ベートーヴェンの生涯 その4

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1811年

 ピアノ3重奏曲の名作である変ロ長調(op97)(ルドルフ大公に献呈されたため大公と呼ばれる)が作曲され、夏にはアウグスト・フォン・コッツェブ(1761-1819)による祝典劇のための音楽として、「アテネの廃墟」(op113)(序曲、ほか8曲)と「「シュテファン王、あるいはハンガリー最初の善政者」」を作曲。コッツェブという人はロシアから帰った後ベルリンで活躍したドイツの劇作家であり、ゲーテ、ナポレオン、ロマン派、自由主義を批判し、1819年に暗殺されてしまった。
 この年、リヒノフスキー候としばらくぶりに和解しながら、最近ではテレビ版「のだめカンタービレ」でテーマ曲として知名度を高めた交響曲第7番に着手した。一部のファンは「千秋交響曲」と呼んでいるが、これは世間的には通用しないから注意が必要だ。12月には「恋人によす」(WoO140)を完成されたが、自筆譜の上に書かれた「12年3月2日に私から作曲者に依頼した」という文字は、アントーニエ・ブレンターノのものだそうである。ところどころに登場する歌曲だが、実は600曲にものぼる全部の作品のうち、半数近くが声楽作品なのだそうだ。
 テレーゼ宛の手紙に、「あなたの肖像画を貰ったお礼をまだ言っていませんね」と書いているが、この肖像画は亡くなった時の遺品として出てきた、よく知られたものだ。この年ゲーテに対して「お慕いしております。あなたのファンでございます。」と手紙を書いて、友人のフランツ・オリーヴァに託した。彼は一時ベートーヴェンの秘書役を頼まれていて、1809年に作曲された「6つの変奏曲」(op76)(「アテネの廃墟のトルコ行進曲による6つの変奏曲」と呼ばれるが、実際は演奏曲のトルコ行進曲をアテネの廃墟に転用した。)の献呈を受けている。彼との関係は彼がロシアに向かう1820年まで続いた。さて、ゲーテの元に手紙を渡したオリーヴァは、ついでにベートーヴェンの曲をピアノで演奏したのだが、一緒に居たボアスレによると、ゲーテが音楽の聞える間中いらいらしまくって、「狂気の沙汰だ」と呟いてしまった。全然理解できないようである。まあ彼は豪商のおぼっちゃまだからしょうがない(?)。後になってからお手紙ありがとうの丁寧な返事だけはしておいた。
 またこの夏にはボヘミアのテープリッツに出かけ、ソプラノ歌手のアマーリエ・ゼーバルト(1787-1846)と会っている。このプラハからそう遠くない保養地は、テープリッツ、カールスバート異税にも幾つかの温泉地があり、夏の保養地として金のある人達が訪れる、いわば名所だったのである。
 一方ナポレオンは、すでに子供を産めない40過ぎのジョゼフィーヌと離縁し、なんとハプスブルク家のマリ・ルイーズを妻としてしまったが、この年皇太子ナポレオン2世が誕生た。ナポレオンは、何たることかローマ教皇庁を解体してしまい、戴冠式でふて腐れた教皇ピウス7世を幽閉すると、生まれたばかりの子供を、ローマ王にしてしまったのである。
 

