9-2章 オペラの誕生

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オペラ誕生への道のり

 かつて悲劇喜劇やミームス劇やパントミームスを捨て去った中世ヨーロッパの皆さんが、劇場的な催しをどの程度行っていたのかは定かではない。今日残る中世の劇として、ボーヴェの宗教的熱気の中で演じられたとされるダニエル劇などは、初めから終わりまで単線律の歌で充たされ、最古の音楽劇とも言えるべきものだったし、ブルグント公国などで盛んに行われていた王族都市入場の儀式や、諸聖人を祭る行列祭りであるプロセッションなど、ルネサンス以前も劇的な要素を保つ数多くの要素が見いだされた。にもかかわらず、中世の著しくくどい加算方式の諸文学を見るに付けても、劇が古代のプロポーションを取り戻すには、ルネサンス期近くを待たなければならなかった。ルネサンスの古典古代への情熱は音楽自体の消えて亡くなった悲劇などにもおよび、遂に意識的に再構築されたオペラを生み出すに至った。しかしそれは古代の再現ではなかった、ルネサンス期を通じてさかんに行われた劇の要素を大いに持つ数多くの諸音楽が、生み出されたオペラに流入したのである。インテルメーディオ、連作マドリガーレ、パストラーレなど様々な音楽が、当時古代研究から生み出されたオペラとモノディー様式に流入し、オペラは古代とは異なる様式の、しかも古代悲劇に匹敵する総合芸術音楽劇として変容を加えながらバロックを越えて次の時代へと駆け抜けていくのであった。そんなオペラの最初の試みはフィレンツェで始まった。

インテルメーディオ(伊)、インテルメッゾ(伊)

・古代悲喜劇から影響を受けた、ルネサンス期の演劇では、幕の始まりと終わりが時に合唱で歌われ、劇の合間には、幕間劇が行われたが、その幕間劇はインテルメーディオ(伊)とか、インテルメッゾ(伊)と呼ばれ、やがて儀式化した祝祭的音楽的スペクタクルに満ちたジャンルとして、宮廷などの重要出し物となっていった。

・フィレンツェにおいて特に大きな催しだった、1589年のメディチ家の婚礼では、トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メーディチとロレーヌの乙女クリスティーヌの愛を讃えて、フィレンツェのジョヴァンニ・バルディ伯(1534-1612)が責任を持ってローマ貴族のエミーリオ・デ・カヴァリエーリ(c1550-1602)ルカ・マレンツィオ(1553/4-1599)らに音楽を任せてみた。フィレンツェの代表的なソプラノ歌姫であるヴィットーリオ・アルキレーイ嬢が、ドーリス旋法に扮して人々を魅了すると、人々はそれを今日におけるエウテルペーと言って讃えたと記録に残っている。それでは、彼女の歌った1番目のインテルメーディオの冒頭、独唱マドリガーレ「天球のこの上ない高みから」をお贈りしよう。

マドリガーレ

・インテルメーディオの劇風要素が16世紀後半のマドリガーレに流れ込み、主声部以外は楽器に任されるなど独唱曲化著しかったマドリガーレに、更に対話調の詩の採用や、劇のような感情や場面の変化を表した音楽が浸透していった。詩人達が劇のような場面を想定して詩を書くことも流行し、トゥルクアート・タッソ(1544-95)の叙事詩「イェルサレムの解放(伊)ラ・ジェルザレンメ・リベラータ」やジョバンニ・バッティスタ・グアリーニ(1538-1612)の牧歌詩「忠実な羊飼い(伊)イル・パストール・フィード」などに曲を書くことが大いに栄えた。ついには一つ一つの短いロック音楽を有機的に結合させて作成されたロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」のように、マドリガーレを連作結合させた、連作マドリガーレ(madrigal cycly)までも生み出されたのである。ただし連作マドリガーレは舞台で演じられるための作品ではなく、純粋に歌で完結した物語り風マドリガーレである。この種目は比較的短命だったが、マドリガーレ最後の花を華麗に咲かせ、次の2人の代表選手を生み出した。以後マドリガーレは教科書の表舞台から姿を消すのである。

オラーツィオ・ヴェッキ(1550-1605)
「パルナッソス山のふもとで(伊)ランフィパルナーゾ」(1597)
・オケヘム没後100周年を記念して作成された連作マドリガーレで、パルナッソス山のカスタリアの泉にオケヘムの霊が降臨し、水浴を楽しんでいるところにオラーツィオ・ヴェッキが通りかかって、えへへへと脱衣所に進入すると羽衣を隠してしまい、オケヘムが泣きながらヴェッキに霊感を与え服を返して貰うという切なげなストーリー・・・・ではなくて、コンメディア・デッラルテ(イタリア民衆間で流行の即興喜劇)の題材を元に5声のマドリガーレで3幕の作品に仕立て上げたもの。こってこての世俗曲を書いたことで呪われたか、数多くの宗教曲ではなくヴェッキがコメディア・ハルモニカ(音楽喜劇)と書いたこのマドリガル・コメディだけが後世に広まっていった。

