9-3章 オペラ以外の声楽曲

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室内声楽曲

 フィレンツェでのモノディ歌曲の実験は、悲劇の復興だけでなく古典古代の旋法の力を蘇らせる試みでもあったから、カッチーニもガリレーイも、モンテヴェルディもより多くのモノディ音楽を室内歌曲などのために費やした。ルネサンス期の芸術歌曲であるマドリガーレでは、一般的世俗歌曲より高次な芸術作品であるという自負と自立性が、対位法に基づく通模倣声楽曲の極みであるミサやモテットと同様の声部書法を使用することでもたらされ、それは16世紀を通じて古典古代的な旋律とそれに結びついた言葉の力の復興運動が繰り広げられる間にも、うち捨てられることはなかった。例え声に出すパートがソプラノだけに限られ、独唱のように修飾が加えられ、対する楽器による他のパートがそれを讃えるべく影に回るような作曲が模索されても、まだマドリガーレは通模倣様式の発展から説明が付く存在に止まっていた。もう一つ、通常の素朴な歌と異なりマドリガーレは、モテットやミサ曲同様、有節的に同じ旋律パターンを繰り返して定期的なリズムに乗せて何度も歌い次ぐ、有節法による単純な歌曲も芸術的でないとして捨て去っていたが、モノディ音楽の発明者達は、有節法は芸術的に理に適った様式であり、言葉がリズムを持ってフレーズに分かれた旋律に乗せて歌われていくことが、情感をより大きく揺さぶることを知っていた。
 こうして再び有節法が見直され、詩の各節にすこし変化を付けた同じ旋律を繰り返したり、すべての節に同じ和声を付け、主になる旋律とその変奏で歌い継ぐ有節変奏法strophic variationなどが行われた。これに対して、もちろん各節ごとに新しいフレーズを紡ぎ出し移り変わる旋律を使用することも出来た。
 オペラでは有節的なアリアと語り的な叙唱の役割分担がはっきりして来るに連れ、アリアは登場人物の情感を表わすために取って置かれた旋律美をひけらかす披露宴になってしまった。しまいに美しいアリア以外には何物も存在しないような堕落したオペラも増大するが、アリアの穏やかなリズムの上でなめらかな旋律を歌いまくる声の曲線美が共通認識となって、やがてベル・カント様式に到達した。

変奏的な曲

 そんな中で次第に特定のお気に入りの変奏パターンも生まれ、例えば(伊)オッターヴァ・リーマという詩の型を歌うためのロマネスカと呼ばれた、和声とベースラインを含んだ旋律の大枠の型を元に、旋律を作るようなことも好まれて、やがて特定の低音パターンに乗せて変奏が行われていくバロック変奏曲の一つのタイプが起きあがってきた。こうした低音はグラウンド・ベースground bassとか固執低音basso ostinato(伊)バッソ・オスティナートと呼ばれ、固執低音上の変奏曲は特に器楽曲のジャンルとしてバロック時代に繁栄を極めた。数多く作曲されたシャコンヌ(仏)やパッサカーリア(伊)といった固執低音上の変奏は、ロマネスカのように詩から派生した物ではなく、シャコンヌはおそらく大航海時代の熱気の中でラテン・アメリカからスペインに輸入された舞踏歌から、パッサカーリアは歌の節の間にギターが一定の和音連結型を爪弾いている内に始まったものらしい。

コンチェルタート法

・声楽と楽器を分けて異なる書法で音楽を作成する遣り口から、同意に達するイタリア語の動詞コンチェルターレを元にして生まれた、異なる役を演じるそれぞれが全体的調和に到達するコンチェルタート法という概念がクローズアップされてきた。これは一つの様式ではなく、独立した声部を奏する楽器を声と結びつける手法そのものを表わしていた。