1812年

 「交響曲第7番イ長調」(op92)を4月に完成させたベートーヴェンは、夏にテープリッツに向かった。この年6月に70万もの軍隊を率いてロシアに進軍したナポレオンだったが、これに対する対ナポレオン外交サミットが保養温泉地テープリッツで開かれ、多くの知識人達もやって来ていた。6月にヴィーンを出発して保養地に向かったベートーヴェンは、7月初めにテープリッツからカールスバート宛てに3通の手紙をしたためた。これが有名な「不滅の恋人への手紙」(お早う7月7日)である。相手はおそらくアントーニエ・ブレンターノで、互いに熱烈に愛し合い、しかしすでに夫も子供も居ることが足かせになって、結ばれなかった悲劇だそうだが、これについては本が幾つか出ているから思う存分購入するがよい。
 ボヘミアの温泉地を巡り歩き保養していたベートーヴェンは、7月19日にやはりテープリッツに来ていたゲーテからの訪問を受けた。ゲーテの日記には、「晩にベートーヴェンの所に、絶妙な演奏。」と書かれ、妻への手紙にも「彼ほど精力的に内面が充実した芸術家はいない」と書いているので、結構認めているようだ。またベッティーナ・ブレンターノがあるいは改編した可能性もあるベートーヴェンの手紙(とされるもの)によると、「ゴーエテ先生、お偉いさんが来るなり、私と組んでいた手をほどいて、道ばたに御敬礼。私が一行の前に平然と進んでいったのに、彼ったら脱帽ですよ、脱帽。どうもおどろきます。最敬礼なんですから。」と、まさかこんな非道い手紙ではない。これは私が多少悪戯したものだが、よく引用される「ゲーテの前は貴族も越すが、越すに越されぬベートーヴェン」の逸話はここから来ているのだろう。
 さて、ゲーテは置いておこう。不滅の恋人と結ばれなかったことによって、彼は身も心も熊虐め状態に陥ってしまったらしい。しばらくベットに寝込む有様だったベートーヴェンは、ソロモン氏によると寂しくてアマリエ・ゼーバルトに甘えるようなお手紙など差し上げていたらしいが、リンツに足を伸ばして弟のニコラウス=ヨハンの経営する薬屋に転がり込んだ。恋人が不滅になった腹いせか、ひねくれた道義心が沸き起こったのか、家政婦テレーゼ・オーバーマイヤーとの関係を怒鳴り散らして、警察の手まで借りて二人の関係を滅茶苦茶に打ち壊そうとしてしまったのである。ああ、兄貴よ、君は何って非道いことをするのだ。と思ったかどうだか、ニコラウスはテレーゼと正式に結婚して、ベートーヴェンは身も心もズタボロになって(?)ヴィーンに帰っていった。「兄さん、何しに来たんだろう。」「さあ、いつもの発作じゃないかしら。」この間も作曲は継続され、8月にはほぼ完成していた「交響曲第8番」(op93)の自筆譜には「10月リンツにて」との記入がされる。また年末には最後のヴァイオリンソナタであるト長調(op96)(第10番、1815年改訂)が完成したが、すでに1809年頃からは、洪水のような作曲の嵐は息を潜め、佳作のシーズンへ移行していくのだが、ここで一旦彼の創作活動は完全に沈着してしまうのだそうだ。そんな年末にはパトロンのキンスキー候まで亡くなってしまった。

 

1813年

 1913年には、重病人となっていたカールへの経済的援助(にもかかわらずベートーヴェンはこの年彼と殴り合ってしまったらしいが)、平価切り下げによるインフレ、重要なパトロンであるキンスキー候の前年の急死と、立て続けに悪いことが重なった。「最後の恋」に破れた後遺症はあまりにも大きく、ソロモンの考察によるとシンドラーや他の人が証言するところ、ベートーヴェンの控えめな自殺未遂が1813年の春か夏にあったとされている。


 「絶望に落ち入ったベートーヴェンは、尊敬する知人であるマリー・エルデーディ伯爵夫人のもとで束の間の安らぎを求め、イェードラー湖にある彼女の領地にバカンスに出かけたのです。ところが伯爵夫人が気が付いてみると彼の姿は見えなくなってしまった。『おや、どうしたのかしら。』とは思ったものの、勝手な彼のことだからヴィーンに帰ってしまったのねと放っておいたのである、その3日後のことだった。彼女の音楽教師であるブラウフレが、庭の片隅に熊が転がっているのを発見したのである。『ひっ』と驚いたブラウフレ、慌てて逃げだしたが追ってこない。おそるおそる遠くから覗き込むと、まるで動く気配がない。熊が死んでいるのかと近寄って、おそるおそる棒きれで突いてみれば、聞き慣れた声のうめき声。何たることか、瀕死の熊さんはベートーヴェンだったのである。」