アドリアーノ・バンキエーリ(1568-1634)
・教会音楽作曲家としてパレストリーナ様式の和弦的な飼い慣らした対位法を使用する一方、ヴェッキの影響か5声のマドリガーレを連ねたマドリガル・コメディ「パドヴァに向かうヴェネツィアの舟」(1605)や、「動物達の謝肉祭」(1608)などを作曲。また、歌唱法において階名のBとBbを区別するため前者をバ、後者をビと歌わせたため「バンビ」とのあだ名で呼ばれた。(そんな訳はない。)

牧歌(伊)パストラーレ

・牧人(伊)パストールなどの題材で田園的牧歌的な恋人達の物語をのほほんと語り継ぐという、都会っ子達の田園生活への憧れ熱も大流行し、初期オペラにその調子がなだれ込んでみた。

オペラの誕生

・17世紀の中頃、マドリガーレにインテルメーディオに華やぐ花の都フィレンツェにおいて、ギリシア悲劇の復興熱が本格化してきた。しかし当時の音楽はすっぽり失われて行方知れず、いったい音楽の役割はどのようなものだったのかと、学者達は途方に暮れていた。ヴェネーツィアでは見るに見かねたアンドレア・ガブリエーリ(1533-85)が、ギリシア悲劇ではコロス(合唱)の部分だけが歌われていたに違いないと見切りを付けて、1585年にソポクレースの悲劇を元に「オイディプース王(伊)エディッポ・ティランノ」を上演、歌と語りの交替を持ってヒストリカル宣言を発した。これに対してフィレンツェの学者であるジローラモ・メーイ(1519-94)は、1573年まで長い時間を掛けて、当時読みうるあらゆるギリシア文献を読みあさり、ついに「旋法論」として自らの考えを書き記した。彼の主張では、ギリシア悲劇では詩全体が歌われていたはずであり、それらの音楽は、伴奏があろうとなかろうと単一の旋律で構成されていたに違いなかった。この考えはメーイの友人で文通相手であったジョバンニ・バルディ(1534-1612)や偉大な物理学者の父親ヴィンチェンチオ・ガリレーイ(1591没)(当時は彼が大ガリレーイであっただろう)に伝えられ、バルディ伯が自宅で催していた新しい文芸を模索するアカデミで討議された。所属する歌手兼作曲家のジューリオ・カッチーニ(1551-1618)がバルディのカメラータ(仲間達)と呼んだこのアカデミに置いて、ついにヴィンチェンチオ・ガリレーイは「古代と今日の音楽に関する対話(伊)ディアーロゴ・デッラ・ムジーカ・アンティーカ・エト・デッラ・モデルナ」(1581)を発表。詩の情感の表現には音高とリズムに支えられた一つの旋律線こそが相応しいとし、対してこれまでのマドリガーレ的絡み合いを劣ったものとして非難した。「そのような音楽は、器楽の合奏にこそお似合いだ!」彼は早速作曲の実践に取り掛かったのだが、残念なことに今日ではすべて行方知れずになってしまった。こうして響きを担うベースラインに乗せてたった一つの旋律が縦横無尽に繰り広げられるという、モノディ様式が生み出されていったのである。
 このモノディ様式は新音楽の旗手として次第に流行を見せ始め、カメラータメンバーのカッチーニは、1590年代から書き始めていたモノディ音楽を「新音楽(伊)レ・ヌオーヴェ・ムージケ」(1602)として発表した。彼は旋律的で音節的な様式で曲を書いたが、 大きく有節歌曲型の詩によるものと、マドリガーレ的な自由な詩によるものとがあり、カッチーニは有節歌曲に対してより言葉のデクラメーションに忠実で「語り」に近いマドリガーレ的詩に基づく歌曲に対して、スティーレ・レチタティーヴォ(朗誦様式)という名称を与えた。彼は、詞を妨げない場所では、自らの歌手としての技量を余すことなく投入し、美しい旋律修飾を加えて、モノディを芸術の域に高めて見せたが、同時に当時歌手達に勝手に任されていた自由放任修飾を禁じて譜面上に適切な修飾を逐一書き記しすという近代的作曲家の態度も見せた。つまり俺の作品を改悪するなという訳ですな。
 こうした議論と実践に影響を受けて、ローマに行ったバルディの後を継ぐようにアカデミを開いていたヤーコポ・コルシ(1561-1602)の館で、新しい実験が行われた。始めから終わりまでが歌われた古代の悲劇を蘇らせようと言う復興運動が遂に実現される時が来たのだ。詩人にオッターヴィオ・リヌッチーニ(1562-1621)と作曲家ヤーコポ・ペーリ(1561-1633)、さらにコルシの資金力が投入され、遂に1598年、後にオペラと呼ばれるべき作品群の第1弾「ダフネ」がフィレンツェで上演された。しかし残念ながらこのダフネは断片しか残っていないので、1600年に上演された「エウリディーチェ」をもってオペラ元年となった。これに対してエミーリオ・デ・カヴァリエーリは私がフィレンツェで行った同様の試みこそが最初のものだと主張したが、ローマで1600年に上演された宗教音楽劇「魂と肉体の劇(伊)ラップレゼンタツィオーネ・ディ・アーニマ・エト・ディ・コルポ」が準オペラの地位を与えられる悲しい結末を見た。

