モーツァルトの生涯 その3

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ザルツブルクの青年時代

 以後もザルツブルクに戻ったと思ったら、同年1773年の夏に親子共々第3回ヴィーン訪問をおこない、ヴォルフガングの宮廷楽団就職などを模索するが、マリア・テレジアは謁見だけ許して就職は許さず、僅か2ヶ月の内にヨーゼフ・ハイドンの影響の見られる6曲の弦楽4重奏曲を作曲しながら渋々ザルツブルクに戻る。戻るやいなや、生活に変化があった。ゲトライデガッセの生家からザルツァッハ川近くの家に引っ越したのである。2階8部屋を借りたモーツァルト一家は、以前よりずっと広いスペースで生活が出来るようになった。もちろんヴォルフガングの作曲にも変化があった、全体で2曲しかない短調のシンフォニーの1作目、第25番ト短調(K183[173dB])や、若き日の傑作として知られる29番イ長調(K201[K186a])など生み出され、また初めての弦楽5重奏曲である変ロ長調(K174)や初めてのオリジナルピアノ協奏曲であるニ長調(K175)も書かれ、1774年には今日のピアノソナタ集の頭に置かれるクラヴィーア・ソナータ達の作曲も行なわれ充実の度合いが増した。もちろんザルツブルクに滞在中は宗教曲も沢山作曲されている。9月になると例のバイエルン選帝候マクシミリアン3世が翌年の謝肉祭用オペラを依頼するので、12月6日にザルツブルクを発ちミュンヘンに到着、1775年1月13日にオペラ・ブッファ「ラ・フィンタ・ジャルディニエーラ(偽の女庭師)」(K196)が上演され、ついでにバイエルン選帝候の宮廷に勤めていたデュルニッツという人から依頼されて作曲したクラヴィーア・ソナータニ長調(K284[K205b])は、今日「デュルニッツなソナータ」と呼ばれて親しまれている。これは当地で知ったシュタイン製作のピアノの出来映えに感動して誕生した傑作で、ミュンヘンで流行していたフランス風ギャラント・スタイルの影響の表れが見られると言うが、私の知ったことではない。とにかく3月までミュンヘンを楽しんでから7日にザルツブルクに到着したが・・・・このやりたい放題の旅行尽くしはザルツブルク宮廷内でも破格の扱いではないかと不意にそんな思いが胸をよぎり、コロレード大司教の苦労が偲ばれる気さえするのであった。
 75年4月になるとマリーア・テレージアの末っ子である、マクシミーリアーン・フランツ大公がザルツブルクに立ち寄り、ヴォルフガングは大司教から祝典劇の作曲を仰せ付かり、メタスタージオ台本の祝典劇「イル・レ・パストーレ(牧人の王)」(K208)を上演した。8月初めにはザルツブルク大学の修了式があり、ヴォルフガングはこの日の夜に演奏される修了祝いの音楽のためにセレナードニ長調(k204)を完成、自ら楽団を先導して演奏を行なった。この年の内に彼の5つのヴァイオリン協奏曲が全部作曲され、以後このジャンルの作曲は行なわれないが、一説によると大司教の元での宮廷ヴァイオリン奏者の不快感が思い出されるとか、親父の姿がちらつくとか、ただ単にクラヴィーアのエキスパートだったからだとか、いろいろ言われている。もちろん他にも膨大な作品が生み出された。20歳を迎えた翌年もセレナードニ長調、愛称「ハフナー・セレナード」(K250{248b})やディヴェルティメントニ長調(K251)などが作曲された。この「ハフナー」は8楽章1時間に及ぶ大作で、かつての市長ハフナー氏の娘さんの結婚式のために作曲されたものだ。77年1月にフランスから女性クラヴィーア演奏家のジュノムがザルツブルクを訪れた際には、クラヴィーア協奏曲変ホ長調[第9番](K271)を作曲。この曲は第1楽章冒頭オケの直後にピアノのソロが登場するユニークな作品で、今日「ジュノムな協奏曲」として親しまれている。彼女からの話の影響でも無かろうが、レーオポルトの考える息子出世旅行プラン熱が高まりを見せ、またしても2人で旅に出たいとコロレードに掛け合ったが旨く行かず、挙げ句の果てに両人とも職を探しに行ってよしと大司教に給料を差し止められて、レーオポルトは心の臓が凍り付き病に伏せったりしながら、ここはザルツブルクに残るべきだと決心をして、様々な経過を経ておっ母さんとヴォルフガング青年でパリに向かうことになった。出発の直前にはすぐれた作品である「聖母マリアの祝日のためのグラドゥアーレ、ヘ長調」(k273)が作曲されたが、遠ざかる馬車を見た大司教は内心微笑みながら?2人の解職を撤回してお上げなさったという。

