1804年になると、初演は翌年に持ち越される交響曲第3番「英雄」(op55)が完成した。この曲についてはフェルディナント・リースが有名な逸話を残している。
「彼は、5月のナポレオン皇帝就任を聞くやいなや、今までの独裁者と変わらないではないかと叫んで、ちゃぶ台をひっくり返すと、標題にあったボナパルトの文字を破棄してしまった。こうしてこの曲は改めて、シンフォニア・エロイカすなわち英雄交響曲と呼ばれることになったのだ。」
そのままかどうかは疑わしい。自分用の総譜を確認すると「ボナパルトと題されて」という文字は消されているが、一方で「ボナパルトについて書かれた」という書き込みは消されず残っている。これについては、ナポレオンの文字を消すことによって「花のパリ移住計画」と訣別しヴィーンを選び取ったとか、もともと理想の鏡として投影された英雄としてナポレオンを素材にしているのだとか、メイナード・ソロモン氏がさまざまな考察をしているので、ぜひ購入して読んでみて下さい。この本は読み直すたびに新しい発見があって、非常に面白い。そして作曲家に対するうわべでない愛情を感じるのです。ソロモンは「英雄交響曲」によってベートーヴェンが大いなる一歩を超えたことを賛え、それがソナタ形式の柔軟な枠組みの可能性を認識したことにも関係していると指摘している。彼のソナタ形式に対する概念は非常に的確なので、日本語訳の本文からそこだけ引用しておこう。
「ソナタ形式は、美的構造による拘束を受けながら最も激しい音楽的観念を解き放つことができる、というその独自の可能性のために、劇的なそして悲劇的な主題を取り扱うのに非常に向いている。」
「richtig、richtig(リヒティヒ・正しい)」とベートーヴェンも彼の意見に肯定を加えるに違いない。
政治上の話を加えておこう。この年、1804年5月18日に「共和国政府は世襲の皇帝にゆだねられる」ことを宣言したナポレオンは、皇帝ナポレオン1世(在位1804-14、1815)となり、もし国民投票に不正がないとすれば、圧倒的な民衆の支持を得てフランスの英雄になってしまったのである。調子に乗って神聖ローマ帝国の解体を要求するナポレオンに対して、神聖ローマ皇帝フランツ2世が、慌てて自分の正式な領土に対して「オーストリア帝国」という名称を与え、この年の内にオーストリア皇帝フランツ1世(在位1804-1835)を名乗り、皇帝の名称を守り通す話は、当然ヴィーン市内でベートーヴェンの話題にも上ったことだろう。年末にはフランスで「ナポレオンの戴冠式」も行なわれ、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)が描いた巨大絵画「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」では、12月2日事もあろうに自分の方がパリに出向いた教皇ピウス7世が、完全に引き立て役として、顔を半分十字架で隠されながらも、ふて腐れているような姿を見ることが出来る。実際はピウス7世が戴冠を渋るので、ナポレオンが自分で冠を奪い取って一人戴冠式に討って出たのだが、ダヴィッドは当初計画の一人戴冠ではなく、妻に冠を授けるナポレオンという間接技法を用いて、我らがヒーローを演出してみせたそうである。絵画を見るととても40歳を過ぎた妻とは思えない、ジョゼフィーヌだが、このルーブルの絵画とは異なるもう一枚の「戴冠式」がダヴィッド自身によって晩年までかけて描かれ、今日ではベルサイユ宮殿で見ることが出来るそうだ。ダヴィッドの生涯は革命の中を生き抜いた画家として、絵画共々紹介するのも面白いかも知れない。(・・・今の私には無理だす。)
