初期古典派の時代とオペラの潮流

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新しい音楽の潮流

 元々古代ローマ時代、市民階級は6つに分けられ、その最上級の選ばれし選民こそがクラシクス[classicus]と呼ばれていたが、そのため芸術上の最高傑作もクラシクスと言うようになった。そこでルネサンス以降古代ギリシア、ローマ芸術の発掘・摂取に憧れを持って対峙した西洋社会は、この古代ギリシア、ローマの芸術とその様式をクラシック[classic]、つまり古典として呼ぶようになった。18世紀に入ってポンペイなどの遺跡が発見され調査が開始すると、古典への関心は思想界も交えて大いに盛り上がりを見せ、一つのスタイルとしての古典主義が確立されていった。19世紀になると歴史に対する関心ますます高まり、芸術に置いても過去の特定時代の芸術や思想を纏めて名称を付けて定義することが盛んになったので、ルネサンスという名称もこの時に誕生したほどだったが、この時期芸術世界に置いて、古代ギリシア・ローマ時代芸術の形式の端正さや、明晰な考え方をさして古典主義[classicism]と呼ぶようになった。さらに細かな定義によると、おおよそ紀元前5世紀以降からアレクサンドロス大王の遠征により生まれたコスモポリタンなヘレニズム文化が始まるまでを、クラシック時代と定義する。均整さに傾く傾向と、不均衡と感情をより強く見せる傾向の交代は、いかなる民族、いかなる時代に置いても、見いだすことが出来るが、今日使用する西洋的な意味での古典主義と、それに対する不均衡主義(ロマン派とか、バロックとか)の概念は、18世紀に誕生したのである。
 しかし一方で、クラシックという用語の誕生の性格から、時代を超えて鑑賞されうる美と様式を兼ね揃えた作品もクラシックと讃えると大変いい心持ちがしたのである。そんなわけで、音楽においてもすっかりロマンティックな時代に入ってから、おおよそ1770から1830年頃に作曲された、ロマン派の音楽に対しても以前のバロック音楽に対しても、ある種の形式美や様式美を持っていると考えられたハイドンやモーツァルト時代の音楽に対して、クラシカル、古典派と定義した。あるいは教科書である「新西洋音楽史」の区切りでは、古典派の潮流の現れ始める1720年代からロマン派の潮流が現れ始める1800年頃までを古典派と言うが、区切りは時代と研究者によってそれぞれに異なっている。
 一方、西欧世界の過去に作曲され今日でも演奏される芸術的音楽を総称してクラシック音楽と定義するのも、時代を超えて鑑賞されうる美と様式を備えた芸術作品だと認識されているからに違いない。しかし、ここで扱うのはロマン派の時代に生まれた、ロマン派の対義語としての古典派であり、当時の彼らは決して自分達を古典的だと認識していたわけではなかった。

時代の精神について

1. 啓蒙主義

・ルネサンス・バロック時代の頃から急激に高まった自然科学や数学の発見が引き金となって生まれた、思想上の新しい立場を啓蒙主義と呼ぶ。今や、ディドロやダランベールによる「百科全書」(1551-1572)全28巻のような知識の分類と、得られた知識に基づく人間社会の合理的な判断に基づいて考察されるより良い状態を求めての追求と、そのための社会改革が熱を持って語られ、それは政治体制だけでなく、教育や芸術の社会的寄与にまで及んだ。次第に特権階級の無意味な差別化や、それに基づく非論理的で迷妄満ちあふれた社会システムは、個人の権利を侵害するあまりにも時代遅れの産物に思われ初め、この思想の先に民族、民衆の力が加わったとき、アメリカ独立(1776)とフランス革命(1789)による既存システムの変換が行なわれた。その一方で、すぐれた君主の中には進んで啓蒙主義の精神を吸収し啓蒙主義君主と自ら旗を振って、芸術復興や施設建造、人道主義的立場に基づく社会改革などを行なうもの達も現れ、パフォーマンスであれ心の底からであれ、改革的政策を民衆に見せることが、国内を安定させる為の条件になっていった。平等な人間相互関係による相互扶助や普遍的な兄弟愛の精神は、新しい思想を生み出すと同時に、宗教的かつカルト的側面を合わせ持つフリーメイスンの大流行としても表われ、啓蒙思想家達や、各種芸術家だけでなくフリードリヒ2世やヴィーンのヨーゼフ2世のように、ついうっかりフリーメイソンの支持宣言を行なうものまで表われた。そしてアメリカ独立革命の活動家達や、フランス革命の立役者達もかなりの数がフリーメイスンだったのである。ちなみに日本では、大衆が無知蒙昧な上にSF大好きお化け大好きUFO大好きなのにつけ込んで、このフリーメイソンを不当にいかがわしいカルト組織としてだけ取り上げている一連の創作家達がいるので、これは放っておくようにしたい。

2.世界主義

・知識人も音楽家も、ヨーロッパ全体を一つの島のように徘徊し、どこでも通用する普遍的な思想なり音楽なりを導き出そうとする、国際主義的気運が高まった。世界主義cosmopolitanと云うと諸民族の垣根を取り払おうとする機運のように思えるが、実際はヨーロッパ圏が初めて1つのものとして自覚されるまでに各国間の距離が縮まった現象が一因にあった。(これは分化の緩い中世の場合とはまた異なる。)その一方で、かつて聖職者とその予備軍たる学生達の間に国々を越えたラテン語文化圏が形成されたように、科学的合理的思想と社会を理想的立場から見直そうとする啓蒙思想の浸透が、ヨーロッパ中の知的階級に共通の認識を抱かせ、ある種の世界市民のような感覚が生まれてきた。その世界市民に所属してさえいれば、異なる地域、異なる国、異なる都市で活躍することには何の障壁もないように思えたのである。こうしてロンドン、パリ、ヴィーンと云った大都市には様々な国々の芸術家が大根チェルトを奏で、各地芸術性の違いは異質な文化ではなく、ある種の地方性のようにさえ思われた。にもかかわらず、それぞれの地域性地方性や言語や国による芸術的性格の相違は、それぞれの地域の云ってみれば個人的な個性として、逆に誇らしげに認識され、美的価値観の違いや優劣論が花開いたのもこの時代である。

