ベートーヴェンの生涯 その5

[Topへ]

1818年

 相変わらず体調の優れない彼は、イギリス行きの計画を断念して、5月には甥のカールと共にヴィーン郊外メードリンクに出かけた。保養地で自然を浴びて、精神を高揚させるベートーヴェンの常套手段である。(彼の滞在したところはハフナーハウスと呼ばれている。)保養地で5月には楽友協会(1812年に設立された。ただし今の建物はずっと後にテオフィル・ハンセンが建築したもの。)の創設者の一人、ヴィンチェンツ・ハウシュカ(1766-1840)から、好条件でオラトーリオの依頼があり、機嫌良く返事を書いている。また集音装置が取り付けられたブロードウッドの新型ピアノが保養地に到着し、これによって「ハンマークラヴィーアな楽器によるソナタ」の作曲を続けた。この頃のベートーヴェンは例えば、ツェルニーが自宅で行なう生徒による演奏会にも彼は顔を出し、即興演奏を聴かせてくれ、皆深くこころを動かされたという証言もあり、ピアノという楽器は旅立ちから臨終まで彼に親しい楽器であり続けたのだった。
 この18年頃から後期作品が一気に花開くことになる。先に挙げたピアノソナタ(op106)や、弦楽5重奏のためのフーガ(op137)、さらに「交響曲第9番」のもとになるスケッチなどの作曲を開始している。この頃にベートーヴェンを訪れた有名な肖像画家のA・クレーバーは、この頃の彼の様子を書き残しているが、彼も集音装置や補聴器を使えば場合によっては辛うじてある程度の音を聞くことも出来たと証言している。
 そんな1818年、学校から引き取った甥のカールの後見問題で、再び裁判闘争が勃発する。この天下御免の騒動屋は、もしかしたら作曲への情熱と、実生活での「もめ事」への情熱が一体になっているのかもしれん。人の息子を奪い取って母無し子仕立てた極悪非道の作曲家ではあっても、それまでは寛大なる己の良心によって、しばしば母親に合わせてはいたのだが、やがてカールが自分に内緒で母親と会っていることを知ると、芸術大爆発?じゃなかった雄叫びを張り上げて、学校を止めさせ自分の家に引きずり込んで、カールにも自分が親父にやられたように暴力をふるう始末、ソロモン氏に云わせると自分に対して父親ヨハンが依存の度合いを深めたように、彼はどんどんカールに重くのし掛って、かまって貰いたい親父状態に落ち入ってしまったようだ。母親はもはやこれまでと再び法廷に訴えた。貴族の裁判を行なう法廷(ラントレヒト)である。ベートーヴェンはまんまと貴族に成りすましていたからである。(というより、そう思いこんでしまっていたからである?)圧倒的貴族などの知人関係が多いベートーヴェンが裁判に有利なのはどうしようもなく、ヨハンナ危うしと思われたところ、しかしラントレヒトでベートーヴェンが貴族でないことが発覚。一般市民用の裁判所(マギストラート)に移るように云われて、ベートーヴェンは高貴な自分にケチをつけられて、「まぎっすとらあとおぉぉぉぉ!!!」と叫んで大分ぶちぎれなさって、おまけに移った民事裁判所では「どうみてもヨハンナが後見人だろ」と常識的な判決が出されて、ベートーヴェンはもはやなりふり構わずヨハンナを貶め息子を奪おうとして、尋常ならざる大騒ぎを繰り広げた。とても見ちゃあ居られない有様だった。そのあいだにカールはいったん母親の元に返された後、ヨーゼフ・ブレヒリンガーの男子学校に入れられることになったのである。ソロモン先生が述べている、「皇帝に毒づいても警察すら相手にしない。」とか「突然怒り、感情爆発、金銭執着、被害者意識、などが死ぬまで彼に付きまとい、ヴィーンの偉大な作曲家は崇高な狂人だとヴィーンの人々に思わせた。」という記述は、こんな彼の悲しき醜態をよく表しているのかもしれない。しかし彼は強靱ではあっても狂人ではなかった。職人技と巨大な個性(自我)とが融合したような作曲スタイルは、死ぬまで洗練を続けるのだった。鬼である。奴はやはり作曲の鬼だったのだ。(・・・なんか文体が壊れてきたな。)  そんな中で「ハンマーで打ち付けてやるぜソナタを」(op106)が完成したが翌年になっても裁判の決着は付かず、1820年7月までもつれ込んだ。

