銘を受けた。
・さらに下って1791年合唱研究を目的とした団体であるジングアカデミーがカール・フリードリヒ・ファッシュ(1736-1800)により創設されると、ファッシュやその弟子でジングアカデミーを継いだカール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)らが大いにバッハ蘇演に尽力を尽くし、ついに1829年のフェリークス・メンデルスゾーン(1809-47)指揮による「マタイ受難曲」復活演奏が行なわれた。当時とオケでの使用楽器が異なることもあり、メンデルスゾーンは原曲にないクラリネットやトロンボーンを付け加えたり、もちろん原点とはかけ離れたロマン派の精神で再演したのだが。

ヴィーン

・ゴットフリート・ベルンハルト・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733-1803)が多くのバッハの楽譜を持ってヴィーンに帰ると、宮廷図書館長、教育庁などの要職に付きながらヴィーン音楽界にも影響力を持ったが、彼が紹介することによってモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンらにバッハの作品が伝わっていた。当時フックスの対位法が一般的だったヴィーンの中にいて、1777年からヴィーンに帰ってきたスヴィーテンの宮廷図書館では日曜ごとの演奏会も行なわれ、モーツァルトはここで大きなバッハ体験とヘンデル体験を受けることになった。一方鍵盤楽器である平均律については、ボン時代すでにバッハの孫弟子だったクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1746-98)からベートーヴェンが平均律を学んでいるなど、数多くのバッハの弟子達が教師として教材に使用してかなりの程度流布していた。

ロマン派

・1801年に念願の「平均律」の出版楽譜が誕生し、ドイツの音楽学者フォルケル(1749-1818)が1802年に「バッハ伝」を記しドイツナショナリズムをかき立てると、バッハの名前は揺るぎないものになり始めた。1829年には「マタイ受難曲」が蘇演され、ショパンが平均律をこよなく愛し自らも影響を受けた「24の前奏曲」を作曲したり、シューマンとメンデルスゾーンがそれぞれ無伴奏ヴァイオリンの楽曲に伴奏を付けたり、大いにバッハへの関心が高まり、シューマンらの活動により1850年に「バッハ協会」が設立。以後ヴィルヘルム・ルスト(1822-92)を中心として「バッハ全集」(旧全集)の刊行が行なわれていった。1865年には最初の重要なバッハ伝記がカール・ヘルマン・ビッターにより執筆され、フィーリプ・シュピッタ(1841-94)のバッハ研究第1巻第2巻は1874年と80年にそれぞれ出版され、友人のブラームスの関心を誘った。

2005/04/05
2005/04/06改訂

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