古典派の音楽について

 この古典派の音楽は、ある程度の知識を持った多数の一般市民に訴えかける性格を持った初めての音楽で、続くロマン派の時代にも変わらず使用され続ける基本的なオーケストレーション、それに基づく交響曲、名人芸に訴えると同時に豊かな音楽性を投入したソロ・コンチェルト、室内楽の定番スタイルである弦楽4重奏、多くの楽曲を築き上げるシステムとしてのソナータ形式、今日もっぱら演奏される馬鹿みたいにヴィブラートを掛けまくったオーケストラ総動員のオペラ、安定した和音変化にのせた効果的伴奏の上で旋律的歌謡曲を歌いまくるという意味では今日のポピュラー音楽まですっぽりと当てはまる近代的歌曲など、今日に至るまで連続的に使用され続ける多くの慣習が誕生し、様式化、形式化された時代だった。ただし一般的に云われる中産階級の台頭というのは、程度の問題である。都市が繁栄し、余剰資本をある程度中間階層の市民が獲得しうる状況は貿易などに賑わう都市では中世から存在し、ルネサンス期にはすでに中産階級と呼べる者達が楽器を習ったり、楽譜を購入したり、アマチュア演奏を楽しんだりしているし、逆にこの時期以降貴族達パトロネジが無くなった訳でもない。ただこの時期から、政治、文化、社会活動が次第に彼らを中心に回り始め、やがて上流階級の多数は実質的に中産化し、または社会・文化活動の中心を担う階級ではなくなり、さらに遅れて下層階級が次第に下等労働者から解放され、やはり中産化し、身分闘争が解消されていくのが20世紀までの流れである。つまり階級構成と比率の問題であるから、中産階級の時代と云っても、19世紀ヨーロッパのそれと、20世紀の大衆という言葉に代表される時代とは性質も文化に及ぼす影響も異なると考えられる。あるいは中産階級から大衆へと云っても構わないかも知れない。
 この時代、まだ多くの音楽家が宮廷や教会に勤め、パトロンから年金などを支給される事によって生計を立てていたが、18世紀後半になると、教会音楽はすっかり世俗音楽に打ちのめされてしまったし、資本主義とそれに乗じた上層市民、続く中産市民階層が次第に力を強めるに合わせて、かつての音楽家が活躍していたような世界では、多くの賃金が望めなくなってきた。一方、特にロンドンやパリと云ったいち早く市民達による巨大な音楽市場が生まれつつあった大都市では、公開演奏会や出版、市民に対する音楽教育などによって、パトロンに使えることなく自ら生計を立てることも可能で、音楽好きの市民を当て込んで小さなピアノ小品や、練習曲、オーケストラや弦楽4重奏のピアノ編曲などの出版で収入を獲得する道も、次第に広がりつつあった。楽譜出版もアマチュアを当て込んで、多くの楽譜に「専門家と愛好者のために」と記述が加えられ、沢山の音楽著作物が刊行され、愛好家向けの理論書が次々に生まれ、18世紀後半には初めて音楽史にも関心が向けられた。ハンブルクではマッテゾンによる音楽批評雑誌「クリティカ・ムジカ」がすでに1722年から25年の間に刊行されたし、彼の偉大な名著「完全な楽長」(1739)は楽長に必要な音楽的知識を一般聴衆のために書き記した。テーレマンに至っては、1728年ハンブルクで音楽に関心を持つ一般市民から予約を取り付けて「誠実な音楽教師」を刊行。「実際の音楽作品の載ったドイツで初めての刊行もの」として1週間おきに年間25回に渡って4ページほどの楽譜集を送り出した。そしてテーレマンの後を継いでハンブルクに遣ってきたCPE・バッハが出版する鍵盤楽器ソナータ集には、必ず「達人と愛好家のために」と書いてあるのを見て取ることが出来るわけだ。こうしていよいよ愛好家達のもたらす市場での活動が重要な意味を持ち始めたのである。
 公開演奏会ではパリでアンヌ・ダニカン・フィリドール(1681-1728)が1725年に開始した「コンセール・スピリテュエル」が連続演奏会の初期の例であり、これは一度中断されていたのをゴセックが登場して73年に復活させると、77年からオペラ歌手だったル・グローが指揮者となって革命期に再度中断するまで世俗音楽の殿堂と化した。また69年からはコンセール・デ・ザマチュール(つまりアマチュアのコンセール)も誕生し、開始当時から有名な演奏家の参加するオーケストラがスピリテュエルに対抗したが、81年からはコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックと名称を改め、2管編成の50人以上のオーケストラが互いに競い合った。一方ドイツで1763年にヨーハン・アーダム・ヒラー(1728-1804)がライプツィヒで開始した演奏会は、後のゲヴァントハウス演奏会の母体となり、他にもヴィーン、ベルリーン、ロンドンと各地の大都市は18世紀の間に同様な演奏会が次々に誕生していった。しかし、幼少から音楽趣味を鍛えられることあった貴族達ではなく「愛好者」たる一般市民の好みに合わせた為か、それとも行き過ぎた単純性が必要だったのか、前期古典派の交響曲などでは一耳聞いて「こんなの学生でも書けるんじゃないのか?」と呆れるほど素朴派の楽曲も数多く見られ、音楽史上めずらしい芸術的後退現象が見られるのもこの時期の出来事である。この古典派の時代を通じて、音楽家は不特定多数の市民達とその市場の中で生計を立てる社会的立場を獲得し、聴衆と向き合って勝負するという今日に続く市場原理に属する存在として、次第に一人歩きを始めて行く。こうした新しい階級の成長は音楽に限らずあらゆる所に見られ、学問への関心や芸術に対する情熱は、数多くの著作物と新しい芸術家を生み出す動力となった。ただし、これらは時間を掛けて次第に変化していったので、場所によってテンポも異なり、単純化しすぎない方が良いことはもちろんである。19世紀の間は特に、旧来の王侯貴族などのパトロンとしての力は大きいものであり、ヨーロッパは今日でもお優し民族のような延べたんな無階級社会ではない。(正確には、全員一丸となってスーツを着て電車に乗り込むほど端から見て寒い国民はジャパニーズしか居ないのだそうだ。)

古典派の様式

 古典派の音楽への新しい潮流は18世紀前半まずガラン(仏galant)(ギャラント)という言葉が新時代の新しい音楽書法と結びつき自覚的に使用され出した時には、すでに流れ始めていた。この言葉は初めカンプラのオペラバレ「粋なヨーロッパ(仏)(L'Europe galante)」(1697)のようにルイ14世治下も後期になってパリが次第に流行をリードし始める新しい空気の当世風の芸術を表す言葉としてよく使用されるようになったが、18世紀になると次第にペルゴレーシの音楽に見られるような、かつてのように旋律を邪魔して出しゃばらない低音ラインと和弦的に進行する伴奏に乗せて、明確なフレーズを持ったなめらかな旋律線を持った音楽を奏でる新しい様式に進んで用いられるようになり、(仏)スティール・ガラン(艶美様式、ギャラント様式)として認識されるようになった。教科書によるとこの様式の初期の例は、レオナルド・ヴィンチ(c1696-1730)やレオナルド・レーオ(1694-1744)、そして何よりもペルゴレーシの中に見られ、ハッセのオペラや、ガルッピの鍵盤楽器、そしてサンマルティーニの室内楽曲に繋がっていったそうである。
 当時の音楽家達が自覚的に使用した言葉としては、他にエンプフィンザームカイトEmpfindsamkeit(独、多感様式)という言葉がある。これはもっぱらドイツの作曲家達の間で話題になった言葉で、彼らは当時のイタリア人作曲家の新しい音楽の中に、ある種の感傷性、多感な物思いを現わしたような幾分メランコリックな性格を現わしたり、幾分悲劇じみた旋律を次々に現すような性質を見いだし、そのような旋律に基づいて急激な方向転換や、リズム変化、半音階技法で強調するような音楽を作曲し、エンプフィントザームカイトだと呟(つぶや)いてみた。教科書ではペルゴレーシの「母は悲しみに(スターバト・マーテル)」やグラウンの「イエスの死」、さらにスティール・ガランと結びついたカール・フィーリプ・エマーヌエル・バッハの鍵盤ソナータに見られるというが、この言葉と関わりのないところで作曲した作品について多感主義のレッテルを貼る必要性は必ずしもない。なお、文学における疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)の運動をドイツの一部の音楽に当てはめたり、ある作曲家に一時期短調で作曲された時期があるのは疾風怒濤様式なのだという定義をする人もいるが、当てはめる必然性が薄いように思えてならない。この時期ドイツでは、ヴィンケルマン(1717-1768)の著作物などの影響から古典古代の均整を重視する古典主義の思想が起こり、一方の多感主義、疾風怒濤などの思想と火花を散らしていたが、つまり古典派時代、ロマン派時代の精神は、共に啓蒙主義とそれに対する反発や古典古代発見からほとんど同時期に登場したものだ。このように見ると、ETAホフマンがベートーヴェンをロマン派と見なしたのが、非常に理解しやすくなってくるだろう。