いつもながら逸脱の激しいコンテンツだ。ベートーヴェンに話を戻せば、この1804年は三重協奏曲(op56)やピアノソナタヘ長調(op54)までを完成させ、さらに次のピアノソナタヘ短調(op57)(第23番、熱情という題はハンブルクの出版商クランツがピアノ連弾用出版に付けた名称)に情熱を持って取りかかり始めた。これは翌年1805年に完成している。交響曲第3番の持つ拡大した形式による統合の試みは、この時期のピアノ作品である、ピアノソナタハ長調(op53)(第21番、ヴァルトシュタイン)やピアノソナタヘ短調(op57)にも見ることが出来、熱情の最後まで継続される悲劇性は、ベートーヴェンにあっては珍しいそうである。啓蒙主義に被れて成長した時代の精神が、悲劇のままの終焉を望まないのかも知れない。また、この時期すでに交響曲第5番の断片的なスケッチも書き留められている。
この年ヨゼフィーネ・ダイム(旧姓ブルンスヴィク)の旦那であるヨーゼフ・ダイムが肺炎で亡くなると、ベートーヴェンは子持ちのヨゼフィーネと急激に近付いた。このころヨゼフィーネは非常に神経衰弱に掛かり、泣いたかと想えば、突然笑いだし、感情の起伏の激しさがベートーヴェンとぴったりシンクロしたため・・・ではないが、次第に友情が愛情に変わっていったようである。ブルンスヴィク家で一番下の娘シャルロッテが長女テレーゼに手紙を送るところ、「ベートーヴェンが心配のためか、はたまた愛情か、2日に1度はピアノを教えに来る」ようになっていたそうだ。12月の兄フランツへ出されたシャルロットの手紙には、「2人は危ないわ」というニュアンスの手紙を送っているので、2人の関係が愛情を深めていったらしい。まあ、詳しいことは興味のある人が調べて下さい。なんだろう、ベートーヴェンが感覚的な愛情を欲したが、彼女は精神的関係を欲したので、お手紙の遣り取りとレッスン中のおつきあいなど致しているうちに、だんだんベートーヴェンの手紙の内容が意味不明になってきて、一方でリヒノフスキーの妻クリスティーネが「第3の母」として反対し、さまざまあって1807年には破局した、というところなのだろうか?
そんなことよりも、作曲の話をしましょう。1804年の終わりには彼の関心はオペラ「レオノーレ、または夫婦の愛(のちにフィデリオ)」(op72)の作曲に移っていくのであります。
「レオノーレ」の作曲を進め、その最中3月にはヨゼフィーネに献呈された有名な歌曲「希望に寄せて」(op32)が完成した。大作ピアノソナタヘ短調(op57)(熱情)も出来上がり、「レオノーレ」の初演も決定した。ところが運悪く一度検閲に引っかかって上演が先延ばされているうちに、11月にヴィーンがフランス軍に占領されてしまったのである。
すでに1803年にアミアン和約を破棄したイギリスは、海上封鎖でフランス軍を苦しめていたが、これに対し1805年フランス軍が直接上陸戦争を仕掛けた。これは最終的に10月21日の、トラファルガーの海戦でネルソン提督を失いながらフランスを打ち破ったイギリスの大勝利となり、フランスは上陸を諦めることになったが、同時に内地で展開されたウルムの戦い(9/25-10/20)では勝利を収め、オーストリア軍は破れ去り、フランス軍は意気揚々とヴィーンに入場を果したのである。12月にフランツ2世は「プレスブルクの和約」を結ばされ、4000万フランの賠償金と領地の割譲を余儀なくされた。さらに翌年になると、ナポレオンはドイツ諸侯をライン同盟に参加させ、これによって神聖ローマ帝国も解体させる運びとなった。
こんな政治状況の中にあり、フランス軍に占領された11月20日の初演には、本来のベートーヴェンを支持する聴衆など、ほとんどいなかったらしい。ほとんどがフランスの兵士だったという逸話も残っているが・・・。「レオノーレ」という題名ではすでに別の作曲家がオペラを上演しているため、この時「フィデリオ」という題名を劇場側が提案し、ベートーヴェンはしぶしぶこれに従った。劇のあらすじは、監獄所長ピツァロが不正に投獄しているフロレスタンの妻レオノーレが男装してフィデリオと名乗り旦那を救出しようとするが、最後に司法大臣ドン・フェルナンドが「この桜吹雪が見えねえかあ!」と叫んで天晴れな最後を向かえるという、水戸黄門レヴェルの内容である。(はたして褒めているのか、けなしているのか。)だから、レオノーレでもフィデリオでもどっちでも良いじゃないか。