脱線コラム、メトロノーム

 ライプツィヒのブライトコップ&ヘルテルから出されていた、「一般音楽新聞Allgemeine(一般の) Musikalische(音楽に関する) Zeitung(新聞)」はヴィーンでも購読できたために、ベートーヴェンがロホリッツに手紙を送ったりしているわけだが、すでに1810年を過ぎた頃から速度を計測する機械についての記述が見られ、特に1813年には「クロノメーター」について、功罪が対話形式の記事になっているという。「活版印刷初めて物語」の時のように、同時進行的に複数の者がこのような機械の開発を行っていたのだろう。偉大な商売人メルツェルは大作曲家の推薦により一躍抜きんでようと、1817年にベートーヴェンにメトロノームを勧めに勧めた。「ウェリントンの勝利」の所有権を巡る争いは、裁判費用の折半(せっぱん)により和睦にいたり、12月にはライプツィヒの「一般音楽新聞」にベートーヴェンの交響曲8曲のメトロノーム表記が掲載され、少し前の手紙でも「あまりにも曖昧すぎる言葉による表記から、テンポを救い出す可能性を秘めている。もし絶対的に使用されるのでないなら、推選すべき価値を持つ」というような意味のことを書いているらしい。そして1818年の2月14日にはバレンタイン特別企画として・・・そんなわけはないが、かつての先生であるアントーニオ・サリエーリと連名で、推薦文を掲載したのである。(これはヴィーンの「新音楽新聞」)ただし彼自身は、交響曲以外、弦楽4重奏と例の「ハンマークラヴィーアソナタ」にメトロノーム指示を当てはめたぐらいで、実践においてどれほどこれを重視していたかは分からない。ただ、「第9の成功はメトロノームのお陰であり、今や共通理解の言葉記号など不可能である」と、来る時代を大いに予感させるコメントも残しているようだ。いずれメトロノームは、ベートーヴェンを掴まえたメルツェルの商才と、ベートーヴェンの先見の明、そして何よりベートーヴェンという肩書きの力によって広まり、音楽教材作曲家達であるツェルニーや、フンメルが練習曲に律儀にご指導することによって定着していった。しかしそれはベートーヴェン自身が述べているように、絶対的なものであってはならなく、田舎の音楽教師には必要なものだが、一流の演奏家が隷属的にテンポを守り抜くためにあるものではない。もしそのような演奏を行ったならば、それは彼がもっとも望まなかったことをしているのかもしれないだろう。君、気を付けたまえ。
 ところでこのメトロノーム(metronome)の名称、ギリシャ語のmetro(メトロ)にギリシア語のnomos(ノモス、方法、法、規範)を掛け合わせて作ったものだという。メトロは「装置、母」という2つの異なる意味を持っていて、メートルという長さの単位も、ギリシア語のmetron(メトロン、尺度)から由来するそうだ。一方メトロポリスなどの用例はポリス(都市)の頭にメトロが食っ付いているようだが、この場合は「母」の意味が使用されている。たぶんラテン語のマーテル(母)もギリシア語からの流用だろう。英語の説明では単に接頭語metro-、接尾語-meterとどこぞに書いてあった。さらに全然関係ないが、銀河鉄道のメーテルは、ギリシア語の「メタ(母親)」と「メーター(機械)」の掛け合わせだそうだが、掛け合わせになっていないような気がしなくもないと、星野鉄郎は悩んでいたらしい。
 非道い脱線だ、言語のところはネットでざっと調べただけで、格とか接頭語とか正格でないので、まあ流し読みにして下さい。とにかく今日でもメトロノーム記号にM.Mと表記されているのは「メルツェル(俺様)のメトロノーム」という彼の自負が亡霊となって乗り移っているようではないか。
 さらに門馬直美さんの記述によると、補聴器を作ってやったのはこのメトロノームのメルツェルじゃなくて、その弟のレーオナルト・メルツェルだ、ちゃんと調べやがれ(とは書いてないが)とのことです。
 ついでだからここでまた述べておくと、ネットからの拾い物が多いこのサイトの内容もまた、莫大な勘違いと間違いを内包していることは間違いなく、鵜呑みにしちゃ駄目駄目です。