前期古典派

 最後に初期古典派音楽を推進した各地のグループを名称だけ掲載して、あとは興味のある人に任せることにしよう。すなわち、ヴィーン前古典派、マンハイム楽派、イタリア前古典派、フランスのシンフォニスト達、ボヘミア楽派など。

新しい作曲法

 実際は18世紀後半の音楽に対する著述を見ると、むしろ様式よりも感性の問題を取り上げていたことが分かる。古典派時代の彼らにとって形式は既存のものと言うより、絶えず発展を遂げる可能性を秘めた楽曲を形成するためのプロセスであるように思われた。ソナータ形式やコンチェルトの形式など、かえってロマン派時代の方がはっきり型の定まった既存の形式に対して、非常に高い関心を払っていたので、おそらく古典派の時代それらの形式は場合によっては変更可能な手続き(プロセス)に過ぎなかったものが、ロマン派の時代に入ってある種の決まり事に変化したのだろう。もちろんこれはロマン派の作曲家が常に決まり事に従って作曲したという意味ではない、むしろ変更を加える場合に既存の決まり事が明確に意識されていると云う意味において、既存の形式に高い関心を払っているのである。
 いずれ、次第に新しい作曲方法が生まれていった。バロック時代の誕生が特定の旋律を際だたせる方法、言葉のデクラメーションに適った直接的なメロディーを作曲しうる方法としてモノディ様式を生み出したように、今度は言葉のまとまりである文章の主語と述語といった配置のように、例えば前楽節と後楽節のような均質でありまとまった一つの単位として楽曲構成単位が把握され、それらが繋ぎ合わさることで全体が構成されるような考え方が優勢になってきた。ヨハン・ニコラウス・フォルケルは「一般音楽史」(1788-1801)の中で

「演説で命題、それを支える副命題、命題の分析、証明や懐疑などを構成してすぐれた意見を提示するのと同じように、音楽においても音楽の個々の部分を配置する美的構成があって、可能な限り諸部分を支え合い強め合うように構成された音楽が、よく構成された音楽だ。」

のような事を述べているし、修辞学原理に基づいた旋律作曲の手引きを書いたハインリヒ・クリストフ・コッホ(1749-1816)の「作曲入門試論」(1787)の中には

「短い旋律的楽想である節同士を繋ぎ前後関係を築くことで楽句を形成し、楽句を繋ぎ楽節を形成し、それらを精神の休止点で結ぶ」

といった旋律の作曲方法が述べられ、我々の感情を動かす為にはこのような作曲で、文章構成が思考に結びつき意味を理解するように、初めて旋律が理解できるのだとまとめている。文章のようにという考えはもちろん音楽の変化の中から後で生み出された概念だが、性急に次々に移り変わるバロック的和声から、まるで文章が主語から形容詞へ、形容詞から述語へ変化するのに対応したかのように、メロディーのフレージングに合わせて色彩を変化させる和声付けが一般的になっていった。こうした潮流は例えば、フランスでロココのココロが優雅なクラヴサン曲を大量生産していた頃、すでにイタリアの鍵盤楽器の作曲に見て取ることが出来る。流行を開始したオペラ・ブッファの影響もあり完全に和声を支えるバスと内声に乗せて、上声が自由に旋律を奏でるこれらの楽曲は、ドメーニコ・スカルラッティ(1685-1757)、バルダッサーレ・ガルッピ(1705-85)、ドメーニコ・アルベルティ(c1710-40)らによって開拓されていった。特に分散和音型伴奏音型バスがアルベルティ・バスと呼ばれるように、彼らは古典派ソナータでよく見られるような数多くの伴奏型音型の上にのせてメロディーラインを際だたせ、もはや旋律線はバス旋律との絡み合いに縛られず、自由に旋律を歌うことが出来た。大楽曲の調性パターンなども次第に様式化していくが、古典派以降の楽曲は、なじみ深いので、ここでこれ以上書き記すよりは、実際に解析して形式を眺めてみるのが一番良い。