コンチェルタート・マドリガーレ
→楽器が声と互角に渡り合うマドリガーレ
宗教コンチェルト
→楽器付の宗教声楽曲
器楽コンチェルト
→独奏と合奏のための器楽曲

モンテヴェルディのマドリガーレ集

・モノディ様式が流入して最後の花を開かせたマドリガーレの最新の遣り方と、その変遷はモンテヴェルディのマドリガーレ集5巻(1605)~8巻(1638)を辿りながら覗いてみるとよい。すでにマドリガーレ第4巻が1603年に出版される前から、ジョヴァンニ・マリーア・アルトゥージが自らの名前を冠する著作「アルトゥージ、あるいは最近の音楽の不完全さについて」を出版し、その中のマドリガーレ「貴方は私の心の人」を引用して規則違反が耳触りで不愉快だと批判するように、作曲技法は急速にルネサンス的ポリフォニー様式を突き崩し始めていたが、モンテヴェルディはそれに応えて1605年の「マドリガーレ集第5巻」の中で「モンテヴェルディ、あるいは2つの作法」という序文を掲載し、それはルネサンス期の「第1の作法」とは異なる、「第2の作法」なのだとあしらった。新しい作曲法は自覚を持って進んで受け入れられていったのである。

コンチェルトの題を持つ第7巻
・ロマネスカ「ああ、私の大切な人はどこにいるのだろう」をどうぞ

第8巻「戦いと愛のマドリガーレ集Madrigali guerrieri et amorosi(伊)マドリガーリ・グエルリエーリ・エタモローシ」
・今日に連なる愛戦士もののルーツとなるこのマドリガーレ集には、傑作マドリガーレとして教科書おすすめの「今や天と地と風が黙しHor che'l ciel e la terra e'l vento tace」の他にも、2つのバッロ(半ば劇風のバレ)と、上演様式ジェーネレ・ラップレゼンタティーヴォと書かれ1624に上演された「タンクレーディとクロリンダの戦いIl combattimennto di tancredi e Clorinda」がある。これはトゥルクアート・タッソの「解放されたイェルサレム」の一節で、十字軍戦士タンクレーディが異教徒の女戦士と闘いながら、言葉を交信させ互いに愛し合う偉大な愛戦士となるが、赤い奴が好敵手として割り込むことによって、結局クロリンダが亡くなってしまう切ない物語になっていて、20世紀の日本のアニメの中にその名残を垣間見ることが出来る。モンテヴェルディは興奮した馬の駆け巡り闘い繰り広げる様式を表わすために、楽器による描写技法スティーレ・コンチタート(伊で興奮した様式)を編み出して、弦によるトレモロを大奮発して見せた。

カンタータ(伊)cantata

・17世紀の前半には文字通り歌われる室内楽的な曲に付けられたカンタータという名称は、17世紀中頃から多くが叙唱とアリアを持った独唱(や2重唱)曲を指すようになっていった。代表選手の名前だけを挙げておこう。

ルイージ・ロッシ(c1597-1653)
ジャーコモ・カリッシミ(1605-74)
アントーニオ・チェスティ(1623-69)
バルバラ・ストロッツィ女史(1619-64以降)

カトリック教会音楽

 確かにパレストリーナ的な対位法は音楽史上初の学ばれるべき過去の遺産として定着し、スティーレ・アンティーコ(古い様式)と呼ばれながら対位法学習の基礎を提供する重要な過去の遺産となった。やがて、長調短調を中心とした規則リズムと通奏低音付に変容を加えた学習対位法がヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)の「グラードゥス・アド・パルナッスム(ラ)パルナッソス山に登って行く道」(1725)にまとめられて古典派以降まで教科書として使われることになるわけだ。それにもかかわらず、当時の作曲家はたちまちモノディ影響下の新音楽語法を意気揚々として宗教音楽に取り入れ、ルネサンス的通模倣とはかけ離れた教会音楽を作曲し始めた。教会自体の特質もあって、すでに16世紀から大量の器楽を動員して華やかな分割合唱に華やいだヴェネーツィアの宗教音楽が、新しい宗教音楽を強力にアシストした。カヴァッリには「メッサ・コンチェルタータ(協奏風ミサ曲)」(1756)ではソロの歌声に2重合唱技法と器楽が加わり壮大なミサ曲を演じきっている。