とにかく「レオノーレ」(第1稿)は、彼を慕う指揮者で作曲も行なうイグナーツ・クサーヴァー・リッター・フォン・ザイフリートが指揮をしたのだが大失敗に終わり、リヒノウスキー夫婦など友人たちが改訂を提案するので、脚本をもう一度見直すことになった。こうして改訂をもって臨んだ1806年の2回の再上演も冴えなかったので、ベートーヴェンはふて腐れて劇場経営者と劇場支配人のブラウン男爵を罵って、この作品を取り下げてしまうことになる。
前年から熱い手紙の交換が続くヨゼフィーネだったが、夏が過ぎる頃には戦火を逃れハンガリーに避難していた。翌年秋にようやくヴィーンに戻るが、残された彼女宛の手紙が見られるのは1807年になってからだそうである。いずれヨゼフィーネは1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚してしまうのであった。
弟カールが室内修飾業の娘ヨハンナ・ライスと結婚するのに反対することによって、優れた秘書を失ったベートーヴェン。はたして出来ちゃった結婚がいけなかったのか、かつての自分の祖父を真似ただけなのか、それはよく分からない。作曲中だった弦楽4重奏(op59-1)の3楽章のスケッチには「わが弟の墓の上で泣いている柳あるいはアカシアの木」という不可解な書き込みがあるそうだ。さて、この4重奏曲はロシア大使ラズモフスキー伯爵に献呈されたので「ラズモフスキー」と呼ばれることになったが、ヘ長調、ホ短調、ハ長調で(op59-1,2,3)となっていて、初めて聞く人には特にヘ長調がお勧めである。(入りやすいという意味。)
なおラズモフスキーはリヒノフスキーの義理の兄弟であり、1808年からシュパンツィヒ4重奏団をリヒノフスキーから引き継いで面倒ることになるが、すでにこの時期ベートーヴェンの重要なパトロンになっていた。しかしラズモフスキー4重奏の方は、当初演奏しているシュパンツィヒにすら理解出来ず、セイヤーという学者が「これほどがっかりさせる評判しか受けなかったベートーヴェンの作品はほかにない」と記述している。
この年はこの「3つの弦楽4重奏曲」(op59)や「ピアノコンチェルト第4番ト短調」(op58)、「交響曲第4番変ロ長調」(op60)、さらに「ヴァイオリンコンチェルトニ長調」(op61)まで作曲して見せた。この曲は後に出版商でもあったロンドンのムッツィオ・クレメンティ(1752-1832)の依頼でピアノコンチェルトに編曲されている。
さて、パトロンの筆頭を自認するリヒノフスキーとベートーヴェンの間に葛藤が大きくなり、10月に事件が起きた。(2人の心理状態の変化が、ラズモフスキーとベートーヴェンが近付いたことに関して、わだかまりでも生まれたのだろうか。)共に出かけたリヒノフスキーの別荘で、伯爵からの演奏の依頼を断わったベートーヴェンは、がたんばたりとドアを閉めて、部屋にこもってしまったのである。それに対してリヒノフスキーがドアを突き破ると、ベートーヴェンは彼の頭の上に椅子を振りかざして、力の限りに頭をかち割ろうとする。しかし、すんでのところで、ぽかんと割って入ってきたオッペルスドルフ伯爵が代りに殴られて・・・ではなく、仲裁に入ったらしく、ベートーヴェンが殺人を犯すことを防いだらしいのだが、これをもってリヒノフスキーとは仲違いをしてしまったのである。ヴィーンに戻った彼は、「こんちきしょう、こんちきしょう」と叫びながら、大切なリヒノフスキーの胸像を徹底的に破壊し尽くした。リヒノフスキーも怒っていた。1800年から続いていた年600フローリンの年金の支給が停止。ベートーヴェンは翌1807年に宮廷劇場に雇用の依頼を申し出たが、これは定給を得るための行動だったらしい。しかし申し出は見事に蹴られてしまった。リヒノフスキーとの関係は、1年後にはとりあえずの握手を果し、親友ではないがさりとて他人でもないような際どい知人関係に落ち着いたとかなんとかかんとか?