切ないパリ旅行(1777/9/23-1779/1/15)

 今度はアンナ・マリーアとヴォルフガングでまずミュンヘンに辿り着き、オペラ・ブッファ「偽の女庭師」を依頼してくれたバイエルン選帝候マクシミリアン3世に謁見し、就職の当てなどを伺ってみたところ、定員が揃っているから宮廷楽団は無理だと断られてしまった。劇場監督のゼーアウ伯爵の態度も旧に冷たくなり、あるいはコロレードが余計な手を回しておいたのかと疑う向きもある。知人貴族から欠員があくまで待つのが得ぞなもし、と留まることを勧められたが、親父の手紙が「先です、先に行くのです、今すぐにです。」と急かすので、モーツァルト親子はアウグスブルクに向かうことにした。ところが、このアウグスブルクではレーオポルトの弟の娘さんが2歳年下の適齢期を迎えていたので、マリーア・アンナ・テークラすごっく可愛いと心の中に思ったかヴォルフガングは、娘の愛称「ベーズレ(いとこっぽの意味)」を連呼しながら、おそらく必要以上に意気投合してしまったと思われている。また当地では有名なクラヴィーア制作者であるヨハン・アンドレーアス・シュタイン(1728-92)の元を訪れ、また彼の作製したハンマーフリューゲル(要するにピアノのことだ)を使用して演奏会を開いたりしていた。
 今度は1777/10/30、マンハイムに到着すると、再びプファルツ選帝候カール・テーオドールの宮廷楽団に触れ、それどころかマンハイム楽派の2世代目の中心人物、クリスティアン・カンナビヒと親しくなることが出来た。11/8には比較的よく引用される手紙がレーオポルトに送られ、そこには「僕は詩文は作れません。詩人ではないからです。色を旨く配合して、陰影豊かに表現する素敵な絵は描けません。画家ではないからです。表情身振りで自分の感情を表出することも出来ません。舞踏家ではないからです。でも、僕は音でなら出来ます。僕は音楽家なのです。」と記されている。しかし一方では、アウグスブルクのベーズレに対して「愛しのベーズレ、ヘーズレ(兎)さん。懐かしお手紙、受け取り、乗っ取り、叔父さん、どじさん、おばさん、ろばさん、あなたが、そなたが、元気と、天気と、知ったり、知ったり、曲がったり。」(心持ちですから、いい加減です。)のような語呂合わせ手紙を送りつけ、一連の排泄物を露骨に讃えた手紙が、後にベーズレ書簡として、研究者を苦しめたり、愛好家が首を傾げたり、7歳児を喜ばせたりしているようだ。ここマンハイムでは、名フルート奏者であるドゥ・ジャンのために2つのフルート協奏曲やフルート4重奏曲などを作曲して見せたモーツァルトだったが、「この楽器のために作曲していると頭がぼやけてきます」と書いてあるように、当時の音の抜けの悪いフルートの音色にあまり好印象はなかったようだ。また生活の方ではウェーバー家の娘さんアロイージア・ウェーバー(c1760-1839)にぞっこんいかれちまったり(・・・・・)している。この娘さんは、真のロマン派とも言われるカール・マリーア・フォン・ウェーバー(1786-1826)のお父さんの兄さんである、フリードリン・ウェーバー(1733-79)の娘さんで、写譜家にして宮廷劇場バス歌手を務めていた父の才能を受け継いで、すぐれた歌い手としてのステップを踏み出している真っ最中だった。ウェーバー家とマンハイム近郊の貴族宅などへ連れ添っている内に、モーツァルトの胸にエロースの矢が刺さり、もうアロイージアを守って俺が生き抜くしかない、とか何とか考えていたが、あまりのはしゃぎように母親がヴォルフガングの手紙の追伸に「この手紙の様をご覧なさい。新しい知り合いが出来ると、すぐに全部をなげうってしまうのです。」と心配すれば、親父レーオポルトからはパリへ迎えと脅しの手紙が押し寄せる。様々手紙の遣り取りがあったが、ついに有名な手紙が脅迫状のようにしてヴォルフガングの元に届けられた。その文章はこんな具合である。「お前の名声、そして年老いたお前の両親、そしてお前のこんなに愛しい妹を捨てると言うのですか。この私のことを、司教やお前を大切に思う町中の人たちからあざ笑われるように仕向けるのですか。パリに向かって立つのです。今すぐにです。すぐれた人たちの、中に身を置くのです。一か八かです。パリに対する思いだけが、お前を浮ついた考えから救い出すのです!!!」と丁寧な言葉(・・・それは君が勝手に作ったことだろう。)の脅迫文に一層のこと恐れを抱いたヴォルフガングは、とうとう78年の3月14日に泣きながらパリに向かうことになったのである。