ローマでさえも大根チェルト

・もはやパレストリーナ的対位法を奨励したトレント君の情熱ははるか昔、17世紀初めのローマでさえも対位法は音楽教育用かと思われるほど、ヴェネーツィア宗教音楽の影響を受けた聖歌隊と大楽器軍団のための通奏低音を持った新しいタイプの宗教音楽に華やいだ。このような大形式の教会音楽は、大コンチェルトgrand conterto(ある批判的聖職者が大根チェルトDaicontertoだといって嘆いた)と呼ばれ、フランチェスコ・ソリアーノ(1548/49-1621)は師パレストリーナの「マルチェッルスのミサ曲」を8声部に拡大、カリッシミが複合唱を用いてミサを書き、ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオ(c1567-1630)やグレゴリオ・アレグリ(1582-1652)が活躍、本当は82年にビーバーあたりが作曲したらしいザルツブルク53声ミサの作曲家にうっかり祭り上げられてしまったオラーツィオ・ベネーヴォリ(1605-72)もローマで立派な大根を栽培し「コロッサル・バロック」(巨大なバロック)の域に到達した。

一方少数声部の為のコンチェルト

・壮大な大聖堂以外では少人数の独唱者がオルガン伴奏で歌う小さなコンチェルトの方が遙かにお馴染みだったが、世俗的なモノディーを大々的に教会音楽に持ち込んだ第1人者としてロドヴィーコ・ヴィアダーナ(1560-1627)「百の教会コンチェルト集」(1602)を出版するやいなや、それに呼応してシュッツにも影響を与えたアレッサンドロ・グランディ(1575から80頃-1630)が沢山の新型宗教曲を繰り広げて見せた。

・一方モンテヴェルディは大きなコンチェルト様式と少数声部のコンチェルトを結びつけて「祝福された聖なる処女の夕べの祈りVespro della Beata Vergine(伊)ヴェスプロ・デッラ・ベアータ・ヴェルジネ」(1610)を送り出したが、これは1610年にローマでのポストを獲得し息子の教皇庁付属神学校入学を目論んで時の教皇パウロ6世に献呈されたもので、もう一つ別の曲として6声のミサ曲「イン・イッロ・テンポレ」(その時イエスは)が同時献呈された。こちらの曲は驚くべきルネサンス・ポリフォニーの書法で作曲され、これら2曲だけでもモンテヴェルディのひときわ抜きんでた才能が見て取れる。また夕べの祈りは聖母マリアを讃える音楽だが、マリアをただの人間だとしたルター派に対して、カトリックでは宗教改革後もマリアを神の仲立ちをする気高い女性として讃える流行が続いたから、「スターバト・マーテル」や「マニフィカト」などマリアにまつわる音楽に事欠かなかった。

オラトーリオ

・カヴァリエーリの「魂と肉体の劇」の継承者たる宗教オペラは流行らなかったが、ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリョ(c1567-1630)が多声部マドリガーレ形式による「宗教音楽劇」(1619)を完成させ、宗教的に見て全く俗語であるイタリア語を使用して、語り手(ヒストリクス、テストと呼ばれるようになる)を交えて音楽だけですべてを理解できる聖書に基づく作品を完成させると、すぐにモノディを取り入れて、17世紀半ばには宗教的ドラマを音楽だけで表現するオラトーリオoratorioというジャンルが確立。叙唱、アリアに器楽伴奏など、役者が舞台で活躍しない以外はオペラと変わらない音楽語法で、ラテン語(オラトーリオ・ラティーノ)または、イタリア語(オラトーリオ・ヴォルガーレ[世俗])による詩を歌い上げていった。おそらく新約旧約聖書の世界を舞台上で繰り広げることへの反感こそが、宗教的作品をオラトーリオに、世俗的な物語をオペラに棲み分けさせた直接の原因だろう。この時代の代表選手にして、オラトーリオを確立させてしまったのはジャーコモ・カリッシミ(1605-1674)である。神の力で戦に勝ち娘を生け贄に捧げる結果と相成った「イェフテ」を見れば、この時代のオラトーリオがなんたるか分るそうだ。彼の後イタリアではオラトーリオが流行を見せ、またアントーニオ・ドラーギ(1634/35-1704)がヴィーンで、マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645/50-1704)がパリでこの種のジャンルを作曲するなど各国に広まっていった。しかし17世紀も後半に行くにしたがってオラトーリオはすっかり宗教的側面を弱めてオペラの語法で作曲され、レチタティーヴォとアリアによる劇のないオペラになってしまった。このオラトーリオは四旬節(レント)期間劇場でのオペラ上演が禁止される間に、オペラの替わりとして格好の代替娯楽にさえなってしまうのである。