喜劇的なオペラ

初期のイタリア喜歌劇

・ギリシア劇が悲劇と喜劇に分かれていたことから、ルネサンス期に芸術的喜劇の台本を書き上げる知識人が登場し、イタリアでは君主論でお馴染みのマキアヴェリが「マンドラーゴラ」(c1518)を、ピエートロ・アレティーノ(1492-1556)が「娼婦」(1525)、「馬医マレスカルコ」(1533)などを喜劇作品として書き上げたが、こうした芸術的喜劇の復興が始まり、やがて16世紀終わりのシェイクスピアや、17世紀のモリーエルなどイギリスやフランスなどですぐれた喜劇作品が生み出されていった。一方、洗練された喜劇とは別に、中世以来各宮廷を渡り歩いて出し物を催す数多くの旅の一座があり、古くはジョングルール達の姿が見られるが、その中には即興的なせりふ劇や、パントマイム劇なども含まれていた。ドイツのジングシュピールもこうした渡り歩く興行主によって行なわれていた歌と台詞の劇が、18世紀にもなってからようやく芸術的作品に発展していった物だが、特にイタリアのコンメディア・デッラルテの喜劇的な要素は、オペラの中にいち早く取り入れられた点で重要である。
・コンメディア(喜劇)にデル・アルテ(dell'arte)「同業者組合」の付いた「コンメディア・デッラルテ」は、おそらく各地を渡り歩きながら曲芸やパントマイム、即興的劇を演じるイタリアの旅芸人達が同業者組合を形成し、本来がアウトロー的立場にあった自分達を社会的立場の中に組み込んだときに誕生し、16世紀前半には組合が形成されて居たらしい。組織化された事によって各地方の旅芸人のお気に入りキャラクター達が、決まった性格を持つ各役柄(ストック・キャラクター)化して、例えば道化役のアルレッキーノ、プルチネッラや、老人役パンタローネ、軍人カピターノに、知識人ドットーレと言ったように名前が同時に役柄と性格を表わし、このような決まった役柄は仮面(マスケラ)を付けて演じられるが、仮面を付けない登場人物も織り交ぜて出し物が進行していく。こうした典型的な人間パターンが喜劇を繰り広げるわかりやすくて心底楽しいプロットは、コンメディア・デッラルテがフランスなど各国に巡業を行なった事もあり、地元のイタリアはもとより各国の喜劇ジャンルに大きな影響を及ぼした。
・このような土台が有った上にオペラというジャンルが登場してきたものだから、喜劇的なオペラ自体はバロック時代前半からすでに模索されていたのである。ジューリオ・ロスピリオージ(1600-69)台本マツォッキ作曲の「悩める者は希望を持つのです」(1639)、アントーニオ・マリーア・アバッティーニ(1609/10-c78)のオペラ「災い転じて福となす(・・・略して、わざころ)」(1653)などはそうした喜劇の内容を持つオペラだったが、喜劇的なオペラはやがてオペラ・ブッファ(ふざけたオペラ)と呼ばれるようになっていった。一方でシリアス歌劇の幕間に余興的に小さな喜劇を挿入する方法も行なわれるようになり、これはインテルメッゾと呼ばれるようになった。
・特にナポリでは、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)が唯一の喜劇オペラ「名誉の勝利」(1718)を作曲し、これがナポリ方言による喜劇オペラをオペラ劇場での出し物として定着させるきっかけになったが、彼は同時に2つのオペラでインテルメッゾを作曲している。彼の亡き後もナポリ楽派の重要な作曲者の一人として活躍を続けたレオナルド・ヴィンチ(c1660or1669-1730)は、スカルラッティの後を受けてナポリ方言による喜劇を作曲、同時にシリアスなオペラを多数作曲し、チャールズ・バーニが「音楽通史」(1787)の中で、「フーガや複雑な作曲方法から旋律を解きほぐすことによって、メロディーラインに人々の注意を向けさせた」といった趣旨のことを述べているように、新しい音楽書法の旗手として認められていた。そして新しい音楽書法をもっとも人々に印象付けたのは、彼の弟子であったジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレーシ(1710-36)である。
・ペルゴレーシがシリアスなオペラ(オペラ・セーリア)「誇り高い捕らわれ人」(イル・プリジョニエール・スペルボ)の幕間劇として作曲したインテルメッゾ「奥様になった小間使い(女中奥様)(ラ・セルヴァ・パドローナ)」(1733)は2幕ものの喜劇で、コンメディア・デッラルテの精神がふんだんに取り込まれ、小賢しく立ち振る舞うソプラノの女中と知性おぼつかないバスの金持ち商人だけが歌を歌う小降りの作品だが、これが幕間劇としてイタリア標準語で書かれていた事と、後に1752年フランスで上演されたとき大論争を巻き起こした為に、後のイタリア喜歌劇であるオペラ・ブッファの最初の作品だとさえ見なされるようになってしまった。ただし18世紀的なオペラブッファのルーツがインテルメッゾが独立して上演されるようになって誕生したのか、ナポリ喜劇が方言を止めて誕生したのかは、よく調べてみる必要がある。とにかく誕生した喜劇的ジャンルは正統なオペラであるオペラ・セーリアが18世紀に入って大分形式化を強めてきたのに対して、楽しくて軽い取るに足らないものと思われる傾向があったために、逆に作曲家達が新しい音楽スタイルを試みてギャラントスタイルなどを生み出すための格好の実験場になった。しかも、喜劇的ジャンルは宮廷人や貴族などの意向に縛られること無く、それぞれの国々にあった、オペラではない普通の喜劇や笑劇を音楽劇に仕立て直す形で、自然に発展し新興市民階級に直接受け入れられる要素を持っていたから、邪魔されることなく次の世代の音楽を生み出していった(?)。喜劇的オペラと、悲劇オペラは受け入れられる社会階層に違いも見られ、複雑に絡み合いながらバロック時代から古典派のオペラに移行していくのである。

イタリア

・18世紀中頃になると「喜劇のメタスタージオ」と噂される喜劇作家のカルロ・ゴルドーニ(1709-93)が現れ、コンメディア・デッラルテ調の人物像をさらに人間味豊かに描くと同時に、中心線にシリアスな物語を交えその周囲を喜劇で飾り立てた一層芸術的な喜歌劇の台本を提供し始めた。バルダッサーレ・ガルッピ(1706-85)はゴルドーニ台本の幾つかの喜劇を残し、オペラ・セーリアのカストラートやソプラノを中心としたアリアとは異なる、例えばバスやテーノルを十全に使用したアリアを使用し声楽の可能性を高め、同時にカストラートを遠ざけ、声域の違いによるコントラストを持った掛け合いを行なうなど様々な実験を自由に行ない、ダ・カーポ・アリアのような3部形式よりも、2部形式のアリアを好み、多数の会話の部分では多人数の掛け合いによる歌を好んで取り入れた。バスアリアとしては、道化役の歌い手がバスを担当するという、バッソ・ブッフォ(道化役のバス)の遣り方が、セーリアで忘れ去られていたバスの価値を再発見したし、同時に器楽だけのアンサンブルが注目されるようになると、次第に愛し合うカップルの叙情的ストーリーとコメディーの2重設定によるオペラへの道を歩み始め、貴族趣味漲るオペラ・セーリアに対して、より民衆的なオペラ・ブッファという構図を生み出したのだ。こうして生まれた新しいタイプの喜劇は時にドランマ・ジョコーソ([ふざけているわけではないが]滑稽な劇)と呼ばれ、例えばゴルドーニ台本によるニッコロ・ピッチンニ(1728-1800)の「ラ・チェッキーナ(おしゃべり娘)、あるいは良い娘」(1760)や、ボマルシェの戯曲から取られたジョヴァンニ・パイジェッロ(1740-1816)の「セビーリャの理髪師」(1782)、ドメーニコ・チマローザ(1749-1801)の「秘密の結婚」(1792)などが作曲されていった。特にガルッピとニコーラ・ログロシーノ(1698-c1765)が好んで使用した重唱フィナーレでは、幕の終わりに登場人物が次々に現れ、クライマックスで全員の重唱に達するというモーツァルトの「フィガロの結婚」に通じる大楽章形式の誕生が見て取れる。このようなイタリア喜劇はパイジェッロの台本を元に脚色をして送り出されたロッシーニの「セビリャの理髪師」(1816)によって19世紀イタリアオペラの中に引き継がれていった。