牧歌神話的韻文劇エウリディーチェ

・こうして生まれたエウリディーチェだったが、この劇が同じ年にフランス国王アンリ4世とメーディチ家大公の姪マリーアの婚礼を祝して上演することが決まった時、カッチーニが自分の歌手達には自分の作った曲しか遣らせないと駄々をこねて閉じこもった。自分がエウリディーチェ初演の3日後に上演したオペラ「チェファーロの誘拐」がすっかり日陰ものにされてしまったからである。もともとエウリディーチェ初演はカッチーニの音楽も部分的に入っていたのだが、仕方がないのでこの記念上演でもペーリの作曲した部分と、カッチーニの作曲した部分が混合されて一つの作品として上演されることになった。翌年2人はそれぞれ自分の作曲を公にしたが、怒れるカッチーニはペーリよりも一足早く楽譜出版にこぎ着けた。こうしたおどろおどろしい宮廷内での争いの後、エウリディーチェはリヌッチーニ作詞、ペーリ、カッチーニ音楽ということで、オペラ最初の作品の地位を与えられることに今日では落ち着いている。とは言っても初期のオペラ作品は皆「ファヴォーラ・イン・ムージカ」つまり「音楽的に語られる物語」という名称で呼ばれ、初めから「オペラ」と書き込まれていたわけではない。この「エウリディーチェ」では婚礼の儀式に合わせ、2人が別れ終わるエンディングはオルフェウスがあっぱれエウリディーチェを死者の国から連れ帰って大円団を迎える筋書きに変更されたが、今となってはモンテヴェルディの天上に登っていくオルフェオのエンディングだって情感上の違いはあまり無い。ペーリはギリシア悲劇においては語り的で非音程的な連続音高と、はっきり音程を持った歌が区別されていたと考え、この曲の中にスティーレ・ラップレゼンタティーヴォ(劇的朗誦様式)として導入してみた。カッチーニの提唱したスティーレ・レチタティーヴォに対して、歌詞の反復や修飾音、断片的フレーズなどすら排除して一層「語り」そのままに近づけ、フレーズの長さもリズムも言葉に合わせて絶えず変化するようなこの様式は、シェーンベルクのシュプレッヒシュテンメと肩を並べる語りと歌との中間を行く斬新な試みだったが、後にすっかり儀式化してだいぶお優しくなってしまった。いずれ彼らがこの劇の中で自覚的に目指した歌い方はレチタール・カンタンド(歌いながら語る)方法で、後にオペラは有節歌曲的なアリアと、語りに近いレチタティーヴォの交代に定型化されていくことになった。

クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)

・たった1人で開始されたオペラを統合して芸術的に完成させてしまったのは1人モンテヴェルディ(親愛なるモドゥベルド氏)である。旋律と和声と管弦楽的色彩で、劇と情緒を表現するために、彼の天才により統合された全体にとけ込んでいるから、その成果が感銘深いものにならないはずはなかった。(なんともはや)

オルフェーオ(1607)