ルター派の教会音楽

 かつてイーザークがこの世に別れを告げた1517、「以後居なくなるイーザーク」と叫んで見せたマルティン・ルターが「95ヶ条の論題」(1917)を貼り付けて始まったルター派宗教改革運動は、ジョスカン・デ・プレの死を悼んだザクセン選帝候フリードリヒが1521の偉大な年にルターをヴァルトブルク城にかくまって、ドイツ語訳聖書を生まれたての印刷術でじゃかじゃん世間様に送り出している内に加熱していった。燃え盛った火の粉を納めようとした1555年のアウグスブルクの和議の頃には統治諸侯ごとの宗教自由が確認され、以後プロテスタントを選択した諸侯の治める領土ではコラールが発展していくことになった。しかしプロテスタントとカトリックの対立は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝がカトリック強攻策を打ち出すに及んで民族独立運動も絡んでねじれにねじれ、1618年にベーメンで30年戦争が勃発。長く次々に戦場を変える大戦争でドイツの人口は嘗ての1/3に、都市は略奪を極め、ぺんぺん草さえもフランスに逃れていった。戦前1800万のドイツ人口が700万になったと云うから悲惨だ。戦後に書かれたグリンメルスハウゼンの「ジンプリチシムスの冒険(阿呆物語)」でも読んですこしは親身になってくれ。それだけでなく17世紀は世界的に寒冷で凶作続きの悲惨な世紀だったことも分かってきている。そんな状況のドイツは、荒れ果てた荒野に1534年に新大陸からもたらされたジャガイモを必至に栽培してしのいでいる内に、ドイツはやがてジャガイモ大国にのし上がっていくのである。それはさておき、1648年にウェストファリア条約が結ばれた時には、ドイツ諸侯はもはや神聖ローマ皇帝お構いなしの完全な独立小国家となり、南のカトリック勢力と、北のプロテスタント勢力は、ますます固くなに分離してしまったが、どちらの陣営もまだ宗教的な精神は廃れていなかった、悲惨な世紀は人々に宗教に対する熱い思いをかき立てずにはいなかったのだ。

なんとなく30年戦争の経緯

第1期
・ベーメンのカルヴァン派を中心にファルツ選帝候フリードリヒ5世を王に据えた反乱が勃発するが、完全壊滅の後にベーメンは血の巡礼によって新教狩りが行われた。
第2期
・ジョン・ダウランドが一時期仕えていたこともあるデンマーク王クリスチャン4世(在位1588-1648)が参戦をするが結局退く。
第3期
・スウェーデン王グスタフ・アドルフ(在位1611-32)とカトリック傭兵隊長ヴァレンシュタイン(1583-1634)がライバル関係を築くことによって激戦となるが、グスタフは戦死し、翌年ヴァレンシュタインも暗殺された。
第4期
・ドイツの弱体化と領土拡大を狙い影ながら戦争を操ってきたスペインとフランスが直接参戦し、ドイツは大根チェルトの内に終戦を迎えた。



アウグスブルクを見たまえ

・30年戦争の悲惨さの例として、中世以来司教座のある都市として発達を遂げ14世紀からは市民達の音楽まで栄え始めたアウグスブルクが上げられる。ここでは1555年の「アウグスブルクの和議」を筆頭に数多くの宗教会議が開かれたが、アウグスブルクではもともとプロテスタントとカトリック両勢力が共存して互いに凌ぎを削りながら、金融業者フッガー家が都市を牛耳り、フランソワ1世を蹴落とすべくカール5世に資金を援助し皇帝に即位させたり、一方ではルネサンス芸術のパトロンとしてハンス・レーオ・ハスラーやリュート奏者であるメルヒオール・ノイジドラー(1531-1590)らに活躍の場を提供していた。それが30年戦争ではカトリック側で参戦し、都市は大損害を被って人口が1/3になってしまったと云うから悲劇である。運良くアウグスブルクの音楽的命運は尽きることなく、1650、60年代から再び活気を取り戻すことになった。市民によるアマチュア音楽組織コレーギウム・ムージクムも組織され、定期的な演奏も行われだす。

