1792年11月10日頃、ヴィーンに到着したベートーヴェン。思えば一回目のヴィーン旅行では、のんびり市中を散策するゆとりすらなかった。さっそく活動を開始したベートーヴェンは、すでに到着前からピアニストとしての腕前が評判になるほどで、さっそくピアニストとしてフンメル、クラーマーやシュタイベルト、さらに2流3流を含め300百人以上とも云われる膨大な数のライバルが凌ぎを削る演奏家の道を歩みながら、作曲の勉強を続けるのだった。幸せなことにヴァルトシュタイン伯爵の紹介や、先生であるハイドンを通じて、ヴィーンの重要な貴族達とも知り合うことが出来た。サロンでの演奏を通じて、彼の名前はたちまち広まる。初め住んでいた屋根裏部屋は、すぐに紹介されたカール・リヒノフスキー侯爵(1756-1814)の邸宅に取って代わり、侯爵の妻クリスティアーネ(1765-1841)は、ブロイニング夫人に継ぐベートーヴェンの「第3の母」にさえなったのである。リヒノフスキーも親しい知人としてだけでなく、当初は特に父のような、あるいは兄のような役割を果し、ベートーヴェンを貴族達に紹介してまわった。
ベートーヴェンはやがてリヒノフスキー邸宅でシュパンツィヒ弦楽4重奏団のメンバー、特にリーダーのイグナーツ・シュパンツィヒ(1776-1830)や、ニコラウス・フォン・ズメスカル男爵(1759-1883)らと知り合い、弟のモーリッツ・リヒノフスキーとも親交を結んだ。特にズメスカル男爵とはおかしな手紙の遣り取りを後々まで続け、ある時は「ベートーヴェン王国の最高権力者」とか「ごみ車運転男爵」などとからかっているほどだ。アマチュアのチェロ奏者としても活躍しているだけでなく、自作の弦楽4重奏曲を10曲以上残しているから、たいした奴だ。後に夜の要塞攻略を伝授したのも、他ならぬズメスカル男爵だったらしい。もっともこれはずっと後の話、この時期のベートーヴェンはまだ非常に高い倫理観と行動の一致を誇りにしていたので、不夜城などは軽蔑していたに違いない。
さらに伯爵の継母マリア・ヴィルヘルミーネ・トゥン伯爵夫人とも知り合うことが出来たので、自分をリードしてくれるリヒノフスキーの兄貴振りに感謝して、ベートーヴェンは作品1のピアノ三重奏曲を献呈したほどである。他にもバッハやヘンデルの遺産をモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンに伝えたゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733/4-1803)や、ヨハン=ゲオルク・フォン・ブラウン=カミュ伯爵(1763-1827)など、様々な貴族達と知り合い、サロンでの演奏を行なって名声を広めていった。18世紀も後半になると、ヴィーン貴族の経済状況にもマクロの視点で陰りが見え始め、宮廷楽団を自費で抱えるような貴族は激減し、代わりに数人の室内楽器奏者や、独奏者などを抱え込むという事情があったようだ。おかげでピアニストとしてのベートーヴェンは結構な引っ張りだこだったが、後になるとピアノの演奏だけを求められるのに嫌気が差して、拒絶反応を示すようになってしまった。こうして貴族達との付き合いを深めるうちに、自分の名称にヴァンが付いているので、フォンの称号を持つ貴族になった心持ちがしてきたのか、次第に一部の人々が彼を貴族だと思いこんだり、自分自身が貴族だと思いこむようになっていったらしい。この幻想は後に裁判で庶民が暴露される1818年に、掛ける言葉もないほどに打ち砕かれて、ベートーヴェンを放心状態に落ち入ってしまった。
さてさっそくハイドンの元で対位法課題など作曲の勉強を開始したベートーヴェン。ハイドンは基礎課題を律儀にお教えするような先生ではなかったのか、それとも時節が悪かったのか、ベートーヴェンが提出した課題に対する手直しは少なく、明確な間違いすらほったらかされていた。「うぬぬぬ」と思った弟子は、ハイドンに内緒で93年8月からヨハン・シェンク(1761-1830)にも作曲を教わって、ついでに直し終えた課題をハイドンの所に持って行ったりしていた。