1819年

 1819年、トチ狂った兄さんに対して、弟のニコラウス=ヨハンが戦いを挑んだ。彼はヨハンナと結託し、カールの後見人は兄よりも私の方が相応しいはずだと、裁判所に提出したのだ。おまけにベートーヴェンの行動は、ヨハンナに対する愛情から生まれたものだと、ヨハンナ自身が広め(これはあるいは優れた軍師による作戦か?)、眼からマグマが飛び出たベートーヴェンは、ついに最後の切り札ルドルフ大公の名前などをちらつかせてしまったのだ。作曲の鬼は、実社会での鬼でもあったというのか。結局一時ヨハンナに決定し掛かっていた後継人を、1820年に奪い取って勝利のうちに審理を終えたのである。疲れ切ったヨハンナはヨハン・ホフバウアーとのあいだに子供をもうけて、生まれた娘にルートヴィヒの女性形ルドヴィカの名称を与えたって、なんじゃそりゃ!!!  この年も夏はメードリングに滞在していたが、「ミサ・ソレムニス」(op123)の作曲が始まることになった。ルドルフ大公がオルミュッツ大司教に即位するので、その即位式のためにミサ曲が計画されたのである。しかし出来上がった作品は、カトリック的な宗教心のミサ曲とは言えず、教会的な作品でもなく、「人間知性の輝きに満ちた啓蒙主義と大自然の向こうにおわす神」というような、ベートーヴェンの考える神へのミサ曲だといえるかもしれない。(つまり第9番と世界観が似ているのだろう。)彼はすでに1818年にメードリングで「真の教会音楽を書くためには修道院の古い聖歌を学習し、最も正しい翻訳と韻律を求める」と書き記しているが、ルネサンス期の作品や、バッハ、ヘンデル、そしてC・P・E・バッハなどの研究を開始した。対位法作品としては、パレストリーナだけでなく、例のザルリーノやグラレアーヌスの「ドデカコルドン」まで読んだりしているそうで、過去の遺産の取り込みが集中して、勤勉に行われている。まさに鬼、音楽の鬼ですな。彼は例え自分の精神がズタボロになっても、音楽のことだけは何時でも忘れてはいなかったのである。また同じ頃、「頌歌(しょうか、神の栄光などを賛える歌)風のアダージョ - 古い旋法で交響曲に敬虔な歌を - 主は私たちを讃え - アッレルーヤ」という記述を残している。なんだか中世のモテートゥスの題名みたいな言い回しだが、交響曲と旋法的なものの融合は第9番の最終楽章で果たされることになるだろう。
 この1819年、かつて「アテネの廃墟」や「シュテファン王」を作曲した時に劇作家を務めたコッツェブーが暗殺された。おまけに彼を暗殺したカール・ザントは1815年に旗揚げされたドイツ学生結社の連合「ブルシェンシャフト」に加わっていたのだ。このブルシェンシャフトはドイツ自由主義運動的活動を行なっていたが、1815年にヴィーン会議の結果として締結されたヴィーン議定書によって保守的傾向を強めたオーストリアにとって、自由主義運動などもってのほか、この暗殺事件を契機にメッテルニヒがドイツの主だった支配者層をカルロヴィ・ヴァリ(カールスバート)に集め、ブルシェンシャフトに対する本格的な弾圧を決議した。これをカールスバート決議という。反動の時代が訪れていた。世間に悪態をつくベートーヴェンにたいして、カールが「だまらっしゃい。壁に耳があるのです。」と注意書きをしたりしているそうだ。

1820年

7月まで後見裁判が継続するが、ベートーヴェンはまたしても夏にメードリングに向かった。今度はハフナーハウスの近くのクリストホーフに滞在し、ミサ・ソレムニスの作曲を続けている。大公の即位式はこの年の3月にすでに通り過ぎてしまった。この年は特にクレドの章に時間が割かれていたようだ。全然完成していないのに、さっそくボンのジムロックに出版交渉の手紙を送っているが、兼ねての旧友への手紙にはボンに旅行して墓参りがしたいというベートーヴェンの意志を見ることも出来る。母親の元に走ってしまったカールもメードリングに顔を出し、裁判がどうなろうと、1823年まではブレヒリンガーの学校の寄宿生であり、その後2人が一緒に暮らし出すまでは、お互いにとって良い関係を保っていたそうである。そんな1820年、完成作品としては「ピアノソナタ第30番ホ長調」(op109)が上げられる。
 後年は人間嫌いで閉じこもっていたと言われるが、この時期に至っても彼は相当の人達と親しい付き合いを続けていた。大いに変なおじさんぶりを発揮はしていたようだが、この頃には浮浪者と間違われて家を覗いていた罪で警察に連行されたともあるそうだ。女性に対する倫理深さもすっかり歪みきって、ソロモン氏によると、夜の女王だけでは飽きたらず、1820年にはカール・ペータースが自分の妻をベートーヴェンに貸し与えたのではないかと詮索している。ペータースはべつにある少女のお世話もしたそうである。あるいは、やんちゃな中年親父の醜さを振りまいていたのかもしれない。