新様式の宗教音楽

・すでにハスラー、プレトーイウス、シュッツなどがヴェネーツィアでジョヴァンニ・ガブリエーリから音楽を学ぶなど、ドイツはイタリアにぞっこんいかれちまっていたのだが、特に宗教改革の後カトリックに止まったハプスブルク家オーストリアやドイツ南部では、カトリック文化共有圏としてイタリアとの距離は更に縮まった。元来が神聖ローマ皇帝とローマ教皇の関係もあり昔から絶えず絡み合ってきたドイツとイタリアは、どちらも諸侯の並び立つ政治体制もあって、組んずほぐれつしていたから、すっぱりと線を引いて分断できるような関係では無かったのである。ドイツが進んでイタリア芸術を流入させて大喜びだったのはある意味でごく自然な成り行きだった。こうして南部カトリック地域では、イタリア的宗教音楽が比較的短い間に流入、新しい音楽に華やいだが、イタリア留学に華やいでいたルネサンス後期のドイツ人音楽家達は北方ドイツにも沢山いたから、ルター派宗教音楽でも程なく新しい音楽語法で曲が作られ始めた。

大コンチェルトの例
ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)の「聖カンツィオ集」(1625)
→マドリガーレが最後の仕事としてドイツで宗教曲に余生を預けたのをかいま見るそうだ

ヨハン・ヘルマン・シャイン(1586-1630)の「イスラエルの泉」

少数声部の例
シャインが1618と1626に出版した、「新小品集(ラ)オッペラ・ノーヴァ」

ニュルンベルク親方

・12~14世紀に中継貿易地として栄えたニュルンベルクは1524からルター派都市となり、宗教の中心地であるゼバルドゥス教会やザンクト・ロレンツ教会で音楽も宗教的に大いに華やいだ。すでにルネサンス期にはコンラート・パウマン(c1410-1473)レオンハルト・レヒナー(c1553-1606)が活躍し、偉大な単旋律の歌職人集団であるニュルンベルクのマイスタージンガー達も職人歌マイスターゲザングを歌の道場で歌いまくり、ギルド的な階層を設けて歌会などが開かれていたが、最も知られたハンス・ザックスでさえも置いて滅多に霊感に襲われることはなかったそうだ。彼は謝肉祭のための劇も書いている靴職人の親方であった。またニュルンベルクでは出版業も活気を呈した。おまけに偉大な画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)まで生誕する有様。17世紀初めにはイザーク・ハスラーの息子達ことハンス・レーオ・ハスラー(1562-1612)カスパール・ハスラー(1562-1618)が活躍し、ハンス・レーオ・ハスラーは4年間の滞在の間に「悲しみの園」(1601)を出版するなどドイツバロック音楽に多大な功績を残し、数多くのコラール宗教曲を作曲している。また「悲しみの園」の中の「私の心は千々に乱れ」が後にルター派コラールに転用された「血潮したたる主のみかしら」になることは皆さんご存じの通り。一方双子のカスパールの方は生涯をニュルンベルクに捧げた。

・この地のオルガン音楽の基礎を築いたヨハン・シュターデン(1581-1634)などの活躍は見られるものの、30年戦争でプロテスタント側に付いて芸術も文化も大いに衰退して見せたニュルンベルクは、その後生粋のニュルンベルクっ子であるヨハン・クリーガー(1652-1735)ヨハン・パヘルベル(1653-1706)などを排出し再び活気を取り戻したが、18世紀に入るといまいち冴えが無くなった。