そしてパリ

 18世紀を通じてオペラ論争華やぐパリでは、すでにリュリ伝統対ラモの新オペラ、イタリア喜劇オペラ対フランス叙情悲劇オペラと2ラウンドばかり壮大な激論を繰り広げていたが、改革を自認するグルックがいよいよパリで1774年に「アウリスのイフィジェニ」を上演すると、ついに第3ラウンドが切って落とされた。フランス伝統オペラ擁護とイタリアオペラ至上主義のグループがこんがらがって革新派グループと怒鳴りあっている内に、1776年に遣ってきたニッコロ・ピッチンニ(1728-1800)が対抗馬として担ぎ出される、オペラの聴衆ことごとくグルック派とピッチンニ派に分かれて、真実を明らかにすべくと言うよりは、論争それ自身のために、あるいは日々伝わるジャーナリズムに踊らされたり自ら踊りまくったり、つまりはどんちゃん騒ぎ状態を満喫した。そんなわけで、3/23にモーツァルト親子が到着すると、パリ音楽会は燃えたぎっていたのである。まず、この頃のパリで活躍する作曲家達を軽く眺めてみることにしよう。

パリの作曲家達

・シャルル・シモン・ファヴァール(1710-92)が52年から沸き起こったブフォン論争の後、喜劇的イタリアオペラの影響を取り込みつつ、イタリア語の作品を翻訳しフランス語に変えると、多くの作曲家がこれに音楽を付け、フランス重厚オペラをからかい批判する態度を織り込みつつ、フランス語のコミック・オペラを離陸させていった。例えば、フランス人のフランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール(1726-95)は、17世紀から王室に関係する作曲家一族フィリドール家の一人として、すでに開けっぴろげ音楽満載のイギリス小説に基づく台本による「トム・ジョンズ」(1765)などを書き上げているが、彼は作曲家として立つ前に7年間もロンドンでチェスプレーヤーとして活躍した経歴を持ち、モーツァルトが2回目の訪問を行なったときも作曲家として健在だった。少し後の1779年にはオラトーリオ「世紀祭の讃歌」というホラーティウスの詩を元にした作品をロンドンで初演したほどだ。後に革命が起きると彼はロンドンに亡命し、その最中にお亡くなりた。
・やはりフランス生まれのピエール=アレクサンドル・モンシニ(1729-1817)に至っては、ブフォン論争の火付け役となったペルゴレーシの「奥様女中」を見て作曲家になる決意をした人物で、やはり60年代盛んにオペラ・コミックを作曲していたが、彼はモーツァルトが2度目の訪問を果たすより少し前に、思い立って作曲をするのを止めてしまったそうだ。革命のごたごたの後、彼は1800年からパリ音楽院の音楽監督に就任している。
・アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ(1741-1813)もやはり「奥様女中」が元でオペラ・コミックに関心を高めて、1765年にインテルメッゾ「ぶどうを摘む女」を作曲し、次々に新作を送り出していたが、グルック・ピッチンニ論争の頃には、オーストリア人のグルックなど外国人もコミック・オペラに功績を残すようになってきた。それに対して、ルソの弟子として言葉と音楽の関係を理論付け、単純様式に還元して見せたグレトリの「獅子心王リシャール(つまりリチャード)」(1784)は、モーツァルトがヴィーンに出てから上演された作品だが、世紀変わり目頃盛んになる一連の「救出オペラ」の先頭を切る作品だそうだ。