・新しいオペラの試みに大いに触発された我らがモドゥベルド氏、は1607年にマントヴァでやってのけた。妻である「エウリディーチェ」ではなく、夫である「オルフェーオ」の名前を冠するオペラをアレッサンドロ・ストリッジョの台本によって完成させたのだ。すでにアルトゥージに対して第2作法を知らないのかとあざ笑うほど伝統音楽と新音楽の意義を知り尽くしたこの男は、早くも「エウリディーチェ」に見られたモノディ様式とルネサンス的な様式の混合を一層推し進め、投入可能なあらゆる音楽語法を放り込んで、一目散にオペラを完成の域に押し上げたのである。アリア「力強い霊よ(伊)ポッセンテ・スピルト」では譜面に単純な形と修飾を付けた歌い方まで記入して提出して見せたのがカッチーニ的遣り方なら、ペーリに習ってもっとも新しい叙唱様式を劇的な対話と興奮した語りだけに限定使用して効果を高めた。一方、ペーリの小振りな楽器による作品に対して、この作品では楽器の総数が40をも越えることになった。こうしてカッチーニやペーリの生み出した朗誦の他に、より旋律的なアリオーソや、完全な有節形式アリアも用いられ、対位法的5声のマドリガーレ合唱に、一層和弦的なバレットによる合唱、器楽曲には開始のトッカータに、途中何度も繰り返されるリトルネッロに、シンフォニーアなどがふんだんに盛り込まれたこのオペラは、後の番号オペラのような型にはまった形式を採用せず、場面構成はストーリーに従って毎回独自の配置で絶妙につなぎ合わされるシェーナ・コンプレッサ(複合シーン)の方法で作曲されているが、この精神は直接19世紀のヴァーグナーに通じる作曲態度である。一部のモティーフはまるでライトモティーフのように登場し効果を高めてさえ居るそうだ。
・このオペラは翌年フィレンツェでも上演され、やはりフィレンツェでの実験と密接な関わりを持っている。そして17世紀のオペラを通じて楽譜が再度出版された唯一の作品で、19世紀末からいち早く現代譜の出版もされ、(比較的)忘れ去られなかったバロックオペラとして稀有な例になっている。しかしやがてモンテヴェルディはヴェネーツィアに旅立ち、晩年の輝かしいオペラ作品群は、ヴェネーツィアオペラの中で触れられることになるだろう。

エウリディーチェを連れ戻すオルフェオ アポッローンに連れられて天上人となるオルフェオ

アリアンナ(1608)

・せっかく作ったのに、「私を死なせて(伊)ラシャーテミ・モリーレ」の1情景だけしか無くなってしまった。

オペラその後

・1611年にはやはりフィレンツェと関わりのあるマルコ・ダ・ガリアーノ(1582-1643)によって、すでにマントヴァで1608年に初演された「ダフネ」が上演され、さらにガリアーノとペーリが組んで作曲した「花の女神(伊)ラ・フローラ」(1628)なども存在するが、フィレンツェにとってオペラは数多くのインテルメーディオなどの出し物とまったく同列の意味しかなかった。例えば、1625年のポーランド皇太子シギスムンド来訪のために行われた、バッレットと情景の組み合わせである「アルチーナの島からのルッジエーロの救出」では、ジューリオ・カッチーニの娘フランチェスカ・カッチーニが曲を書き上げ、最高の俸給取りの名を欲しいままにした。彼女は妹のセッティミーア、継母のマルゲリータに、ビィットーリア・アルキレーイ嬢まで加わったフィレンツェを代表する女性楽団コンチェルト・デッレ・ドンネを結成し、フェルラーラの女性楽団と競い合っていた。また彼女はおしゃべりの第一人者としてもあまねく有名で、「おしゃべり娘La Cecchina」の名前で通っていたが、当然この言葉はカッチーニCacciniに掛けているのである。
・こうしたおしゃべり一座を兼ねそろえた歌い手達は、フランチェスカに限らず作曲もこなし、17世紀前半のフィレンツェのメディチ宮廷を中心に劇的作品からモノディー様式の独唱マドリガーレまで自ら作って歌いまくった。例えば1611年にピッティ宮で行われたマスケラータ「セーヌのニンフ」では、ヤーコポ・ペーリ、マルコ・ダ・ガリアーノの他に、コンチェルト・デッレ・ドンネのおしゃべり軍団であるフランチェスカ・カッチーニ(1587-1640)とセッティミーア・カッチーニ(1591-c1638)の姉妹に、ヴィットーリア・アルキレーイ(1550-c1620)まで加わって、作曲を行って歌いまくった。この種の音楽祝祭はメディチ家的大祝祭の繁栄の最後を飾る1637年のメディチ公の結婚式に行われた「神々の結婚」頃まで盛んに行われたが、この「神々の結婚」もまたペーリ、ガリアーノ、フランチェスカ一味が作曲を担当した。
・そんなフィレンツェに愛想を尽かし、オペラは新しい芸術を求める新時代の空気を求めてフィレンツェを後にした。しばらく後にオペラの持つドラマ性とスペクタクル性と豊かな音楽が王侯貴族達にとってとっておきの出し物になっただけでなく、ヴェネツィアのように一般市民、特にボックス席を高額で購入する大富豪達を当て込んで公開オペラ劇場まで誕生するようになったからである。慌てたフィレンツェは1656年ヴェネーツィアに習って公開オペラ劇場を誕生させ、フランチェスコ・カヴァッリを呼び込もうとしたが失敗し、漸く来てくれたアントーニオ・チェスティ(1623-1669)も宮廷楽長就任した年に亡くなって、トレチェント以来続くフィレンツェの音楽的中心土地としての役割に終止符が打ち出されたのである。1737年にはメディチ家が断絶することを付け加えて次ぎに行ってみよう。