1803年頃からヴィーンでオペラが上演され人気急上昇のルイジ・ケルビーニ(1760-1842)は、すでに1805年にヴィーンに来て「水運び人」を上演。この年もドイツ語ものの「ファニスカ」を上演しているが、この年ベートーヴェンと顔を合わせたようだ。
政治的な動きでは、この年プロイセンを中心にイギリス、ロシア、スウェーデンなどが第4次対仏大同盟を結成、プロイセンはフランスに宣戦布告をするが、見るも無惨に破れさり、ヴィーンと同じようにフランス軍のベルリン入城となった。そしてナポレオンはイギリスの貿易相手国を無くそうと、このベルリンで大陸封鎖令を発布、これによって大陸の国々の貿易経済をめちゃくちゃになってしまった。
この年は翌年完成する「交響曲第5番」(op67)、「交響曲第6番」(op68)や、チェロソナタイ長調(op69)に着手。ハインリヒ・ヨーゼフ・フォン・コリン(1771-1811)作「コリオラン」のための序曲(op62)も完成している。07年3月にロプコヴィッツ邸で、交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、コリオラン序曲が初演された。コリンが古典古劇に造形が深いので、ベートーヴェンはフィデリオに続くオペラの題材をコリンに求めようとしたが、結局次の作品は生まれなかった。
さてイギリスで勝利を収めたハイドンが、エステルハージ侯ニコラウス2世のために6曲のミサを書いたことはハイドンの章で見たが、いわばその延長線上にあるようなミサ曲の依頼がベートーヴェンに回ってきた。これは妻マリアの霊名祝日(洗礼時にお名前を授かった聖人の祝日を霊名日として祝うもの)のためにミサを作曲して欲しいというもので、ちょうど1804年にハイドンが(ほとんど名誉職になっていた)宮廷楽長の地位を降りてから、フンメルが楽長を務めつつ、ミサ曲も作曲していたのだが、この時はベートーヴェンが指名されたのである。「誰もなし得なかった方法で歌詞を扱ったのだ」と自信満々、9月13日に避暑地アイゼンシュタットの教会で初演されたのである。ところがエステルハージ候がベートーヴェンに「ベートーヴェンよ、君がこの曲でやりたかったことっていったい、いったい何なのでしょうか」と声をかけ、フンメルがにやりと笑ったように見えたので、ベートーヴェンは活火山のごとく怒り狂いアイゼンシュタットを立ち去ってしまった。さらにエステルハージなんぼのもんじゃと、この曲が出版された時にはキンスキー侯爵に献呈してしまったのである。この曲は翌年、12月の自作演奏会において交響曲第5,第6番と共に抜粋演奏されているぐらいだから、よほど自信はあったのだろう。後の巨大すぎるミサ・ソレムニスが目立ちすぎるので、エステルハージの呪いもありあまり目立たない作品であるが、このミサ曲は決して合唱曲の習作的な段階にはなく、小ぶりの秀作である。そして若さと希望にあふれた、肯定的なミサとして、控えめだが忘れがたい作品になっている。
私的な事件を見てみると、弟のヨハンが1500フローリンの借金を返せと言いだして、また一悶着起こって仲違いを演じ、ヨハンは翌年リンツに向けて立ち去ってしまった。ヨゼフィーネとの間に残された手紙も、非常に精神的訣別の色彩の濃い、愛情より義理の勝る文面になっているので、何があったかは知らないが、2人の恋は終わってしまったようだ。
ピアニストのマリー・ビゴと幼い娘を旦那が居ない時に誘い出したら、旦那から大変なお叱りを受けて、謝罪のお手紙を書くような珍事も発生している。一方ピアノソナタヘ短調(op57)[アパッショナータ、熱情]がフランツ・ブルンスヴィックに献呈され、ベートーヴェンの音楽に生き甲斐を見いだす彼を大いに喜ばせた。