フランス

・フランス語による軽い喜劇に音楽を付けて楽しむ事は18世紀初頭に行なわれるようになった。民衆的歌謡曲だったヴォドヴィルによる音楽を持ち込んで、対話とヴォドヴィルの交代によるオペラ・コミークを誕生させ、それらを楽しんだのはイギリスのバラッド・オペラ同様、重厚なオペラに明け暮れる王侯貴族達ではなく、パリに誕生しつつある有産の市民階級だった。このジャンルが芸術的高みにうっかり登ってしまったのは、1752年にペルゴレーシの「女中奥様」がパリで上演された時に、軽快なイタリアの喜劇的オペラとあまりにも重厚ぶったフランスオペラの優劣論であるブフォン論争が沸き起こり、「女中奥様」が喜劇的作品だったために、オペラ・コミークに注目が向けられた為である。実際にはイタリアのオペラ・セーリアとフランスのトラジェディ・リリックを対比させなければ辻褄が合わないし、元々の「女中奥様」はインテルメッゾだったからオペラ・ブッファではなかったのだが、当時の議論は異なるジャンルを対比させて無頓着に進行し、その結果変化を被ったのは、パリ市民達にあまりなじみのない「トラジェディ・リリック」ではなく、パリで流行していたオペラ・コミークだった。やがて台本作家のシャルル・シモン・ファヴァール(1710-92)がコミークの台本をより芸術的歌にふさわしい詩で送り出すと、民衆的旋律ヴォドヴィルの音楽がフランスとイタリアの混合様式によるアリエットに変えられてコメディ・メレ・ダリエット(アリエット付きの喜劇)として送り出されていくことになった。ジャン=ジャック=ルソ(1712-78)は「フランス語はそのままでは歌唱に不可能な言語だ」と叫び声を上げながら、修飾を廃した控えめなフランス語のオペラ「村の予言者」(1752)を取り入れ、対話の部分さえレチタティーヴォで繋ぎ合わせてみた。アントワーヌ・ドーヴェルニュ(1713-97)はもっぱら重厚オペラの作曲をしていたが、オペラコミークの作品として「交換する人たち」(1753)を作曲し、台本はイタリア・オペラから翻訳したのだと偽ってハクを付けて自作を送り出した。やがてファヴァールの台本を元にイタリア人のエジディオ・ドゥニ(1708-75)やオーストリア人のグルックなど外国人もコミック・オペラに功績を残すようになっていく。ファヴァールはブフォン論争以降イタリア語の作品を翻訳しフランス語に変え、これに多くの作曲家が音楽を書き上げたが、そこには同時にフランス重厚オペラをからかい、批判する態度も見られたのである。ここでは代表的作曲家だけ表わしておくことにしよう。

フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール(1726-95)
・開けっぴろげ音楽満載のイギリス小説に基づく台本による「トム・ジョンズ」(1765)よりも、チェスプレーヤーとして有名だった。
ピエール=アレクサンドル・モンシニ(1729-1817)
アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ(1741-1813)
・ルソの弟子として言葉と音楽の関係を理論付け、単純様式に還元して見せたグレトリの「獅子心王リシャール(つまりリチャード)」(1784)は世紀変わり目頃盛んになる一連の「救出オペラ」の先頭を切った。

イギリス

・ゲイが民衆の歌バラッドを使用してイタリア物オペラを皮肉った喜劇的オペラ「乞食オペラ」(1728)を送り出してから、バラド・オペラは人気を高めた。こうしたバラッド使用のオペラとしてはトマス・オーガスティン・アーン(1710-78)の「村の恋」(1762)などが、すぐれたバラッドの編曲を行なっているが、結局イギリスをリードする有産市民階級は貴族的精神への追随を好み、外国芸術を好むスノビズム(ひけらかし主義)も一因となって、イギリスのコミック的オペラは新しい市民階級から支持を得て飛翔する事無く、芸術的ジャンルに発展せずに終わってしまったそうだ。

ドイツ

・真にドイツ的といえる様式を獲得したドイツオペラは生まれなかったが、一方喜劇ジャンルがオペラ化するための土壌は豊富にあった。道化芝居や、ファウスト喜劇上演などの旅の一座は、コンメディア・デッラルテ的な活躍を見せていたし、その中には出し物芝居に歌の付けられたジングシュピールも16世紀からすでに存在していた。各国の喜劇的民衆的オペラの誕生に触発されて、歌と台詞によるジングシュピールが次第に芸術的ジャンルに成長した。やがて1743年にイギリスバラッド・オペラ「悪魔は放たれた」のドイツ語訳上演が成功したのを見て取ったヨーハン・アーダム・ヒラー(1728-1804)が、自らの作曲で「悪魔は放たれた」をドイツ語上演した時、この新しいジングシュピールは大流行を見せ始めた。面白いことにこうしたジングシュピールの曲は、必ずしも民衆の歌から取られた訳ではなかったが、後に民謡として定着してしまったそうだ。こうしてドイツ北方で始まったジングシュピールの流行熱は18世紀半ばにヴィーンなどの南にも伝播し、ヴィーンではカール・ディタース・フォン・ディタースドルフ(1939-99)の「医者と薬剤師」(1786)のようにイタリア喜歌劇に影響された音楽が付けられた。こうして18世紀後半には北も南もジングシュピールの春を迎えることになったが、シカネーダーとモーツァルトの「魔笛」はその最良の作品だ。ドイツ語によるイタリア型の喜劇的オペラも模索され、モーツァルトの「後宮からの誘拐」(1782)はその最初の傑作だが、シリアスな題材を扱ったドイツ語オペラも18世紀後半になると次第に数を増やしていった。

そのほかの国々

・スペインでは独自のオペラコミックであるサルスエラが誕生した途端にイタリア趣味が大流行を見せ、偉大なスペインの作曲家であるマルティン・イ・ソレル(1754-1806)までこれに追随したので、サルスエラはすっかり廃れてしまった。
・一方ロシアでは、イェフスチゲニィ・イパトヴィッチ・フォミン(1761-1800)の短い活躍の後、ヴェネツィアから遣ってきたカヴォスとロシア人であるダヴィドフがグリンカに始まるロシア・オペラの基礎を生み出していた。