1821年

 ジョスカン・デ・プレ没後300年にも関わらず、ジョスカンの曲を研究しなかった祟りでもあったのだろうか、この年は元々体調不良であったベートーヴェンにとっても、とにかく体調の悪い年であった。ミサの作曲が継続され、大公に「黄疸黄疸悪い悪い」と自らの症状を述べながらも、ジョスカンに捧げる(ではないが)名曲「ピアノソナタ第31番変イ長調」(op110)が完成し、終楽章のフーガはジョスカンへの哀悼歌となっている。(だから嘘を書き進めるなって。)そして、すでに最後のピアノソナタの作曲も開始されている。
 そしてこの年、ジョスカン・デ・プレ没後300年に合わせるように、偉大なナポレオンは、セント・ヘレナ島でひっそりと息を引き取ったのである。5月5日の子供の日のことであった。最近ではヒ素による暗殺説も沸き立っているが、決着はついていないようだ。心の中でたぶん、ナポレオンに憧れの英雄願望を持っていたベートーヴェンも、彼が亡くなったのを聞いて、何と思ったことであろうか。

1822年

 1月についに最後のピアノソナタである「第32番ハ短調」(op111)を完成させた彼は、「ピアノソナタ第31番変イ長調」(op110)の最終楽章の変更も行なった。そしてディアヴェリから依頼された変奏曲が拡大しすぎたため、単独出版することにした「ディアヴェリのワルツによる33の変奏曲ハ長調」(op120)と、ミサ曲の作曲に精を出した。またこの年は1820から作曲を続けていた6曲のパガテル(op119)が完成している。この頃には、またしても仕事の鬼と化し、日常を忘れたような作曲家の生き様を見ることが出来たようだ。
 春にはオペラ「セビリャの理髪師」(1816)のヴィーン上演により旋風を巻き起こしているロッシーニが、ベートーヴェンを訪れている。ベートーヴェンはちゃんと対応して、「才能のあるオペラブッファ以外、書いたらぼろが出ちゃうぜ、君。」とは言わなかったが、ブッファ以外書いちゃ駄目だとは言ったらしい。
 今年の夏はオーバーデーブリングに向かうことにしたベートーヴェン、5月末にはヴィーンを離れ、この頃から不和になっていた弟ヨーハンと、いなくなっていた秘書役を獲得するためにだろうか、仲直りしている。以後ニコラウス=ヨーハンとは死ぬまで付き合いが続いた。ベートーヴェン3兄弟は、あれほど喧嘩しながらも、結局生涯付き合いが続く辺りは、最終的には仲が良かったと云うことが可能なのかもしれない。同じ頃、裁判によるタコ殴りでいじめ抜き、ついに断絶したはずのヨハンナにも金銭的援助を開始した。秘書といえば、フランツ・オリヴァーがロシアに消えて以来、1816年頃から時々雑用の面倒を見てくれていたアントン・フェリクス・シンドラー(1795-1864)が、この年10日ほどベートーヴェンと同居したり、秘書的な活動を行うようになっている。
 9月にはカールと共にバーデンに向かい、ミサ曲やディアベリだけでなく「交響曲第9番」の作曲も進行、10月には「アテネの廃墟」を旨く使い回した祝典劇「献堂式」(op124、ヨーゼフシュタット劇場の改装後の柿落としのために)のために序曲を作曲し、11月にはフィデリオの再上演が行なわれ、打ち切られずに6回の再演を行なった。しかし自らを鼓舞して望んだ練習時の指揮では、あまりのしちゃかめちゃかで演奏者全員が大根チェルトに落ち入ってしまったらしい。
 この11月にニコラス・ガリツィン侯爵がロシアから手紙をよこした。幾つかの弦楽4重奏曲を書いてくれれば、十分な謝礼をするというものである。実際は手紙以前に構想の膨らんでいた4重奏曲があったので、よろしいと返事を書いた。ところが大曲に掛かりきっていたベートーヴェンが、実際に4重奏を完成させるのは、24年以降になる。この頃には気高き室内楽を堪能する違いの分かる人々が生まれ始めていたので、通の私的演奏会では大いに高い評価を受けたそうである。
 またこの年にはイギリスのフィルハーモニー協会からの交響曲の依頼や、フィデリオ再演を見た劇場の新しいオペラの依頼が来ている。