ローマ

その頃ローマは

・対抗宗教刷新の熱気の中でプロテスタント勢力に対するカトリック内部刷新運動を繰り広げたトレント公会議から早50年あまりが過ぎ、ローマ教皇の世俗的立場は宗教刷新前の世俗的雰囲気にどっぷりと逆戻りした。世界史自体がもはや宗教的立場を置き去りにして進んでいくのに呼応するように、宗教的社会地位の下落したローマ教皇は、芸術や音楽のパトロンとして活躍するだけの引き籠もり教皇に他ならなかったのである。まあ、そのお陰で、16世紀初めのローマは音楽の都としても活躍を遂げることが出来たのだが、後に起こる30年戦争では教皇の指導的発言は誰にも相手にされず、その終結であるヴェストファーレン条約にいたっては、ローマ教皇庁の持つ力がすっかりそぎ落とされてしまった。ふて腐れた教皇はますます芸術と音楽に閉じこもり、その情熱がバロック時代を通じてローマを最も豊かな芸術都市の一つとした。

トレント公会議以後のローマの音楽

・サン・ピエトロ大聖堂聖歌隊を初め、数多くのローマ教会に付属するカペッラでは、トレント君以降、パレストリーナ様式を理想とする、端正な通模倣様式教会音楽が数多く作られていた。しかし次の新しい音楽の流れは、世俗人のための宗教集会であるオラトーリオの集い(コングレガツィオーネ・デロラトーリオ)など教会組織から距離を置いた場所から誕生したのだ。このオラトーリオな集いは、対抗宗教刷新前から始まっていた宗教革新の熱気の中から生まれ、一般市民の宗教心と倫理を向上させることを目的としていた。類似した数多くの集いの中でも、重要かつ中心的役割を持ったフィリッポ・ネーリ(1515-1595)の集会が、教会の礼祈室(オラトーリオ)で開かれた時、集会がオラトーリオ会と言われるきっかけとなった。こうした集会での歌は庶民による宗教歌曲であるラウダが息づいていたので、ネーリも信者達にラウダを歌わせていた所、だんだん活動が漲ってきて、ついに教皇から認められ、ローマ内での重要な宗教的集会にのし上がった。そのオラトーリオでの音楽が変わり始めたのだ。その新しい変化は、大いに受け入れられ、ついには他の教会音楽すべてに多大な影響を与えることになる。

カヴァリエーリ「魂と肉体の劇」1600

・フィレンツェでモノディの実験に参加して、自分の行った実験こそがオペラ的な音楽劇の第1人であると言い張るエミーリオ・デ・カヴァリエーリ(c1550-1602)が、間違いなく「エウリディーチェ」より先にオラトーリオ会のために1600年「魂と肉体の劇」を上演したのである。魂、肉体、時などの寓意的登場人物がフィレンツェで上演されたエウリディーチェと同じように舞台を走り回って踊り出すという宗教的オペラと言って構わない作品が、モノディー様式の劇音楽形式を大々的にローマに送り出されてしまった。それにもかかわらず、今日この作品はオペラ開始の準主役の地位を甘んじて授かっている。

アガッツァーリ「エウメリオ」1606

・続いて大規模な舞台音楽として1606年にはアゴスティーノ・アガッツァーリ(1578-1640)の牧歌劇「エウメリオ」がローマ神学校で上演。教訓的宗教オペラが繰り広げられた。

アネーリョ「マドリガーレ宗教音楽劇」1619

・一方1619年に出版されたジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリョ(c1567-1630)の「マドリガーレによる宗教音楽劇」は、語り手と独唱者達により進められていく声だけで自立した対話劇になっていて、独唱と合唱さらに器楽によって演奏される後のオラトーリオ、つまり役者を伴わないストーリーものの先駆けになっている。