ところが、1793年11月、ベートーヴェンを預けたマックス=フランツ選帝候に対して、ハイドンが「立派に成長しております」と手紙を書くと、隠し通せない事実が発覚した。「先生、新作が出来ました。」と自信たっぷりに持ってきていたベートーヴェンの作品が、どれもこれもボン時代の作品の練り直しに過ぎなかったこと、弟子が「選帝候からの仕送りが足りません。何とか用立てて下さい。」と泣いて頼んできた借金が実は虚言であったこと、つまり多額の資金援助を受けていたことなど、弟子の隠匿(いんとく)がことごとく発覚し、ついにはシェンクに師事していたことまでばれてしまったのである。(例の3つのピアノ三重奏曲(op1)も、最初の曲はボン時代に作曲され、残りはハイドンが出発してから作曲が開始されたのだそうだ。これは、お気に入りの第3番をハイドンが批判したために、ベートーヴェンが怨みを抱いたという、曰く付きの作品だ。)
あまりにもがっかりしたハイドンは、2回目のロンドン旅行にベートーヴェンを連れて行くことを止めて、代わりにちょうど1793年からシュテファン大聖堂の楽長に就任したヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736-1809)の元で対位法の勉強を続けられるように、だけはしてやったのである。ベートーヴェンの他にもフンメルやツェルニーなどに作曲を伝授したこのアルブレヒツベルガーは、ビヨーンビヨーンと鳴り響く「口琴(ジューズハープ)とマンドラのための協奏曲」なんて愉快な曲を残す一方、対位法の大家として知られていた人物だった。
1794年1月にハイドンがロンドンに発った後、ベートーヴェンはアルブレヒツベルガーに師事して作曲の勉強を続けたのであるが、ハイドンが翌年にヴィーンに戻ってからも、もはやレッスンは再開されなかった。アルブレヒツベルガーの授業は95年の春頃まで続いたそうだが、その後も恐らく1798年頃からアントーニオ・サリエーリ(1750-1825)に師事して、イタリア歌曲などの作曲を学んだことがある。しかし1795年にピアノ協奏曲第2番(op19)(ボン時代の作品を改編したもの)をひっさげてブルク劇場で公開演奏会に登場し、3つのピアノ三重奏曲(op1)を出版する頃になれば、彼は完全に独り立ちのシーズンを迎えていた。
そんな彼の容姿や性格はどうだったのか、ソーロモンの本から抜粋してみれば、でかい頭を持ち背は低く、あばたの目立つ顔の額は広く、とてもハンサムとは言えないが、眼だけは感情に合わせて様々な炎をあげるようだったという。30代半ばまでは痩せていて、振る舞いには優雅なところがまるでなかったうえ、動作はぎこちなく、ものをひっくり返したり壊したり、ダンスもろくに踊れず、不器用な男だったくせに、ピアノの前に座ると、霊感たちまち立ち上り幻想的な音楽がこだまする。人々はこれが果して同一人物かと訝しがるほどの即興演奏を行なった。
服装は若いうちはまだ気にするところもあったが、基本的に無頓着で、陽気な時は冗談を連発するが、喜怒哀楽の変換が激しく、怒り出すと手に負えないところがあった。(後になると注文と違う料理を投げつけたり、家政婦に玉子を投げつけたり。)陽気の後の激しい意気消沈を自覚していた彼は、ヴェーゲラー宛の手紙に「ぼくは今でも時折ラプトゥス(発狂)すると、皆さんにお伝え下さい。」(1801)と冗談を書いている。さらにもっとも不可解なのは、突然大笑いを始めるのだが、聞かれても理由を述べないので、何を笑っているのだか分からないということがよくあったそうだ。
女性についてはボン時代はからかわれ過ぎて女性を殴りつけたぐらいはにかみ屋さんだったが、ヴィーン初期でも女性関係はおくてだったらしい。若いうちは娼婦など言語道断という倫理の鬼だったが、年を取るとあまりの心寂しさに倫理ことごとく崩壊した。(女性の皆さんには、一人で煩悶するための雑誌さえ存在しない時代であることを考慮に入れて、彼を咎めないで欲しいものです。)いずれ、基本的にスケッチ帳と共に生活をする作曲の鬼だったと言えるかもしれない。スケッチ帳は騎士の剣のように常備され、財布は忘れても、採譜は忘れず。浮かぶ僅かな楽想さえも見逃さず写し取った。そしてすべてが死ぬまで大切に保管され続け、時に回顧され次の楽曲に生かされた。