グレトリは革命前全ヨーロッパ的な名声を獲得していたが、革命によって生活基盤を失ってその後音楽界の趣味の変化などもあり、潔く文筆活動で90年代の荒波を乗り切ったという。 ・今日の言うところベルギーで生まれたフランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734-1829)も、60年代からオペラ・コミックを多数作曲した作曲家だ。彼は農民の子から音楽家にのし上がるという、ドボルザークの先陣を切り、パリに定住しやがてラ・ププリニエールの楽団の指揮を執り、60年には「死者のミサ」など宗教曲も作曲するが、ラ・ププリニエールの死後貴族を変えつつ転戦し、順調にフランス音楽界をリードする人物として活躍。革命において国民軍楽隊の指揮を任され、最高存在のための祭典など革命政府のために多数の作曲を行い、1795年に創設されたパリ音楽院において作曲科の教授として活躍、知る人ぞ知ればいいレジオン・ドヌール勲章を最初に獲得した1人でもある。そんな訳で、40曲以上の交響曲、20曲ものオペラと共に、弦楽4重奏など多くの器楽曲を残し、18世紀後半を代表するパリの作曲家となったゴセックだが、フランスでクラリネットを始めて交響曲に用いたとも言われ、革命で誕生した共和国の祝典の為に書かれた行進曲やカンタータの管弦楽的効果は、やがてベルリオーズのような天才を生み出す土壌を提供すると共に、フランス風行進曲の管弦の響きはベートーヴェンの英雄交響曲などにも影響を与えたと言われる。
・さて、1769年からコンセール・スピリテュエルに倣ってコンセール・ザマテュール(アマチュアのオーケストラの意)というオーケストラ団体が登場し、初代指揮者にこのゴセックが、コンサートマスターにサン=ジョルジュが起用され、アマチュアどころか当時最高レベルのオケとなり、後に1781年にコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックに発展したし、ゴセックはその後コンセール・スピリテュエルの指揮者としても活躍し、また73年にヨーゼフ・ハイドンの交響曲をパリで初演したりもしている。この頃から、次第次第にヨーゼフ・ハイドンの作品が、パリでもロンドンでも、そして遅れてヴィーンでも人気となり、ハイドンがエステルハージ家に籠もりながら、出版と委託作品の作曲でヨーロッパを股に掛ける80年代へと向かうことになるわけだ。
・さて、パリでは2つ以上の独奏楽器を用いたコンチェルト風オーケストラ曲である協奏交響曲(サンフォニ・コンセルタント)という楽曲が流行していたので、先ほど顔を見せたジョゼフ・ブローニュ・サン=ジョルジュ(c1739-1799)や、イタリア人のジョヴァンニ・ジュゼッペ・カンビーニ(1746-1825)らが曲を書いている。
・このサン=ジョルジュというのは、西インド諸島で黒人奴隷を母に持って生まれたという特異なフランス人で、ヴァイオリンを習いつつ1749年にパリに遣ってきて音楽家となり、1772年に自らのヴァイオリン協奏曲によってデビューを飾った人物で、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックを組織した張本人である。一方カンビーニはイタリア人のヴァイオリン奏者兼作曲家だが、やはりパリに渡り70年代から多くの器楽曲を作曲しながら活躍していた。他にもバイエルンから出てきたアントン・ファルツ(1733-60)などが協奏交響曲に手を染めているが、青年になって遣ってきたモーツァルトもこの種の楽曲を残すことになるわけだ。