ローマでのオペラ

 すでにスヴェーリンク先生から伝授されたオルガン技法だけでは飽き足らなくなっていたジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)が1608年にサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストに就任するなど、新音楽の息吹が強まってきたローマに本格的なオペラブームが沸き起こったのは、フィレンツェ大富豪一家から登り詰めたマッフェーオ・バルベリーニ(1568-1644)が1623年に教皇ウルバーヌス8世となった時のことである。彼は30年戦争を中立的立場で眺める方針をとって教皇庁の財源をパトロンとしての使命に捧げることを決意。1624年には早くもバロック建築の期待の星ジョヴァンニ・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)を教皇美術監督として獲得し、25年にはバルベリーニ宮殿の建設を開始した。宮殿は初めカルロ・マデルナ、その弟子でベルニーニの好敵手フランチェスコ・ボルロミーニ、そしてベルニーニも参加して1633年に完成し、数多くの祝祭的娯楽が催された。

マッツォッキ「アドーネの幽閉」1626

ランディ「サンタレッシオ」1632

・ウルバーヌス8世はバルベリーニ一族を教会ヒエラルキーの上層にひしめかせ、バルベリーニ家全体が大パトロンとしてローマ芸術を高めれば、まずドメーニコ・マッツォッキ(1592-1665)は1626年にオペラ「アドーネの幽閉」を上演し、今度はステファーノ・ランディ(1586/87-1639)が1632年のオペラ「聖アレッシオ(伊)サンタレッシオ」でバルベリーニ宮殿の劇場の柿落としを敢行する。この2つのオペラの台本をこなした才人ジューリオ・ロスピリオーシ(1600-69)は、芸術的に登り詰めている内に教皇に推薦され、遂に1667年にクレメンス9世と名乗ることに相成った。
・これ以外にも数多くの作曲家がオペラを仕立ているうちに、ローマは一躍オペラ都市となった。ドメーニコの弟ヴィルジリオ・マッツォッキ(1597-1646)も作曲に努めてオペラを完成させるほど熱の入れようだった。

ロッシ「オルフェーオ」1647

   

・次第に叙唱とアリアの語りと歌の分担が明確に分離していくローマオペラに渇を入れるべく、ドメーニコ・マッツォッキが叙唱内で短い旋律を中間部に配置するメッザーリア(半アリア)を導入する頃、ルネサンスマドリガーレの伝統から生まれた楽器伴奏声楽曲もすっかり変身を遂げ、モノディのような明確な通奏低音を持ち、規則的なリズムこそ快適だと思う傾向がますます膨らんでいく。
・ついに劇と台本はアリアと重唱を提供する為の手段に過ぎなくなってしまった。そんな情けないストーリーの音楽への完全従属の様子はルイージ・ロッシ(1597-1653)の作曲した「オルフェーオ」(1647)を見ればすっぽりと理解することが出来るだろう。

その後のローマ

 教皇ウルバーヌス8世が天上に消えた途端に反バルベリーニの教皇インノケンティウス10世が音楽芸術をあんまり育まなかったのに気を悪くしてか、逃げ出したバルベリーニ一族はパリなどフランス各地に逃れ、それに吊られてお抱え音楽家達がフランスの都市を闊歩した。面白いことにヴェネツィアの公開劇場で栄えある第1作目を担当したマネッリ=フェラーリ劇団はバルベリーニをパトロンとして使え、この事件が原因ヴェネツィアに向かったのだ。そんなインノケンティウス10世の時代にはロスピリオーシ台本、マルコ・マラッツォリ(c1602/c1608-1662)とアントーニオ・マリーア・アッバティーニ(1609/10-1677/79)作曲によるコミックオペラ「禍(わざわい)転げて幸福と成すべし(略して、「わざころ」)」(1653)が、コレッリ誕生を記念してか上演されたが、音楽の繁栄は次の教皇アレクサンデル7世(在位1655-1667)の元で加速した。

カリッシミとスウェーデンな娘さん

・1657年に典礼音楽の改革を行った教皇アレクサンデル7世の元で、音楽ジャンルとしてのオラトーリオを確立した宗教的音楽家のジャーコモ・カリッシミ(1605-1674)が活躍すれば、1654年にはスウェーデン女王クリスティーナ(1626-1689)がローマに逃亡してそのままパトロンとして君臨した。このプロテスタントなグスタフ・アドルフの娘さんによって、カトリックに改宗した彼女の宮廷楽長としてカリッシミが採用され、58年には歌手として仕え作曲家として花開くアレッサンドロ・ストラデッラ(1644-1682)が、そして彼女の晩年にはアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)とアルカンジェッロ・コレッリ(1653-1713)までもが宮廷にやってきた。