オペラ・セーリア

・こうして18世紀に入るつ、喜劇オペラの隆盛が始まり、次第に6人以上の歌い手を持つ本格的な長さの作品を指すようになり、他の国ので生まれてきた喜劇的な歌劇が、歌と台詞(対話)を交えて劇を進行させるのに対して、全体が通して歌われる十全なオペラとなっていった。
・一方こうした新しい音楽が人々に認知され始める頃、伝統的なシリアスオペラは、もっぱらオペラ・セーリア(重厚なオペラ)と呼ばれる完成された標準型を獲得した。イタリアの詩人ピエートロ・メタスタージオ(1698-1782)が、喜劇的場面を排除し、重々しい題材を扱ったイタリア語の台本を提供し、それが進んで人々からスタンダードと見なされるようになったためである。その上メタスタージオは1729年にアポストロ・ゼーノの後任としてヴィーン宮廷詩人の役に抜擢されたため、彼の方法は、イタリアシリアスオペラ伝統の中心地であるイタリアと南ドイツ両方で影響力を行使する事になった。はたして時代に乗ったのか、それとも時代を牽引したのか分からないが、彼の台本の詩は、多くが3幕もので叙唱とアリアの交代が果てしなく続いて進行し、特に2節からなるアリアの詩は、ナポリ派の間で完成したダ・カーポ・アリアに見事に一致したもので、彼の台本を通じてこのアリア型はより一層グローバルスタンダードに定着していった。こうして劇の筋書きはチェンバロと通奏低音楽器伴奏によるレチタティーヴォ・センプリチェ(単純な叙唱)が担い、特に重要な場面では声とオーケストラの交代を使用したレチタティーヴォ・オップリガート([伴奏の]義務づけられた叙唱)が効果的に使われるが、登場人物のその時の情感を表わすダ・カーポ・アリアこそがオペラの聞かせ所で、観客の目的はもっぱらダ・カーポ・アリアにおけるお気に入りの歌手の歌を聴くことだったから、歌手達とりわけカストラートとソプラノ歌手達は詩人や作曲家に勝手な要求を加え、ダ・カーポ・アリアの前半歌詞を繰り返すダ・カーポの後では超絶技巧修飾を存分に加えてアリアの情緒を技巧で覆い隠した。彼らは自分たちのお気に入りの歌を、台本と関係なくオペラに入れるよう作曲家に迫りさえしたのである。
 こうした超絶技巧はヴィヴァルディ一味を叩きのめそうと計画されたベネディット・マルチェッロの「流行の劇場」(イル・テアートロ・アッラ・モーダ)に余すところなく描かれているが、作曲家達は後半の肥大に対してダル・セーニョ記号を使用して冒頭器楽部分を繰り返さない方法や、繰り返し部分を短縮するなどしてアリアの重心を保とうと苦心した。しかしメタスタージオの影響力が非常に強かったこともあり、ダ・カーポ・アリアを駆使したオペラ・セーリアの完成型は栄華を極め、イタリア人ソプラノ歌手のファウスティーナ・ボルドーニと結婚してナポリオペラにのめり込んだドイツ人ヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1783)は、オペラ・セーリアの巨匠として君臨し、後にドレースデンはザクセン選帝候宮廷の音楽・オペラ監督としてヴィーンのメタスタージオと手を取り合う時の人となった。彼が初めてドレースデンのために書いたオペラ「クレオフィーデ」(1731)を見物しにバッハが息子のフリーデマンとライプツィヒから遣ってきたことはよく知られている。また、イタリア人のニッコロ・ヨンメッリ(1714-74)は当時最大のイタリア人作曲家とされ、数多くの写本が流布しイタリア語声楽曲集の中には彼のアリアが溢れていたが、しかしヨンメッリの活躍の後半には、彼の音楽自体が相当変化した新しいスタイルを見て取ることが出来る。世紀の初め単一の情感を表わしていたアリアは、次第に多様な音楽的素材を用いて気分の変化を表わすようになり、ギャラントスタイルは旋律を周期的なフレージングに変化させ、次第に和声の変化速度はフレーズに寄り添って穏やかに推移するように成っていき、同時にソナータやコンチェルトなどの構成技法が取り入れられていくのだが、こうした出来事は18世紀を通じて次第次第に変化していった。そうした段階はナポリ人であるジアン・フランチェスコ・デ・マーヨ(1732-70)の作品や、モーツァルトの初期のオペラ・セーリア「ルーチョ・シッラ」(1772)、さらにクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-87)の初期の作品群を通じて見て取ることが出来るそうだ。

オペラ改革

 グルックがパリ上演に合わせて「アルチェルテ」などを大きく改訂したのを引き合いに出すまでもなく、オペラ作曲家達にとって観客の関心を得られるかどうかは作曲家生命に直結する重大事であったから、聴衆の欲求をまるで離れた改革というものは存在しなかった。特にオペラ・セーリアはまず宮廷人や大富豪達の社交上の嗜みであったこともあって、議論ほどに急激な改革は起こらなかったが、18世紀を通じて完成されたレチタティーヴォとダ・カーポ・アリアのパターンが通奏低音技法と共に崩壊していくのは、究極的には新しい価値観を持った新しい聴衆や後援者の後ろ盾があったおかげだった。作曲家が自ら改革を大宣言する場合でも、もちろんそれを受け入れてくれるであろう聴衆を当て込んでのことである。これはオペラというものが多額の資金を必要とし相当数の関係者によって初めて上演可能になるという当たり前の事情にもよっていた。バロック後期になってオペラが宮廷内だけの出し物ではなくなると、ますます興行主などの意向は重大な重みを持ち、こうした関係者の一部が改革を受け入れる価値観を持っていなければ、そもそも上演など出来なかっただろう。逆を返せば、だからこそグルックは君主の意向が強く上演を左右できるヴィーンなどでこそ改革的オペラを上演し、パリでは聴衆の好みと妥協しなければならなかったのかもしれない。

 イタリアのシリアスオペラを新しい価値観から批判してストーリーの重視と虚飾性の排除を唱えたのは哲学者のフランチェスコ・アルガロッティ(1712-64)である。後にグルックと台本作者のカルツァビージが「アルチェステ」(1769)の献辞でトスカーナ大公レオポルトに向かって(と同時に音楽界に向かって)自信満々に述べている改革の精神

 「歌手の専横と、作曲者の従者のごとき服従により、表面上の虚飾に満ちあふれたオペラを正しくするために、表現と筋書きを邪魔する長いコロラトゥーラや、母音の所で修飾のためだけに楽曲を止めて歌ったり、対話の最中に器楽のリトルネッロを挟んで会話の進行を邪魔したり、ダ・カーポ・アリアで歌手の技巧を繰り広げるためだけに同じ部分を律儀に繰り返えすといった弊害を廃止し、物語の筋書きに沿って、適切な作曲を行なうこと」

これは、すでにアルガロッティが1755年に出版した「オペラ論」の中に事細かに記載されていた。それだけでなく彼は、題材は古典的主題を扱うべきで、レチタティーヴォはオーケストラ伴奏の物を使用し、オーケストラの役割を全般的に高めるべきだと話を進め、劇場建築の音響についても無駄な建築修飾を無くし、劇場の内側を薄い板で覆い、客席は半楕円型にしなければならないなどと詳細に検討している。この出版物は広く翻訳され各地に出回って、おそらくグルックが自分の言葉らしく意気揚々と献辞に採用するきっかけとなったが、この精神は当時すでに流行に成りつつあった新古典主義の考え方、肥大したバロック的な虚飾を切り捨て形式美を獲得する精神と同一の方向性を示している。

新古典主義

・18世紀前半からイタリアで眠れる古代遺跡の発掘が相次ぎ、1748年にはポンペイの発掘が開始さるころ、啓蒙主義の波をかぶった知識人の間で、古代に対する情熱が再び燃え上がった。特にドイツ人の美術史の権威ヴィンケルマン(1717-1768)がアルガロッティの「オペラ論」出版と同じ年に初めてのローマ旅行に出かけ、高貴な精神とある種の平穏を古代の美として提示すると、ルネサンス期以来再び古典古代に対する関心が高まり、静的均衡を保った安定した均質な様式美を目指す新古典主義運動(Neo-Classicism)が沸き上がり、各国に影響を及ぼした。ヴィンケルマンは『ギリシャ芸術模倣論』(1755)と『古代美術史』(1764)を著述し、理想的にして完全なる美は古典古代の内に存在するのだと高らかに述べ、これは以前のバロック的、さらにフランスとその影響を被(かぶ)ったドイツに置いてはロココ的精神に対する批判であると共に、同時期にドイツ国内で盛んだったロマン派にも繋がる文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」に対する批判でもあった。この「シュトルム・ウント・ドラング」運動はヘルダーやクロプシュトックらが啓蒙思想の合理主義や理性万能に対して起こった、感情と理性で割り切れない魂の力を強調した一種の反合理主義運動で、クリンガーの戯曲「疾風怒濤」(1776)が元になって「シュトルム・ウント・ドラング」と命名されたが、こうして実際は啓蒙主義が生み出したともいえる均衡を重んじる古典主義と、反作用として理性を越えた個人の魂の雄大さ激性などを重視するロマン派的な思想と芸術運動は、以後現代に至るまで時代や場所における流行によって絶えず比重が変化しながら、大きな流れとしては2本立ての柱のように西洋芸術や文学などを規定し続けることになる。もっとも社会的公的立場が強いときには形式的な作品傾向が強まり、社会が安定して個人の精神にばかりターゲットが向かうときには精神を押し出した作品傾向が強まるのは、古今東西関わらず芸術に見られる現象でもあるようだ。