モーツァルトに戻して

 こうしてオペラに器楽曲に大いに華やぐパリだったので、昔やってきた神童の事をそれだけで認めるほど甘っちょろい世界ではなかった。パリに到着したモーツァルトは、忘れた頃になって無頓着に転がり込むほど義理があるわけでもないグリム男爵のお世話になって、貴族達への推薦状を書いて貰ったり、サロンに連れて行って貰ったりしたが、なかなか職も見つからず、ギーヌ公の娘に作曲を教えて幾ばくかの賃金を得たり、ついでにギーヌ公親子の演奏する楽器でもって、「フルートとハープのための協奏曲」(K299[297c])を作曲したりしていた。これが先ほど述べた「協奏交響曲」風な作品である。ようやく5月に入ると、年俸2000リーヴルでヴェルサイユのオルガン奏者の職に就いてはどうかと、とある知人が世話してくれたのだが、折角の待遇を身も蓋もなく「俺様の仕事じゃない」と決めつけて、あっさり断ってしまったのである。本当に職を求めて旅行をしに来たのだが、夢見心地のサクセスストーリーを頭に描いていたのだか、到底分かったものではない。しかし彼の才能は、必然的に圧倒的なプライドを導き出し、大成功の時代の寵児たる作曲家以外、地道に下積みを繰り返すなんて、思いも寄らなかったことだろう。この心持ちは、結局圧倒的な才能に恵まれたものにしか分からないのである。取りあえずオルガン奏者になってから、と今考えた貴方、貴方には一生彼の心に近づくことは出来ないのであります。(・・・それじゃあ、私にも近づけないじゃないか、というのが今回の落ちだ。)当然グリム男爵芋にだって、そんな心持ちが分かるはずもなく、端から見たらたちの悪いわがまま坊やで、モーツァルトを基準にして、コロレードやグリムを怪しからんと非難するのは幾分可哀想ではある。パリでは毎日ほっつき歩く息子に心気症気味のお母上だって、いい被害者には違いなく、とうとう病気になって寝込んでしまった。ヴォルフガングの方は、当地の音楽家として有名なフランソワ・ジェセフ・ゴセックや、舞踏家のジャン・ジョルジュ・ノヴェール(1727-1810)と知り合ったり、コンセール・スピリチュエルの支配人ジャン・ル・グロ(1730-93)と懇意になり、6月にはコンセール・スピリチュエルでル・グロが依頼していた交響曲ニ長調(K297[300a])が初演されたが、これは今日「パリ交響曲」として親しまれている。
 しかし7/3に、とうとう母親がお亡くなりて、さっそく翌日墓地に埋葬されてしまったので、死んだ母がまだ病気中で重体ですと親父に書き送って、心構えを持たせようなどと、ザルツブルクへの手紙に苦心したモーツァルトだったが、この有名な手紙は、後半「さて、話題を変えます。」と調子を変えた後、心底楽しそうに「パリ交響曲」の初演の様子を書き連ねている。母の死後も「パリ交響曲」にアンダンテを付け加えて再演したり、8月中にロンドンから遣ってきていたクリスチャン・バッハと再開を果たしたりして時を過ごしたが、クリスチャンはちょうどパリのアカデミ・ロワイヤルとオペラ上演の契約を結び、翌年79年12月のオペラ「アマディス・デ・ガウラ」上演のため、歌手調達に出かけて来た最中だったのだ。クリスチャンはロンドンに帰ると、そこには兄貴のヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732-95)が息子を連れて待っていて、このバッハ息子同士の出会いも、通にはたまらないワンシーンらしいが、まあ放っておいてモーツァルトの話を進めよう。
 このパリ滞在中には、ペアのようにして作曲された、短調作品、クラヴィーア・ソナータイ短調(K310[300d])とヴァイオリン・ソナータホ短調(K304)があり、よく母親の死と関連して語られることがある。他にもクラヴィーア・ソナータハ長調(K330)、イ長調(K331)、ヘ長調(K332)が作曲され、イ長調は第1楽章に変奏曲を置いて最終楽章にトルコ行進曲が置かれ最も有名なソナータになっている。またヴァイオリン・ソナータニ長調(K306[300L])もパリ滞在時に作曲され、合計6曲のヴァイオリン・ソナータ(K301-036)がパリで完成しているが、これらは6曲まとめられてカール・テオドールの妃に献呈され、出版も行なわれた。ノヴェールのためのバレ音楽「レ・プティ・リアン」の一部を作曲担当したり、ル・グロの依頼で作曲したものの演奏されなかった「オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのための協奏交響曲(サンフォニ・コンセルタント)変ホ長調」なども作曲された。この協奏交響曲は19世紀になってからそれらしきものが発見されたまま、今だ真偽が継続しているようだ。また誰もが知っている曲としては、俗に「キラキラ星な変奏曲」と呼ばれる、「おっ母さんは、僕のことを許して下さるだろうか変奏曲」・・・じゃあなくて、「ああ、おっ母さん、貴方に申しましょう」の主題による12の変奏曲ハ長調(K265[300e])がある。これは当時パリで流行していたフランス語の流行歌に基づく変奏曲になっていて、冒頭の可愛い主題の後には、なかなか充実した変奏曲が繰り広げられるすぐれた作品である。
 さて、ヴォルフガングの性格上の不具合から愛想を尽かし始めたグリム男爵は、親父レーオポルトに「息子さんは、あまりに人を信じ、積極性に欠けて、騙されやすく、成功に対して無関心です。」で始まる手紙を送りつけた。自分の成功も覚束ないのに、そのころヴォルフガングはウェーバー家に手紙を送って、パリに来れば私がよろこんで立ち回ってあげようなどと書き記している。危ない、気を付けなくちゃ危ない。レーオポルトはザルツブルクでの息子の再就職について画策を開始。おまけに前任者の死で空席になっている楽長のポストを呉れろと請願書まで出しておいた。すると、大司教いつになく機嫌良く、親父に甘い言葉を投げかけて、ヴォルフガングがザルツブルクに吸い寄せられるのを望んでいるようだったそうである。結局ヴォルフガングはヴァイオリンを弾く仕事に戻りたくないというので、わざわざ宮廷オルガニストの職が用意されたが、ヴォルフガングは楽長でなくっちゃあ、とてもザルツブルクでは生活が出来ないと思っていた。結局埒が明かないので、途中までの旅費を負担したグリムによって、無理矢理馬車に押し込められるようにして、お馬ぱかぱかとパリを立ち去ったのは、9/26のことだった。