 と逸話が少々改編されてしまったが、大して重要なことではない。とにかくこの頃、ベートーヴェンが飢え死にを試みたことが知人達の話題になっていたらしい。そして皆さん、軽蔑し給うな、彼は1813年、男性諸君が総立ちになって、「疲れた体を優しく慰めてくれる夜の要塞」と憧れる、不夜城デビューを果してしまったかも知れないのである。ベートーヴェンとズメスカル男爵芋の間で、ズメスカルの要塞通いをからかう文章が書かれているのだが、ベートーヴェンの「要塞に関する情報をありがとう」とか「あのためには時間が出来ている」とか書かれた手紙をもとに、総合的にソロモンさんが判断するところ、意気揚々と要塞に出かけてはすっかり意気消沈して帰ってきて、自分の日記に「魂の結びつきのない肉体の満足は動物的であるだけだ」と情けなくも書いてしまったのではないかと。このころ彼は服装の無頓着も極まって、浮浪者同然に成り下がっていた。
 そんな分けで作曲どころではなかったベートーヴェンだが、夏の終わり頃ヨハン・ネポームク・メルツェル(1772-1838)が発明した自動演奏楽器パンハルモニコンのための作品を依頼され、6月に行なわれた戦争でイギリス軍がナポレオンに勝利したことを祝う作品が完成した。すでにモスクワで致命的な大敗北を受けたナポレオンは、この年の秋にライプツィヒの戦いで立ち直れない敗戦を演じることになる。これは管弦楽用に直され、「ウェリントンの勝利」(op91)として完成。12月には負傷兵のための慈善演奏会で自ら指揮をして初演を行なっている。この時期にいたっても、指揮を完遂できるほどの聴力を持っていたことが分かる。丁度10月にライプツェヒの戦いでフランス軍がコテンパンに打ちのめされた直後だったので、この曲は一大センセーションを巻き起こすことになった。一緒に初演された交響曲第7番イ長調(op92)も大成功を収め、彼は一躍スターに上り詰めてしまったのだそうである。当時の人々にとっては、交響曲7番も勝利の交響曲として捕らえられたのかも知れない。
 彼は当初メルツェルとの約束に従いイギリスに向かおうと考えたが、この「ウェリントンの勝利」(op91)と「交響曲第7番」が大成功を収めてしまったために、ヴィーンに留まり演奏会に明け暮れることになった。しかしメルツェルとの間は「ウェリントンの勝利」の所有権を主張したメルツェルとの裁判により悪化した。