すでに1791年、神聖ローマ皇帝レオポルト2世は、妹のマリ・アントワネットが嫁いだフランスにおける革命に対して、プロイセン国フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を発表。必要があれば革命への介入を行なうことを明らかにしていたが、翌年フランス議会がオーストリアへの宣戦布告を決定。フランスと諸外国の間の、革命戦争が勃発した。イギリスを中心に翌年第1次対仏大同盟が結成され、初めはフランスを追い込んだが、フランスは傭兵ではなく徴兵制を施行することによって120万もの兵力を新たに動員、94年中に南ネーデルラントと、ラインラント地方を制圧してしまったのである。ケルン選帝候は中立を保っていたのだが、進軍に対して中立を保つことが出来なくなり、泣きながら(?)フランスに宣戦布告。進行するフランス軍によって、あえなくボンは占領され、選帝候はボンを脱出して亡命とあいなってしまった。これに関連してか、94,95年とボンにいた兄弟のカールとニコラウス・ヨーハンがヴィーンに到着し、兄のお世話になりながら生活を開始。カールがピアノ教師として、ヨーハンは薬剤師としての道を歩みだした。95年にはロンドンから戻ったハイドンのために、リヒノフスキー邸で演奏会が開かれ、ベートーヴェンは作品2の3つのピアノソナタ(翌年出版)を彼に献呈した。今日32曲のピアノソナータの冒頭3曲を飾るものである。偉大な作品1の番号を私に献呈しないとは、むむむむとハイドンは内心思ったかもしれない。
翌年96年にはリヒノフスキーと共にベルリンまで旅行を行なって、時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744-在位1786-1797)の宮廷で演奏を行なった。この時作品5の2つのチェロ・ソナータが演奏され、チェロを嗜んだ国王が献呈を受けて「金貨を詰めた金のタバコ入れ」を彼に与えた、という逸話が残されている。面白いことに1789年にも、リヒノフスキーはモーツァルトを連れてプロイセンに旅行を行なっており、本当に会見したかどうか分からないが、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世から6つの弦楽4重奏と娘のためのピアノソナータを依頼されているのである。
ベルリンから戻ると、続く作品10のピアノソナタなどの作曲を開始。98年までにピアノソナタにおいては「悲愴」と呼ばれる作品13や、続く作品14-1までを完成させ、3つの弦楽3重奏曲(op9)、ピアノ3重奏曲(op11)、3つのヴァイオリン・ソナタ(op12)などを完成させている。ユニークなところではフランス革命軍の進出に対して、ヴィーンで結成された義勇軍のために「オーストリア軍歌」(WoO122)なども作曲してみせたが、実はこの年、フランス軍が3方面作戦をとって、ヴィーンに軍隊を進めたのである。イタリアで大進撃を続けるナポレオンのようには行かず、軍事思想家として知られていたカール大公(ルドルフ大公の兄)がこれを撃退。ヴィーン占領を免れた。しかし、翌年にかけイタリアでのボナパルトの進軍を阻止できず、97年10月にフランスの間に「カンポ・フォルミオ和約」が結ばれたのである。とりあえずフランス軍の脅威は遠のき、オーストリアはこの和約によって97年ナポレオンが占領して共和国に終焉を告げたばかりのヴェネツィアを併合した。
98年から99年にかけてベートーヴェンはついに弦楽4重奏曲と交響曲という、器楽ジャンルの最重要曲になりつつあった楽曲に手を染め始めた。彼は昔破棄してしまった弦楽4重奏と、いかに悪戦苦闘したかを手紙に書いていたように思うが、4つの同種楽器によって4本の線と響きを駆使するこのジャンルは、最高の知的挑戦だったといえるかもしれない。モーツァルトもハイドンセットを作った時に、切磋琢磨して生まれた子供達を、尊敬するハイドンに恭しく捧げたのであった。この2人の作品はもちろんのこと、あるいはヴィーンでいち早く音楽教師、作曲家として活躍したヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739-1813)の大量の弦楽4重奏曲などの影響もあるのだろうか。この作曲家は、ヨーロッパとアメリカに名声を高め、初めて作曲だけで生計を立てたとも云われている。