ふるさとへの長い道のり

 親父様が大司教に取り入ってどうにかザルツブルクで活躍の場を与えて遣って御くんなさいましと、半ば身勝手に宮廷楽団から飛び出したような息子の復帰を模索する中、パカポコ揺られるヴォルフガングは、ストラスブールで演奏会を開いたりして時間を潰し、11/3には父親の脅しの手紙を無視してマンハイムに到着。そうしたら愛しのアロイージア共々ウェーバー家はミュンヘンに移動してしまった後で、それどころか選帝候までミュンヘンに移ってしまったのだという。じつは、丁度モーツァルト親子がパリに向かう前にマンハイムに留まっていた77年の終わりに、バイエルン選帝候がお亡くなりて、盟約義務があるプファルツ選帝候カール・テーオドールがバイエルン選帝候も兼任、共通の首都がミュンヘンとなったので、ミュンヘンに宮廷が移動してしまったのだ。それじゃあ、マンハイム楽派もミュンヘン楽派になったのかしらと思うかもしれないが、実際はそう旨(うま)くはいかなかった。選帝候は従来の俸給でマンハイムに留まるもよし、ミュンヘンに移るも良しと音楽家に選択権を与えたのだが、これによって4割の音楽家がマンハイムに留まった上に、楽団の再編成もあり、財政面やらなにやらいろいろ問題があったためか、マンハイム楽派の栄光はなんだか心許なくなっていくのだそうだ。そんなわけで、居残っていたマンハイム楽派の音楽家と付き合いながら、マンハイムで活躍したらどうかしらと足を止めるヴォルフガングに、危機感を抱いた親馬鹿レーオポルトが、「世界中どこでも就職してはいけません。就職などという言葉は私は聞きたくないのです!」と怒濤の波状手紙攻撃で攻勢を掛ければ、やっと12/9にマンハイムを離れ、レーオポルトがほっとしたのも束の間、事もあろうに、アロイージアを追ってミュンヘンに向かってしまったのである。もうお母さんがお亡くなりた後は、心の慰めを恋人に見いだすしかなかったのか、アロイージアの元に走り寄るヴォルフガング。面と向かって「愛しておるのであります」と交際を申し出れば、一言「お帰り遊ばせ」と言われて見事に失恋してしまった。泣きながら苦しくって率直のあまり親父に「今日はただ泣きたいだけです。僕の心は感じやすすぎるのです。」と書き送れば、親父さんこれは好都合、ザルツブルクに帰ってくるのは時間の問題になってきた。それでも79年のお正月をミュンヘンで迎えつつ、選帝候の妃に前年作曲したヴァイオリン・ソナータ6曲など献呈しながら、一人ではザルツブルクに帰れないで、いとこのベーズレをアウグスブルクから呼び出して、わざわざ一緒に帰って貰おうとするような体たらくで、ベーズレが付いてきて呉れたかは定かでないが、1/15にザルツブルク帰りを果たしたのであった。

2年間の宮廷音楽家の仕事(79/1/17-81/6/8)