1823年

 

1823年3/19オルミュッツ大司教就任式には大幅に遅れた「ミサ・ソレムニス」(op123)がついに完成しルドルフ大公に献呈される。さらに4月には「ディアヴェリ変奏曲」も完成。これはメロディーを変奏する旋律変奏と共通和声に則って自由に変奏される和声変奏を駆使した作品で、同年出版され「バッハの類似手法の傑作に並ぶ」と紹介されている。
 ベートーヴェンは、過去の音楽を調べている間に、過去の楽譜販売方法が金銭に結びつきそうなところを見て取ったのか、それとも自らの最も尊大な作品に対して、歴史的な威厳を持たせたかったのかは分からないが、筆写譜楽譜(製本筆写譜は印刷楽譜に劣るものではなく、遙かに格調高いものであるという伝統は、まだ十分通用した。今でも通用するかもしれない。)の販売を行うことを考えついた。この年から各国の君主や著名人に予約依頼の手紙が舞い込むことになった。体調を崩していたゲーテの元にも送られて、執拗なお願いの手紙に、気品のなさを感じ取ったのであろうか、返事すら書いてやらなかったらしい。手紙には平然と「今のところ出版する意志はなく」と、絶対出版する意志ありありだったのに、平気で書かれている上、弟の息子の話を出したり、必要に迫られて芸術家としてでない行動を取る苦しみを察しろだの、したたかな中年男の浅ましさに満ちあふれている?パリで活躍するルイジ・ケルビーニ(1760-1842)にも手紙を書き、あなた様から国王陛下にご予約の推選などしていただきたくと、ナポレオン皇帝就任を聞いて怒った(とリースが言うところの)人間とは、とても思われない有様だった。親愛なるフランス国王ルイ18世は寛大にもミサ曲を予約して下さり、24年には金のメダルまでプレゼントしてくれたそうだが、果たして内心は大喜びだったのではないだろうか。笑っちゃいけない、君がそこに居たら、やっぱり大喜びじゃないだろうか。僕なら喜んでスキップをするだろう。
 さて作曲の中心が「交響曲第9番」に移る頃、11歳半ばのフランツ・リストの演奏会に立ち会ったのは有名な話しだが、他にもすでに「魔弾の射手」(1821)で名声高まっていたカール・マリア・フォン・ヴェーバーが訪れている。実は今年の4月にドレスデンで「フィデリオ」を上演して成功に導いてくれたのが、ヴェーバーだった。ヴィーンの文学者としてお馴染みのフランツ・グリルパルツァー(1791-1872)とも何度も合って、計画していたオペラ「メルジーネ」について話し合った。またこの年には、ベートーヴェンを作曲上の父上として押したい申し上げているシューベルトが、ベートーヴェンへの献辞を付けたピアノ連弾曲を出しているようだ。この曲を持ってベートーヴェンを訪ねたら留守だったという逸話も残されている。