3月27日、ハイドン76歳の誕生日に「天地創造」の演奏会をやるので、ベートーヴェンも出席し、そこではハイドンにひざまずき弟子として自覚を持って接吻をしたと伝えられている。
この年は「交響曲第5番ハ短調」(op67)、「交響曲第6番ヘ長調」(op68)、チェロソナタ第3番イ長調(op69)(献呈楽譜にラテン語で「涙と悲しみのあいだで」と記されている。翌年グライヒェンシュタインに献呈)、2つのピアノ三重奏曲(op70)(エルデーディ伯爵夫人邸で初演、彼女に献呈)、そしてカンタータハ短調[合奏幻想曲](op80)まで完成させる。なんと恐るべき生産能力。ただし交響曲第5番が集中的に作曲されたのは1806年から1807年にかけての冬であり、ソロモンはドイツの愛国主義の高揚した時期にまさに作曲されたことを指摘している。つまりこの曲を聴いて愛国的な感情を聴衆が受け取ったに違いないと。しかしベートーヴェンは愛国心どころではない、10月にはヴェストファーレン国王から呼ばれたので、宮廷楽長に就任すると言いだした。このヴェストファーレン王国とはプロイセンがナポレオンに破れた後割譲させられたエルベ川以西の領土に新たに建設されたもので、ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが王となっていたのである。すでに彼の音楽はドイツ語圏だけでなく、特にイギリスで絶大な人気を誇っていたので、ヴィーンを離れても十分採算があうように思われたのかも知れない。
あるいはもっと手の込んだ策略が練られたのかもしれないが、これに驚いた、エルデーディ伯爵夫人とグライヒェンシュタイン男爵が提唱して、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵、ルドルフ大公が年間4000フローリンの年金を出し合い、ベートーヴェンのヴィーン定住を条件に支払うという契約が行なわれた。これは翌年3月から施行され、彼は作曲上の契約の一切ないという破格の条件で、「あなた様さえ居てさえくれれば」待遇のパトロン関係を結ぶことに成功してしたのである。以後芸術家というレッテルの肥大と、パトロン制度の崩壊が19世紀に進行するが、その際どい一線で芸術家至上パトロン制を樹立できたのは、ベートーヴェンとヴァーグナーぐらいのものかもしれない。(・・・ホンマかいな。少しは考えてから記入しろよ。)
ここにも名を連ねるルドルフ大公(ルードルフ・ヨハネス・ヨーゼフ・ライナー)(1788-1831)は、この頃重要なパトロンとして登場し、ベートーヴェンからピアノと作曲を長期に渡って教えて貰っている。実はベートーヴェンが作曲を教えた唯一の弟子がルドルフ大公だとも言われている。最近では彼の作品も掘り起こされているようだ。さてこの大公、1790年から92年にかけて神聖ローマ帝国皇帝となったレオポルト2世の末っ子であり、神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世(在位1792-1806)(最初のオーストリア皇帝フランツ1世としては在位1804-1835)の弟でもあり、ベートーヴェンの友人としては最も位の高い人物だった。
またこの時期エルデーディ伯爵夫人と近づいた彼は、彼女を母親のように慕い、その邸宅にひき移ったが、またしょうもない妄想で仲をこじらせている。なんでもベートーヴェンの召使いにかなりのお金を支払っていたことが分かると、伯爵夫人が男買いをしているという妄想に取り憑かれて、腹を立てて別の場所に引っ越したそうだ。