 さて、コロレードがヴォルフガングを帰宅の2日後、すでにお亡くなりていたアードゥルガッサーの後任として、宮廷オルガニストに任命し、年俸450グルデン(旅行前の3倍)を与えたことは、常識的に考えて寛大である。きりがないので、この時期の作品をごく一部だけ取り上げると、79年3月に完成したミサ曲ハ長調(K317)はザルツブルク宗教音楽のヴィオラパート無しの伝統に則った傑作で、一般的に「戴冠ミサ」などと呼ばれている。最近の説では、この曲は91年にプラハで行なわれたレーオポルト2世の戴冠式で演奏されたため、このように呼ばれるようになったそうだ。8月にはセレナーデニ長調(K320)も作曲、これは第2メヌエットで駅馬車が使用していたポスト・ホルンが使われ「ポストホルンなセレナーデ」の愛称を持つ。またやはりニ長調で書かれたディヴェルティメント(K334)もすぐれた曲で、宮廷オルガニストという職務の違いからか、宮廷楽団のための器楽合奏曲の作曲はこの2曲が書かれたぐらいだ。帰ってきたザルツブルク時代にはミサ曲ハ長調(K337)や2曲のヴェスペレ(晩課)、さらにオルガンと小編成オケのための教会ソナータといった宗教曲も作曲されている。
 飛んで80年の後半になると、ミュンヘンのカール・テーオドール選帝候から翌年の謝肉祭用オペラ・セーリア「クレータの王イドメネーオ」(K366)の作曲を依頼され、10月から作曲が開始し11月にミュンヘンに立ち、当地で作曲を続けつつ上演の指揮を執り、81年1/29に初演となった。ストーリーは、またしてもギリシア神話もので、トロイア戦争帰りのクレータ島の王、イードメネウス(イドメネーオ)がポセイドーンに助けられて嵐を乗り切るが、その代わり上陸して最初にあった人物を生け贄にする約束を交し、見事自分の息子と出会ってしまうと言う、まあ旧約聖書のイェフタと同じような物語になっている。このオペラ・セーリアは当時大した反響を呼ばなかったらしいが、今日では非常に評価が高いセーリアの傑作の一つに数えられているそうだ。モーツァルトは、そのままザルツブルクに帰らないで、ミュンヘンに遣ってきたレーオポルトとナナールと一緒にアウグスブルクに足を伸ばしてすっかり旅行気分を満喫していた。
 さて、前年1780年の11月にヴィーンのお母さんマリーア・テレージアがこの世を去ってしまったので、その関係からヴィーンに出張していたヒエローニュムス大司教だったが、あんまりヴォルフガングの帰りが遅いので心配になって・・・ではなく、おそらく腹を立てて、「すぐにヴィーンに来るのです、今すぐにです!」と命令を発し、ヴォルフガングも仕方なしに3月半ばヴィーンに到着したのだが、ヴォルフガングの作曲家としての自負に対して、演奏会への参加を許さないだの、自分で開く演奏会を認めさせ無いだの、あまりにも従属的な大司教の扱いから、初めから決裂気味だった関係が、ザルツブルクへ帰れという命令を無視してヴィーンに留まったあたりで完全に亀裂を生じ、とうとう大司教の怒鳴り声に言い返して、「宮廷音楽家は今日で終わりです。今すぐにです。」と言いはなった。ところが大司教、名声のある音楽家を囲っておきたいものか、アルコ伯爵という自分の部下に、調停を依頼。アルコ伯も頑張ってなだめすかし続けていたが、あまりにもだだっ子みたいなモーツァルトの態度に、ついうっかり血管がぶち切れなさって、足の方が先に出てしまい、モーツァルトは思い切りよく蹴飛ばされて、痛い思いをしてザルツブルクとの関係を絶つことになった。この時からである、「足蹴にされる」という言葉が使われ始めたのは。(嘘を書くな。)