1824

 1824年2月「交響曲第9番ニ短調」(op125)が完成し、さまざまな紆余曲折を越え5月7日に初演を向かえた。知人達がケルントナートーア劇場での公開演奏会のために奔走してくれたのである。曲目は「献堂式」序曲(op124)、「ミサ・ソレムニス」(op123)からの抜粋、そして第9であり、ソレムニスと第9は初演をヴィーンで行なって欲しいという知人達の願いが大きかった。(ただしソレムニス全曲初演は同年4月にロシアでガリツィンの尽力で行われていたが、ベートーヴェンは見ることが出来なかった。)この時ベートーヴェンが楽団員達が誰も相手にしない状態で、譜めくりしながら指揮を降り続けた話は有名である。ならばこそ「敬愛なるベートーヴェン」といった映画も生まれてくるわけだ。実際の指揮はウムラウフと、ロシアから戻っていたシュパンツィヒの2人によって行なわれた。皇帝への喝采でも3回が普通だったのに、4回ものアンコールを受けたという逸話が残されている。しかし収益がベートーヴェンの望みに達せず、やっぱり彼はご機嫌を損ねて、不満をまき散らすのである。続く5月の再演は大失敗に終わり、ヴィーンの冷たさが身に染みるのだった。嘘つき呼ばわりされたシンドラーは、26年の終わり頃までベートーヴェンから離れていた。秘書役はベートーヴェンの音楽に惚れ込んだ若きヴァイオリニスト、カール・ホルツが埋め合わせすることになる。この夏はバーデンで仕事を続け、ヴィーンに11月に戻ってきた。
 この年は例のヨハンナに対して、息子カールが譲り渡された年金の半額をを返済して、母親への援助を行なった。息子は母親に別の子供が出来ていたこともあってか、ここでは逆に大いに反対したそうだ。この頃寄宿生活を終え大学に進学したカールはベートーヴェンと一緒に生活をするようになって、心配性のベートーヴェンの病気が再発することになった。つまりカールに付きまといだしたのである。
 第9番の完成以後は、最後の5つの弦楽4重奏曲が順次完成を向かえる。まずは変ホ長調(op127)の作曲が開始され、翌年初めに完成している。構想としては次の交響曲なども考えていたようで、天命が彼を奪い去っていかなければ、優れた傑作が次々に生産されていたに違いない。彼のイマジネーションは枯渇するどころか、晩年に来て新しいエンジンを搭載して活動を開始したようだった。ただしグリルパルツァーとのオペラの計画は、この年の始め何があったか急に2人の関係が疎遠になって、実現されなかった。彼の名声も高まっていた。特にドイツ語圏とイギリスでは演奏会に彼の曲がよく演奏され、非常に高い音楽家と見なされていたので、公開演奏会の失敗が彼の時代が去ったわけではもちろんなかった。にも関わらず保養地に出かけたり、年中引っ越しマニアのため、時に3か所の家賃を払ったり、召使いを2人も抱え込んでいたし、カールの教育もあったり、何かと支出のかさむベートーヴェンは銀行にかなりの資産が蓄えられていたのだが、これを取り崩したくないためにかなりの借金が発生していて、それがソレムニスの出版権問題のごたごたを沸き起こすことになったそうである。しかも出版前にヨーロッパ中の君主や著名人に予約を取り付けて筆写譜販売を行なってしまったのは前に見た。これは10部ほど売れて純利益が1600フローリンという、美味しいことは美味しい小技だったが、借金に追われてだけでなく名誉欲の方が大きかったのかもしれない。ついに第9番に至ってはプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈されてしまった。ヴィーン体制が君主制に憧れを持って舞い戻る時に、彼もまた偉大な君主を賛えることに専念してしまったのだろうか。
 この年の終わり頃には、6つのパガテルの第2弾である(op126)が完成している。

1825

 

フィルハーモニー協会からロンドンに来て欲しいと依頼があり受諾したものの、非常に体調が悪化したベートーヴェンは、しばらくバーデンで療養した。一時期は血を吐くほどだったが、奇跡的に回復した。丁度この時期に弦楽4重奏曲イ短調(op132)を作曲していたのだそうだ。その3楽章には「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌。リディア旋法による。」と記述がされている。この年は弦楽4重奏曲変ロ長調(op130)も完成した。6楽章の大楽曲で、最後にフーガ楽章が付いていたのだが、出版社がそんな阿漕な真似は止めておくれ、とさとされ最終楽章を差し替え、元のフーガは大フーガ(op133)として分離させたという4重奏である。ボン時代からの友人、シュテファン・フォン・ブロイニングの近所に引っ越した彼は、再び彼のと豊かな知人関係を再開した。年末にはかつての大親友、なのに大分手紙が疎遠になったヴェーゲラーと妻エレオノーレから手紙を貰った。
 しかしカールの行動を監視し、あらゆる場面にいらざるちょっかいを出し続けるストーカー的なベートーヴェンに対して、カールがノイローゼに落ち入るのは時間の問題だった。この年の5月にもバーデンには来なかったカールに対して、「お前はおっ母さんに逢ったのだろう。これまでも薄々感じていたのだが、ついにある人から聞いたのだ。」に始まる、たちの悪い手紙を送りつけたりしている。カールはこの年進学できずにヴィーン大学を中退し、工芸学校に中途入学したようだ。もしこれが、敷かれたレールに対して、自分の目的を見いだそうとした必死の努力だったりしたら、何だかベートーヴェンの叔父と父ヨハンの関係の二の舞のように見えてくる。