台本教皇クレメンス9世

・サンタレッシオを初め多くの台本を書き上げたジュリーオ・ロスピリオーシがクレメンス9世(在位1667-1669)となり終わった後の1670年にヴェネツィア式公開オペラ劇場トルディノーナ劇場が登場すると、劇場はオペラとオラトーリオに満ちあふれた。各貴族の宮廷でも数多くの劇場用音楽が演奏され、ストラデッラ、スカルラッティにベルナルド・パスクィーニ(1637-1710)らが縦横無尽に活躍する中、音楽を圧倒的財産パワーで支えきるベネデット・パンフィーリ、フランチェスコ・マリア・ルスポーリ、ピエートロ・オットボーニのパトロン三兄弟が唐笠掲げて登場し、三位一体芸術擁護射撃を繰り広げる16世紀末から17世紀初頭のローマ音楽になだれ込んでいく。ルスポーリはアントーニオ・カルダーラ(c1670-1736)を楽長にし、オットボーニは1690年からコレッリを音楽監督として登用し、A・スカルラッティを抱え込むなど大パトロンとして君臨した。

ヴェネーツィア

 覆い隠せなくなった海上貿易の優位性の低下を補おうとしてか開始された内地政策により、ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パードヴァを含めたヴェネーツィア共和国は、農作物栽培に、毛織物工業に、印刷業までも駆使して豊を獲得しようと躍起になった。フィレンツェより遅れて16世紀から芸術の都としても活躍を見せ始めていたヴェネーツィアでは、おそらく教皇中心のカトリックヒエラルキーの干渉を嫌ったのだろう、大司教の居る司教座聖堂の代りに、ドーシェ(総督)の個人礼拝堂ながら市民の教会にまでのし上がった、サン・マルコ大聖堂を中心に新しい音楽が繰り広げられていくことになったのだ。

ヴィラールト就任頃

・サッコ・ディ・ローマによるローマ略奪の衝撃を知ってか知らずか1527年にサン・マルコ大聖堂楽長に就任して見せたフランドル人のアードリアーン・ウィラールト(c1490-1562)が、両側にオルガンと聖歌隊席を持つサン・マルコ大聖堂の作りにポンと手を叩いて始めるよう。特に内陸で行われていた2つの聖歌隊どうしが離れて歌い合う分割合唱コーリ・スペッツァーティが、ラウダーテ(島原風発音らおだて)の言葉で始まるラウダーテ詩編曲で実践され、次第にサン・マルコ大聖堂ならではの遣り口として定着していった。
・ヴィラールト死後チプリアーノ・デ・ローレ(1515/16-1565)が楽長を試みたが2年で断念し、結局1565年に楽長に就任したジョゼッフォ・ザルリーノ(1517-1590)の元で、ヴェネーツィア音楽はさらに繁栄を極めた。

ザルリーノ時代

・彼の下で第1オルガニストにのし上がったクラウディオ・メールロ(1533-1604)だけではない、さらに第2オルガニストには豪華アンドレア・ガブリエーリ(c1510-1586)を任命して見れば、メールロ亡き後はスライドして甥のジョヴァンニ・ガブリエーリ(1553/c56-1612)まで第2オルガニストを勤める始末、ついでに楽器演奏者としてダラ・カーザ3兄弟も徴用してみせた。こうした音楽家充実を経て30人ほどの分割合唱隊を、20人ほどの分割合奏隊が華やかに支えながら、宗教曲でも華やいでしまうヴェネーツィア式教会音楽が確立したのだ。
・後にジョヴァンニ・ガブリエーリの元にはハインリヒ・シュッツ(1585-1672)を初め、ヒエロニュムス・プレトーリウス(1560-1629)、ハンス・レーオ・ハスラー(1564-1612)、ヤーコプ・ハンドル[ヤコブス・ガルッス](1550-91)などの北方人がお弟子として遣ってきて分割合唱的手法まで北に持ち帰ってみた。

モンテヴェルディな時代

・俸給をケチったら音楽もケチった楽長しか居なくなってしまったので、マントヴァで解雇ほやほやのモドゥベルド氏を捕まえて俸給を上げて呼び寄せた。彼は、聖歌隊再編やらすぐれた音楽家の登用やら、作曲だけでない才能を持ってサン・マルコ大聖堂を見事復活させたのである。しかし、彼の下でジョヴァンニ・ロヴェッタ(1595-1668)、フランチェスコ・カヴァッリ(1602-1676)、アレッサンドロ・グランディ(c1580-1630)らが活躍した大聖堂の賑わいも、1630年の大ペスト到来によって終止符が打たれ、直後に開始された1637年のサン・カッシアーノ劇場誕生を持ってヴェネーツィア音楽の中心は娯楽の殿堂での華やかオペラに移行していくのだった。