1814年

 そんな時代精神に則ったのか、大フィーバーで彼の精神が世俗化されただけなのか、彼はヴィーン会議(1814-1815)頃まで、同盟国を賛美したり栄光を賛えるような機会音楽を沢山作曲して見せた。ただし何度もフランス人にヴィーンに入城を果された怨みは、ドイツ人のベートーヴェンに取ってもヴィーンの人々にとっても当然強烈で、いつの間にか侵略者に変じたナポレオンの抑圧からの解放という熱気に、作曲家が率直に対応して、勝利讃歌に参加するのは、むしろ市民として当然のことで、構成になって俗物根性的に書かれる筋合は無いと思う。
 前年のライプツィヒの戦いに敗北したナポレオン軍は、すっかりやせ衰えて、3月中にパリが陥落、4月16日フォンテーヌブロー条約が締結されると、「エルバ島で君主ごっこでもしてろ」といってナポレオンはエルバ島に流されてしまった。そして9月1日から「メッテルニヒ、踊るヴィーン会議」(なんか違う?)が開催され、クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ(1773-1859)が議長を務め、革命前の状態に戻す正統主義が、会議後の合い言葉になることになる。当時の自由主義的、啓蒙主義的思想家や芸術家にとって、ナポレオンの敗北と保守主義の大勝利への転換は、恐らく今日考えるよりよほど、大きな意味あいを持っていたに違いない。これまでの思想や芸術に対する価値観が下方変位して響きが変わってしまうようなある種の挫折感が、萌芽していたロマン派の時代を直接的に導くのかもしれない。(思いつきだけで書き進むな。)
 そんな1814年。公開演奏会も数多く開催され、一連の機会音楽によって、彼は莫大な金銭を手に入れることが出来たそうである。(年金の未払い分と合わせて4000フローリン以上を投資に使えるだけの金額byソロモン・・・分かったような分からないような記述だ。)そして遂に大人気の渦の中で、あの「フィデオ」・・・じゃなかった、「フィデリオ」が帰ってきた。ヴィーン劇場の監督が「フィデリオ」の再演を打診してきたのである。ゲオルク・フリードリヒ・トライチュケ(1776-1842)の協力により台本に改訂を加え、5月に「フィデリオ」(第3稿)が上演されて今度こそ成功を収め、年末まで繰り返し上演が行なわれた。ただし「レオノーレ」の名称で上演したいという叫びは最後まで聞き入れられなかった。9月にヴィーン会議が開かれると、集まり来る諸国の重要人達も「フィデリオ」に喝采を送った。彼はヴィーンに集まった各国のお偉いさんにちやほやされて、有頂天を極めたのかもしれない。
 この14年には演奏会が中心になり、ヴィーン会議に付随する幾つもの機会音楽が生まれたが、他にも2楽章の過渡期(かとき)ソナータともいわれる、ピアノソナタホ短調(op90)(第27番)、それからフィデリオの改訂と新しい序曲(op72)、さらに4重唱と弦楽器のための「悲歌ー生けるごとく安らかに」(op118)など、非常にシリアスな作品も作曲された。決して俗化して駄目駄目になったシーズンではない。
 そのころ可哀想なロプコヴィッツ侯爵は破産宣告を受けて国家による財産差し押さえの後に、この年にお亡くなるそうである。またベートーヴェンにとって最大にして最強のパトロンを自認して、時には親友、時には親代わり、時には憎き仇として君臨してきたリヒノフスキー候までこの年亡くなってしまった。ヴィーンの貴族達は呪いでも掛けられたのか、ラズモフスキー邸の大火災もこの年のことで、彼はシュパンツィヒを引き連れてロシアに戻ってしまった。こうしてベートーヴェンが青年時代を通じて関わってきた貴族グループが、ヴィーン会議の年に次々に滅んでいく(?)のは何か時代の象徴的でさえある。そしてベートーヴェンもまた思想上の既存理念の解体に直面したものか、やがて作曲上の危機を向かえることになった。聴覚の衰えが本格化し、この年に頑張って参加した「大公」ピアノ3重奏曲のピアノ演奏では、これを聞いたシュポアーが「以前の名人芸の欠片も無くなってしまったのです。」と嘆いている。

1815年(1814-15頃から後期という人も)