ドレースデン

・このザクセン選帝候国の首都であるドレースデンは1423年からヴェッテン家の支配にあったが選帝候エルンスト(在位1464-1486)の時にこの地が首都とされ、彼は弟のアルブレヒトと共同統治を行った。1521年にルターをヴァルトブルク城にかくまったフリードリヒ(在位1486-1525)はこのエルンストの息子である。やがてルター派とプロテスタントによる諸侯同士の戦争であるシュマルカルデン戦争の最中にアルブレヒト家が裏切ってカトリック側に付いて大勝利となった時にはドレースデンもカトリックめいたが、1552年再び宗教替えしてプロテスタントの国としてアルブレヒト家の収める都となった。
ヨハン・ヴァルター(1496-1570)が宮廷音楽家としてコラール曲集を送り出すなど、この時期すでに音楽的に重要な都市だったドレースデンの宮廷では、イタリア人とドイツ人がそれぞれ派閥を形成して働いていたが、しばしば対立を引き起こした。1587年にロジュ・ミヒャエル(c1552-1619)が宮廷楽長に就任する頃には、ハンス・レーオ・ハスラーが活躍し、ミヒャエル・プレトーリウス(1571から3-1621)が宮廷楽団の指揮を執るなど繁栄期を迎えるが、そんな中で1617年にハインリヒ・シュッツが宮廷楽長として就任することになる。

ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)

・ジョヴァンニ・ガブリエーリから1612まで学んでいたシュッツはヘッセン方伯に仕えていたのを選帝候ヨハン・ゲオルク1世に見染められて、1617から生涯のほとんどをドレースデンのザクセン選帝候礼拝堂楽長として全うすることになった。ドレースデンでは始め30年戦争で中立を保ったためにすぐれた音楽活動が比較的継続可能だった。シュッツは1627年の結婚式の祝祭の出し物として初めてのドイツ語オペラ「ダフネ」を作曲して見せたが、残念ながら今日すっかり損なわれている。1628年には1年間の休暇を貰ってヴェネツィアに滞在してモンテヴェルディな音楽に大いに感心した彼だったが、1630年にスウェーデン国王グスターヴ・アドルフが30年戦争に直接介入するに及んでザクセン選帝候もルター派として一緒に戦うはめになった。こうして楽団も縮小の憂き目に遭って1639年には10人ぐらいしか居なくなってしまったので、細々とした音楽活動を絶やさないためにシュッツは少数人数のための「クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ」(1636と1639)を出版した。戦後50年頃になると漸く財政も持ち直し始めたので、宮廷音楽を大いに奮発して見せようとしたシュッツだったが、選帝候の長男がイタリア音楽導入を盛んに提案して急激にイタリア音楽家がのさばりだす。一方的に自分をライバルだと思いこんでいるイタリア人カストラートのジョバンニ・アンドレア・ボンテンピ(c1624-1705)があまり小賢しいので、気を付けないと遣られるような気がしてきたシュッツも1世な選帝候が生存中は引退を拒否されていたが、ヨハン・ゲオルク2世が即位するとあっぱれ引退と相成って第1楽長の肩書きを名誉職として貰って最後の作曲活動に従事した。その頃ドレースデンではすでにイタリア人楽長がぬくぬくとふところを暖めていたのである。シュッツの技法は彼の合唱団で活躍した弟子のクリストフ・ベルンハルト(1627-92)が、作曲理論法の中に折り込んでみせた。

ラテン語モテット集である「聖カンツィオ集」1625

複合唱と楽器群のための「ダーフィト詩編歌集」1619

新音楽的モテット集「聖シンフォニア集(独風発音ジュンフォニエ・ザクレ)」
→これは1629,1647,1650に出された3部からなる

オラトーリオ「私達の救い主であり祝福者でもあるイエス・キリストが語った7つの言葉(十字架7言葉)」1645?

クリスマス・オラトーリオ「神とマリアの子イエス・キリストの喜びと恵みに満ち足りた誕生の物語り」(1664)

三つの受難曲「ルカ受難曲」(c1653)「ヨハネ受難曲」(1665)「マタイ受難曲」(1666)

2005/01/17
2005/02/05改訂

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