この年ボン時代の友であり、しばらくヴィーンに居たアントン・ライヒャがパリに移り住んだ。彼は1817年からパリ音楽院の作曲科の教授となり、リストやベルリオーズなどを教えたことでも知られている。古典派からロマン派時代の作曲家達がいかに緊密な連続体として連なっているかがよく分かる。
さて、大御所クラスにのし上がった彼の楽曲も、ヴィーンでの公開演奏会や事前演奏会などで大量に取り上げられていたが、ついに満を持して自らの収益を兼ね、1808年12月22日に自作演奏会が開かれた。これが大いに転げて、文字通り大根チェルトに落ち入ったことはよく知られている。これにより2つの交響曲5番、6番の初演が悲惨の大失敗に終わり、ミサ曲ハ長調の抜粋も有耶無耶になり、「合唱幻想曲」(op80)に至っては演奏が破綻してしまったそうだ。
1809年5月になると再びフランス軍がヴィーンを占領した。スペイン政権に介入したフランス軍により、昨年マドリードで民衆反乱が起こり、スペイン情勢が混沌としているので、オーストリアは「しめた」と思って和約を破り、イギリスと第五次対仏大同盟を結んだのである。しかしカール大公率いるオーストリア軍よりもフランス軍の方が上手で、またしても撃破されてヴィーン入場セカンドシーズンを向かえてしまった。ベートーヴェンはこの時、ようやく仲直りをした弟のカール(とヨハンナと息子カールの)の家の地下室に閉じこもって作曲を続けていたが、この時作られていた曲こそ、お騒がせコンチェルトとして有名な、ピアノ協奏曲第5番変ホ長調(op73)である。一方大砲の音に驚愕した老ハイドンは、「ワシがおる限り」と召使いと震えていたが、このフランス軍進軍の中で長寿を全うした。生前は愛憎入り乱れた反発を見せたベートーヴェンだが、ハイドンがなくなると、以後敬愛の念を忘れることはなかったそうだ。
ようやく占領が解かれ、10月平和条約が締結(ていけつ)。ベートーヴェンは「ピアノコンチェルト変ホ長調」(op73)(不適切にも後に「皇帝」と呼ばれたbyソロモン)や「弦楽4重奏曲変ホ長調」(op74)(ロプコヴィツ侯爵に献呈)(第10番、冒頭のピチカートの印象から「ハープ」と呼ばれる)を完成させながら、1808年頃親しくなり生涯唯一の弟子でもあったルドルフ大公(1788-1831)の疎開に対して、作曲されたピアノソナタ変ホ長調(op81a)(各楽章に「告別、不在、再開」と記されるため。せめて「告別」と呼ばないでフルネームで呼んで欲しい)の筆を進めた。この曲は「ゲーテの悲劇エグモントのための付随音楽」(op84)が完成した1810年にルドルフ大公に献呈されたが、一方この頃には新しいオペラのためのリブレット(イタリア語、「小さな本」→「オペラの台本」)も探していたようだ。
手紙によるとベートーヴェンの関心は、政治よりもテレーゼ・マルファッティとの結婚に向けられていたようだ。しかし、当時19歳だった彼女の両親は大反対し、申し込みは却下され、彼はまたしても失意のどん底に叩き落とされる。こりない彼はすぐさま、すでに夫のいるアントーニエ・ブレンターノに眼を移した。より正確にはフランツ・ブレンターノと妻との交際が始められたのだった。作曲の方では1810年ピアノソナタ変ホ長調[告別、不在、再開](op81a)や、弦楽4重奏曲ヘ短調[自分でセリオーソつまり真面目な4重奏曲と記入](op95)(ズメスカルに献呈)が完成。
またこの年はアントーニエ・ブレンターノの異母娘であるベッティーナ・ブレンターノとも近づき、手紙の遣り取りが見られるが、このベッティーナという人はゲーテにとって非常に重要な娘さんであり、彼女を仲介してベートーヴェンとゲーテが顔を合わせることになるようだ。
2007/4/15