ヴィーンでの活躍

 当時20万人以上の人口を抱えるヴィーンは、パリやロンドンの半分以下の人口とはいえ、ドイツ語圏都市で最大の都として君臨し、1万人以下の貴族と、貴族よりほんのちょっと多い高所得市民(公務員、医者、銀行か、商売人など)が、音楽会を含めた芸術界をリードする、十分な芸術のための市場を持っていたが、その中心に皇帝一家が君臨し、時に皇帝の政策や人事が、音楽界に多大な影響を及ぼす特徴があった。また丁度この頃レーオポルトの考えるような独占的長期的な雇用を行なうパトロンの他に、演奏会や特定の作品に対して資金を提供するような新型パトロン貴族達がヴィーンに登場し始めていたのである。
 また作曲家達を眺めてみると、例えば80年代にヴィーンに舞い戻ったディタースドルフは、かつて61年にヴィーンでドゥラッツォ伯爵に仕えた後各地を渡りモラヴァの伯爵に仕えているとき貴族にして貰ったので、堂々とカール・ディタース・フォン・ディタースドルフ(1739-99)と名乗りながら、ドイツ語オペラを上演していたし、イタリア語のオラトーリオでも知られていた。有名なところではオラトーリオ「ペルシアのユダヤ人の解放者エステル」(1773)などがある。パリで「グルック・ピッチンニ論争」を終えたボヘミア人のクリストフ・ヴィリバルド・グルック(1714-1787)は80年ヴィーンに帰ってきてからは余生を楽しんでいたものの、やはりボヘミアの血を引くレーオポルト・アントン・コジェルフ(1747-1818)は1778年にヴィーンに来てたちまち成功を収めたし、84,85年にヴィーンに遣ってきてモーツァルトに演奏会で交響曲を演奏して貰ったアダルベルト・イーロヴェツ(1763-1850)もやはりボヘミア人だった。そしてイタリア人のアントーニオ・サリエーリもすでに1771年のオペラ「アルミーダ」で成功を収め皇帝の宮廷作曲家兼イタリア・オペラの指導者として活躍していたが、彼は88年に宮廷楽長にまで上り詰めて、なんと1824年まで楽長として留まっている。モーツァルトよりわずか6年早く生まれただけなのだから、モーツァルトだって長生きしたら、ロマン派の時代に足を突っ込むことが出来たはずだ。
 さて、当てもない宮廷からの離脱に、足の裏ががたぶる震える親父だったが、怯えていやがるぜと見て取った息子は、やる気満々の手紙を送りつけて遣った。若き日にパリ、ロンドンで活躍し、当地の社会状況に触れ、さらに青年になってからもパリの音楽事情を見聞し、当人も関わりを持ったモーツァルト、各地での公開演奏会で収入を獲得する生活に馴染んでいたモーツァルトにとって、宮廷楽団など特定の所属を持たなくても、予約演奏会や、貴族の娘さん達へのピアノ教師、依頼された作曲による収入などでフリーの作曲家として活躍することは、むしろ当たり前のように思えたのかも知れない。すでに80年にヴィーンに来ていたヨーハン・バプティスト・ヴァンハル(1739-1813)は作曲と音楽のレッスンで生計を立てて居るではないか。ハプスブルクの宮廷作曲家の地位はもちろん欲しいが、隷属的に使用人扱いされてへつらうザルツブルクのような宮廷音楽家はまっぴら御免だ。そう思ったモーツァルトは自分の親父に、芸術家として隷属的な態度を改めたらどうだと忠告の手紙まで送って見せた。彼自身の自由奔放で枠を嫌う性格と、旅行三昧で各地の思想に触れ、啓蒙主義のお勉強をしたわけではないが、啓蒙主義的言動には大量に触れる機会のあったモーツァルトには、宮廷に隷属して恭しく仕える親父の生活は、時代遅れの破棄すべき風習に見えたのだった。宮廷に仕えるにしたって、芸術家として尊敬されて認められていなくっちゃ駄目だ。しかし親父はやっぱり震えていた。震えるのは当たり前だ、親父にとって息子の巡行演奏会は、最終的には定職を得るための名声を獲得する手段であり、フリーで生きることなど思いもよらないことだったからだ。
 さっそくハンマーのように太ったヨゼーファ・アウエルンハンマーとか、マリーア・テレージア・フォン・トラットナーのような女性のピアノ生徒にご教授を開始したが、なんとあのウェーバー一家がヴィーンに来ているという。なんでも旦那がお亡くなりて未亡人となったマリーア・チェチーリアが、経済を支えるアロイージアの都合でヴィーンに来て、ついでに下宿屋「神の目館(ツム・アウゲ・ゴッテス)」を営んでいるところだった。アロイージアとの恋愛再びかと思いきや、実は彼女は80年にヴィーン宮廷付俳優ヨーゼフ・ランゲ(1751-1831)と結婚していて、ヴィーンの劇場で歌手として活躍している最中だった。ランゲは後にモーツァルトの晩年の横顔を未完のまま後世に残し、今日よく知られた肖像画となっている。それはさておきモーツァルト先生、5月になるとヴェーバー家に寄宿することになって、何時の間にやら3女のコンスタンツェにぞっこんいかれ・・・いや失礼、つい下品な言葉を使ってしまったようだ、つまり恋愛感情を持ってしまったようだ。夏になると危険を察知した親父のレーオポルトの脅しで別の家に移ったモーツァルトだったが、翌年2人は式を挙げちゃった結婚に至るのである。それはまだ先の話、まずはゴットリープ・シュテッファニーと知り合ってドイツ語オペラの台本を手渡され、ジングシュピール「ベルモンテとコンスタンツェ、あるいは、後宮からの誘拐(逃走)」(K384)の作曲を開始したモーツァルト。12月には6曲のヴァイオリンソナータ(K376,296,377-380)をアルターリアから出版をし、12/24のクリスマスイブには、皇帝ヨーゼフ2世のご命令によってイタリアのムーツィオ・クレメンティ(c1752-1832)と電撃爆破ピアノデスマッチの死闘を繰り広げ・・・・そこまでは遣らないが、ピアノ演奏の競演を行ない、ディタースドルフの証言によるとモーツァルトの方が優位だったようだ。ヴィーンでの駆け出し作曲家のプライドと、イタリア作曲家がのさばるのに反感を持っていたモーツァルトは、後で父親に「クレメンティの価値は3度のパッセージだけで、他には1クロイツァーの感情も持ち合わせていない」だとか、「クレメンティは、すべてのイタリア人同様、いかさま師です。」などと書き送っているが、お陰で後世クレメンティの価値が必要以上に暴落してしまった。

2006/2/23

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