 15年始め、歌の伴奏者として公開の場でピアノを弾いたのを最後に、彼のピアニストとしての生活は終止符を打った。出版社との交渉が相次ぎ、イギリスとの交渉も活発になるが、依頼された新作に対して既存作品をもって応じたベートーヴェンは、一時イギリスでの価値を落とすことになった。
 さてこの年3月、ブルボン朝が復活しルイ18世が王位についたフランスでは不満が高まっていたので、エルバ島のナポレオンは島を抜け出すと、フランスに帰国し、英雄的なパリ入城を果してしまった。これによってヴィーン会議は慌てて6月にヴィーン議定書を取りまとめ、お偉いさんの踊り狂うシーズンを終えたのである。ベートーヴェンが無駄にちやほやされる一時は静かに過ぎていったのである。しかし彼はこの年ヴィーンの名誉市民権を与えられている。
 なお、ナポレオンは各国との講和に失敗し、ワーテルローの戦いでまたしても大敗北。この戦いはナポレオンの優れた判断力と行動力が朽ち果てた戦いとも言われている。彼はこの後「ばいばーい」と君主達に手を振られ、セントヘレナ島に島流しと相成った。このお陰でセントヘレナは今日観光の恩恵を受けているそうだが、ナポレオンの僅かなフランス政権返り咲きは、「百日(にも満たなかった)天下」と呼ばれる。
 さて11月15日に弟のカールがお亡くなると、遺児のカール(1806年生)に対する後継人争いに乗りだした。ベートーヴェンは死ぬ直前にカスパル=カールに対して母親との協同後見人の遺言を「ベートーヴェンを後見人」にするように書き換えさせていた。カールは危険を感じて「母親から引き離すことは望まない」と補足したにも関わらず、偉大な作曲家は、弟が死ぬやいなや、カールを奪い取ろうと法廷に訴えたのだった。幼少時悲惨な目にあった彼は、自分だけが不幸の子供(に見える)遺児のカールを愛情という名で満たしてあげられると、例のごとく誇大妄想に走ってしまっただけかもしれない。ソロモン氏の本を読んでいると、カスパル=カール自身が子供を撲ちまくったり、妻のヨハンナの手をナイフで刺したり、夫婦なのに金を盗んだと云って警察に訴えたり書かれていて、ヨハンナがベートーヴェン兄弟によって地獄の生活を送っているような心持ちさえしてくるのだった。もう一人の被害者である息子カールは、1826年に自殺(未遂)という方法でベートーヴェンに復讐を果すことになるだろう。ところがこのカールからして、二十歳にもなって養育者からの離脱を自殺という方法で図ろうとする辺り、ベートーヴェンの父親であるヨハンの気力の抜けた性格が、遺伝しているのかもしれないが、だんだん誰がより悪いのかどこに問題があるのか、よく分からなくなってきた。
 年末は裁判も続き、1815年の作曲はリンケのために書かれた「2つのチェロソナタ」(op102)が目立つ程度である。しかし、この頃から手紙での駄洒落や冗談が楽曲にまで及び、多くのカノン小品が作曲されるのだそうだ。年末にはクリスマスの慈善演奏会で「カンラン山上のキリスト」などと共に完成したカンタータ「海の凪(なぎ)と成功した航海」(op112)を上演した。