他にもピアノ協奏曲第1番ハ長調(op.15)も恐らくこの頃完成したと考えられている。
この頃には交友も広まり、ヴァイオリン奏者のカール・フリードリヒ・アメンダ(1771-1836?)、さらにロプコヴィツ侯爵家とも交友を深めた。特にアメンダとは一時期いつでも一緒の大親友になっていた。片方が居ないと心配される程だったそうだ。99年になるとハンガリーのブルンスヴィク伯爵家の娘テレーゼとヨゼフィーネがヴィーンにやって来た時紹介され、彼女たちのピアノ教師として後に深い付き合いを始めるようになる。ブルンスヴィク家はすでに未亡人となっていたアンナ・バーバラの下にテレーゼ(1775-1861)、ヨゼフィーネ(1779-1821)、シャルロッテ3姉妹、フランツ(1777-1849)という長男が居て、全員がベートーヴェンと親しい付き合いをしている。特にテレーゼは後に自伝まがいのものを記しているから、初めてのベートーヴェンとの出会いなどもそこからうかがい知ることが出来る。ヴァイオリンとチェロ声部を歌いながらピアノを弾いたら、毎日教えに来てくれるようになって、1日1時間のレッスン時間が、4時間にも5時間にもなりました。その後私達は死ぬまで友情が結ばれました。といったことが書いてある。
実はこの時ヴィーンに来たのは娘の旦那捜しを兼ねていたようで、ヨゼフィーネが1799年のうちにヨーゼフ・ダイム・フォン・ストリッテッツ伯爵(c1752-1804)と結婚している。不思議な縁だが、この伯爵、昔決闘をして一時貴族の称号を取り上げられていた時にミュラーという名前で、石膏像やら蝋人形やらを集めて1780年頃から、ヴィーンで「ミュラーの芸術ギャラリー」などを開催。次第次第にオルゴール付き蝋人形美術館に変容をとげていった。1790年ラウドン将軍(決してうどん大好きの「La、うどん将軍」ではない)が亡くなった時、このミュラーが将軍の等身大蝋人形を飾る霊廟用に、また美術館の自動オルガン(ようするに巨大オルゴールやね)用にと、モーツァルトに自動オルガン用の楽曲を依頼している。ヨゼフィーネを通じて知り合ったベートーヴェンも、やはりこの自動オルガンのために曲を書いているのだ。
この年は親愛なるアメンダが、兄の死によって故郷に帰ることになったので、親友との別れを悲しみベートーヴェンは弦楽4重奏(op18-1)を贈った。
この頃革命戦争は、98年に出発したナポレオンのエジプト遠征軍は翌年完全孤立状態で風前の灯火だったが、フランス軍はローマを占領しローマ共和国を樹立、これに対して98年末に第2回対仏大同盟が結成され、一進一退の攻防が続く中、単身エジプト脱出を図ったナポレオンが99年11月にクーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし、第一執政に就任し独裁権を獲得した。
ヨゼフィーネが嫁いだ、ヨーゼフ・ダイムは投機に失敗し借金まみれになってしまった。女は本を読むな、音楽なんか駄目だと、切ない境遇に置かれた(とテレーゼが書いている)ヨゼフィーネだったが、ベートーヴェンは無償で週2回のピアノレッスンを継続している。ブルンスヴィク家の姉妹達は、先生から入手した楽曲を送り合って、熱烈なファンとしてベートーヴェンの新曲に取り組んでいたらしい。
作曲においては「6つの弦楽4重奏曲(op18)」と「交響曲第1番ハ長調」(op21)が1800年に完成。この年は他にも7重奏曲変ホ長調(op29)、ピアノ協奏曲第3番ハ短調(op37)、ピアノソナタ変ロ長調(op22)などが完成。4月2日には初めて自身のための公開演奏会を開催し、ここではモーツァルトとハイドンの曲と共に、完成した交響曲第1番ハ長調(op21)、7重奏曲、ピアノ協奏曲第1番ハ長調(op15)が演奏された。