トラエッタ

・アルガロッティは実際に新古典主義精神に基づくモデル台本も作り、フランス悲劇がこれに適うと考えフランス語によって「アルリスのイフィゲニア」を書き上げ、その際再び合唱と舞踏を劇の中に取り入れ、人物の心の変遷を理に適った方法で表わしてみた。この台本は劇としては上演されなかったらしいが、トンマーゾ・トラエッタ(1727-79)はこうした新しい思想を受けて、フランス語台本の翻訳によるオペラ「イッポーリトとアリーチア」(1759)を上演し、フランスのトラジェディ・リリックとイタリアのオペラ・セーリアの調和を志し、また作品内にバレエなどを取り込んで見せた。またニッコロ・ヨンメッリ(1714-74)も1753年以降シュトゥットガルト宮廷に滞在し、筋書きの見直しや合唱採用、レチタティーヴォ・セッコの廃止など新しいオペラを送り出し始めた。18世紀半ばを過ぎて、新しい作曲態度は次第に広まりつつあった。こうした段階を得て、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-87)の改革的オペラが登場する。

グルックの改革(一部確認のないまま妄想的な部分有り)

・バイエルンで生まれボローニャでサンマルティーニに学び、己惚(おのぼ)れアリアの旋律美よりもむしろオーケストラの扱いに長けていたグルックは、その後ロンドン、ドイツ国内、パリを巡り、パリでオペラ・コミークがフランス語のデクラメーションに合った遣り方で進化を遂げる様を見て、新しい息吹を感じ、ヴィーンのカール6世の宮廷作曲家としてフランスオペラとイタリアオペラの統合によるオペラ・セーリアの改革に乗り出し、一躍時の人となった。幸い彼の周りには詩人のラニエーロ・デ・カルツァビージ(1714-95)やヴィーン宮廷劇場支配人のドゥラッツォ伯爵など新しい思想を共有する仲間がいた。こうして彼はまず1755年に「明かされた無実」で筋書きの簡素化と、ダ・カーポ・アリアの廃止や合唱の採用などで改革を実践し、1762年のフェスタ・テアトラーレ(宮廷の大祝祭的出し物)「オルフェーオとエウリディーチェ」で反メタスタージオの秘策をフランス伝統から引き出したカルツァビージに導かれながら、修飾を悉(ことごと)く排除し言葉のデクラメーションに従った作品を生み出したが、もちろんグルック自身の改革的フランスオペラ・コミークへの共感も根底にあった。そしてカルツァビージが起草した可能性の高い宣誓が付け加えられた1767年の「アルチェステ」が登場するが、ここでは筋書きと組織的な合唱の使用やオーケストラの使用方法に置いて、当時のオペラ・セーリアはおろか自分の作品群も突き抜けて新古典主義的オペラを仕立て上げてしまったそうだ。この改革にはウィーンのオペラ事情が大きく関わっていた。ここではオペラは皇帝、そして皇帝に密着した貴族達のために何よりも存在したために、多様な趣味が渦巻く市場の反応に訴えることなく、皇帝や皇帝取り持ちの了承を得ることが出来れば、妥協のない理念を具現化することが可能だったからである。この時期のウィーンは皇帝自らが改革と啓蒙の旗手であると自覚する啓蒙主義君主の思想もあり、若手貴族達の新しい芸術への関心もあり、非常にユニークなオペラ上演中心地の一つを担っていた。だからこそ、グルックはウィーンでは改革的オペラを上演できたのだが、一方パリに行った時には当地の市場に合わせて大幅に妥協を行なう必要があったし、このウィーンに置いてもグルックの実験は例外的に認められていた様子で、直ちに追随するものがどこにも居ないのは逆にもっともな話だった。

パリ論争第3ラウンド

・18世紀を通じてオペラ論争華やぐパリでは、すでにリュリ伝統対ラモの新オペラ、イタリア喜劇オペラ対フランス叙情悲劇オペラと2ラウンドばかり壮大な激論を繰り広げていたが、改革を自認するグルックがいよいよパリに乗り込むことによって、ついに第3ラウンドが切って落とされた。彼はまずマリ・アントワネットのお口添えを頂いてパリオペラ座での上演を認められると、不快感を表わす支配人ドーヴェルニュの要求に従い6曲のフランス語オペラを書き上げることになった。その第1番目が1774年の「アウリスのイフィジェニ」でこれは大成功を治め、続いて初演の時よりは大分改革の手を緩めた改訂版のフランス語による「オルフェオとエウリティーチェ」(1774)、「アルチェステ」(1776)を上演させパリに論争を引き起こして見せた。たちまちフランス伝統オペラ擁護とイタリアオペラ至上主義のグループがこれに大反発して奇声を張り上げ、イタリアオペラを学習しておきながら、筋書きを優先させアリアを駄目にしたグルックは怪しからんという怒りが、ついに対抗馬を生み出し、1776年末に遣ってきたニッコロ・ピッチンニ(1728-1800)がイタリア音楽派に無理矢理担ぎ出されてしまったのだ。このどんちゃん騒ぎは毎度の事ながらたいした意味合いをもたず、ピッチンニもグルックも共に成功を収めたとしか言いようがない。グルックのオペラは確かに改革的だったかもしれないが、これはパリ上演に合わせて幾分ぼやけてしまったし、つまり改革的な物も旧態依然たる物も無頓着にパリのオペラ界を賑わせ続け、グルックの君臨するオペラ座ではシリアスオペラの音楽スタイルと上演スタイルが若干変化したぐらいの出来事だった。オペラコミックは彼に影響を与えたことはあっても、彼とは関係なく自力で発展を続けていたし、旧態依然の伝統に乗っ取った作品も平然とのさばっていた。しかし、オーケストラと声のより対等的な関係やすべてのアリアや合唱をストーリーに乗っ取って配置する総合的に完成された作曲態度は、それを理解する次の世代の作曲家達によって受け継がれ、フランスではルイージ・ケルビーニ(1760-1842)ガスパロ・スポンティーニ(1803-69)を越えてエクトル・ベルリオーズ(1803-69)に繋がっていくなど、結局の所古典派を越えてロマン派的北方オペラの重要な出発点になったと云う。何のことはない、その頃になってから始めてオペラ改革を成し遂げたグルックという見方が定着したのである。