1826

 1月に弦楽四重奏(op130)が完成し、次の弦楽四重奏嬰ハ短調(op131)の作曲を開始したベートーヴェン。3月には(op130)がシュパンツィヒ四重奏団によって初演されたが、成功にはほど遠い有様だった。この曲は結局第6楽章のフーガを「大フーガ」(op133)として独立させ、代用の終楽章を作曲して改訂されることになる。
 この初演の頃、シュテファン・フォン・ブロイニングの息子ゲルハルトがピアノを学ぶ事に際して、他のものが手にはいるから、自分の弟子であったツェルニーの練習曲は使うなと手紙に書いている。恐らくクレメンティの練習曲で、ツェルニーの「しょうもな練習曲」の価値を率直に見抜くのを見ると、ツェルニーに作曲を教えるのは、才能がないから嫌だったのではないかと、とんでも無い邪推すら生まれてくるのであった。オラトリオ「サウル」やヴォルフマイヤーから依頼されたレクイエムを作曲すべく、ヘンデルの「サウル」やケルビーニの「レクイエム」の勉強さえ始めている、恐るべき作曲への情熱は、あと数年余命が伸びたら、どんな作品が生まれたであろうかと、私を非道く悲しませるものである。ベートーヴェンの「サウル」、絶対傑作になりそうではありませんか。7月中には弦楽四重奏嬰ハ短調(op131)が完成、最後の弦楽四重奏ヘ長調(op135)の作曲が開始している。
 しかしそうはさせなかった。ついにカールが復讐を果たしたのである。ガリツィンとの関係がギクシャクして四重奏と代金の行方が心配な状況で、今年はヴィーンに留まって仕事を続けるベートーヴェンだったが、彼のもとに衝撃のニュースが飛び込んできた。卒業試験の近くなったこの頃には、カール・ホルツや弟のヨハンをスパイにして、カールを監視させようとしたり、自分で学校や下宿先まで付きまとったり、尋常な若者を崩壊に導くにたる呪われたストーカーぶりを、思う存分発揮していたベートーヴェンだったが、これに対してカールが、ピストルを2つばかり購入して7月30日バーデンに向かって、自害を果したのである。しかし死にきれなかった。脳皮を掠めた鉄砲玉は頭蓋骨で躊躇したので、カールも踏ん切り悪く現世に留まって、病院に運ばれてしまった。カールよ、それでも君はトチ狂ったおじちゃんに銃口を向けなくて、まあ立派だった。今日バーデンのラウエンシュタイン城の遺跡は、ベートーヴェンの甥が死にきれなかった名所として、見晴らしの良い名所になっている。(・・・そんなアホな名所があってたまるか。)自殺は神への冒涜である。彼は警察のご厄介になり、回復した後は軍隊に入ることになった。
 彼が軍隊に入る前に、病んだ作曲家のおじいちゃん連れて、ニコラウス=ヨーハンとその妻、蘇ったカールが一緒に、しばらくヨーハンの別荘で生活し、みんなで「おじちゃんおじちゃん、こつん、こつん」といたわってあげたのだそうだ。これによってベートーヴェンは、前年完成した(op130)の終楽章を書き直し、また4重奏曲ヘ長調(op135)を完成させた。しかし年末から体調を悪化させ、ヴィーンに戻る途中で肺炎にかかってしまった。本人の説明では、急に戻るために乗せられた幌無しの牛乳運搬馬車にやられたそうだ。にもかかわらず何とか復活をはたして、一時起きあがれるようになったので、ヴェーゲラー宛に1年前の返事として手紙を書いてみたが、しかしそのうち再び悪化、腹水を取る手術が12月、翌年1月に行なわれ、その後も2月に2回、しかしもはや回復は困難だろう。