またこの年、イタリアのグイチャルディ伯爵の令嬢ジュリエッタ・グイッチャルディ(後にピアノソナタ「月光」を献呈)がヴィーンにやって来て、ベートーヴェンのピアノの弟子になったし、カール・ツェルニー(チェコ語発音チェルニー)(1791-1857)もピアノの生徒となっている。ツェルニーはウィキペディアには「作風は彼の気の小さな性格を反映し、初期ロマン派の傾向に留まった。」と非道いことを書かれているが、ピアノを習う人にとっては、わざわざ避けて通る必要のない手頃な練習曲によって、よく知られている。
1800年末にはフランス軍の進出によりヴィーンの音楽活動は一時的に縮小することになった。フランス軍はすでに前年、ナポレオンが第一執政に就任していたが、カール大公の活躍もあり抵抗を続けるオーストリアに戦争を仕掛けたからである。しかしこの年からリヒノフスキー侯爵からかなりの年金を貰い始めたので、ベートーヴェンは比較的安定した収入を得ることが出来た。ヴィーンでの出版楽譜の売れ行きも好調で、外国の出版社からも依頼が舞い込んだ。またイタリア人天才舞踏家サルヴァトーレ・ヴィガーノからの依頼されたバレー音楽「プロメテウスの創造物」(op43)が完成し、1801年3月21日に上演、これは大成功を収め、翌年にかけて計23回も演奏された。
結局皇帝の軍隊はナポレオンに打ちのめされて、リュネヴィルの和約を締結することになった。第2回対仏大同盟は崩壊し、イギリスだけが抵抗を続けている。英雄大好きっ子のベートーヴェンは果して、ナポレオンの快進撃を聞いて、ヴィーンを侵略するものと怒ったものか、内心大いに歓声を上げたのか、それは分からない。
この1801年には、ピアノソナタでは「月光」(op27)や「田園」(op28)までが完成し、弦楽5重奏曲ハ長調(op29)、ヴァイオリンソナタでは(op23)と(op24)が作曲されている。ブロイニング家のシュテファン・フォン・ブロイニングがヴィーンにやって来て、ベートーヴェンと旧交を深め、順風憂いなしかと思われたが、水面下では難聴の兆候が彼を悩ませていたのである。彼は不安を表わした手紙を、特に気を許したヴェーゲラーとカール・アメンダ宛に出している。運良くシュミットという医師に出会い、少しく不安の調子は遠のいたそうで、11月のヴェーゲラー宛の手紙には、少しだけ雑音が増しになってきたと書き送ったついでに、魅力的なお嬢さんと結婚したいと書き送ってしまったが、その相手こそピアノを教えていたグイッチャルディ伯爵家のジュリエッタ(16歳)だと考えられている。これはベートーヴェン自身が(勝手に?)恋愛だと思いこんでいた状態がしばらく続いた後で、1803年、彼女はガレンベルク伯爵と結婚してしまった。
また先ほどのアメンダ宛の手紙には、「君にあげた弦楽4重奏(op18-1、1799年に渡されたもの)は誰にも見せないで欲しい、今すっかり書き直している。ようやく正しい書き方を会得したのだ。」と、初めての弦楽4重奏の作曲に悪戦苦闘している姿を見ることが出来る。
この年の年末か翌年早くに、ボンでお世話になったフランツ・リースの息子フィルディナント・リース(1784-1838)がベートーヴェンの弟子になった。しかしベートーヴェンはピアノだけを教え、作曲はアルブレヒツベルガーが担当している。教えない先生だったハイドンを倣ったわけでも無いだろうに、ベートーヴェンの作曲の弟子はルドルフ大公だけなのであった。
1802年は「交響曲第2番ニ長調」(op36)、「3つのヴァイオリンソナタ」(op30)、「3つのピアノソナタ」(op31)、ピアノのための変奏曲(op34)と(op35)などが完成した年だ。ボン時代の友人アントン・ライヒャ(チェコ語アントニーン・レイハ)(1770-1836)がヴィーンに来たので付き合いを再開した。彼はボンを占領したフランス軍により宮廷楽団が解散して、ハンブルクなどに行っていたが、この年ヴィーンにやって来て、曰く付きのハイドン先生に師事している。よく知られた木管楽器群の作品は先生の影響が成就したのだろうか。ハイドン先生の授業が他の生徒とベートーヴェンで同じだったのかどうか、ちょっと気になるところである。