その後のオペラ

イタリア

・フランス軍に蹂躙され革命の波を被ったあげくナポレオン転落後には嘗ての支配者がゆとりを持って帰ってきたイタリアだが、その間も替わることなくイタリアオペラは継続され、合唱の使用やオーケストラの使用など随時改革は伴いながら、バロック時代からロマン派に至るまで連続的にオペラを上演していた。相変わらずシリアスオペラが最上のジャンルとされ、お気に入りの歌手が主導権を握れるアリアこそがオペラの中心だったが、19世紀初めにはチマローザ、パイジェッロらの作品が模範とされメルカダンテやベッリーニの先生だったニッコロ・アントーニオ・ツィンガレッリ(1752-1837)がもてはやされた。1790年代に生まれたジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)、サヴェリオ・メルカダンテ(1795-1870)、ジョヴァンニ・パチーニ(1796-1867)、ガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)らは18世紀に入ってイタリアで活躍したオペラ作曲家だったが、彼らもイタリアオペラの伝統に無頓着に付き従い、やがてヴェルディ(1713-1901)が現れるまで改革は行われなかったという。ロッシーニがフランス革命の余波を被ったカストラート廃止に伴いコロラトゥーラ活躍するオペラを作曲し、歌手達の修飾音を楽譜に書き表したのは、作曲家の絶対統制と言うより、歌手が得心するほど十分な修飾音を記入しただけのことだった。しかし彼の作品と名声はイタリアを遙か越えて全ヨーロッパに響き渡り、何かに取り付かれたように各国でロッシーニアーナ(ロッシーニ狂い)が沸き起こり、ヴィーンでの上演はお祭り騒ぎに至り、フランスのスタンダールは1824年、生ける作曲家のために「ロッシーニ伝」を書き上げた。セビリアの理髪師のあまりの底の浅い序曲に心底ウンザリしていたベートーヴェンは自ら耳を閉ざし、これが難聴の原因になったとさえ言われている。(・・・また勝手なことを。)一方、イタリアでこの熱を眺めていたヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-35)は、短い生涯をイタリアオペラに捧げたが、彼の個性的で修飾的な旋律は、ずぼらに土足のままそこら中を練り歩くロッシーニのアリアよりはずっと繊細であった。(・・・なんか、恨みでも?)しかしロッシーニの名誉のために言っておくと、音楽家の中で彼以上に美食家だった食通は滅多にいない。料理史に名を残すことが出来た音楽家はロッシーニだけだったのである。

フランス革命以後

・オペラの内容がこっそり讃える賛美者の変化などを除いて、必ずしもフランス革命とは一致しないフランスオペラの変革は、グルックの革新というより時代の欲求によって進行し、現実社会に即した情感を持った登場人物を描き出したり、あるいは古代の衣装の復元に基づくリアリズムの精神により、オペラの筋書きを空想上の絵空事ながら現実に存在しそうな感情で表現するように改めていった。また現実社会に近い喜怒哀楽を盛り込め、堅苦しく崇高な情念や悲哀で押し通すシリアスオペラに対して、一層気楽に楽しめるコミックオペラの地位も向上し、質の上で差のないものになっていったが、ルイージ・ケルビーニ(1760-1842)がオケヘム没後300年を記念して作曲した「メディア」(1797)に置いては、古典主義の悲劇作品とコミックオペラの要素を混淆させた姿を見ることが出来る。ケルビーニはフィレンツェ出身の音楽家で、1786年にはフランスに定住していたが、革命後パリ・コンセルヴァトワール創設に関わり1822年にはとうとう総裁となって、フランス音楽界の指導者的地位で活躍して行くのだった。18世紀後期のオペラ作曲者としては彼の他にも、ニコラ・マリー・ダレラック(1753-1809)エティエンヌ・ニコラ・メユール(1763-1817)らが活躍し、メユールが劇の中で好んで使用した同じ動機を何度もオペラの中で繰り返すやり口は、師事したこともあるグルックから影響を受け発展させたものか、ロマン派オペラに引き継がれ最終的にライトモティーフと言われるものの初期の例になっている。彼はまた管楽器漲るフランス型シンフォニーを作曲した交響曲作曲家としても知られているが、フランスのオーケストラ曲は管楽器による多彩な色彩で革命時以降ゴセックやケルビーニが大量に管弦楽曲を送り出していた。
・帝政時代に入るとナポレオンは内心イタリア音楽に傾いていたものの、威信を掛けて国民精神わき上がるフランスオペラの復興に力を入れ、オペラ座に資本を注入してみた。これにより今では聖書の題材すすら上演可能になったオペラ座でメユールが活躍し、ジャン=フランソワ・ル・シュウール(1760-1837)は1804年に作曲した「オシアン」において古代的音楽と思われるようにオーケストラを再現させ、長短調システムでない旋法的音楽を書いて真の古典主義精神に乗っ取って見せた。ガスパーロ・スポンティーニ(1774-1851)は帝政期にオペラの第一人者にのし上がり、1807年の「ヴェスタの巫女」でグルックの伝統を引き継いだ作品を生み出した。一方彼が1809年に作曲した「コルテス」はロマン派時代を通じてフランスグランドオペラ(グラントペラ)と呼ばれる、バレや合唱を動員した大オペラの始まりとも言われるが、1820年代にベルリンに去ってしまった。しかしその頃にはアドリアン・ボワルデュー(1775-1834)ダニエル・フランソワ・エスプリ・オベール(1782-1871)がすでに活動を行っていたし、1824年にはとうとうロッシーニがパリに殴り込みを掛けて1826年の「コリント包囲」やら1829年の「ウィリアム・テル」で大暴れしたので、ロッシーニの方がグランドオペラの幕開けに相応しいようにさえ思われてくるのだった。しかし1830年にフランスで7月革命が起こり、ヴィクトル・ユゴーが「エルナニ」を書いて真のロマン派精神が漲ってくると、ロッシーニは筆を置いて以後美食家としての余生を全うし、グラントペラは後続の作曲家の手に委(ゆだ)ねられた。

ドイツ

・1798年にピエール・ガヴォー(1760-1825)によってフランスで作曲されたブイイの台本による「レオノーレ、あるいは夫婦の愛」が上演されると、ストーリーに興味を持ったイタリアで活躍するドイツ人のジーモン・マイル(1763-1845)は、1805年にイタリア語訳による上演を行い、同じくイタリア語台本でフェルディナント・パエール(1771-1839)がドレースデンで上演するためこれに作曲を加えた。パエールの「レオノーラ」は「ドランマ・セミセリア」と銘打ちセリアとコミックの中間ジャンルを目指したものだったが、彼らと同じ頃、イタリアオペラ上演の中で次第にフランスオペラも入り込むヴィーンに置いて、この台本に目を付けたベートーヴェンは、1802年にヴィーンで上演された別の救出劇であるケルビーニの「二日間」(あるいは「水運び人」)(1800)の影響も受けながら、この作品を自らオペラにする決心した。これは「レオノーレ」(1804/05)として上演され、何度も何度も書き直され、最後に「フィデリオ」(1814)となった。彼はもっぱらこのドラマの倫理的な側面に興味を示し、コミックな要素を大きく取り除いて堅いオペラに仕立て上げたが、ベートーヴェンの徹底した思いこみにより、音楽は上っ面の倫理性を乗り越え人間真理に到達して、非常にユニークな傑作にまで到達してしまった。
・一方1816年にはETAと呼んだらロマン派と帰ってくるE.T.A.ホフマンが「ウンディーネ」を、シュポーアが「ファウスト」それぞれ上演し、1821年にはヴェーバーの「魔弾の射手」がジョスカン没後300周年を記念して上演され、次第にロマンチックな心持ちがして来るのである。したがって、古典派のオペラはこれにて終了とさせて頂こう。

2005/04/17
2005/09/05改訂

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