1816年

 1816年の1月にはベートーヴェンが後見人として甥のカールを引き取ることが決定され、カールは10歳にして母親の元を引き離され寄宿制の私立学校に通わされた。精神に軋(きし)みを生じたこの作曲家は、夫を殺したのがヨハンナだとか、彼女は娼婦だとか思い始めて、カールは本当の自分の子だと日記帳に書いてみたり、ヴェーゲラーに「君は夫であり父だが、僕も同じだ。だが妻はいない。」と送ってしまうほどだった。おかげで20世紀になってからヨハンナこそ不滅の恋人だという、たわいもないすれ違い映画が登場する始末だが、ソロモン氏自身が著書の中で、「ヨハンナに対する激しい敵意は、彼女と結ばれて父親の役を手に入れることが可能であるという事実から来ている」と説明しているから、精神的には間違いではないのかもしれない?
 私立学校を開催するジャンナタジオ夫妻と親しく付き合い始めたベートーヴェンは、彼女の娘達ファニーとアンナとも親しくするようになり、ファニーにすみれの花をプレゼントして「春を持ってきてあげましたよ」ときざなことを云う中年親父の姿が見られたそうだ。そのファニー日記に残すところ、ヨハンナはカールを一目見たいために学校近くに引っ越したり、男装して学校に来てみたりしていたらしく、「本当にベートーヴェンよ、君は悪魔の生まれ変わりじゃないかしら。」とヨハンナに同情票が集まりそうなところである。
 4月に連作歌曲(リーダークライス)集「はるかな恋人に」(op98)、年末に「ピアノソナタ第28番イ長調」(op101)を完成させたぐらいでほとんど作品が生産されなかった。リーダークライスは通作による連作もの歌曲の初期の例として重要だ。しかも精神的統一ではなく、調性やピアノパートの関連性など、非常に強力な一つの作品に仕上がっている。またop101のピアノソナタにはフーガの手法が使用されているが、後期の様々な作品にフーガ的手法、対位法的手法とソナータ形式の新しい挑戦を見ることが出来るだろう。その後、17年の終わり頃作曲を始めた「ピアノソナタ第29番変ロ長調」(op106)まで、約1年間の作曲上空っぽの時期が続くのだそうだ。ソロモン氏はこの作曲不振の時期がむしろベートーヴェンの生活が穏やかに保たれていた時期にあり、1818年からの再訴訟時期には日常生活が大荒れの中で恐るべき作曲生産能力を発揮していることを上げているので、どこぞの音楽関係者のように何も考えずに「生活がどうのこうので作曲が出来なかったのだ!」とか、野獣の叫びを張り上げるのは止したい。ついでに脱線すると、うちのご老体の婆さんはどんなに体調が良さそうな時でも調子を聞かれると、必ずどこどこが痛い苦しいなどと悲観する。しかも云われて初めて想い出した様子である。爺さんの方は「俺はもう長くないんだから」と言い続けて、いまだ車を乗り回している。当事者の発言や手紙にはその人の傾向が如実に表われるので、たまたま手紙にあった言葉を取り出して、「斯様に彼は苦しみのたうちまわり」などと考察も客観的証拠もなく安易な主観に身を委ねるのは、有料の文章を著述する人間のすべきことではない。(・・・このコンテンツは無料だから、そういうこともするよ、と言いたいらしい。)

1817年(ここから後期という人も)

 1817年始めにはシュタイナー社にあてて(op101)以降のピアノソナタを「ハンマークラヴィーア」と呼ぶように書いているが、1818年に完成した「ピアノソナタ第29番変ロ長調」(op106)だけが、後々この名称で呼ばれることになった。技巧性だけでなくあらゆるピアニスティックな効果の枠を超えてしまったようなこのソナタは、したがってオケ作品として編曲した人が何人も居るくらいだ。ベートーヴェンのモットーは「これであと50年は戦える」・・・じゃなかった、「50年はピアニストを駆り立てる」そうである。実際にこれはクララ・シューマンやフランツ・リストを駆り立てて、彼らの演奏によって、初めて人々に知られる曲となったくらいだ。この楽曲の終楽章にも相当難解なフーガが使用されている。ほとんどフーガそのものにチャレンジを求めるようなフーガで、バッハが見たら驚きそうな楽曲になっている。それがどんなものかと聞かれたら、譜面を見て演奏してみればいい。全然スマートじゃないのに、一度耳に入ると抜けられなくなるから。最終楽章に限らず、あらゆる楽章において、このソナタは故意に楽曲に法外なチャレンジ精神を持たせていて、緩徐楽章では、時間の長さそのものが演奏者のチャレンジすべき障壁になっているような気がする。(ピアノの音色だけで、人々の心を最後までつなぎ止められるのかという。)緩徐楽章は変奏曲になっているが、変奏形式も後期の新たな挑戦の重要なキーワードになっているのだ。
 この年、フィルハーモニー協会から次の冬にロンドンに来ませんかと招待され、これに承諾。2曲の交響曲を作曲して欲しいという申し出に答えることは無かったが、最後の交響曲第9番の作曲へ足を進めるきっかけとなったのかもしれない。 
 またナネッテ・シュトライヒャー(シュタイン製ピアノでお馴染みのヨハン・アンドレアス・シュタインの娘で、旦那のヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーと共にピアノ製作に携わっていた)と大量の手紙のやりとりが行なわれ、彼女が母親のような役割を果していたそうである。このころベートーヴェンはシュトライヒャー家の私的演奏会の集いにもよく顔を覗かせていた。

2007/4/20

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