ヴェネーツィアでのオペラ

 今日では1/6の主の公現祝日からだが、当時は12/26の聖スティファノの祝日から灰の水曜日で四旬節が始まるまで続いた謝肉祭。さらにイースターからその8週後の精霊降臨の祝日に至る復活節。そして秋の二ヶ月と、年間の半分をどんちゃん騒ぎですごすヴェネーツィア気質はバロックを通じて華やいでいたが、中でもイースター6週後のキリスト昇天の祝日は、海とヴェネーツィアの結婚を祝う祭りを兼ねて、年間最大のお祭り騒ぎを満喫した。合わせて7ヶ月以上にも達するお祭り騒ぎに最も適合した芸術こそが、一般人でも半スクードの入場料さえ払えば見物できる初の公開劇場サン・カッシアーノ劇場でのオペラだったのだ。ローマから来た作曲家ベネデット・フェルラーリ(c1603-1681)とフランチェスコ・マネッリ(1594以降-1667)を中心とする一団によって1637年に「アンドローメダ」が上演され柿(こけら)が落ちてみたこの公開劇場は大流行を極め、1650年以降は常に4つ以上の劇場が同時に公演を行うまでにオペラの都市と化した。大がかりな機械仕掛けにジャコモ・トレッリなどの大演出家、そして生粋のオペラ作曲家達が恰好の舞台で胸をときめかせていた。このような劇場の為の資金源は、一般人に与えられた平土間席ではなく、高額を支払って購入するボックス席が、上層市民や貴族達が商取引まで兼ねて購入されて成り立っていた。現実主義のヴェネツィアの市民が劇の中にも現実的感情を扱うもの好んだため、この土地でのオペラ題材はギリシア神話や伝説ものよりも、人々の打算渦巻き現実的愛と憎しみの世界を描いた歴史物などがよく上演されるようになっていった。経営上の採算性もオペラを規定する重要な要素になって、音楽は人々の好みに合わせお気に入りの歌手の曲をたっぷり聴かせるアリアと、レチタティーヴォの部分が明確に分かれ、経費の問題から合唱の使用はあまり見られなくなった、器楽でさえ初期は通奏低音と5声部の弦楽器アンサンブルで行なわれ、この器楽アンサンブルは劇場同士が競い合う内に17世紀後半から再び拡大を見せることになる。

モンテヴェルディ最後のオペラ

「ウリッセ(オデュッウェウス、ユリシーズ)の帰郷」1641
「ポッペーア(パッポエア・・・じゃなかったポッパエア)の戴冠(伊)リンコロナツィオーネ・ディ・ポッペーア」1642

「ジャゾーネ」1649

・モンテヴェルディの弟子であるピエール・フランチェスコ・カヴァッリ(1602-76)が書いた41曲ものオペラの中でもすぐれた作品で、カヴァッリはまだ先生のドラマ構成を重視する教えを保っていたが、これ以後ストーリーはお気に入りのアリアを聴かせるための手段としての付属物の傾向が強くなっていく。。

「オロンテーア」1649年(いいや56年だ、うそ49年じゃないの?)

・ヴィーンで皇帝レオーポルト1世の結婚式を経費に糸目を付けず最大娯楽に仕立て上げた1667年の「黄金のリンゴ(伊)イル・ポーモ・ドーロ」でお馴染みの作曲家アントーニオ・チェスティ(1623-69)がヴェネーツィアで上演したオペラで、17世紀を通じて最も多く上演されたのがこの「オロンテーア」である。しかし最近の説によると、56年にインスブルックで初演された可能性の方が高まってきた。この曲を聴いていると、なめらかで全音階的な旋律線と簡単なリズムによるベル・カント(bel canto「美しい歌」)が確立されているのをこれ見よがしに見せつけられることだろう。

オペラ特徴の確立

 こうして17世紀中頃には、その後200年本質的には変わらないオペラの特徴が確立されていった。同時にヴェネツィアで活躍したパッラヴィチーノやステッファニがドイツにヴェネツィアオペラを持ち込むなど各国でオペラが広まっていくことになるが、その際全体を歌うと言うこと、特に対話部分を語りではなくレチタティーヴォで行なうことの不自然さが足かせとなって、十全たる自国語オペラの発達よりも、イタリア語によるイタリアオペラの流行に飲まれる傾向が見られた。

・重唱、器楽を制圧する独唱の重視
・レチタティーヴォとアリアの様式化されすぎた分離開離
・アリアを効果的にする方法としてアリアの様式と型が生み出された

2005/01/16
2005/02/04改訂

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