1827

 カールは1月始めに軍隊に向かったが、このあいだにも旧友達がお見舞いに集まってきた。その中にはシュパンツィヒ、カール・リヒノフスキーの弟モーリッツ・リヒノフスキーも居たし、フェルディナント・ヒラーと妻を連れて懐かしのフンメルも顔を出した。ブロイニング家の息子である13歳ぐらいのゲルハルト・フォン・ブロイニングもよく遊びに来る。ズメスカル男爵芋も手紙を書いてよこしたが、これは自身が病だったからである。ロンドンのフィルハーモニー協会から100ポンドの見舞いが来たり、ハイドンの生家を描いたリトグラフにヨーゼフ・ハイデン(異教徒)と間違ったスペルが書いてあるのをみて、激怒のあまり雄叫びを張り上げたりしていた。死ぬまで騒動だけは止めないようである。彼の床のある部屋にはハイドンのリトグラフと、叔父ルートヴィヒの肖像画が掛けられていた。
 シンドラーも戻ってきて、彼の世話を焼いた。なんていい奴だと思って天国に消えたベートーヴェンだったが、実は彼は偉大な作曲家のスケッチ帳、手紙、楽譜、会話帳などを確保して、会話帳などに大いに改ざんを加え、自らに都合の悪いことを抹消したりして、さらにベルリン図書館に売り渡し、ボロ儲けしたのである。彼については、初めからベートーヴェンにたかった虫のようなものだった。ベートーヴェンが第9初演直後に書いた手紙、「君の嫌なところが目について、友情などとは思えません」という手紙は、紛れもない真実であることを、シンドラーは後世の学者達に知らしめてやったのである。天晴れシンドラー。(なんか悪のりが非道いな。)
 そんな病の中、愉快な事件?も起きている。第9の献呈に対して勲章を望んだベートーヴェンだったが、プロイセン国王はブリリアント・カットのダイヤ入り指輪をプレゼントすると手紙が届いた。カール・ホルツが指輪を鑑定して貰ったら、激安リングだったので先生大いに怒りなさって、「捨ててしまえ」と叫ぶ、「王の贈り物です」とさとしたら、「私も王だ!」と叫んでしまったのである。まさか国王が安物で騙したとあっては外聞が悪いだろう。そんなことをするだろうか。もしかして指輪を仲介していた誰かによって指輪がすり替えられてたりして・・・。はっ、シンドラー、そこで何を。
 彼は最後に遺言補足状に、まだ一人者で軍隊に入るカールが死んだ場合ヨハンナに財産が譲渡される旨を書き記し、彼女に対する心の葛藤に対する和解を果したそうである。それから友人に「喝采せよ、喜劇は終わった」と初代ローマ皇帝アウグウトゥスを真似て言って見せたり(最後まで皇帝に憧れる彼であった)、頼んでいたワインが届いたがもう口に含めないので「残念、残念、遅すぎた。」とつぶやいてみたりしていたが、やがて昏睡状態に陥り、3月26日の夕方、雪が降り雷鳴がとどろく中で一瞬目を見開き、右手のこぶしを突き上げて、息絶えたと伝えられている。26日の午後にはシュテファン・フォン・ブロイニングとシンドラーがすでにお墓の準備に出かけて、その臨終に居たのは、偶然来ていたアンセルム・ヒュッテンブレンナー(1796-1882)の証言によると、自分とヨハンナ・ヴァン・ベートーヴェンの2人であったという。アンセルム・ヒュッテンブレンナーといえば、シューベルトの友人であり、例の未完成の楽譜を持っていた男である。後にヨハンナが居るわけがないといわれて、前言を撤回して、ヨーハンの奥さんが居たんだったと話しをややこしくしているようだが、あまり音楽史上に余計な負担を掛けるものではない。3月29日の葬儀には1万人以上の人々が集まって、偉大な作曲家に別れを告げた。シュテファン・フォン・ブロイニングは天国で知人を一人にさせておくのに忍びなかったか、この年の内に自分の天上に昇っていったのである。ミサ曲にはモーツァルトとケルビーニのレクイエムが使用された。

難聴と病気、死因について

 近年、毛髪検査によって通常の100倍もの濃度の鉛が検出され、同時に梅毒治療を受けていれば検出されるであろう水銀は検出されなかったという。この検査を指導したウィリアム・ウォルシュ氏によると、「ベートーベンは消化不良、慢性的な腹痛に、神経過敏症、うつ病を抱えていた。病気を治すために、多くの医師に会っていたようだ。彼の様々な持病は、鉛中毒が原因かもしれない。その性格にも影響した可能性があり、間接的な死因となったかもしれない。」さらに鉛中毒が難聴の原因になることは希なので、直接原因の可能性は低いとも説明。実際、どのような原因で鉛中毒になったかは不明だが、最近、最終的に腹水を取る手術の時に鉛成分が体内に取り込まれ、この手術が原因で、鉛中毒が非道くなって死に至ったという説も出ているようだ。

 実際の所、ベートーヴェンの下痢などの症状はすでにボン時代1790年代前半から見られ、始めから鉛中毒が主因であると片付けることが可能であるかどうかは不明である。難聴の原因については、先天性梅毒(母親が梅毒であると5%程度の確率で子供が梅毒で誕生する)であるとか、耳硬化症とか、最近流行の?神経性難聴、父親の暴力が耳を痛めたという説まであるが、これも結論は出ていない。

[上層へ] [Topへ]