表面上はライヒャと再開したり、相変わらずヴェーゲラーに宛てて手紙を送ったり、活発な外見的生活を満喫していたようであるが、シュミット医師のすすめにしたがって4月終わりからハイリゲンシュタットに立てこもったところを見ると、精神的にはちょっと参っていたのかも知れない。半年という、これまでにない疎開生活を送りながら作曲を続けることになる。そしてこの時執筆された遺書が元で、後の学者達が大騒ぎする結果となった。これは1798年以来悪化を始めた難聴の苦痛から、自殺者としてではなく、もしも死んだ場合の遺言状という意味で「遺書」をしたためて、これを保存しておいたものかもしれないが、わざわざ感情が満ち溢れた文章は、自らの感情を理解して貰いたいという彼の率直な心持ちである。メイナード・ソロモンによれば手紙の中で弟の名前のうち「ヨハン」という言葉が空欄になっているのは、父親の名称に激しいわだかまりを持っていたためだとされる。ただし実際の聴覚障害はまだ耳が聞えなくなるほど非道いものではなかった。特定の高音が聞き取り難くなったり、耳鳴りがしたりといった状況で、非常に悪化するのはもっと後のことだ。1810頃になると演奏会でピアノを弾くことは無くなったが、本当の絶望的な悪化は1812年以降に起こり、16年頃から補聴器の使用が開始され、18年頃に会話帳が登場するという。
ハイリゲンシュタットから10月半ばに戻ると、ヴィーンのアルタリア社との約束をたがえて弦楽5重奏(op29)をブライトコップ・ウント・ヘルテル社に売り飛ばしてみせた。これは後々まで大いにもめて裁判沙汰に発展していくことになった。
「ピアノコンチェルト第3番ハ短調」(op37)が初演されたこの年、自分の弟であるカスパール・カールを秘書として近くに置き活動を行なう。1801年にエマヌエル・シカネーダーによって開かれたアン・デア・ヴィーン劇場でのオペラ作品の依頼が舞い込んできた。このシカネーダーの台本に基づくオペラ「ヴェスタの火」は、1804年にヨーハン・フリードリヒ・ロホリッツ(1769-1842)宛の手紙にベートーヴェンが「シカネーダーと決定的に決裂した」と書いているように、完成されることは無かった。ところででこのロホリッツ、ライプツィヒのブライトコップ&ヘルテル社が1798年から発刊した「一般音楽時報」という音楽誌があり、この評論を担当していた人物である。1818年まで活躍し、ベートーヴェンも自分の批判にこんちきしょうめと思っていたが、後に1822年に会見してからは、互いに理解を深めたという。
さてオラトリオ「オリーブ山上のキリスト(Christus am Olberge)」(op85)やヴァイオリンソナタ「クロイツェル」(op47)などを完成させたこの年、5月にはジョージ・ブリッジタワーのヴァイオリンとベートーヴェンのピアノによって、夢の?「クロイツェル」初演が行なわれている。にも関わらずこの曲はブリッジタワーにではなく、ルドルフ・クロイツェルに献呈された。ブリッジタワーの言葉によると、女性を巡る対立が原因だったと言われているが、初版楽譜には自信たっぷりに「協奏曲に近い様式で作曲された」ことが記されている。
この頃実はパリに向かおうかと思っていたベートーヴェン。フランスで知られたヴァイオリニストであるクロイツェルに曲を捧げたという説もある。この時期いよいよ作曲の中心が交響曲第3番「英雄」→に移るのだが、ベートーヴェンがパリに行こうとしていることや、新しい交響曲に「ボナパルト」の名称を与えようとしていることがフェルディナント・リースとジムロックの手紙に見られるそうだ。この年実質上ナポレオンが支配するフランスに対して、イギリスがアミアン和約を破棄、ナポレオン戦争と呼ばれる一連のフランス対諸外国の戦争が再開されていたが、そんな時に「ボナパルト」なんて曲名を記して出版したらどうなるものやら・・・・。ここでヴィーンと訣別してパリに渡っていたら、ベートーヴェンは悲惨な作曲家になった気がしなくもない。
さてフランスと言えば、パリのピアノ制作者セバスチャン・エラールから新型ピアノを貰ったことも忘れてはならない。これが引き金となって04年の「ヴァルトシュタインソナタ」(op53)や05年の「熱情」(op57)が完成することになるのだから。一方年末はまだ依頼されたオペラ「ヴェスタの火(純潔の火)」の作曲を進めていたが、テキストが気にくわないため新しい台本で出直すことにした。そして「レオノーレ」が登場してくることになる。
2007/4/9